❆・彼女

 彼女の話をしよう。

 

 彼女、成瀬川美海なるせがわみうの人生は、少なくとも僕の知る限り、白瀬輝く夕凪のようになんの波風もたたない穏やかなものだった。


 北海道の内陸部に位置する地方都市。


 更にそこから山と川とを一つずつ越えた中規模な街の役場に、成瀬川という職員が勤めていた。

 

 堅実な人となり、実直な職務態度とで同僚や地域住民に厚い信頼を寄せられる好人物だった。


 そんな彼と、街一番の大きな病院で看護士としてこちらも日々実直に働く堅実な女性が出会うべくして出会った。


 彼女の病院で行った彼の健康診断で、血糖値が平均の二十五倍というとんでもない数字をたたきだし、有無も言わせず再検査。


 それから念のための即時入院(ちなみに機材の不具合だっただけで本当の彼の血糖値は至って平均的なそれだった)をした時がきっかけというのが最大の山場。


 それからは特筆して何かドラマティカルな展開が二人を待ち受けていたわけでもなく。

 

 何度か顔を合わせ。

 何度も言葉を交わし。

 

 何度目になろうかというくらいに心を通わすうちに互いが互いを意識しはじめ、順当に恋へと落ちていった。


 そして歩みは緩やかでも確かな愛を育むこと一年、二人が正式に関係をもった記念日に当たる、とある月の美しい夜。


 成瀬川氏が一世一代のプロポーズを果たし、女性がそれを涙ながらに快諾した。


 周囲から反対の声は一切上がらず、友人・知人に同僚・上司、朝の挨拶を交わすくらいの浅い付き合いしかないご近所の面々に至るまで、誰もが似合いな似た者夫婦であると心から祝福した。


 それから時が過ぎること数年。

 二人が円満に結ばれて夫婦となってからおよそ三年経った7月20日。

 夫人が自身の勤め先であった病院の産婦人科のベッドに入院してから一週間。


 染み付いた体内時計が赴くがまま午前5時30分に起床した後、夫人は寝起きの頭で今日が予定日かぁなどとボンヤリしながら、簡易テーブルに置いてあったポットの水を二口飲んだところで急に産気づき、そのまま分娩室へと運ばれた。


 そして10分。


 病室へ置き忘れた安産祈願のお守りを助産師が取りに行って帰って来るその僅かの間に、3020グラムの新たな生命の産声が朝の静寂を高らかに揺らした。


 生まれたのは女児。

 玉のように可愛らしく尊いその小さな命は『美海』と命名された。


 この子の出産予定日が、折しもその年新たに制定されたばかりの祝日である『海の日』であったことから第一候補に挙げられていた名前だった。


 これが予定日より一日でも早いか遅いかすれば……。

 

 もっと言えばこの『7月20日』が、大体これくらいの時期はちょうど梅雨も明けて気持ちの良い海水浴日和だろう的な、実に内地よりな理由で制定されることになった『海の日』でなかったのなら。


 成瀬川美海は決して成瀬川美海ではなかったのだから、そう考えるとどことなく感慨深いものがある。


 後に、ハッピーマンデーなる新たな国の政策によって7月の第3月曜日という流動的なものとなって暦を毎年さまよう羽目になったものの、成瀬川家ではこれまでも、そしてこれからも7月20日は海の日。


 普段は生真面目で冗談一つ言わない成瀬川氏が精いっぱいに振り絞ったユーモアで言うところの『美海の日』であった。

 

 美海はすくすくと育った。


 中くらいの街の中くらいの大きさの家、特に金銭に恵まれてはいずとも貧しさからは縁遠い中流の家庭の中で大病を患うこともなく健やかに。

 

 別段優れた才覚や突飛な思想を持ち合わせてもいなくとも堅実で実直な両親の庇護のもと穏やかに。

 

 優しいモノばかりが満ちた暖かい世界に抱かれたまま、揺蕩うようにして美海は成長していった。

 

 ただ、当人がその名と取り巻く環境の通りに平坦かつ、聞こえは悪いけれど退屈な人生に甘んじて凡庸な人間だったかと言えばそんなことはなかった。

 

 美海が小学校にあがったばかりの頃だ。


 彼女と友達が放課後に学校の砂場で遊んでいたところ、上級生である数人の男の子が、体格の良さと先輩であるという立場を振りかざして割り込み、砂場を占拠してしまった。


 彼女たちの使っていたスコップやバケツなども半ば強引に奪われ、開通間際であった砂のトンネルも一瞬ののちに崩された。


 素行が悪いと学内では定評がある三人組を前に、おののく周囲の児童は見て見ぬふりだったし、美海と一緒に遊んでいた友達もただ泣くことしかできなかった。


 当然といえば当然。


 たとえそれが砂場の占有権であっても、国同士の政治的な立ち位置や企業の格の違い、つまりは社会生活の内外において純粋な武力や権力の差というものは物事を計る尺度としては割とわかりやすい単位になる。


 力の強いものは弱いものから搾取し。

 立場の低いものは高いものにおもねなければ生きていけない。


 もちろん例外も多々あれど、この辺鄙な街の辺鄙な小学校。

 

 更にその年中日当たりが悪くて湿っぽい校舎の片隅に設置されたささやかな砂場においては、常識の御多分からは決して漏れることはなかったようだ。

 

 上級生が我が物顔で暴威をふるう中、傍観していた児童の誰かが勇気を出して呼んできてくれたのだろう、教員がまたあの悪ガキ連中かと内心で嘆息しながら砂場に駆け付けたところで見たものは、予想と反し、大泣きしながら散り散りになっていく上級生と、逃げていく彼らを見送る美海の姿だった。

 

 砂場の中央に立ち、逃げ去っていく少年たちの背中をジッと見つめる美海の佇まいの、なんと悠然としたことか。


 何がどうなってイジメていたはずの上級生達の方が逃げ去っていったのか、掴めない状況を理解するためにいろいろと問いたださなければいけない教員ではあったが、美海から放たれる、その場を静かに、されど圧倒的に支配するような重い空気感に、束の間、教員としての職務を忘れて身をすくめてしまった。

 

 「わたしたちが先に遊んでいたんだもの」

 

 『ヒッ』と声を上げなかっただけ、まだ教員は辛うじて自身の教職者という立場をわきまえてはいた。


 それでも、おもむろに振り返った美海と目があった瞬間、年若い女性教諭の背中を思い切り撫で上げたものは、紛うことなき恐怖だった。


 年端もいかないどころか、その春の入学式。

 両親に手を引かれながら校門に設置されたチープなアーチをくぐったばかりの、まだ十歳にも満たない小柄で華奢な女児相手にだ。


 怒りに満ちて鋭く閃いたわけではない。

 病的な虚ろさが鈍く光っていたわけでもない。


 ただ深い。

 ただただ深く底の見えない美海の透明な眼に彼女はとらえられた。


 たとえば給与面や教師間の派閥争いに対する不満。

 心の隅で密やかに募り積もる子供達への嫌悪感。

 どうにも思う通りにいってはくれないプライベートへの苛立ちなどが悉く暴かれ、咎められ、見透かされてしまったと女教師は感じた。


 ……もちろん当人ではないので、確かなことは言えないのだけれど、少なくともその時彼女の表情が一刻のうちに恐怖という感情を形造っていく様を、一部始終間近で見ていた僕はハッキリと覚えている。


 「ごめんなさい、先生」

 

 だから、美海がそう謝罪する言葉が耳に馴染んで理解へと及ぶまでも、女教師は幾ばくかの時間がかかった。


 「泣かせるつもりはなかったのだけれど」


 「ああ、うん、そ、そう……なのね……」


 今度は明確に自分の方へと向けられた瞳に、もはや女教師の精神力は限界だった。



 結局、グラウンドでサッカークラブの指導をしていた別の教員が騒ぎを見つけてあまり間を置かず駆け付けたことで事態の収拾はついた。


 外野にいた生徒達の証言もあって、翌日には騒ぎの元凶となった上級生達が母親ともども校長室に呼ばれる運びとなり、そこを正式な謝罪の場とした。


 美海は全然気にしていないと柔らかく微笑んだわけだけれど、その時、悪童三人組の怯えたような様子は、ただ大人たちに怒られて萎縮してしまったというにはいささか過剰な気もした。

 

                ☆★☆★☆

 

 成瀬川美海は『海』だった。


 ……名前にかこつけた随分と安直な例えな気もするけれど、やはり成瀬川美海という人となりを表すのにこれ以上の表現はないとも思う。


 基本的には、あの生真面目が背広とエプロンを羽織って生きているような両親から生まれたのも納得な、争いを好まない物静かな少女という認識で間違いない。


 降り注ぐ木漏れ日を一身に受けながら読書に耽る文学少女然とした佇まいに見とれた人はどれくらいいただろう。


 それでいて話してみると実に朗らかで、確かに少ない口数ではあるけれど嫌みなところは一切見当たらず、会話と会話の間に違和感なく挟み込まれる、言葉よりも饒舌に彼女の気立ての良さを表す微笑みにどれだけの人が心を奪われただろう。


 成績も優秀であれば品行も方正。

 率先して母親の手伝いをすることで身についた家事能力は目を見張るし、仕事で疲れた父親の肩をよく揉むことで培ったマッサージ能力もなかなかのものだった。


 近所の老人たちから退屈な昔話を。

 もしくは年下の子供たちから突飛で他愛もない戯言を聞かされたとしても、不快な顔などするわけもなく熱心に誠実に耳を傾けた。


 同級生に懇願されてよく勉強を教えたけれど、その教え方がこれまた上手く、授業よりもわかりやすいともっぱら評判になった。


 クラス委員長という立場以上にあれやこれやと教師から色々面倒な仕事を押し付けられたけれど、不満も憤懣も見せずにこやかに請け合い、結果頼んだこと以上の成果を出して教師を満足させた。


 それはまるで真夏の夜の御伽譚。


 いつかどこかで誰かが夢想した、理想的に過ぎる優等生がそこにいた。

 

 しかし、そのようなどこかの誰かの夢物語のような人格は、美海という一人の少女の人間性を語る上での単なる一部分、言ってみればただの上澄みのようなものでしかなかった。


 ごく稀に、本当に極々稀にではあるけれど、成瀬川美海を『怖い』と評価する人間が現れた。


 たとえば懐いていた近所の子供が、あるいは相談事を持ち掛けた同級生が、自身の親や他の同級生に、彼女のことが『怖い』のだと真摯に訴えかけるのである。


 半泣き、沈鬱、しかめ面。


 訴える彼や彼女らが顔に浮かべる表情はその都度バラバラであったけれど、訴えかけられた方の反応はまさに判で押したように一括していた。


 驚きのあまりに目を丸くさせ、怒りのために眉を吊り上げ、信じられないとばかりにふるふると首を横に何度か振った後に、自身の大切な子供や大事な友人である彼や彼女らを厳しく叱責した。


 清廉にして潔白、眉目秀麗にして温厚篤実な成瀬川美海嬢になんたる無礼なことかと、まるで狂信的な宗教国家で、うっかり身内が崇拝する絶対神を冒涜するような発言でもしてしまったかのように。


 そしてその発言を聞いてしまった自分たちの耳や魂までも同罪に規したとして神罰を下されるのではないかと怯えるみたいに。

 

 それはそれは痛烈に断罪した。


 訴えかけた者たちは大なり小なり真剣だった。


 僕は(俺は・私は・アタシは)あの時(その時)確かに恐怖を感じたのだ。

 慰めや同情をくれるならまだしも責められる言われなんてない。

 

 ……彼や彼女らにとっては実に理不尽極まりない話だったろう。


 無条件で自分を容認しなければならないはずの近しい人々から浴びせられる予想外の反応に、絶望さえ覚えた者も少なくはない。


 しかし、それでも当人たちにしたところで、普段から成瀬川美海の評判の良さを見るなり聞くなり、そして実際に体感するなりしていたのだ。


 理解されないことへの悲しみや怒りは当然あった。

 あったことはあったのだけれど、結局は至極あっさりとその理不尽を受け入れてしまった。


 あれは何かの間違いだった。

 自分の目が、耳が、性根が、魂が穢れているからそう感じただけだ。


 そう思考を停止させて不承不承ながらも一応の納得を抱きながら布団を被った明くる日、改めて接してみた成瀬川美海は、拍子抜けするほどあまりにも成瀬川美海であった。


 ああ、やっぱり成瀬川美海は札付きの優等生だ。

 疑念も疑惑も挟み込める余地もなく、完璧に。

 

 今日も今日とて成瀬川美海は成瀬川美海なのだ誰もがそれで納得した。


 

 ……それでも僕は知っている。


 生まれた時から成瀬川美海と一緒にいた幼馴染の僕は、雑味も色味も混じりあう余地のない純粋な彼女の『怖さ』を多分、世界で一番知っているんだと思う。


 時に今にも雨粒を落としそうな曇天に。

 時に道端で見かけた捨て猫に。

 時に商店街のショーウインドウに並ぶ商品に。


 美海はジッと視線を送ることがあった。


 脈略も突拍子も微かな前兆も僅かな前哨もなく、急にプツリと会話が途絶えたと思ってふと見やれば、静かに一点を見つめてに視線を注ぐ彼女がいた。


 静かという一言で片づけるにはあまりにも言葉が足りない。


 呼吸に鼓動、あるいは命の灯そのものが完全に静止してしまったのではないかと思えるほどの静けさを纏った美海がいた。


 まるで海の奥の更に奥、光りの恩恵からは遠く深く隔絶された深海から見つめているかのように。

 

 まるで何人にも侵されざる彼女だけの聖域からそっとこちらの世情を覗いみているかのように。


 そしてそうやって見つめることで本来は何かしら抱かなければならないはずの感情のことごとくを、そんな彼女の神域に置き忘れてきてしまっているかのように。


 無感情で無感動、無性にして無情。


 おおよそ人間の知りうる限りのありとあらゆる有が無となり、あらゆる有が透明に彩られたその無に反射していた。


 美海に怖れを抱いた彼や彼女らは、ほんの一端とはいえ、美海の本質に触れていたのだ。

 

 ……いや、本質という表現はあまり正しくないのかもしれない。


 それは絵に描いたよりも精密にして完璧な優等生とは違うもう一面。

 上澄みと例えた一部分のもう少し深い場所にある溜まり部分のもう一面だ。


 どちらも美海を構築する本質であることに違いはない。


 違いはないのだけれど、表に出ている面の方の印象が強すぎて、まるで別人格のように思えてしまうだけなのだ。


 そう、成瀬川美海は『海』だった。


 とはいえ、生まれも育ちも内陸の更に内側、潮の香よりは萌ゆる緑と家畜の糞尿入り混じる薫風の方が馴染み深い僕にとって、海というものに対する具体的なイメージには乏しかった。


 人生で一度しか言ったことのない海水浴場の緑がかった海。

 

 テレビに映し出された台風によって荒れ狂う黒い海、写真で眺める黄昏時の赤い海。

 

 母なる海、数字の海、翠の海。


 雄大で壮大で人知をそれなりに超えたものの例えとしてよく『海』という単語は使われているし、それも理解できる。


 ただ僕にとって『海』とはあくまで『美海』。

 

 ただ深くて、ただただ静かで。

 

 音や光や情すら失くした何も無い場所というのが僕にとっての『海』だった。


 

 最初は僕も戸惑った。


 僕の見えないものが見えているようで気味が悪かったし、せっかく楽しく遊んでいたというのに突然黙り込んでしまうことも面白くなかった。


 そして何より、僕は寂しかったのだと思う。

 

 二人でいるのに、隣にいるのに、こんなにも近くにいるというのにあまりにも美海が遠かった。


 一体、君は何を見ているんだ?何が見えているんだ?

 幼馴染なら、友達なら、親友なら、姉のような妹のような存在ならば共有したい。

 

 彼女が見ているもの、見えているものを僕にも見せてくれないと嫌だ。

 美海だけの場所があるならば僕もそこに連れて行ってくれ。


 君の世界を僕に、君のすべてを僕に、僕に、僕に、僕に……。


 もちろん、物心つくかつかないかという頃の舌足らずな思考ではそこまで自分の気持ちを表現できなかったけれど、そんな言葉にならないもどかしい感情に身を任せて何度も美海の小さな体を揺すった。


 何だか侘しくて、そこはかとなく寂しくて、そして圧倒的に悲しくて涙が止まらなかった。


 時間にしてみればほんの数分の出来事でしかないけれど、僕は美海の瞳にじんわり色彩と生気が宿り、そして涙や鼻水で顔をくしゃくしゃにした僕に気が付いて心底驚くまで、彼女を強く強く揺さぶり続けた。



 「……私、またボーっとしてた?」


 それが一体何度目のことだったろうか。


 やはり唐突に美海が『海』へと潜り、やはり僕が涙を両目一杯に溜めながら彼女の肩を力の限り揺らした後、美海はしばらく呆けたように僕を見つめた後、ポツリとそう呟いた。


 声量こそ小さかったけれど、暗黒色した深海から光差す水面へと、どこかの世界からこちらの世界へと股にかけたことによる気圧や大気の変化などものともしない、ハッキリとした口調と眼差しだった。

 

 「心配してくれた?」

 

 「……(こくり)」


 僕はといえば、いつもの美海が帰ってきてくれた安心感と、何度出くわしても慣れることのない、彼女の存在が遠のくようなあの恐怖感を引きずったまま、いつまでもしゃくりあげていた。


 言いたいことや聞きたいことはたくさんあった。

 

 しかし、気持ちばかりが気ままに膨れ上がって、それを言葉らしい言葉に置き換えることがどうにもうまく出来ず、とりあえずは首を振って意思を示すことで辛うじて美海の言葉に応えることができた。

 

 「ごめんね」

 

 「……(ぶんぶん)」

 

 「そしてありがとう」

 

 「……(こくり)」

 

 「いつも、私のために泣いてくれているのね?」

 

 「……(こくり)……?……(ぶんぶん)」


 僕は一度首を縦に振り、そして少し間を置いて今度は横に一度振った。

 

 「私のためだけじゃなく、それはあなたのためでもある?」

 

 「……(うーん?)」


 今度は縦にも横にも振れず、僕の首はただ斜めに傾げられるだけだった。


 美海のためではなく僕のためでもある?

 ……よくわからなかった。


 美海の言うことはいつでもどこか難しく、僕には半分もその意味を理解できないことがしばしばだった。

 

 これがもう少し成長したならば考えを巡らせて言葉の真意をはかったり。

 もっと俗っぽく、見栄を張ってわかったつもりを決め込むこともできたのだろうけれど。


 齢・七歳だった当時の僕は、そんな微妙な駆け引きができるほどの思考力もプライドも持ち合わせてはいなかった。


 美海のため?僕のため?

 ……わからない。


 そもそも何かや誰かのために泣いているわけじゃない。


 もっとシンプルに、年相応に幼かった僕は、ただ純粋に悲しかったからこんなに泣いているんだ。


 「本当に素直」

 

 美海はクスリと微笑んだ。


 もとはと言えば彼女のせいでこんなに泣いているというのに随分な反応だとも思ったけれど、それでもどうやら素直らしい僕はそのささやかな笑みを見せられただけで、それまでの何もかもが救われたような気がして心からホッとした。

 

 「これは多分、悪い癖なんだろうね」

 

 少しは落ち着いたとはいえ、それでもグズり続ける僕の涙を自分のハンカチで柔らかく拭いながら、美海は言った。

 

 「本当に悪い癖。こんなにあなたを泣かせてしまうんだもの、どうにかして直さなきゃいけないね。うん、私は悪い子だ」

 

 「……みーちゃんはわるい子じゃない……」

 

 「ううん、悪い。私は本当にいけない子」

 

 美海はクスリと大人びた微笑みを浮かべながら、僕の頭をそっと撫でた。

 ひんやりとした美海の手の平。

 

 その熱を持たない手の感触だけが、彼女が確かにここにいるのだという実感に繋がる唯一のものだった。

 


 それから何度も同じようなことがあった。


 その度に僕はやはり侘しさや寂しさにとらわれ続け、その度に彼女を揺さぶり続けた。

 

 今にして思えばその僕の行為こそが、彼女をこちら側に、僕の生きている世界に連れ戻すために必要な、大切な行為だったのかもしれない。


 言葉にならない言葉を叫び、声にならない大声をあげて、彼女をここにしっかりと繋ぎ留めておく楔にすればよかったのかもしれない。


 だけど僕は慣れた。

 愚かな僕は慣れてしまった。


 隣同士の家から毎日一緒に登校し、下校した。

 

 中学二年生になっても未だクラス別れしたこともなかったし、放課後も休日も大体は一緒に朝から夜まで遊んだ。


 僕らが顔を突き合わせていた時間は、たぶん、互いに親よりも長かった。


 だからだろう、美海のあの一面を垣間見る機会は他の人よりも過分に多く、過ぎてしまった分だけ慣れてしまったのだ。


 体を揺する力は徐々に弱まり、張り上げる声は先細りに小さくなった。

 

 心配と怖さと悲しみのみで占められていた感情には諦観が混じり込み、大泣きするほどの真剣さには惰性の影がさしてきた。


 彼女が真黒な雲を見上げているならば、一雨来そうだなとウンザリした。

 

 彼女がダンボールに入れられて切なげに鳴く捨て猫を見つめるならば、可哀そうだけど家は飲食店だから飼えないんだよと謝った。

 

 店先で立ち止まったならば、ガラスの向こうで怪訝な顔をする店主にへらへらと愛想笑いを浮かべて胡麻化した。


 美海がいつもの優等生に戻るまで、海の底から這いあがって日の差す場所へと戻ってくるまで、ただ僕は傍に付き添った。


 そして僕は気が付いた。


 それでも美海が世界との交信を途絶えさせるあの時間と頻度に何ら変化が見られないことに気が付いてしまった。


 僕が泣こうが喚こうが彼女は変わらず数分間だけ深海へと潜った。


 僕が押して黙ってボンヤリと立っていたところで彼女は変わらず極々稀に無となった。


 要するに、僕の存在なんて美海にとってなんの影響も与えることができない、取るに足らないものなのだと痛感してしまった。


 居た堪れなくなった僕は、美海の傍から徐々に徐々に離れていった。


 その頃は彼女の隣にいることを冷やかされたり邪推されたりする機会が露骨に増えてきた時期でもあったし、ちょうどよかった。


 やはり年頃の、別に家族でも恋仲でもなんでもない男女が四六時中一緒にいるのはどこか歪なものなのだと本能的に僕は感じ取っていた。


 幼稚園から十年以上続く習慣だった朝の美海のお迎えのチャイムを、何かと理由をつけて拒むようになった。


 何も言わずともどちらかが必ず下駄箱の前で待っていた放課後も、黙って他の友達と帰るようになった。

 

 こちらから話しかけることは無くなり、話しかけられたとしても最低限の生返事だけを返して早々に会話を切り上げた。


 彼女にとっては唐突に、僕にとっては予定調和的に交流を避ける毎日。


 美海は何か言いたげな様子だったけれど、それすらも僕は躱していった。


 たかだか十数年のしがないものではあったけれど、それでもそれまでの僕の人生において唯一、この中学二年生の初冬だけが美海の欠落した日々だった。

      

               ☆★☆★☆         


 「どうして私を避けるの?」


 しかし、それも思っていたより長くは続かなかった。


 僕にしては巧妙に、お世辞にも潤滑とは言い難い思考回路をフル回転させてうまく立ち回ってきたはずなのに、やはり元々のスペックの差が如実に表れてしまったのだろう。


 ある日の下校時、委員の仕事を終えてそそくさと、されど要警戒しながら家に帰ろうと校門を抜けたところでとうとう僕は美海に正面を取られた。


 驚く僕は彼女の有無を言わせぬ圧力に引っ張られるようにして近くの公園まで連行され、木製のベンチに座らされた。


 前日までの雨の名残でいくらか湿り、背後の雑木林からは少し饐えたような匂いがして不快だったけれど、とても文句なぞ言えそうな雰囲気ではなかった。


 「どうして最近私を避けているの?」


 美海はもう一度そう問い詰めた。


 久しぶり……とは言ってもせいぜい一か月にも満たないくらいなものだったけれど、これまで一緒にいた密度を思えば本当に久方ぶりに相対した美海の顔は、とても怒っていた。


 柔らかく微笑んでいるか全くの虚無か、あるいはその他の感情を人並に映すいろいろな彼女の顔を、それこそ万遍なく見てきたつもりだった。


 でも、純粋に『怒り』だけに染まった表情なんて、たぶん、この時初めて見たかもしれない。


 「……別に避けてない」


 「何かしたのかな、私?」


 「……いや、別に」


 「何か怒らせるようなことをしたのかな?心当たりが全然なくて、考えてもわからなくて、それなら聞かなくちゃって、言ってもらわなくちゃって。……でも避けられて、謝ることもできなくて」


 「……だから……別に……」


 「一体、私は、何を、したの?」


 美海は容赦がなかった。


 同じベンチに腰掛けた体を問いの度にじりじり寄せて距離を縮め、まるでキスでも強要しているかのように顔を近づけて真正面から僕の目を見据えてきた。


 フレームが大きく無骨な黒縁の眼鏡。

 適当に二本に結っただけの清潔ではあるが色気のない髪型。

 化粧っ気もなければこれだけ近づいても不思議と無味無臭の香り。

 

 他の大多数の女生徒のように制服を着崩すこともなく膝丈の守られたスカートに、生地や仕立ては良くてもデザイン性の無視された学校指定の汎用的な黒いウールのコート。


 ようやく目立った膨らみを見せてきた胸の隆起は、たとえ前屈みの姿勢になってもなんとなくそれ以上の展望は望めそうにないほどささやかなもの。


 身長こそ僕と同じくらいだったけれど、四肢の肉付きは幼い頃から変わらずに芳しくはない。


 ……そう、有体に言って地味、控えめに言ってみても野暮ったかった。


 だけど僕はドキリとした。


 年相応に異性を意識し始め、無意識にも雑誌のグラビアや女性の薄着に心を漫ろにしてしまう不自由な年頃だった。


 同級生の男子とそう言った話をしないでもなかったし、夢想に耽ることもしばしばあった。

 

 だからそんな風に無防備に近づいてくる美海にドキドキしないわけがなかった。


 少しの間でも距離を空けていたせいかもしれない。

 

 実はそれなりの数の男子生徒が美海のことを『イイ』と噂していたのを思い出したせいかもしれない。


 たとえ怒っていたとしても、しっかり僕の方を見てくれたことを嬉しく思ってしまったせいなのかもしれない。


 とにかく僕は姉弟、あるいは兄妹のように育ってきた彼女に対して、その時確かに異性を感じてドギマギしてしまった。


 「……ホント、別に……」


 気恥ずかしさから思わず僕は彼女の視線から逃れるように顔を逸らした。


 すると逸らした視線の先には小さな男の子と女の子が砂場で遊んでいた。


 小学校に上がるか上がらないかというところだろうか。

 

 湿り気を帯びた砂が顔や服を汚すのも構わず砂場の中央にこんもりとした大きな山を造り、懸命に、不乱に、そして何より本当に楽しそうにその両端からそれぞれトンネルを掘り進めていた。


 名も知らぬ子供たちのその微笑ましい情景は、在りし日の僕らを自ずと思いださせた。


 お互いの性別なんて気にもせず、当たり前のように傍にいて、当然のごとく笑いあっていた僕と美海。

 

 誰かが彼女のことを怖いと言っても冷やかされても、僕を見ていても見ていなくても、どうしようもない寂しさや孤独感に囚われても、それでも二人でいなければならなかった。


 僕だけのものでも美海だけのものでもない、もう一つ、他者はもちろん、自分たちの想いの介入すら決して許されない僕たち二人だけの大事な聖域が確かにあったはずなのだ。


 それを侵したのは。


 穢したのは。


 壊してしまったのは、間違いなく僕の方だった。


 「……どうして私を避けているの?」


 どれくらいかはわからない。


 それでもどこか感傷的なしっとりとした沈黙が続いた後、美海は三度そう問うた。

 

 しかし、今度の問いに怒気は孕んではおらず、むしろ包み込むような励ますような、耳慣れた優しさがあった。


 「……いろいろさ……あるんだよ」


 「いろいろって何?」


 「うん、まぁ……いろいろかな?クラスの奴らとかご近所さんとか、あとは……」


 ―― あとは僕自身とか ――


 「そっか、いろいろか……」


 「そう、いろいろだよ」


 「……可愛いね」


 「ん?」


 「うん、可愛い。本当に可愛い」


 そうつぶやく美海の方を見やることはできず、僕は顔を伏せた。


 彼女が僕と同じように砂場で遊ぶ二人を見ているのがわかっていた。


 それを見ての『可愛い』だったのもわかる。


 だけど、その言葉が、決して彼らだけに向けられたものではないことも、僕にはわかり過ぎるくらいにわかった。


 わかってしまうのだ。


 「……ねえ、みーちゃん?」


 「なに?」


 「……みーちゃん……僕は……僕はさ」


  ❆

         ❆

    ❆  ❆

 ❆

     ❆

        ❆ 


 「雪」


 「え?」


 「雪、だよ」


 彼女のその言葉に、僕は伏せていた顔を思わず上げた。


 雪。

 雪だ。

 初雪だ。


 ちらちらと、ふらふらと。


 まるで降るのが久しぶりすぎてどうにも要領が掴めず探り探りという感じに、ゆっくりとまばらに雪が降ってきた。


 いくら北海道の内陸に位置するこの雪国でも、さすがに本格的な冬の訪れまでにはもう少し猶予があるはずだ。


 たぶん、これからはこうやって断続的に気圧配置が冬型になる日が増えていく。


 その度にこうやって雪が降ったり、冷たい風が吹きすさむ。


 そしてそのうち、それが当たり前のようになり、雪も人も体が慣れてきて初めて、この街にも冬がやって来るのだろう。


 隣では美海が雪空をジッと見つめていた。


 ……いや、その透明な瞳には雪や空どころか、何も映ってはいないのかもしれない。


 深い深い海の底。


 暗い静寂が支配する美海の世界の底に立ち、僕らの知りえない何かを見上げていた。

 

 その時の僕にはもう、彼女をそこから引き上げるべき術も、言葉も、資格も持ち合わせてはいなかった。



 ―― ごめんね…… ――



 そんな言葉を言い残し、美海がベンチから腰を上げて去っていってからも、僕はしばらく、砂場の中で降り注ぐ雪にはしゃぐ子供たちを一人眺めていた。


 いつかはわからない。

 

 明日なのか一年後なのか十年後なのかはわからない。

 彼の方かそれとも彼女の方からなのかもわからない。


 それでも、いつか必ず彼らも彼らだけの空間を内側から壊してしまう時が来るんだろう。


 やはりその世界は美しすぎる。


 美しすぎて清すぎて完結し過ぎている。


 そしてその世界を永遠に維持していくには、僕は、僕たちはあまりにも醜くて邪で不完全な生き物過ぎた。


 彼ら二人に幸多からんことを。

 僕たちとは違って束の間の理想郷がいつまでもいつまでも栄え続けることを。


 そしてその砂場を侵そうとする誰かがやってきた時には、彼女を前に立たせることなく、ぴぃぴぃと惨めに泣き叫ばないで男の子の方が是非とも甲斐性を見せてくれることを、僕は心から望む。



たぶん、その時、僕は彼女に恋をして。

たぶん、その時、僕は彼女を失った。


まるで手のひらに受けた途端に溶けていく、優しい初雪のように。


僕の初恋は、気づいた傍から消えていった。


 ❆

         ❆

    ❆  ❆

 ❆

     ❆

        ❆ 

 

 だというのに……


 雪はいつまでも降り続く。


 街にも……そして、僕にも。

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