3-3

 四日目には、ほとんど丸一日を使っての百射会が企画されていた。名の通り一日で百本の矢を射る会は、やることは単純そうでいて、蒸し暑い夏の気候の中では最後まで集中を保ち続けるのは簡単なことではない。初めての経験であるとはいえ、そのことはまだ四分の一も引き終わらない頃から由岐にも察せ始めていた。毎年どこかのタイミングでは行なっていたという話は潮や京から聞いていたものの、中学時代から何度か経験しているはずの彼らですら今日は時間が経つにつれ口数が顕著に減っていっていた。

 後半からかなり射型が崩れてしまい、中る中らないどころかまともに弓を引くことすらぎりぎりの状態に陥りつつも、優都や雅哉に立ち代わりアドバイスをもらったり檄を飛ばされたりしながら、由岐を含む全員が百射を引ききったときには、だれもかれもが疲労困憊だった。潮ですら無駄口を叩く余裕もないようで、片付けのときも指示を飛ばす優都の声以外にはほとんど言葉を発するものもいない状態になっていた。

 百射会の結果自体は順当で、昨日の休息である程度持ち直したらしい拓斗が一位、次点に優都、その次に雅哉という普段とほぼ変わらない順番だった。絶好調ではないはずなのに九割に迫る勢いの圧倒的な的中率を誇った拓斗は、百射を引き終えたあとも比較的平然とした顔をしていた。その脇では、最後まで相変わらず綺麗な射型を保ち続けた優都が、すこし息を切らして苦笑し、隣にいた千尋に、「去年のほうが断然中ってたな」と呟いていた。

「由岐、大丈夫? お疲れさま」

 床に座り込んで水を飲んでいた由岐に優都が近付いてくる。お疲れさまです、と返しながら慌てて立ち上がろうとすると、優都は笑いながら「座ってていいよ」とそれを制し、自分が由岐の隣に腰を下ろした。

「最後まで引き切るの大変だっただろ。よく頑張ったな」

「ありがとうございます。でも、最後の方全然ダメで、先輩たちに迷惑かけちゃって……」

「そうかな。やっぱり由岐は体力あるし運動神経もいいんだなって思いながら見てたよ。最後までちゃんと射型意識して引けてたし」

「でも、先輩たちとか風間とか、ほんとに最後の最後までちゃんと綺麗に引いてそれで中ってて、すごいなって思いました」

「ありがとう。でも、僕もね、中学一年ではじめて百射会やったときは最後のほうほんとうにしんどくって、もともと運動するほうでもないから体力もなかったし、終わったあと頭痛くて動けなくなっちゃって、当時の主将に相当迷惑かけてさ。その頃の自分のことを思い出すと、やっぱり由岐は優秀だなと思う」

 由岐の隣でそう言った優都は、その直後雅哉に呼ばれて立ち上がり、無理しなくていいからちゃんと休めよ、と言い残して雅哉の方に歩いていった。だれもが隠しきれない疲労を浮かべている中で、部内ではいちばん小柄な優都がだれよりもそれを表に出さないまままっすぐ背筋を伸ばして歩き、はっきりと言葉を発して思考を回していた。

「優都先輩ってタフだな」

 由岐がそう呟くと、それを聞き留めた京が背を壁に預けながら、「昔からそうだよ」と言って、耐えきれないように大欠伸を噛み殺した。


 夜のミーティングで、当日の結果を見ながら反省点を言い合う時間も、その日はいつになく静かだった。いつもなら積極的に指摘に加わっていく雅哉や、質問をあげていく潮も疲れが色濃いようで、最低限の役割はこなしつつも口数はめっきり減っている。由岐自身はとにかく話についていくので精一杯だったし、拓斗と千尋はこういう場であまり多く口を開くタイプではない。京も発言をする努力はしているようだったけれど、ときおり船を漕ぎかけてはっと頭を振る仕草を見せていた。

「――明日は、朝食前は自主練にしようか。ミーティングもここまでにするから、その代わり、明日の朝食までに、今日の百射会の自分の反省点と明日以降意識するべきことを、なにか紙にまとめて僕のところまで持ってきて」

 見かねた優都がそう通達すると、真っ先に雅哉が「悪い」と溜息をついた。

「俺も全然集中できてなかったな……すまん森田」

「みんなそんな感じだよ。おまえが潰れると僕ものすごく困るから、古賀も早く寝て」

「そうするわ……俺は明日朝練行くから一緒に起こして」

 だれもかれもくたくたの状況のなかで、優都だけはいつも通り背筋を伸ばして座っていて、明日の予定を確認させたり、最低限の連絡事項を伝えたりという事務事項をてきぱきと片付けて解散を言い渡した。

「あー……さすがにきっつい、百射会はメンタルに来るわ……ゆっきー生きてる?」

 部屋に帰るなり布団に倒れこんだ潮に話を振られ、由岐は「なんとか……」と返すのが精一杯だった。拓斗はすでにいつも通り奥の布団に潜り込んでいたし、京も「反省だけ書く」と言いつつ筆記用具を探しにふらふらと自分の鞄を漁りに行っていた。

「今日、珍しく古賀先輩までへとへとだったな」と、欠伸をしながら京が言った。

「この合宿先輩たちでほぼ回してるみたいなものだし、先輩たちほんと大変だろうなって思う。俺今日かなり手かけちゃったし……」

「いや、ゆっきー百射会初めてなんだからしんどいのはしゃーねえし、俺らも手伝えればよかったんだけど自分が引くので精一杯だったわ……まじで先輩らには頭あがんねえよな」

 潮は、俺は朝練行く、と宣言して起き上がり、京にルーズリーフを所望した。それに追随しながら由岐も机に置きっぱなしだったシャープペンシルを手に取る。反省を書き並べ出した数分後、京が「無理だ一ミリも頭回んねえ、朝にする」とペンを投げ出して布団に向かった。京の横の布団では拓斗がすでに寝息を立てて完全に寝入っている。拓斗は、電気がついていようが周りがうるさかろうが眠たいときは眠れるし、一度寝てしまえばちょっとやそっとのことではそう簡単に目を覚まさない。朝練を諦めて朝食の直前まで寝れれば、反省を書く時間を差し引いても、いまからなら必要な分だけは十分眠れるはずだ。

「ゆっきー書けた?」と、由岐の手元を見ながら潮が問う。

 潮とお互いの反省を確認しあい、彼からいくらかアドバイスをもらって潮と由岐が布団に入ったときには、京ももう完全に眠りについていた。携帯のアラームをセットする潮は、由岐のほうを振り返って、「朝練行く?」と問うてきた。

「行くつもり」

「おっけー、俺が寝ぼけてたら全力出して起こして」

「わかった、かかと落としとかでいい?」

「あ、やべ、そういやゆっきーかくとうタイプだったわ……」

 潮が電気のスイッチを切る前には、もう由岐もほとんどうとうとしていて、そのあと、潮に「おやすみ」と言ったか言われたかも記憶がない。気づいたときにはもう潮の携帯のけたたましいアラームの音に叩き起こされていた。


「えっ、待ってまじで無理。暑すぎねえ?」

「めちゃくちゃいい天気だな……」

 五日目の朝、結局朝起きるのを諦めた京と拓斗を置いて由岐と潮は朝練に出かけたものの、朝六時、しかも山の上だというのに昨日までとは比較にならないほどの熱気が屋外には立ち込めていた。宿舎を出た途端に顔を歪ませた潮の反応はさほど大袈裟だとも思えない。道場まで移動するあいだですら、雲に遮られない日照りと、蒸すような夏の湿度が、まだほとんど動いてもいないというのに背中や首筋から汗を押し出していく。合宿が始まってからの四日間はさほど天候に恵まれなかったのがむしろ幸いしてか、ここまでの暑さを感じることもなかった。道中で優都と雅哉に合流したとき、優都も日光の眩しさに目を細めるような仕草をしていて、隣を歩く雅哉と目を合わせて苦笑しているところが目に入った。

 一時間ほどの朝練を終えて部屋に戻ると、京は準備を終えて昨日の反省の続きを書いているところだったけれど、拓斗はまだ布団に潜り込んで動こうともしていなかった。「まじで死ぬほど暑い」と京に報告をした潮が、着替えのTシャツに手をかけながら、拓斗を見やって、「あいつまじでよく寝るよな」と呟いた。

「そんな暑いの、今日」と京が眉をひそめて問う。

「なんかこう、快晴! 夏! って感じ」

「まじか……たしかにすごいいい天気っぽいけど」

 そう言って窓に歩み寄った京は、大判のカーテンを開け放ち、快晴の空の眩しさに何度か目を瞬かせた。途端に明るくなった室内すらもものともせず眠り続ける拓斗の背中を、無言で立ち上がった潮が足裏で蹴りつけて、拓斗はようやく身じろぎをして目を覚ました。

 午前の練習が始まったあとも暑さは増す一方で、矢取のために的場までの二十八メートルを一度早足で往復するだけで汗が滴り落ちてくる。暑さで気が緩みかけるところを優都や雅哉に叱咤されながらなんとか集中力を繋ぎ止めている中で、今日は天気がいいせいもあってか拓斗が絶好調だった。暑さなど意に介さないかのように表情ひとつ変えず、的の中心に次々と矢を送り込む姿がいっそ清々しく、練習の合間一息ついたときには、どうしても彼の行射に視線がいった。

 拓斗が引く弓は、それ自体が静謐であるというよりは、見るものの呼吸を奪うような力感が備わっている。足踏みから始まって会を持つに至るまで、彼の周りにはいつも他者を踏み入れさせない緊張感があった。それが、弦を弾くと同時に一息に放たれ霧散する潔さは、あらゆる解釈や思惟を必要とせず、ただ心地よい。拓斗の放つ矢は、文字通り空気を裂くようにして的まで重たい音を携えて届く。由岐が高校から弓道部に入部して、初めて彼の引く弓を見たとき、ひどくわかりやすい美しさだと思った。力と癒着した美しさは、ときとしてどんな精密さにも正しさにも手がつけられないほど圧倒的だ。拓斗はそれなりに背は高いがさほど体格のいい選手ではない。けれど、彼は部のだれよりも強い弓を引いていた。単純な力だけでは成り立たない、その強さと質量を従えた拓斗の弓は、恐ろしいまでの的中率を誇って、ほとんどぶれることなく的の中心を射貫いていた。

 的中表の「風間」と書かれた欄に見事なまでに二重丸が並ぶのを眺めながら、ふと、ホワイトボードの一番端に書かれた優都の名前の欄に今日はバツ印が多いのが目についた。隣の雅哉の欄と比べてもその差は目立っていて、的前にいるのが視界に入ったとき、優都の矢は的のわずかに上を掠って安土に突き刺さっていた。どこか晴れない表情をしながら射位を離れた優都は、後ろで彼の射を見ていたらしい雅哉と短い会話を交わしてから、すこしだけ困ったように眉をひそめたが、そのすぐ後にはまた主将の表情に戻って場内を見まわしている。

 その後も暑さの中続く射込練習のあいだ、優都は雅哉とともに下級生に声をかけたり、アドバイスをしたりしながら練習を仕切ってはいたものの、やはり本人自身があまり調子はよくないようで、中らないだけでなく、由岐が見てもわかるくらいに矢勢にいつもの張りがなかった。その隣では相変わらず、周囲を一切眼中に入れない態度で拓斗が的を射抜いていた。由岐がまだ的前に立てていなかった頃、いまと同じように引く弓引く弓を中て続けていた拓斗を見ていた由岐に潮が言った、「あれが普通だと思ったらだめだぜ」という言葉を思い出す。

「大会でも、四本を二回引いて皆中とかだって何人かしかいねえし、そんなの毎回できる人間めちゃめちゃ化け物レベルだからな」

 潮が言ったその言葉の意味は、いまならばあのときよりはよくわかる。射位を離れてホワイトボードに二重丸を二つ書いた拓斗は、これで十六射を連続で中てていた。

 由岐が矢取から帰ってきた直後、矢立に矢を戻していると、射場からばちん、と響く音が聞こえた。思わず振り向くと正面の射位に立つ優都に周りの視線が集まっていて、目を凝らせば彼の引いていた弓の弦が切れてしまって足元に落ちているのが見える。優都は特に焦った素振りもなく、作法に則った仕草ですぐにそれを回収して、隣で引いていた京に軽く頭を下げて射位を退いた。

「由岐、矢取お疲れ。弦があがっちゃってさ」

「大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫」

 由岐と目が合って小さく肩を竦めた優都は、弦を張り直しにすこしのあいだ練習を離れた。由岐も自分の弓を手に取って射場に戻ると、隣にやってきた雅哉がちらりと優都のほうを窺いながら、「調子悪いときに弦あがると気分落ちるんだよな」と呟いた。由岐が「そうなんですね」と返したところで、斜め前で弓を引く拓斗が、また文句の付けどころのないほどの的中を出した。雅哉に「いい射だな」と声をかけられ軽く頭を下げた拓斗は、弦を張り替える優都のほうを一瞬だけ見やってからすぐに視線を逸らして練習に戻っていった。

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