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 優都を中心に回っていた翠ヶ崎の弓道部に、風間拓斗たくとという男が入ってきたのは、優都たちが二年になり、潮や京が高等部に上がってきた年だった。潮たちの同期として高等部から入学してきた彼が仮入部の初日に、潮や京よりも先に道場の入り口に姿を見せたとき、その場にいた優都と雅哉は同時に顔を見合わせて、千尋だけが「新入生?」と気の抜けた対応を返した。

「そうです。中学んとき、弓道やってました」

 彼は多少ぶっきらぼうな印象を与える口調でそう言って軽く頭を下げた。背は千尋と同じくらいだが、細身で手足が長く、よく見ればかなり整ってはいるが取り立てて派手ではない顔をした男だ。見たことがあるような気にもないような気にもさせるその顔を千尋がぼんやり見ている横で、優都が、「三鷹西中の風間だよね?」と彼に声をかけた。

「驚いたな、翠ヶ崎を受けてたのか」

「そうです。ええと――」

「ああ、僕は主将の森田と言います。一方的に知っていて申し訳ないな」

「いえ。すみません、ひとの顔と名前覚えんの苦手で」

「無理もないよ。学年だって違うし」

 「だれ?」とこっそり雅哉に問うた千尋に、雅哉は眼を丸くして「知らないのか?」と聞き返した。

「風間拓斗。有名人だよ。大して強くもない公立の中学から、個人で二年連続全中行った」

 そう言われてみれば大会会場で顔を見たり名前を聞いたりした覚えがあるような気もしてはきたものの、千尋自身あまり他人の顔や名前に興味がないのもあり、気のせいの域を超える自信はなかった。「なんでそんなのうちに来たの」と千尋が問えば、雅哉は肩を竦めて「俺も知りたい」と答えた。

「どうして翠ヶ崎に? 引く手数多だっただろ」

「もともと、弓道のためだけに進学する気はあんまりなくて、普通に受けて通ったとこに弓道部あったら入ろうかな、くらいの気分だったんで」

「……三年で全中まで行っておいて、高等部の一般入試に受かるのはすごいな」

 中高一貫の進学校において、中等部で入るよりも高等部で入るほうが難しいというのは定説であり、翠ヶ崎もその例には漏れない。優都の賞賛の言葉には、拓斗と同じく高等部から入学してきた雅哉が深く頷いた。拓斗はそれを肯定も否定もしないままに生返事をして、道場をぐるりと見まわした。

「もうすこししたら、内部進学で上がってきた同期も来るだろうし、よかったら一緒に練習しないか」

「いいですか、お願いします」

「こちらこそ、来てくれてうれしいよ」

 拓斗が優都に軽く頭を下げ、優都がいつものように首を傾げて微笑んだタイミングと、道場のドアが開いて潮と京が入ってきたのはほぼ同時だった。同期の二人のほうが拓斗のことはよく知っているようで、潮と京も優都や雅哉と同じような驚きを見せたあと、矢継ぎ早に質問を繰り返して優都に窘められていた。

 その後、数日の仮入部期間から練習に加わった拓斗は、受験のブランクをものともしないほどの強烈な腕前をもってして、いとも簡単そうに次々と的を矢で射貫いていた。弓を持つのすら数か月ぶりとは思えない的中率にはだれもが文句のつけようもなく、中学時代に二年連続で全国大会に選抜されていた実力は予想していたものよりもずっと圧倒的だった。

 高等部の弓道部には、最終的に、潮と京の他に、拓斗と、未経験者として入ってきた由岐という高等部からの新入生が加わった。「五人立も、三人立を二つも作れるようになったな」と喜んだ優都は、新体制が始動してからは昨年ほどの調子の良さは鳴りを潜めてしまっていた。再びしっかり後輩を指導しなければならない立場になった重圧や、自分より実績のいい後輩が入ってきたことへの焦りや、学年が上がることで負担を増してきた学業のことを理由に挙げることは簡単だったけれど、優都はそういうものを言い訳にすることをだれよりも自分に許さない性格だ。後輩たち、特に潮は相も変わらず優都のことを手放しで慕っていたし、優都はそれに値するであろうと、自分の調子が良くても悪くても常に背筋を伸ばして毅然と後輩たちの前に立っていた。


 拓斗はかなり寡黙な男で、雑談や世間話、それから弓道の話にはある程度口を開くものの、あまり自分の考えていることを積極的に表に出すことはなかった。優都や雅哉の言うことにもそれなりに耳を傾けはするが、納得がいかなければ表立って反論はしないまま言うことを聞かないことが常で、だというのに、弓の腕は圧倒的であるがゆえに、それを真っ当に批判することも許さない。優都が努力の量で自分の足場を保っているタイプの秀才なら、拓斗の実力を支えているのは才能と呼ばれる類のものだ。朝が苦手だと公言した彼は、大会前以外に朝練に顔を出すことも少なかったし、練習自体は真面目にしていても、そこに優都ほどの執着を見せることもなかった。拓斗が優都の、部と弓道へ向ける莫大な量の努力と献身を、言葉にはしなくとも、どこか冷ややかな目線で見ていることは、優都も気付いていたし千尋たちも同じように感じ取っていた。

 入部して数か月、七月の都総体で、拓斗は優都どころか都内の大半の有力選手を押しのけて個人戦で三位に入り、夏の終わりにあった都個人ではあっさりと優勝を決めてしまった。もともと有名だった風間拓斗の名前は、翠ヶ崎高校の名前を引き連れてまたたく間に都内に広がった。それに対して、年度の初めから思うように弓が引けない状況に苦しめられていた優都は、夏合宿が終わる頃には本格的なスランプに陥ってしまっていた。翠ヶ崎高校とセットで語られる名前が、自分ではなく拓斗のものになっていくたびに、拓斗の輝かしい成績とはうらはらに優都の弓は精彩を欠いていった。

「二年連続で、翠ヶ崎の一年が優勝ってのもすごい話だろ」

 都個人が終わったあとそう口にした雅哉に、優都は返事をしなかった。予選からあまり調子がよくはなく、ぎりぎりの成績で決勝へ進んだ優都は、そこでも思うような行射をすることができず、これもまたぎりぎりで上位大会への出場権を得ることが精いっぱいだった。本来であればそれだけで十分立派な成績ではあっても、この大会の前年度の優勝者としては決して納得のいく順位ではないであろうことも事実だ。なにもかもが思い通りにいかない現状に珍しく苛立っている様子の優都に、その日優勝を勝ち取った拓斗が視線を送ることはなかった。彼にとってはこの順位は予想しうる当然の結果で、快挙でも奇跡でもない。それだけのものをこの男は最初から手の内に持っていた。

「調子悪いときくらいだれだってありますって。優都先輩なら絶対大丈夫っすよ」

「……うん、ありがとう。情けないところ見せてばかりいられないな」

 潮のかけた言葉にそのときは微笑んで返した優都は、潮が彼から眼を逸らしたときにはまた表情を消して、どこかをぼんやりと眺めていた。

「優都先輩ほど、ずっと努力し続けられるひと俺見たことないし、結果だけじゃなくってほんとに尊敬してるんで。優都先輩のやってることは絶対間違ってないって思ってるし、情けないとか言わないでください」

「うーやん相変わらず優都先輩のことになると熱入るよな。優都先輩、身の危険感じたらまじで言ってくださいね」

「おい、ひとのこと変質者みたいに言うのやめて」

 優都の横で力説した潮に京が茶々を入れるのは中等部時代からの恒例で、その姿を見て優都はようやく気が抜けたようにすこし笑って、もう一度「ありがとう」と言った。

「僕は大丈夫だよ。新人戦までに調子戻せるように頑張るから」

「俺も、次こそ入賞するんで見ててください」

「そうだな、期待してる」

 その掛け合いを一歩後ろから拓斗がなにも言わず見ていることに、優都は気付いているようでいて決してそちらには視線を送らなかった。拓斗はしばらく優都たちを眺めていたけれど、そのうち、雅哉と由岐の会話のほうに呼ばれそちらに入っていった。

「やっぱり、風間ってすごいんだな」と由岐が拓斗に声をかけたのが聞こえる。

 高校から弓道を始めたばかりの由岐の純粋な賞賛に、拓斗は「年季の差だろ」とだけ返して、その結果を謙遜も誇示もしなかった。

 後輩たちには見えないところで小さく息をついた優都の頭を千尋が軽く小突くと、優都は「なんだよ」と不服そうな顔をしつつも、千尋とも眼を合わせようとはせず、すこし俯くようにして歩道と車道の間に引かれた白線の上に視線を落としていた。

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