「秋山が立たされた理由」欄のある学級日誌 10.5冊目🎏

如月 仁成

ボタンのせい


 ~ 五月三日(金) 記念日  ~


   ボタンの花言葉 王者の風格



 初夏を迎えた頃だった。


 鮮やかな青空が、すぐそばまで落ちて来たようなあの日。

 帽子をかぽっと頭に乗せられて、庭に出たお昼過ぎ。

 母ちゃんから手渡された小さな水槽に水を張って。

 俺だけの青い空を手に入れたんだ。



 太陽の光がゆらゆらと水槽の中に溶け込んで。

 光の粒が、ぷちぷちとサイダーのように浮かんで消えて。


 母ちゃんから貰った宝物は、いつまでもキラキラと輝いて。

 誰にでも胸を張って、自慢げに見せることが出来たのに。


 お隣りの子が、水槽をペタペタと触って汚すから。

 だから、汚くなったのはその子のせいだと言ったんだ。



 でも、その言葉が黒いしずくになって。

 俺だけの青い空にぽつりと落ちてしまった。



 見る間に汚れていく、俺だけの青い空。

 取り返しのつかない悲しさに胸が苦しくなって。


 綺麗にしたいと願う涙が水槽を満たしても。

 黒いしずくは緩慢に広がりながら。

 宝物を汚していったのだ。



 水槽なんて、拭けば汚れは落ちるのに。

 自分で落としてしまった黒いしずくは。

 もう掬い上げることなんかできやしない。


 俺だけの宝物は。

 もう、あの綺麗な青い空には戻らない。



 …………そんな青空を。

 俺は、母ちゃんに見つからないように隠してしまったのだ。




 ――誰だって、同じように隠すのだろう。

 恥ずかしさという言い訳で誤魔化して。

 大人になるという言葉で正当化して。


 母ちゃんに、汚れてしまった青空を見られることの無いように。

 鍵の付いた部屋の中に、こっそり隠してしまうんだ。




 🌹~🌹~🌹




 幸か不幸か。

 俺が初めて落とした汚れは、なぜだかそのまま水槽の中心に留まって。


 以来後悔の念と共に。

 この、お隣りにぼけっと立ち尽くす昼行燈ひるあんどんには優しくしてきたつもりなのですが。


 昨日ようやく、水槽に時の流れが帰ってきて。

 黒いしずくがゆっくりと、青い空の中へ溶けて消えていくのを感じています。



 もちろん、一度汚れてしまった青空が元の色に戻ることは無いですし。

 黒い汚れがどこにも見当たらなくなったことで。

 再びしずくを落としては、同じ後悔を繰り返すことでしょう。



 でも、すっかり習慣になっているので。

 今後もずっと。

 俺が穂咲に冷たくすることなどありはしないのです。



 というわけで。



「もう、君のことなど放っておいて家に帰りたいのですが」

「そんな冷たいこと言わないで欲しいの。あとでひなあられを分けてあげるの」

「甘納豆ばっかり俺に押し付ける行為を分けてあげるというカテゴリーに入れないでください」

「……だってあれ、邪魔なの」

「そこは甘納豆の素晴らしさをプレゼンする場面だろ。邪魔って言い切ってどうする」


 呆れたやつなのです。


 そもそも、ひなあられなんかこの時期どこにも売ってないでしょうに。

 俺は溜息と共に。

 お隣りに立つこいつと負けず劣らずぼけっと晴れ渡った空を見上げて。

 ひとつ、大きなくしゃみなどしました。



 この、お隣りでぼーっとしている幼馴染は藍川あいかわ穂咲ほさき

 軽い色に染めたゆるふわロング髪を、今日はツインテールにして。

 そこにでかでかとボタンの花など活けているのですけれど。


 行動も見た目も、大胆かつどうしようもないのです。


 久しぶりの朝寝坊を楽しんでいた俺は。

 部屋に乱入してきたこいつに腕を引かれて。

 寝間着のまま、顔も洗わずに外に連れ出されて。

 そのままこうして、君の家の前で立たされているのですが。


 目の前を、南から北へ流されていくモンキチョウは。

 数え初めて、今ので十二匹目。

 さすがに飽きました。


「さて穂咲。さっきから何度聞いても、最後には『春よ来い』を歌い出して誤魔化されているのですけども。諦めずに聞きましょう。何をしてるのさ」


 ぼけーっと、という言葉を体現する速度で俺に顔を向けた穂咲ですが。

 花のサンダルに、白いパフスリーブのワンピース。

 その上に乗せられた顔は、未だに俺がとっとと帰りたいという気持ちでいることを理解しておらず。

 今にも呑気に歌を歌い出しそうな、緩い笑顔のままなのです。


 ……今度『春よ来い』を歌い始めたら、容赦なく口をふさいでくれる。


「今日はお花がちょっと大きくて邪魔なの」

「いやいや。だから誤魔化さないでくださいよ」

「誤魔化してないの。大きいの」

「もっと大きな花を活けることあるでしょうに。ヒマワリとか」

「こないだ先生に習ったの。英語でなんて言うんだっけ?」

「サンフラワ?」

「……はなおのじょじょはいて~♪ おんもにでもがっ!?」

「なんなの君は! 誘導尋問の天才なの!?」

「口をふさがないで欲しいの」


 もう八曲目。

 そんなに来い来い歌っていたら、ホントに来ちゃいますよ、春。


「今度誤魔化したらほんとに帰ります。なんで俺が立たされているのか理由を教えてください」

「ああ、それを聞きたかったの? こないだ説明したから分かってると思ってたの」

「説明されましたっけ?」

「したの。わが友が来るから、お出迎えなの」


 ああ、そんなこと言っていましたね。

 イケメンなお友達とのことでしたけど。

 君、中高以外の友達なんかいないでしょうに。



 …………それにしても、イケメンが穂咲の家に来るのか。



 それは、どういうことなのでしょうか。



 もちろん、不安などないのですけれど。

 ちゃんと、まっとうな、清く正しい理由がそこにはあるのでしょうけど。


 そもそも穂咲ですし。

 こいつがモテるはずなどありませんし。


 だから全然もやもやとかしていませんし。

 これはただの興味本位の質問ですし。


「…………誰の事だよ。友って」

「友は友なの」


 ああもう。

 ほんと君ってやつは。


 言う気が無いのならいいです、気にもならないですし。

 だから帰りますよ、気にもならないですから。


「君の友なら、俺がいる意味無いでしょうが。帰りますよ、

「出たいと待っていもがっ!?」

「……おんもです」

「ウソなの」

「おんもです」


 これ以上歌ったら絶対来ちゃいます。

 春。


「歌わないで下さい。あと、なんで俺が付き合わされてるの? 君の友達な

「も~、来た~♪」

「とうとう来ちまった! ええい、君は今来たばっかりの春と二人で待っていなさい! 俺は今すぐ家に帰り…………、なんだあれ?」


 穂咲とのお取込み中に。

 視界の端に現れたものは。


 こんな田舎道に、もっとも似つかわしくない車。

 駅の方から、随分とゆっくり近付いてくるそれは。

 正面からの見た目でもすぐに分かるほどの高級車。


 黒いボディーが真っ白に。

 お日様の光をこれでもかと反射して。


 そんな車が本当に音もなく俺たちの前で止まると。

 長い長いボディーの横腹がガチリと開いて。

 そこから、角ばった、鼠色の和服に身を包んだ。

 見覚えのある巨漢が現れたのです。


「おお! 我が友なの!」

「待たせたな! 愛しの穂咲ちゃん!」


 筋骨隆々、びしっと伸びた背筋。

 彼が閑静な村外れに大声をあげると、穂咲をがしりと抱きしめて。




 そして、穂咲のほっぺに軽いキスをしたのです。




 ……穂咲が友と呼ぶこの巨漢。

 精悍で凛とした目元に、意志の強そうな太い眉。

 高級車に相応しい風格と威厳、収入と地位を持つ男。

 確かに、俺が見てもイケメンではありますが。

 穂咲にチューなどしていますが。


 まったくやきもちなど焼きません。



 だって。



「おじいちゃんじゃねえか!」



 思わず呆れ顔で突っ込む俺に、穂咲と穂咲のおじいちゃんが同時に振り向いて。

 そしてイケメンなおじいちゃんが。

 尖った顎髭の中からバリトンで言うには。


「わしがいつ、みちのぶ君のおじいちゃんになったというのじゃ」

「道久君なの」

「道久です」

「そんなことは聞いておらん」


 穂咲のおじいちゃん。

 あの、厳格なおばあちゃんの旦那さん。


 年に一度くらい会っているというのに、俺の名前を憶えやしないのです。


 なので。


「まあ、こいつの事は捨て置くとしよう。元気そうで何よりじゃ、穂咲ちゃん!」

「元気なの。タップダンスだって踊れるの」

「がっははは! そいつは痛快じゃ!」

「おじいちゃんも元気で何よりなの」

「当然じゃ! コサックダンスだって踊れるぞ?」

「それは驚愕なの」

「いやいや、この人ならほんとにやりそうなのです」

「穂咲ちゃんと楽しく話しておるのに邪魔をするでない。なんでここにおるのじゃ、みちむね君」

「道久君なの」

「道久です」

「そんなことは聞いておらん」


 …………俺の名前を憶えやしないせいで。

 会話の腰がばっきばきに折られてしまうのです。 



 この穂咲大好きな、変なおじいちゃん。

 でかい会社の会長さんだとかをやっている大物のはずなのですが。


 穂咲には、いい遊び相手であり。

 そして俺にとっては、変な人なのです。



 さて、そんな俺たちの騒ぎを聞きつけて。

 おばさんが奥から姿を現しましたが。


 気持ちは分かりますけども。

 その変な動きはなんでしょう。



 その動きに一番近い動物は。

 ブリキの兵隊さんですね。



「よ、ようこそとと遠いところをおいでくださいまし、まし、お、おありがとうございました。どど、どうぞこちらへ」

「おばさん、かちかちですね」


 兵隊さんの背中に、燃えさかる薪がくっきりと見えます。


「黙ってなさい! ……さあ、どうぞ」

「いや。まずは穂咲ちゃんとその辺を散歩して来るとしよう」


 さすがは変なおじいちゃん。

 いや、さすがは大物なのです。

 とってもゴーイングマイウェイ。


「ええ!? こ、この辺りには何も楽しいところなどありませんが……」

「馬鹿を言うでない。隣には穂咲ちゃんがおるのじゃぞ? 世にこれ以上見たいものなど、他にありはせん」

「だったら散歩の意味なんかないと思うのです」

「……なんじゃと?」



 あ。

 またやっちまった。



 どうにも突っ込みやすい、穂咲のおじいちゃん。

 お会いするたびに、こうして揚げ足を取ってしまうのですが。


 後悔より早く、俺の視界はぐるりと回り。

 気付けば地面に叩き伏せられて。


 そしてあっという間に脇を極められるのです。


「相変わらず凄い身のこないででででで! ギブ! ギブ!」

「ギブとはなんじゃ? もっと締め上げて欲しいのか?」

「もう酷いこと言いませんから! お散歩、実にいいと思うのです!」


 俺の同意に鼻を鳴らしたおじいちゃん。

 ようやく立ち上がると、ころっと破顔して穂咲の手を取り。

 山の方へ歩き出すのです。


「……道久君! 二人について行って! ほっちゃんが変なこと言わないように見張ってて!」

「いてててて。嫌ですよ、またこんな目に遭うの分かり切ってるのに」

「行かないと、ベッドとマットレスの間に挟まってる本を全部、居間のテーブルの上に並べておくわよ?」

「それは母ちゃんにやられたから場所変えました」

「……って言ってたわよって、ほっちゃんに報告する」

「策士っ! ああもう、分かりましたよ!」


 おばさん、必死なの分かるけどさ。

 天下の往来でそういうこと言うのやめて頂戴。


 俺はうんざりとした心と痛む肩を抱えて。

 つっかけを重たく引きずりながら二人の後を追うのでした。



 というか。

 せめて寝間着を着替える時間くらい与えてはくれませんかね?




 ~🌹~🌹~🌹~




 おばさんの言う通り。

 まったくもって見どころの無いこの界隈。


 穂咲の家のお花でも見ていた方が心安らぐでしょうに。

 それでもおじいちゃんは、我が世の春を心から楽しんでいらっしゃるご様子。



 ……よかったね、春、呼んでおいて。



「それにしても、大きくなったのう!」

「そりゃそうなの」

「がっははは! 来年にはわしを追い抜きそうじゃな!」


 うそでしょ?

 おじいちゃん、俺が見上げるほどの巨漢なのに。


 でも、そんなでかい図体をして穂咲にでれでれなおじいちゃん。

 金持ちらしい発想で、いつもこいつを甘やかします。


「何か欲しいものは無いか? わしがいる間、なんでも買ってやるぞ?」

「じゃあ、早速だけどお願いがあるの」

「がっははは! 任せておくのじゃ! ヴィトンか? それとも、とうとうエルメスの良さに気付いてしまったか?」


 いやいやいや。

 おばさんの不安、的中なのです。

 穂咲が変なことを言い出したら、口をふさがなきゃ。


 などと身構えていたら。

 変なことは変なことですが、予想もつかなかったことを言い出しました。


「ノニジュースってのが欲しいの。罰ゲームで試してみたいの」


 …………何と言いましょうか。

 和む反面、頭が痛かったりします。


 変なことは言わないでくれて良かったですが。

 なんて変なことを言い出すのでしょう。


 だって飲ませる相手。

 俺以外にあり得ませんよね?


「よし、買ってきてやろう! ……新堂!」


 つかず離れずというあたりにいらっしゃった運転手さん。

 執事さんなのでしょうか、いつもパリッとしたスーツに身を包んでいらっしゃるのですが。


 おじいちゃんが一声かけただけで、颯爽と走り出したのですけれど。

 穂咲がバカなことを言ったせいですいません。


 ……でも。

 これで近日、俺がその被害を被るわけですか。


「穂咲。ノニジュースはやめて」

「ノニも~、来た~♪」

「だから春は呼ぶな! ごはっ! いででででで! ギブ! ギブ!」

「穂咲ちゃんを怒鳴りつけるなど、貴様は何者じゃ!」

「毎年会ってるでしょうに! 名前はもういいから、せめて存在は認識して!」


 なんという変な人!

 ああもう、許してください!


「いてててて……、寝間着がドロドロです」

「貴様自身の身から出た汚れじゃろうて」


 酷いよ。

 でも、反撃などできないのです。


 涙目の俺の服を、穂咲はポンポンとはたいてくれますが。

 おじいちゃんの野獣のような目が怖いから、もうやめて。


「おじいちゃん、今年は何の用で来たの?」

「うむ! 穂咲ちゃんにノニジュースを買ってやるためじゃ!」

「すごいの。おじいちゃん、エスパーなの」

「がっははは! ……あとはな、昔頼まれた物を一つ持って来ただけじゃ」


 そう言いながら、おじいちゃんが袂から出した物は。

 どこにでもある、普通の封筒。


「中身はなあに?」

「うむ。随分と時間がかかってしまったが、これでもう、穂咲ちゃんが悲しい思いをしなくて済むのじゃ」


 何の話だろう。

 俺と穂咲は顔を寄せて、封筒から出された紙に目を向けます。


 そこに書かれていたものは。

 穂咲が悲しい思いをしなくて済むと言われた書面は。




< 鑑定書 >

 こちらの鎧兜は、秋山虎繁とらしげの所有していたものに相違ない事をここに証明する。




 ……おじいちゃんの思惑は分からないのですが。

 この紙は、想定したものと逆の結果を招いてしまいました。


 穂咲の心には。

 今、取り返しのつかない後悔が植え付けられてしまったことでしょう。




 女の子が泥だらけの手で水槽を触っても。

 気にも留めなくなったその理由は。


 水槽よりも、中の水の方が大切だということを知ったから。

 いつまでも漂う汚れが、胸を締め付けることを学んだから。



 だから、俺は気づくことが出来たんだ。



 変な紙なのと、気のないふりをして歩き出す穂咲の青い空に。

 ぽつりとしずくが落ちたことを。


 その黒いしみが。

 君の心を、どうしようもなく締め付けていることを。



 つづく


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