異能棋戦血風録

881374

一、くだんの娘。

 東京とうきょうドームの地下に密かに設けられている、広大なる裏カジノ。

 その一角のちょっとした体育館ほどの広さを占めている畳敷きの対局場には、ただぽつんと二つの将棋盤が置かれていて、それぞれ二名ずつの珍妙な格好をした者たちが相対して座っており、更にはその周囲にはまさに──いわゆる将棋の対局における『観戦記』を書いている僕自身を始めとした、大勢の人々が座っている観客席が設けられていた。

 ──我が国最大の賭け将棋大会、通称『オフかい』。

 まさに今この時、その決勝リーグとして、準決勝戦と決勝戦とが行われようとしていた。

 すでにこれまでインターネット上において国の内外を問わぬ凄腕の勝負師たち同士による『予選』が行われていて、その数多の激戦を制して勝ち残った真の強者四名のみが、こうして今度はリアルに顔を合わせて最終的にチャンピオンを決めるという段取りとなっているので、この決勝リーグはいつしか『オフ会』と呼ばれるようになり、今やそれが定着してしまったといった次第であった。

 高額の賭け金を支払うことでこの場にいることを許されている多数の観客ギャラリーを前にして、まさに現在熱く激しい準決勝戦を行っているのは、この大会の前年度のチャンピオンの和服に身を包んだ壮年男性を始めとして、その対戦相手の白衣びゃくえ緋袴ひばかまといういわゆる巫女服に身を包んだ小学生くらいの日本人形そのままの美少女と、禍々しくも可憐な漆黒のゴスロリドレスに身を包んだ同じく小学生くらいの端整な小顔をした美少女と、そしてその対戦相手のこれまた巫女服に身を包んだ高校生くらいの子供と大人の狭間の危うい妖艶さを醸し出している美少女という、年齢性別からその装いに至るまでバラエティ豊か過ぎる、さすがは我が国きっての裏カジノの賭け将棋の決勝大会にふさわしい面々であった。

 その中でも僕が注目しているのは漆黒のゴスロリJS女子小学生JK女子高校生巫女さんとの対局なのであるが、それはとてもいまだ年若き女の子同士による単なる座興のコスプレ対局なぞといったレベルではなく、大の大人同士──それも、名人めいじん竜王りゅうおう等のプロのタイトル保持者ホルダー同士の真剣勝負すら彷彿とさせるほどの、鬼気迫るものがあったのだ。

「……愛明めあ君、立派になって」

 黒衣の少女──つまりは、東京とうきょう大田おおた区立田園英雄でんえんえいゆう小学校教師である僕こと明石月あかしつきゆうの教え子である、登校拒否児童の少女夢見鳥ゆめみどり愛明めあのとても小学五年生とは思えないほどの闘志に燃えた姿を見るにつけ、僕はその時思わずほろりと落涙しながらつぶやいた。

「明石月先生、感激なさるのは結構ですが、手が止まっておられますよ?」

「あ、これは失礼!」

 僕はすぐ隣に座っているパステルグリーンのタイトスカートスーツに身を包んだ三十絡みアラサーの眼鏡美人──愛明の実の叔母にして養母である夢見鳥ゆめみどり乃明のあ女史の声により我へと返るや、膝の上に乗せているノートパソコンに向かって、愛明の対局の一部始終をほぼリアルタイムに文字通り実況中継的にしたためて、そのままネット上の小説創作系サイト『SFてきミステリィ小説しょうせつこう!』において『異能棋戦バトル血風録』というタイトルを付けて公開している、毎度お馴染みのいわゆる観戦記──つまりはまさにの作成を再開する。

 そもそもなぜに小学生の女の子が、裏カジノの賭け将棋大会なんかに出場して巫女装束の女子高校生と対局をしていて、しかもそれを保護者の叔母さんと一緒に担任教師が雁首揃えて観戦し、あまつさえこうして観戦記なぞをしたためているかと言うと、


 すべては重度な引きこもり児童であった愛明を、完全に立ち直らせるためであった。


 そう。実は愛明は新任教師である僕が受け持つ前の小学四年生時の二学期半ばから不登校状態となり完全に家の中の引きこもってしまい、それ以降一歩も外へ出ようとはしなくなっていたのだ。

 その『原因』は御多分にもれずいじめの被害を受けたからであったが、ただしその『理由』のほうは少々変わっていた。

 何でも愛明は去年のクラスメイトたちに誰彼構わず事もあろうに『不幸の予言』を行い、しかもそれが極めて高確率で的中したものだから気味悪がれて、何と当時の担任教師すらも含め露骨に腫れ物に触るかのような扱いを受け、クラスの中で完全に孤立してしまい、結局のところは不登校状態となってしまったのだと言う。

 しかも何とその前年度の担任教師(ちなみに熟女BBA)ときたら、保護者である乃明さんが自由業ならではにいいにつけ悪いにつけ大ざっぱな性格をしているゆえに、愛明に対しても完全に放任主義を貫いていて学校に対してまったくクレームをつけなかったことをいいことに、年度がまたいでしまうまで問題を放置していて、こうしてすべては何も知らず何の責任も無い、新任教師である僕へと受け継がれたといった次第であった。

 そのようなとんでもないクラス事情を新任早々いきなり聞かされた僕は、取るものも取りあえず慌てて都内の高級住宅街に結構広々とした邸宅を構えている夢見鳥家を訪れ、保護者の乃明さんに向かって平身低頭して平謝りに謝ったのであった。


「誠に申し訳ございません! 愛明君に対する数々の謂れ無き仕打ちに対しては、学校を代表して心からお詫び申し上げます。──しかも『人の不幸ばかりを予言する不吉な魔女』などと言いがかりもはなはだしいことを言って、当時の担任すらも含めて愛明君のことをのけ者にするなんて、もはや言語道断であり、同じ教師として恥ずかしい限りです!」

 そう言って深々と頭を下げた僕であったが、しかしその時聞こえてきた保護者様のお声は、案に相違してむしろどこか申し訳なさそうな苦笑混じりのものであった。

「……『不幸ばかりを予言する不吉な魔女』ですか? ある意味言い得て妙ですわね」

「はあ?」

 思わぬ言葉に咄嗟におもてを上げれば、目の前の眼鏡美人さん──愛明の実の叔母にして養母である夢見鳥乃明女史が、更なる驚きの言葉を言い放つ。


「実はですね、愛明と私は正真正銘、『幸福こうふく予言よげん巫女みこ』と呼ばれる予知能力者の一族の出身なのですよ」


 はあああああああああああ⁉


          ◇      ◆      ◇


 その時乃明のあさんから聞いた驚天動地の話をかいつまんで述べれば、およそ次のようなものとなった。

 夢見鳥ゆめみどり家においては古来より予知能力を持った者がたびたび生を受けていて、そのため一族は代々時の権力者に重宝され、この国の歴史の裏舞台で暗躍してきたのであり、その結果現在においては並々ならぬ権力と財力を有することになり、政府公認の自治権を与えられた某県の人里離れた山奥の隠れ里にて人知れず暮らしていると言う。

 不思議なことに一族において予知能力に目覚めるのは決まって女性に限られていて、彼女たちは『幸福こうふく予言よげん巫女みこ』と呼ばれていたのだが、もちろんすべての女性が異能を授かるとは限らず、中には予知能力を持たない女性もいて、他の一族の者からは『無能』と呼ばれて蔑まされて、その多くは里を追放されて世俗において一般人として暮らしていくのが常であった。

 実は乃明さんもそんな不運な女性の一人で、一族における宗教的指導者で実質的な当主に当たる先代の『巫女姫みこひめ』の実の妹でありながら『無能』として生まれたために、幼い頃に里を追い出されて、世俗で暮らしている一族の分家に引き取られて育てられたと言う。

 ……まあ、彼女自身はあまり物事にとらわれないサバサバとした性格だから、自分自身の悲惨な境遇を悲観することなぞなく、むしろ古き因習にまみれた旧家から自由の身となることで、気楽な一般人としての生活を大いに謳歌エンジョイしているようではあるけどね。

 これだけでも夢見鳥家がとんでもない異形の一族であることがわかろうというものだが、乃明さんの姪──つまりはまさしく先代の巫女姫の実の娘として生を受けた愛明めあに対する仕打ちは、更に想像を絶するものであった。

 それというのも夢見鳥家には『無能』よりも更に稀な例として、予知能力を有しているもののなぜか自分や他人の『未来』しか予知できないという、あたかも伝説上の人面牛体の忌まわしき化物『くだん』の落とし子であるかのような女性が生を受けることがあって、一族においては『不幸ふこう予言よげん巫女みこ』とか『くだんのむすめ』などと呼ばれて蔑まれて、『無能』の女たち同様に追放の憂き目を見るか、事によっては闇から闇に葬られることすらあったのだが、実はまさに愛明こそそんな不幸な予言の巫女として生を受けた子供の一人だったのであり、物心がついてすぐに一族のおさであった巫女姫たる実の母親の命令によって『処分』されてしまいそうになったところ、すでに乃明さんを引き取っていた有力な分家の当主が、「自分が引き取り世俗で一般人として育てて、けして予知能力を使わせないようにする」と申し出たことで、どうにか命拾いしたとのことだった。

 とはいえ、当時すでに高齢であった分家の御当主殿はそれから数年後にあえなく亡くなってしまい、現在においては同じ分家の養女ながらもこちらはすっかり成人しプロの小説家となり独立していた、愛明にとっては実の叔母に当たる乃明さんが、自分の籍に入れて養女にして面倒を見てくれているといった次第であった。

 ──しかしたとえ異能の一族から縁を切られて世俗において一般人として育てられようとも、しょせん予知能力なぞを持っている限りは異形の存在でしかなかったのだ。

 案の定小学校に上がって、同じ年ごろの子供たちばかりの環境の中にあっても、愛明は巫女姫である母親譲りの一族においても極めて強大な予知能力者としての片鱗を隠すことなぞできず、つい予言じみたことを口走ってしまい、その結果『不吉な魔女』として、担任教師を含むクラスの全員から恐れられ遠ざけられることとなってしまった。

 そのような自分がこの春から受け持つことになった教え子の、あまりに数奇な生い立ちと不憫過ぎる現在の境遇を聞くにつけ、深い同情を禁じ得なかった僕であったが、同時に根本的な疑問も感じざるを得なかった。

「──いやいや、ちょっと待ってください。話の内容の深刻さのあまり危うく流されそうになったけど、そもそも『幸福な予言の巫女』だか『不幸な予言の巫女』だか知りませんが、未来を予知する力なんてあり得るわけがないでしょうが⁉」

 長々と続いた乃明さんの話を聞き終えるや否や、僕はいかにも堪らずといった感じで彼女に向かって問いただした。

 しかしそんな僕の至極当然の言い分に対する目の前のミステリィ作家の眼鏡美人の返答は、更に意表を突くものであった。


「あら、そんなことはありませんよ? 何せいわゆる『集合的無意識』にアクセスすることさえできれば、予知能力はもちろん、どのような異能だって実現することができるのですからね」


「へ? 集合的無意識って……」

 それって確か、心理学用語か何かだったと思うけど、なぜかSF小説やライトノベル辺りでよく取り上げられる割には、いまいち要領を得ないんだよな。

「ちなみに集合的無意識と言っても、最近とみに見かけるSF小説やラノベにとって都合のいいように、いわゆる『アカシックレコード』や『マヤ暦』もどきのいんちきな代物ではなく、ちゃんと量子論を始めとする現代物理学に基づいた、あくまでも現実的な真の集合的無意識のことですよ?」

「量子論に基づいているって、いや確か集合的無意識ってかの有名なユングが提唱した心理学における理論の一つで、すべての人間の精神世界のうち最も深層にある無意識の領域が繋がり合っているという──つまりは、この世のありとあらゆる情報が文字通りという、いわゆる超自我的領域のことじゃなかったですっけ?」

「確かに心理学的にはそうでしょうが、それじゃ何だかわけがわからないではないですか? 何です、超自我的領域って。そんなもの存在するわけがないでしょうが。……まあ、むしろだからこそ、SF小説やラノベなんぞに盛んに取り上げられているんでしょうけどね。つまり現在小説等の創作物において登場してくる集合的無意識なんて、読者どころか作者自身もよくわかっていないものをよくわかっていないままに、御都合主義的に使い回しているだけなんですよ。しかし集合的無意識は量子論に基づきさえすれば、きちんと現実的に定義付けすることができるのです。──そう。実は集合的無意識とは、いわゆるコペンハーゲン解釈量子論の言うところの、『未来の無限の可能性』そのものなのです」

「集合的無意識が、未来の無限の可能性ですって?」

「ええ。この現実世界の未来に無限の可能性があることなんて、今や小学生でも知っている自明のことわりで、否定する人なんて誰もいないでしょう? つまり集合的無意識の本質が未来の無限の可能性であるとしたら、わざわざ心理学とか量子論とかを持ち出す必要もなく、普通に存在していて当然な十分に現実的な代物ということになるわけなのですよ。より詳しく申しますと、我々人間一人一人に始まりありとあらゆる森羅万象──ひいては世界そのものにとって、未来というものには無限の可能性があるわけなのですが、実はそれは個別の存在にとってけして別々のものではなく、すべての人にとっても、あらゆる森羅万象にとっても、ひいては世界にとっても、なのであって、そうなると当然その中には万物にとっての無限に存在し得る未来の分岐パターンがすべて存在していることになり、そしてまさにそのありとあらゆる存在にとってのすべての未来の分岐パターンの集合体こそが、集合的無意識と言われるものの正体なわけなのです」

「万物にとっての未来の可能性がすべて共通しているって……いやいや、そんなことはないでしょう。例えばAさんにはAさんの未来があって、BさんにはBさんの未来があるといったふうに、百人人間がいたら、その未来も百通りあるはずなのでは?」

「まあ普通に考えれば、その通りでしょうね。だったらもし仮に、そのAさんとやらがBさんになった夢を見ているとしましょう。当然今現在Bさんは、目が覚めるとともにこのAさんになるわけですよね?」

「ええ、まあ……」

 Aさんが夢の中でBさんになろうがCさんになろうが、目が覚めたらAさんに戻るのは当然じゃないか。何を当たり前のこと言っているんだ……と思っていた、まさにその時。

 続いての彼女の言葉に、僕はまるで脳髄に直接平手打ちを食らったような衝撃を受けた。

「それってつまりは、もしもAさんの見ている、正真正銘Bさんだと思われた人物が、実はAさんだったことになるわけですよね? すなわちこの現実世界が何者かが見ている夢であることがけして否定できない限りにおいては、Bさんがほんの一瞬後にも──そう。、Aさんとなってしまう可能性はけして否定できないことになるのです。その結果AさんとBさんの未来はこの一点において重なり合っていることになり、当然の帰結として二人にとっての未来の無限の可能性というものは共通したものになるといった次第なのですよ。もちろんこの現実世界を夢見ている可能性があるのは何もAさんやBさんだけに限らず、すべての人──ひいては、あらゆる森羅万象のどれでもあり得るのだから、未来の可能性というものは万物にとって共通したものになるわけなのです。そしてだからこそ、まさにその未来の無限の可能性の集合体である集合的無意識にアクセスすることさえできたなら、文字通り万物の可能性をすべて知ることができるのであって、未来予知を実現できるようになるのも当然なのですよ」

 実はこの現実世界そのものが何者かが見ている夢かも知れないという可能性に基づけば、万物にとっての未来はすべて共通していて、それこそが集合的無意識の正体だって⁉

「……いや。集合的無意識にアクセスさえすれば未来予知ができるって言われても、文字通り無限の可能性の具現である集合的無意識に、あくまでも生きている者がどうやってアクセスすることができると言うのです? それにそもそもこの現実世界そのものが実は何者かが見ている夢であるなんてことが、あり得るわけがないじゃないですか⁉」

「おやおや。明石月あかしつき先生におかれては、かの荘子そうしの『この世界は実は一匹の蝶が見ている夢かも知れない』とする、『胡蝶こちょうゆめ』の故事は御存じではないのですか? それに中国においては『黄龍ホワンロン』という、それこそこの現実世界そのものを夢として見ながら眠り続けている神様が存在しているとする神話があるくらいなのですよ?」

「……馬鹿馬鹿しい。そもそもが『この現実世界を夢見ているという蝶』自体が荘子の見た夢の産物に過ぎず、『この現実世界を夢見ているという龍』自体も神話上の──つまりは、我々人間の想像上の産物に過ぎないのではないですか?」

 そんな僕の至極もっともな反論に対して、しかし目の前の見目麗しき女性はむしろいかにも我が意を得たりといった感じで、表情を綻ばせた。

「そう、そうなのです! 黄龍ホワンロンなんているとは決まっていないことこそ──すなわち、確かにこの世界が夢かも知れない可能性は否定できないものの、当然その一方で間違いなく現実のものでもあり得るはずだという、存在可能性上の『二重性』こそが、ひいては万物の未来の無限の可能性そのものである集合的無意識へのアクセスを可能とするのですよ!」

「は、はあ?」

 自分で話題に上げた黄龍ホワンロンの絶対性をいきなり否定したかと思ったら、むしろそのいるかいないか確かではないあやふやさこそが、集合的無意識へのアクセスを可能にするだと?

「ふふふ。公立小学校教師明石月ゆうにして、実は密かにネット上において数々のミステリィ作品を発表なさっている『上無うえぶ祐記ゆうき』先生におかれては、こう言ったほうがわかりやすいでしょうか? 『実はこの世界やその中に含まれている我々人間を始めとする万物は、現実の存在であるとともに、夢の存在でもあり得る可能性を常に同時に有している』──これって、何かを連想しません?」

 ──っ。まさか、それって⁉

「そう。御存じ現代物理学の根幹をなす量子論における基本的理論である、『我々人間を始めとするこの世のすべての物質の物理量の最小単位である量子というものは、粒子と波という二つの性質を同時に有していて、形なき波の状態においては、次の瞬間に形ある粒子となってどのような形態や位置をとるかには無限の可能性があり、そのため量子のほんの一瞬後の形態や位置を予測することすら不可能なのである』そのまんまでしょう? つまり私たち人間には観測できないミクロレベルにおいて形なき波の状態にある量子は、次の瞬間に形ある粒子としてとるべき無数の形態や位置の可能性が同時に重複している状態──いわゆるこれぞ量子論で言うところの『重ね合わせ』状態にあるという独特の性質を有しているとされているのですけど、あくまでも現実世界マクロレベルの存在である私たち人間には、このような微小世界ミクロレベルにおける量子ならではの特異な性質は適用されないというのが、これまでの量子論における主流的見解だったけど、人間も量子同様に夢等の形なき世界の存在でもあるという二重性を常に持ち得るとしたら、まさにその量子ならではの特異なる性質──すなわち、『形なき「夢の世界の自分」においては、夢から目覚めた後に無限に存在し得る形ある「現実世界の自分」になり変わる可能性があり得る』という性質を有することになるのです。確かに常識的に考えればあなたのおっしゃるように現実世界に生きる我々が、無限の可能性の具現たる集合的無意識にアクセスすることなぞできないでしょう。しかしもしもこの現実世界そのものが夢であったとしたら、ほんの一瞬後に目が覚めることによってたる別の世界の別の自分となる可能性があり、そしてその『世界』や『自分』は実際に目が覚めるまではどのようなものになるかはけしてわからない──つまり文字通り無限の可能性があるわけなのであって、まさにこれこそが『自分や世界そのものにとっての未来には無限の可能性がある』ということなのであり、言わば現時点の自分を夢の存在として見なせば、ミクロレベルの量子同様にどんな『目覚めた後の未来の自分』になるかの無限の可能性が『重ね合わせ』状態に──すなわち、無限に存在し得る『未来の自分』のすべてと状態にあるわけで、そして未来の無限の可能性とはまさに集合的無意識そのものであるからして、これこそは集合的無意識へのアクセスを実現していることにもなるといった次第なのです」

 な、何と、この現実世界そのものが夢でもあり得ることはけして否定できないゆえに、現時点の自分を夢の存在と見なすことによって、量子論における『重ね合わせ現象』に則る形で、集合的無意識にアクセスすることは必ずしも不可能ではなくなるだと⁉

「実は我が一族の女たちは別名『黄龍ホワンロンの巫女』とも呼ばれていて、いわゆる『夢の主体』たる黄龍ホワンロンの存在可能性をわきまえていて、それゆえに自分自身についても現実の存在でも夢の存在でもあり得るという『二重性』を常に自覚しているからこそ、現時点の自分を夢の存在でもあり得る『夢遊病』状態──まさしく巫女ならではのトランス状態にすることによって、一瞬にして集合的無意識にアクセスし、無限の未来の情報を閲覧して、未来予知を実現しているといった次第なのです。もっとも黄龍ホワンロンなぞといったものが本当に存在しているなんて信じているわけではなく、先ほども申しましたように誰もがこの現実世界という夢の主体になり得る可能性があるのであり、まさにその夢の主体となり得る万物が『重ね合わせ』状態──すなわち総体的シンクロ状態となっての、あくまでもいわゆる『集合体』的存在こそが黄龍ホワンロンの正体なのであり、けして中国のどこぞの山奥の中に黄色い龍や、どこかのビール会社のトレードマークのごとき龍と馬のあいの子のようなものが、れっきとした個体として存在しているわけではないのです」

 ……つまり黄龍ホワンロンって、いわゆる首の長いのの、『麒麟きりん』のことだったのか。

 そんな豆知識を最後に披露するとともに長々と続いた蘊蓄解説をようやく終えてくれる乃明さんであったが、それに対して僕のほうはと言えば、あまりにも奇妙きてれつな話の連続にすっかり面食らいつつも、どうにも納得し切れていない点もまだ多々残っていた。

「……ええと。あなたの一族の方々が未来予知ができるということについては、いまだ半信半疑ながらも一応のところ理解できなくもないのですが、もしもあなたのおっしゃるように、幸福な予言の巫女である方々が黄龍ホワンロン等の『夢の主体』の存在可能性をわきまえ、自分自身を始めとするこの世の万物の『二重性』を自覚しているからこそ、集合的無意識にアクセスすることによって未来予知を実現できていると言うのなら、何で同じ一族の一員として基本的に同じ力を──つまりは集合的無意識へのアクセス能力を持っているはずの愛明君は、『不幸の予言』しか実行できないのですか?」

 そのようにいまだ説き明かされていない最大の疑問をぶつけてみたところ、返ってきたのは、更にこちらのことを煙に巻くような言葉であった。

「それはですね、実はまさにその『不幸の予言』こそが、すべての未来予知の行き着くだからですよ」

「は? 未来予知の到達点って。自分や周りの人たちの不幸な未来しか予知できないなんて、むしろ片手落ちで未熟な能力じゃないのですか?」

「あら、そうとは限りませんよ? むしろこの不幸の予言を真に効果的に使わせてこそ、現在の愛明を──すなわち自分自身を含めてすべてに絶望し心を完全に閉じてしまった哀れな引きこもり娘を、立ち直らせることだってできるのですからね」

 え。

「愛明君を立ち直らせることができるですって⁉ しかも、あえて不幸の予言を積極的に使ってですか?」

 あまりにも予想外の言葉を聞かされて思わず問い直せば、にっこりと微笑む眼鏡美人。

「ええ。実はそのためにも是非とも先生にも、御協力していただきたいのですよ」

「へ? そ、そりゃあ、愛明君のためなら担任教師として、どんなことでもするつもりではいますけど……」

「いえいえ、担任教師であられる『明石月祐』としてのあなたではなく、元『高校生竜王りゅうおう』というアマチュアとはいえかつての名うての将棋指しにして、ネット上における人気SF的ミステリィ作家であられる『上無うえぶ祐記ゆうき』としてのあなたにこそ、御協力を賜りたいのです」

「──っ」

 僕が公立小学校という兼業絶対禁止の職場に黙って密かにネット小説を作成していることはおろか、今となっては文字通り『昔取った杵柄』でしかないとはいえ、かつては高校生竜王としてアマチュア棋界で名を馳せていたことまでつかんでいるなんて。

 いったいこの人、何者なんだ⁉

「……失礼ですが、受け持ちの生徒の保護者であられるので一応担任教師として、あなたがプロの小説家であられることは把握しているのですが、よろしければペンネームをお聞かせ願いませんか?」

「いやですわ、まだお気づきになられませんの? あんなに熱烈なファンレターや御自身の著作のネット小説を送ってきてくだされたくせに」

 ──‼ そ、それって⁉

「まさか、あなたは……」

「これは申し遅れました。私こと夢見鳥乃明は、一応現在世間様から身に余る多大なる御支持をいただいております、SF的ミステリィ作家の『竜睡りゅうすいカオル』でもあるのです」

 ──って、やはりそうだったのか!

 ……道理で。やけに量子論とか集合的無意識とかに詳しいと思ったけど、まさか自分が最も敬愛している商業ベストセラー作家様が、受け持ちの生徒の実の叔母にして養母だったなんて。

「……それで、愛明君を立ち直らせるために僕にやらせたいことって、いったい何ですか?」

「先生にはまず最初に、愛明に将棋に関する基本的なルールと基礎的な戦法──いわゆる各戦型ごとの代表的な『定跡じょうせき』を教えていただき、それが一通り済んだ後には実際にネット将棋を使って、実践的な指導を行ってもらおうかと思っております」

「ネット将棋って。基礎的なことしか教えないのに、いきなり実戦をやらせるおつもりなんですか?」

「ええ。それも一局ごとにお金が動くいわゆる『賭け将棋』をやっている、非合法アンダーグラウンドな対局サイトが望ましいですわ。そういうところこそ凄腕の勝負師はもちろん、場合によってはタイトル保持者ホルダーすらも含むプロ棋士の方々がお忍びで参加することがあり得ますからね」

「ちょっと。小学五年生の姪御さんに、賭け将棋をやらせるですって? しかもそんな初心者が、凄腕の勝負師やプロ棋士に太刀打ちできるわけがないでしょうが⁉」

 あまりにも無謀な提案を受けて泡を食ってまくし立てたものの、返ってきたのはあくまでも落ち着き払った微笑のみであった。

「いいえ、あの子に限っては、極基本的なルールや定跡をマスターするだけで十分なんですよ。何せ賭け将棋等のお金や下手したら人生や命そのものが懸かった文字通り真剣勝負の場においてこそ、『不幸の予言』の力を最大限に活かすことができるのですからね」

「はあ?」

「そんなことよりも、実は先生には、もう一つお願いしたいことがあるのです」

「──え。この上まだ何かあるんですか⁉」

 今度はどんな難題をふっかけられるのかと戦々恐々と問い返す僕を見て、若干苦笑混じりにその女性は言った。

「愛明がネット将棋を十分にやりこなせるようになった暁には、いよいよ実際に相手と対面して行うリアルの賭け将棋を行わせようと思っているのですが、その際には先生にも私と共に保護者として立ち合っていただき、勝負の一部始終をいわゆる『観戦記』としてリアルタイムにしたためて、そのままネット上で公開してもらいたいのです」

「……それってつまりは、僕に愛明君の賭け将棋における闘いぶりを文章化して、ほぼ同時にネットにアップしろってことですか?」

「とはいえ、何も公式の観戦記というわけでもございませんので、別に客観的立場に徹する必要なぞなく、例えば大いに愛明に肩入れした偏向した内容にされようが構いません。言うなれば『小説』のようなものと思ってくださって結構です。それだったら、名うてのネット作家であられる『上無祐記』先生ならお手の物でしょう? とにかくこのようにして、新たなる担任の先生が自分の一挙手一投足に注目なされていることを知れば、愛明にとっても何よりの励みになることと思いますしね」

 ──うっ。そんなふうに言われたら、とても断れないじゃないか。

「……わかりました。どこまで力になれるかわかりませんが、そんなことで愛明君の再起の一助になると言うのなら、やるだけやってみますよ」

「まあ、さすがは先生。ネット作品を拝見した折に、お見込みした通りでしたわ。こちらこそ何とぞよろしくお願いいたします」

 そう言って僕に向かって深々と頭を下げる夢見鳥乃明女史──いや、竜睡カオル先生。

 自分が崇拝していた作家がこんな好みのタイプの年若き美女で、しかも受け持ちの生徒の保護者でもあり、その上僕なんかのことを頼りにしてくれているなんて、もちろん悪い気はせず、少々浮ついた気持ちとなり冷静な判断に欠け、つい安請け合いをしてしまった。


 だからその時の僕は、まったく気がつかなかったのだ。


 まさしく目の前のプロの小説家の描いた筋書きサクリャクによって、僕と愛明との運命が大きく変わって行こうとしていたことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る