第13話 黎明の反撃

 薄明かりが満たす天幕の中、寝台に横たわっていた男がむくりと起き上がった。ずんぐりとした体型ながら、かなり背が高い実直なそうな風貌の男だ。

 地面に置かれた軍靴を履き、天井を支える支柱にかけていた濃緑の軍服に袖を通し、ボタンを留めながら天幕の外に出る。

 夜明けが近い時間帯のはずだったが周りはまだ暗く、点在する明かりとそれに照らされた天幕の群れがぼんやりと浮かび上がる。

 木々を伐採して作り出したここは、ルブルーダの町から六ミルト(約十キロメートル)ほど北西に移動した森の中に築かれた野営地だ。

 駐屯するのは、サングリクス王国北部国境防衛軍第一軍団の軍団司令部と司令部付隊、そして輜重隊、合わせて五百名ほど。

 男はそれを率いる軍団長で、名をアイレント・ピヌスという。

 

 アルテネ領に侵攻し、アブリス平野の南側に防衛線を構築してから今日で五日目。

 一昨日はアルテネ軍の奇襲があったが、それもルブルーダに駐留していた部隊と、サングリクスが誇る英雄〝凍嵐の姫君〟の活躍によって難なく撃退された。

 このまま事態が推移すれば、アルテネ側は現状を打破できず、サングリクスと講和を結ぶしかなくなるだろう。ピヌスの役目は、そのときまで戦線を維持することだった。そしてそれは順調に進んでいる。

 

 第一軍団の司令部でもあるこの野営地には無数の天幕が立ち並び、麾下の五千人以上の兵士たちが任務をこなすのに何の不安もない食糧や武器、医療用品などがすでに搬入されている。

 また軍団の要である通信体制も盤石だ。

 野営地のほぼ中央に位置する天幕には、通信兵とその補佐を務める兵士たちが数十人詰めており、通信機能を有した真具を用いて、一ミルト(二キロメートル弱)ほど先に展開している五つの大隊本部と、ルブルーダに置かれている総司令部との連絡を定期的に行っている。

 戦において情報は何よりも重視すべきものだ。適切に吟味し、その時々において最良の判断を下すことで最高の戦果を挙げることができる。

 ゆえに通信機能を集約したこの天幕は、軍団内における生命線とも言える場所であり、周囲は時刻に関係なく厳重な警備が敷かれている──はずだった。

 ピヌスは足を止めた。

 異変が起きていた。

 天幕の周りには、金属棒の先端に括りつけられた照明用真具があり、辺りを照らしている。そこには武装した十人以上の歩哨がいるはずなのに一人も見当たらなかった。

 周りを見渡す。

 食糧や武器類などを保管している天幕の周りからも歩哨の姿が消えていた。

 

(まさか敵か……?)

 

 ピヌスは自分が休んでいた天幕に戻るべく踵を返した。そこにはルブルーダの総司令部直通の通信用真具がある。それを用いて異常を伝えなければならない。

 しかしピヌスがそれを実行することはできなかった。

 振り返ると同時に、口元に何かがまとわりついた。呼吸しようと開けた口の中に入り込み、凄まじい力で締め付けてくる。

 

「お前がここの軍団長だな?」


 口を塞ぐものが猿ぐつわであるとピヌスが認識するよりも早く、背後から若い男の声が聞こえた。

 次の瞬間、右腕に衝撃。焼けるように熱くなり、凄まじい激痛が襲ってきた。

 絶叫がピヌスの喉から迸る。しかし猿ぐつわがあったために、それはくぐもった唸り声にしかならなかった。

 激痛を訴える右腕を押さえようとした左手が空を切り、代わりに熱い液体が手を濡らす。

 ピヌスは目を向けた。そこにあるべき自分の腕がない。

 苦痛の涙に滲む視界に、暗い地面に転がる円筒状の物体が映り込む。

 一方の端から黒々とした液体を零しているそれは、間違いなくピヌス自身の右腕。いまの衝撃は腕を切断されたものだった。


 額や背中に脂汗が浮かび、鼓動と呼吸がとてつもなく早まる。

 ピヌスは猿ぐつわを噛みちぎらんばかりの力で食いしばりながら振り向いた。

 そこに一人の青年が立っていた。

 右手に剣を持ち、左手には夜の闇よりも深い霧を纏っている。鋭い目つきから漏れるのは漆黒の光。

 ピヌスは噂を思い出していた。〝剣の悪魔〟は黒い真気ルフを操るのだと。

 間違いない。目の前にいる青年がそれなのだ。

 思っていたよりもずっと若く、そして想像を遥かに超える禍々しい気配を放つ青年がおもむろに口を開いた。


「俺の名はアクリナクス・シルギット。お前たちが〝剣の悪魔〟と呼ぶアルテネの戦士だ。その右腕は、アルテネに攻め込んだことへの報復だ。降伏するならこれ以上は危害を加えない。反撃するなら──」

「ぬぅっ!」

 

 ピヌスは血塗れの左手で腰に挟んでいた射筒ゲルファレットを抜き放った。

 口が塞がれているため、真韻マーレを紡ぐことはできない。しかし短剣ほどの長さのこの射筒は、それ自体に真韻を発する機能が組み込まれており、引き金を引くだけでそれが発動、筒内部に装填されている短矢サージが撃ち出される仕組みになっている。

 その威力はピヌス自身が真韻術マーレクスを用いて短矢を射出するのと同等。音速を超えて飛翔するそれは、人体を容易に貫通する威力がある。

 悪魔までの距離は一ティルト(二メートル弱)。どれほど手練の戦士であろうとも避けられるはずがない。

 ピヌスは苦痛を憎悪と怒りで塗りつぶしながら引き金を引いた。

 空気を切り裂く微かな音が夜闇に響く。

 短矢は悪魔の胸を貫き、死に至らしめる。ピヌスはそう確信した。

 しかし──。

 

「……降伏の意思なしか。しかも反撃するとはな」

 

 悪魔の名を冠する青年は、胸の前にかざした左手で短矢をつかみ止めていた。瞳から放たれる黒い光が、いっそう強さを増す。

 人外の反応速度と視線に込められた殺意が、ピヌスの中の憎悪と怒りを恐れに塗り替えていく。

 ピヌスは弾かれたように走り出した。そこにいるはずの部下に助けを求めるべく、通信兵が詰める天幕の中に駆け込む。

 破かんばかりの勢いで入口の布を持ち上げて、そして言葉を失った。

 四角く配置された長机の上には通信用の真具や作戦に関する書類や地図、万年筆などがあり、無造作に投げ出されたそれらが朱に染まっていた。地面には血溜まりがいくつもあり、そこに切り落とされた腕が転がっている。

 ピヌスの部下およそ三十人は全員猿ぐつわをされ、天幕の端にまとめて縛り上げられていた。その顔は一様に恐怖と苦痛に歪み、一人の例外もなく右腕を切り落とされている。

 それを取り囲むのは、剣を携えた黒い軍服の戦士たち。

 味方がいるべき場所は、すでに敵に占拠されていたのだ。

 

「やられたらやり返すのが俺の流儀だ」


 絶句して棒立ちするピヌスの耳朶に、地獄の底から響いてきたような低い声が突き刺さった。

 振り返った瞬間、首を鷲づかみにされて持ち上げられる。

 

「お前は俺を攻撃した。だからその分も報復させてもらう」


 悪魔が言い終わるかどうかというところで左足に衝撃が走った。再び激痛が全身を貫き、反射的に体が強張る。

 ピヌスは無造作に地面に放り投げられた。

 今度は左足を切り落とされた。絶望とともにそう悟るピヌスに複数の足音が近づく。

 黒服の戦士たちがピヌスの両手足をつかんで、地面に張りつけにするように固定した。

 首を滅茶苦茶に振り乱して逃れようともがくが、戦士たちの恐ろしい腕力に手足はびくともしない。

 いったい何をされるのか。

 とめどなく湧く恐怖に、恥も外聞もなく許しを乞おうとしたそのとき、これまでとは比較にならない激痛がピヌスを襲った。

 ピヌスの意識はそこでぶつりと途切れた。

 

 

                  ◇


 

「隊長、止血完了です」

「よし。そいつも縛っておいてくれ」

 

 白目を剥いて失神したサングリクス軍の軍団長を見下ろしながら、シルグは部下に答えた。

 肉が焼け焦げた、ある種香ばしい匂いが漂う天幕の中で、軍団長の手足を拘束していた部下たちが手際よく手足を縛り上げる。

 シルグが右腕と左足を切断した軍団長は、部下が用いた熱を生成する真韻術によって傷口を焼かれ、そのときの痛みで気絶していた。

 

 シルグは己に、極力人は殺さないとの枷を課している。しかし反撃を許してしまっては本末転倒だ。そのため必ず腕を切り落とし、そしてそれでも攻撃を停止しなければ、四肢を順に切断すると決めていた。ただそれでは失血ですぐに死んでしまう。そのための止血処理であり、猿ぐつわは口を塞ぐとともに激痛で舌を噛み切らせない措置だった。

 ちなみにこの天幕内にいる通信担当と思しき兵士たちの腕も切断されていて、彼らの傷口も同様に焼かれている。

 いくら敵だとしても、気持ちのいいものではない。しかしこれは戦だ。ここで見逃せば別の誰かが殺されるかもしれない。だからシルグは戦意を根こそぎ奪い去るために腕を切り落とす。そして可能な限り遺恨を弱めるために命は奪わない。生きて家族のもとに帰らせるために。

 

 時刻は夜明け前の三ルム(午前四時半)を少し回った辺り。シルグがカルミナに撤退するようにを要請した時点から四ルムク(約六時間)ほどが経過している。

 シルグはサングリクス軍の動向を、森の中から闇に紛れて監視していたが、彼らが撤退する兆候はついに現れることはなかった。

 結局カルミナには自身の言葉が一つも届かなかったという無力感に打ちひしがれながら、シルグは攻撃命令を下した。その最初の標的になったのが、このサングリクス軍の司令部だ。

 ここは軍団に属する大隊や中隊、小隊へと連絡を行う要。これを真っ先に潰すことで、各部隊間の連携が断たれ各個撃破が容易になる。またルブルーダにある総司令部への連絡を遮断し、増援が送られるまでの時間を稼ぐこともできる。

 

 シルグは天幕内にいる十人ほどの戦士たちを見渡した。

 黒の軍服に身を包んだ彼らは、シルグが隊長を務める第三戦士団独立小隊の隊員だ。いずれも腕の立つ戦士であり、少数での行動も安心して任せられる手練が揃っている。


「作戦の第一段階、敵司令部の破壊は完了した。この後は予定通り、俺と第一から第五班は大隊本部、中隊本部、小隊の順で叩いていく。残りの六から十班は、この司令部にいる奴らを殲滅。生かさず殺さず、徹底的に戦意と戦力を削げ。その後は一班だけをここに残して前線を攻撃。夜明け前までにこの軍団を壊滅させる」


 黒ずくめの戦士たちが揃って力強く頷く。

 あとはシルグが命令するだけで彼らは行動を開始する。しかしそれを口にするのにシルグは一瞬躊躇した。

 脳裏をよぎるのは青い瞳の女の姿。

 シルグはそれを振り払った。

 全てはこのろくでもない戦を終わらせてからにすると決めたのだ。

 迷いは部下に伝播する。

 それを悟らせないようシルグは厳然と告げた。

 

「では行動開始」



                  ◇

 

 

 その報告がカルミナの元にもたらされたのは、夜が明けて間もなくのことだった。

 接収されたルブルーダの宿の一室で目覚めたカルミナは、綺麗に洗濯された紺の軍服に袖を通し、ボタンを一つ一つ止めて乱れた白金の髪を手櫛でさっと整える。

 窓から差し込む柔らかい日差しは、今が戦時であることを忘れさせるほどに穏やかだ。しかし身につける軍服の硬い肌触りと漂う空気の物々しさが、カルミナに否応なく現実を突きつける。

 カルミナは小さく息をついた。沈みがちな気持ちを奮い立たせて扉に向かって歩く。すると外から足音が聞こえた。次いで扉が三度叩かれ、声がかけられる。

 

「殿下、お目覚めでしょうか」

「起きている。入っていいぞ」

「失礼します」


 入って来たのはカルミナ率いる第十三飛翔機動隊の副官を務めるアイビシアだ。

 よほど急いで来たのか、彼女は微かに息を切らし、短く切りそろえている栗毛を額に張りつかせていた。

 

「どうしたんだ、そんなに慌てて」

「前線西部に配備されていた第一軍の司令部が壊滅したらしい」

 

 険しい表情のアイビシアの口から聞かされたのは思いもよらない言葉だった。

 

「詳しく聞かせてくれ」

「今から一ルムク(二時間弱)ほど前に定時連絡が途絶えて、現地に確認に向かったら、司令部に詰める兵士が一人残らず腕を切り落とされた上で拘束されていたそうだ。その中には軍団長のアイレント・ピヌス殿もいて、彼は腕だけでなく足も切断されていたらしい」

「それはまさか──」


 手足が切断されていたという話に、カルミナの脳裏にある人物の名が浮かぶ。

 アイビシアが頷いた。

 

「〝剣の悪魔〟がやったらしい。アイレント殿がそう証言したと」

「馬鹿な。本当に来たのか」

「私も信じられなかったけど、黒い真気を操る男にやられたという話だから間違いないと思う。それともう一つ、助けた通信兵の一人が、奴が大隊本部から中隊、小隊の順で殲滅していくと言ったのを聞いたらしい。そして実際に五つの大隊本部すべてと連絡が取れていない。司令部はいま増援を送る準備をしているけど、到着まで時間がかかるから、先に飛翔機動隊に向かって欲しいと要請された」


 カルミナはぎりっと拳を握りしめた。

 めらめらと敵愾心がこみ上げる。

 アルテネ軍が攻めてくるはずがないと判断した自分を、あの悪魔に嘲笑われてるような気がした。

 

「すぐに出るぞ。出撃は指揮本隊と第一中隊だ!」


 早足で部屋を出て、廊下を進み階段を駆け下りる。

 カルミナの内には、ここ最近抱いたことのなかった殺意に溢れていた。

 

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