ゴーストライター

岡部麒仙

渋谷にて

 秋の気配が忍び寄る都会では雑踏を行き交う人々の足音が微かにこだましているようだった。ここは渋谷駅。東京の中でも特に往来する人が多い街だ。

 そんな中、村瀬龍星はハチ公の銅像の前に立っていた。ここは待ち合わせの目印として利用される。本来はそんな目的で作られたのではないはずだが、こんなに重宝されたらハチ公も草葉の陰で喜んでいるかもしれない。

 しばらく待っていると、背丈は村瀬とさほど変わらないが、やや肥満気味の男が近づいて来て声をかけた。

「お待たせ、村瀬君」

 彼の名は郷須都雷太。初めて会った時、彼はそう名乗った。そんな名前の人がいるはずはなく、どう見ても偽名だが、村瀬も彼の本名や経歴を知らない。知っているのは彼が仕事を運んで来てくれる存在だということだけだった。

「じゃあ、いつもの所に行こうか」

 郷須都がそう言うと、二人で最寄りの喫茶店に入っていった。平日の午後だからデートをしていると思われる若者はおらず、仕事の合間に時間を潰している様子のサラリーマン風の男が多かった。煙草の匂いが充満していて、普段吸わない村瀬は分煙にして欲しいと願うのだった。

 やがて注文を取りに来た店員が

「ご注文は何にしますか?」

 と尋ねると、村瀬は「アメリカン・コーヒー」、郷須都は「エスプレッソ」と答えた。店員が過ぎ去ると郷須都は

「アメリカン・コーヒーというと味が薄いのだっけ? 僕はお茶とコーヒーは苦いのが好きだよ。人生を味わっている気分になれるからね」

 と言って笑みを浮かべた。少し間を置いて郷須都は本題に入った。

「それで今回の原稿は?」

「これです」

 そう言って村瀬は封筒に入った紙の束を差し出した。

「じゃあ、こちらも報酬を支払おう」

 とやはり一万円札が何枚入っているのかわからないが、分厚い封筒を手渡した。

「今回は歴史学のテーマで、これまでとはやや畑違いかと思ったけど、みごとに仕上げてくれたね。君の多芸ぶりには驚かされるよ」

「論文を書くのに深い学識は必要ありません。こなれた文章を書くテクニックを身に付ければいいだけです。それさえあれば何でも書けるんです」

「君の原稿は依頼人からの反応も上々だよ。次もよろしくね」

 ここで彼らが何をしているのか説明しよう。彼らは大学教授が発表する論文のゴーストライターをやっているのだ。大学教授なら自分の体面のためにたまには論文を発表しなければならないが、実際には最近十年以上にわたって一本も論文を書いたことがない人もざらにいる。

 そこに目を付けて新しいビジネスを興したのが郷須都雷太だ。彼は優れた論文を書く才能を持ち合わせているのに専任講師になれず非常勤講師として糊口をしのいでいたり、予備校の講師に収まったりした若者を集めて、論文執筆の代行をするグループを築き上げたのだ。

 村瀬もその一人だった。大学院の修士課程を修了して博士課程も単位取得したが、なかなか専任講師として採用されず、非常勤講師として複数の大学を転々としていた。そんな時に郷須都と知り合い、意気投合して今はゴーストライターとして辣腕を振るう日々を送っている。

 喫茶店を出て郷須都と別れると、村瀬は寄り道をせずに帰宅した。村瀬はさほど高級というわけではないが、都心のマンションに住んでいる。非常勤講師の収入は低いため、なぜそんな所に住めるのかと不思議がられたこともある。

 玄関のドアを開くと

「お帰り」

 とどこかのんびりとした声が出迎えた。声の主は妻の雪奈だ。いまだ身分が不安定な村瀬を陰で支えてくれる貴重な存在だ。

「今日は郷須都さんと会ってきたんでしょ」

「ああ、おかげで収入が入ったよ」

 雪奈は平凡な中小企業の社員をしている。雪奈とは村瀬が大学院生の頃、知り合った。ゴーストライターをしていることは雪奈にしか知らせていないため、結婚する時は安定した収入がないからと雪奈の両親に反対された。今でも浮き草稼業をしていると思われているだろう。

 多くの非常勤講師は貧しい暮らしをしているのだろうが、村瀬はゴーストライターの収入で家計も潤っている。そのことで日々の生活に不満を感じず、身分はまだ非常勤講師だが、微かな優越感を感じるのだった。

 夕食が終わって一息付くと村瀬の方から提案した。

「今日は収入もあったことだし、晩酌をしないか?」

「あら、収入があったから晩酌なの?」

 雪奈はそう聞き返したが、乗り気のようだった。村瀬は特別なことがあって洒脱な気分になると雪奈と晩酌をする習慣があった。取り出したのは特別な日にしか飲まない高級なウイスキーだ。それを飲みながら窓の外を眺めると、東京の夜景が一際ギラギラと光沢を放っているように見えた。

 そんな中、村瀬は昔の記憶を回想していた。

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