6-2

 弓道の都大会は、ルール上十月の秋季大会までは三年生が出場できるが、ほとんどの学校は六月の高校総体インターハイ都予選を引退試合に位置付けている。「引退するつもりはないんだけど」とインターハイへの出場権獲得を目指すことを優都ははっきりと宣言しつつも、どういう結果になったとしても、都総体で代替わりはするつもりだということも伝えていた。

 都総体は、団体戦の予選と準決勝の的中数が、そのまま個人戦の予選と決勝の的中数に適用されるルールだ。団体にせよ個人にせよ、五人立の団体戦での的中数ですべてが決まる。例年、個人戦で準優勝までを狙うためには、二戦八射のうち、少なくとも七中、年によっては皆中が求められる。

「勝とうな」と、団体予選の前に優都は団体メンバーの前ではっきりと口にした。

「あんまり大きなこと言うの得意じゃないんだけど、僕は、僕らはどこにだって勝てると信じてるし、それだけの実力があると思ってる。勝って帰ろう」

 珍しく、わかりやすく熱の入ったその言葉にだれもが頷いた。現実味がある言葉かどうかということは、いまこの空間に限ってはなにひとつ意味を持たなかった。


 団体戦では、予選、準決勝では優都も拓斗も揃って八射七中の好成績ではあったものの、翠ヶ崎全体としては一射差で五位となり決勝進出は叶わなかった。雅哉と潮も絶好調とはいかなかったが、それと比べても、最後のひとりのメンバーとなった京は予選、準決勝ともに結果が振るわなかった。京が試合後に「ごめんなさい」と黙り込んでしまったのを、優都は笑って「おまえが謝ることないだろ」と励ました。

「自分があと一射中ててればよかった、って思ってるのは全員同じだよ」

 そう言った優都は、引き続き始まった団体戦決勝に入場してくる櫻林高校の後姿に視線をやった。予選、決勝を通して八射皆中を成し遂げたのは、優都たちの代のなかで不動の首位の位置を築き続けてきた松原ひとりだ。その時点で彼の個人戦でのインターハイ出場は確定していて、七中に連なった優都と拓斗を含む五人のうち、あと一人が最後の競射で選ばれる。

 個人戦の同中競射に召集された優都と拓斗のあいだには、団体の準決勝が終わってからあとほとんど会話もなく、お互い相手に声をかけることも視線を送ることもなかった。激励を送り合うような間柄ではないし、どちらが勝ったっていいと思えていたわけでもない。同中競射は、インターハイ出場権をもつ準優勝者が決まるまでは、ひとりずつ順に弓を引き、外した人間から除かれていく射詰の形式で行われる。最後まで射場に残っているのは自分だ、という決意は、あえて伝えるまでもなく自分も相手も持っていることを二人ともとうに知っていた。

「優都って、風間に射詰で勝ったことあったっけ」

 射位に並ぶ優都と拓斗の姿を見ながら千尋が雅哉に問うと、雅哉はすぐに「試合ではないと思う」と答えた。

「そもそも射詰まで行けない時期長かったし。でも、そうじゃなくても、風間はめちゃくちゃ射詰強いよ」

 翠ヶ崎の全員が、隣り合って並ぶ二人の射を固唾を呑んで見守っていた。優都は時間をかけて一射目を引き絞り、会場中のひと呼吸よりもずっと長い時間会を持ってから、その時間との継ぎ目なく矢を放った。的のほとんど中央を射貫いたその射に歓声を送ると、続いて打ち起こしに入っていた拓斗が、淀みない行射でそれに追随した。

 一射目でひとり、三射目でもうひとりが脱落した射詰の四射目、優都の前に引いていた選手の矢が的を大きく逸れて安土に落ちた。決着が近付いて徐々に緊迫感が増す会場の視線を引き集めて、優都は的を見据えていた。他校の選手たちと比べてもやはり長い会を待っているあいだ、応援や歓声が途切れた隙間の張りつめた静寂の中。聞こえるような距離でもないのに、矢が空気を裂く音が耳を揺らすような気がした。優都が右手から放った矢は、的の中心へ向かう軌道をわずかに逸れて、的枠に当たる固い音を立てて落ちていった。

 優都が控えの椅子に戻るまでのあいだに引き分けを完成させていた拓斗は、いつもの彼にしてはすこし長く思える時間呼吸を置いた。椅子に腰かけるまでのあいだ、優都は拓斗の射を振り返らず、いつものように背筋を伸ばして毅然と歩いていた。矢が、的を裂く音がする。音と呼ぶべきものなのかどうかは判然としなくとも、その力強い一射がすべての緊張と硬直を破り去った感覚だけは会場中に伝播していた。優都は瞼を閉じて、その的中と拓斗の準優勝に送られる、短い歓声を聞いていた。

 続く、優都と同時に四射目を外した選手とのあいだで三位を決める競射は、同じ的に二人が順に矢を射込み、中央からの距離で勝敗を決める遠近競射の形で行われ、行射の前に大きく息を吐いたのが見えた優都は、的の端に的中させたもう一人の選手のあとに、文句なしのど真ん中を射ち抜いて三位入賞を確定させた。彼は最後まで、姿勢や態度に感情を乗せることもなく身を振って射場を後にした。


 表彰式のあと、拓斗より一足遅れて控室に戻ってきた優都に、だれひとり「お疲れさま」の声をかけることができなかった。優都はなにひとつ言葉は発さずに自分の荷物のところまで足早に歩き、弓を壁に立てかけて、渡されたばかりの三位入賞の賞状を裏返しにして鞄の上に乗せた。彼はしばらく壁に向き合ってそのまま立ち尽くしたあと、耐えるように背を丸め、しかしそれも長くは保たずに床に崩れ落ちた。嗚咽を堪える、ひきつるような呼吸の音が静かな部屋に響く。

 優都が泣いたところを見たことがあるものなどいなかった。うずくまるあまり大きくはない背中が、不規則に震えて余計に小さく見える。その背中に隠れきれなかった涙は拭おうとした手のひらから、手首を肘まで伝って袴に落ちる。その水滴が紺色に吸い込まれていく一瞬を、ただ、見ている以外なにもなかった。いつ終わるともしれない時間を、なにも言えずにずっと。背中の後ろには他校の姿もあって、決して静寂ではないはずの広い控室の片隅だけが、嗚咽の音にきつく首を絞められるほど静謐に張り詰めていた。

 最初に耐えきれず泣き出したのは潮だった。彼も優都になにかを言うことはなかった。追いかけていた理由や意味がどうであれ、そこにあったのが必然性ではなかったと気付いてしまったとて、潮が優都の努力をひたすらに憧憬していた事実は変わらない。結果を与えられる人間の選ばれ方というものは、時として人の心を折るほどに理不尽で不平等だということを、潮はだれよりも身を以て知っている。だからこそ、彼はそれを知ってもなお、結果に挑み続けた優都の強さに縋って生きていこうとした。結局、自分は努力の美しさだけでは救われないのだという事実を突きつけられたところで、優都の積み重ねてきたものを馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことはできなかった。報われてほしいと心から思っていたから、だれよりも結果を手にしてほしいと真剣に願っていたから、そのことだけはなにがあっても間違いなく事実であったからこそ涙が止まらなかった。報われることのない努力の存在は、痛いほどによくわかっているはずだったのに、それでも優都の涙があまりに苦しかった。このひとが、なにひとつ言えずに泣いているということが。潮も声はあげず、俯いてただ涙だけを零し続けた。

 ムードメイカーの潮が憚らず泣き始めたのを皮切りに、優都とまだ関わりの浅い一年生までもがそこかしこで鼻を啜り出した。ともすれば優都より派手に泣いている潮の肩を抱いて、京も目の端に涙を浮かべ、二人の横では由岐が俯いて唇を噛んでいる。雅哉は黙って優都に歩み寄り、自分が泣いてはいけないと言い聞かせるかのように眉間に皺をきつく寄せながら、うずくまったままの優都の代わりに彼の弓や賞状を片付け始めた。彼は優都に新しいタオルを手渡して、なにも言わずに数回肩を叩いてから、そっと、指で自分の目尻を拭った。

 輪から数歩離れたところでは、拓斗が姿勢を崩した立ち姿でその光景を眺めていた。不機嫌そうな表情をしているわけではないにせよ、考えの読めない無表情が泣きじゃくる他の部員たちに向けられている。彼は優都から雅哉、潮、京と順番に視線を巡らせて行ったあと、自分のいちばん近くに立っていた千尋で目を止めた。千尋も、拓斗に視線をやる。優都と懇意にしていた部員の中で、千尋だけが泣いておらず、泣きそうでもなかった。そのことに違和を覚えたのか、拓斗はしばらく千尋を視界に入れ続けた。

「風間」

 千尋が、唇の動きだけで拓斗を呼ぶ。彼はそのまま、優都が入ってきた方とは反対の扉を指差し、手招きをすると自分はそこから部屋の外に出て行った。示される通り、拓斗も千尋の後をついて部屋を抜け出した。一歩踏み出したところで、部屋の中の空気がどれだけ重たく淀んでいたかということに気が付いた。


「悪いな、風間」

 控室を出て廊下をすこし歩いた先の自販機前で千尋は止まり、振り返って拓斗にそう言った。なんのことを言っているのかは聞くまでもなく、拓斗は近くにあったベンチに勝手に座り、「別に」と答えた。

「なんとも思ってねえっすよ」

「そう? ならいいけど」

 肩を竦めた千尋は、自販機の前で飲み物を眺め、小銭を入れて缶のミルクティーのボタンを押した。重たい音を立てて落ちてきたアルミ缶を拾い上げる前に、千尋は拓斗に向き直り、「奢ってやるよ、なに飲む?」と問うた。

「コーラで」

「はいよ。準優勝おめでとう。満足してないだろうけど」

「どーもっす。まあ、松原さんに勝ち逃げされそうなのは悔しいっすね」

 二度目の落下音で缶を二つ拾い上げ、見慣れた赤い缶を拓斗に手渡すと千尋は拓斗の隣に腰を下ろした。三百五十ミリの缶で乾杯の真似事をして、乾いた喉に飲み物を流し込む。金属の冷たさが唇をひりつかせ、口内でろくに温めずに喉に流した液体の温度にも背筋が痺れる。ひとつ息を吐けば、千尋の隣では拓斗が喉を鳴らしながら一息にコーラを飲み干していた。

「……矢崎さんは、」

 そこまで言って、拓斗は口ごもった。なんだよと苦笑した千尋が先を促せば、いくらかのあいだ彼は眉を潜めて逡巡し、しかしそれもすぐに諦めてもう一度口を開きなおした。

「矢崎さんは、泣かねえんすか」

 婉曲表現を見つけられず、結局ストレートに投げかけられた問いに千尋はまた笑うしかなかった。拓斗がそういう不器用な性格だということはよく知っている。空になったコーラの缶を手持ち無沙汰に弄び、拓斗はそれからなにも言わずに千尋の返答を待った。

「いちばん付き合い長えくせに、薄情だって?」

「そういうわけじゃねえっすけど」

「はは、まあ、なんとなく言いたいことはわかる」

 拓斗は千尋から目を逸らして、飲み干したコーラの缶を右手で握り潰した。控室は、もう落ち着いただろうか。残り少なくなったミルクティーを喉に流し込みながら、千尋はぼんやりと考えた。

「そりゃあ、報われてほしかったよ。死ぬんじゃねえかってくらい頑張ってたし」

 その言葉を聞きながら、拓斗は自販機横のゴミ箱に空き缶を押し込んだ。たしかに、優都ほど強い思いを持ってこの大会に臨んで、どうしても、あらゆる無理を尽くしてもインターハイに行きたい、とまで願っていたわけではないのかもしれない。それでも、勝負の場である以上他人に負けたくはなかったし、いつだって抱いているその気持ちとともに的前に立った、結果がこれであるにすぎない。優都にとって、インターハイというものがどれだけの意味と重みを持っている場所なのか、拓斗が知る由はないし、たとえ知ったとして、自分が彼を打ち負かすことに躊躇う理由がひとつもないのは事実だった。他人がそれを非難する理由だってひとつもない。けれど、彼らは優都のために泣くのだ。それを拓斗が非難する理由も、やはりひとつもなかった。

「でも、報われないかもしれない、なんてあいつはわかっててやってきたことだし。努力の量だとか気持ちだとか、まわりがあいつには報われてほしいと思ってるだとか、そんなのは結局勝ち負けには関係ねえだろ。俺は、おまえが勝ったのは素直にうれしいよ」

「……どうも」

 それは、憧憬や盲信よりも深く相手を知っているがゆえの信頼のかたちで、ここまで五年間ずっと優都の隣に、前でも後ろでもない場所に立ち続けた千尋だからこそ語れる言葉だ。その重みを拓斗がすべて知ることはできなかったものの、たしかに、いまその片鱗が彼の言葉に見えていることにだけは触れられる。

「まあ、潮とか泣いてんのもわかんねえでもねえし、あいつらはだからっておまえのこと認めらんねえようなバカでもないし、いまは許してやってよってのもあるけど」

「大丈夫です。人望で勝てねえのは知ってます」

「開き直んな」

 喉を鳴らして笑った千尋も、ミルクティーを飲み干して缶を捨てた。かしゃん、と軽い音がして、赤いゴミ箱の中にアルミ缶が落ちていく。その余韻が消え切ったタイミングで千尋は拓斗を振り返り、「まあ、」と言葉を続けた。

「不器用にしか生きらんねえやつが多かったな、と思うわ。この部は」

 そう言った千尋は、拓斗の返事や反応を待つまえに、「そろそろ戻るか」と彼に声をかけた。


「ああ、おかえり。――ごめん、気遣わせて」

「まあ仕方ねえだろ。気い済んだ?」

「うん、もう大丈夫。ありがとう」

 控室に戻った二人に最初に声をかけたのは優都で、彼はすこし赤い目を細めて笑ってみせると、そのまま千尋と拓斗の方に歩いてきた。彼は拓斗の前に立ち、背の高い後輩の目をまっすぐ見据えると、彼の前に右手を差し出して表情を緩めた。

「おめでとう」

 優都が口にしたのはそれだけだった。この先の大会への激励も、拓斗が自分に勝ったことへの感想も、主将としての労いも、なにひとつそこには含まれない。だからこそ、それが立場も強がりもすべてを払いのけた優都本人の思いであって、その言葉以上でも以下でもない本心が詰められていると、だれに言われるでもなくわかってしまう。拓斗は、優都が差し出した右手を握り返し、「ありがとうございます」と一言口にして、頭を下げた。

「森田さんも、お疲れさまでした」

「うん、ありがとう」

 拓斗の言葉に肩を竦めて柔らかく笑った優都は、普段千尋や潮たちに見せるのと同じ表情をしていた。拓斗と相対するとき、いつも厳しい表情を浮かべていた優都の内心は、拓斗には読めない。けれど、あえてそれを理解する必要もいまは感じなかった。

「風間、おめでと! やっぱおまえすげえなあ、俺も鼻が高いぜ」

「なんでおまえが調子乗んだよ」

「いいじゃん、同じ部活の同期がインハイってそりゃテンション上がるっつの、応援団結成しねえとなこりゃ」

「うるせえ」

 潮が飛びついたのを皮切りに、一、二年生が拓斗を囲む輪が作られて、中心で拓斗に絡む潮とそれに便乗する京の言葉でそこは一気に盛り上がり始めた。それを眺めながらふうと息を吐いた優都の視線が、千尋とぶつかり、二人は同時に苦笑した。

「終わっちゃったよ」

「都で三位だぜ、十分立派だろ」

「我ながら頑張ったとは思うんだけどな」

「それは違いねえわ。お疲れ」

「うん、ありがとう」

 歩いてきた雅哉からの労いにも優都は笑って礼を言い、「楽しかったよ」と言ってのけた。

「でも、こうなったからには、まだ辞められないな。古賀、インカレで会おうね」

「さすがだなおまえは」

「僕、それしか取り柄ないからね」

 屈託なく笑いながら、大学入るには受験勉強しなきゃ、と言った優都の声が、まだわずかに震えていることに、千尋は気付かないふりをして、「夏休みは勉強漬けだな」と肩を竦めてみせた。

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