第二章

2-1

 「おまえの体内時計はほんとうに六十進法か?」と呆れたように千尋が肩を竦めたとき、優都は何度か瞬きを繰り返したのち、心底驚いたと言いたげな表情で、「千尋、比喩とか言えたんだ」と言ってのけた。

「感性の欠片もないやつだと思ってたけど、やっぱり文系なんだな」

「うるせえ。なんならだいぶ字義通りの疑問だよ」

 期末考査一週間前で部活がオフとなった土曜日の午後、一時を回ったころから千尋と机を並べてテスト勉強に励んでいた優都は、日が傾きだした午後五時前になってもなお、始めたばかりのころとほぼ変わらない姿勢を保って黙々と教科書や参考書に向かい続けていた。少なくとも千尋が見ていた限りでは、席を立つことはおろか何度か水を飲む以外には休憩といった休憩すらとっていない。大きな違いといえば、数学が、日本史を経て古典に変わったくらいだ。「そこ、訳が違うぞ」と、優都がいま書いたところの二つ前の文章を指さして千尋がいくつか解説を加えると、優都はすぐ納得したように頷き、赤のボールペンを手に取った。

「よく三時間も四時間も集中し続けられるよな、おまえは」

「――ああ、もうこんな時間? 意外と経ってるね」

「そういうとこだよ」

 疲れねえの、との千尋の問いに、「さすがにちょっと疲れたかな」と言って、優都は訳を直し終えた古典のノートの上にペンを置いた。森田優都は、出会ったときからすでにそういう男だった。窓際の半分だけ電気を点けた教室は、光の入らない廊下側が陰っていて、浅い角度で入り込む西日がそれを余計に際立たせていた。千尋が、鞄から取り出したキャラメルを自分の口に放り込むと、「僕にも」と優都が手を伸ばす。

「千尋は数学の課題終わったの?」

「まあ、八割くらい。あ、一個だけ教えて」

 千尋がノートを捲ってさきほど飛ばした問題を探しているあいだ、優都はすこし融けてべたついたキャラメルの包み紙を?がすのに苦戦していた。「ここなんだけど」と千尋がノートと参考書を差し出すと、優都はキャラメルを一旦机の隅に置き、千尋の書いた文字と参考書の記述を交互に眺める。煩雑な場合の数の計算を、ときおり机の上で指を動かしながら暗算だけで追って行き、最終的に「場合分けがおかしいのかな」と呟く彼は、頭の回転が速い反面、なにかひとつのことに集中するとそれ以外のことをすべて意識の外に追いやってしまう癖がある。そのあいだ、優都と自分との時間の流れ方はたしかに違うのだろうということを千尋は何年も前から感じていた。

「この場合分けだと、この二つに重複があるから――」

「あー、なるほどな、それで増えてんのか。サンキュー」

「うん。そこだけ調節すれば合うはず」

 優都の解説に従って計算をし直している千尋の向かいで、優都は再びキャラメルの包み紙と格闘を始め、千尋が答えを書き直し、ノートを閉じて顔を上げるまでにはどうやら成功したようだった。その様子を見て、千尋はとっくに空になっていた自分の口に二つ目を放り込み、開いた鞄にノートと筆箱を詰め込んで、「俺はそろそろ帰るけど」と優都に声をかけた。

「うん。僕はきりのいいところまでやっていくよ。じゃあね」

「ん。頑張れ」

 キャラメルを頬張りながら軽く手を振った優都に背を向け、これから暗くなるであろう教室のために残りの電気をすべて点けてから千尋は教室を後にした。階段に向かうとき、一度横目で教室の中を覗くと、優都はやはり寸刻前と同じ姿勢で机に向かっていた。


**


「はじめまして、森田優都です。翠ヶ崎には中学からで、先月までは、京都府に住んでいました。東京のこととか、まだあんまり慣れてないので、いろいろ教えてください。よろしくお願いします」

 中等部の入学式の朝、森田優都は矢崎千尋のひとつ前の席で、かなり大きめに仕立てられたブレザーの裾を払って立ち上がり、浅く頭を下げてから、はにかみつつ無難な自己紹介をした。まだ十三にもならない時分ですでに百七十センチに到達していた千尋とは対照的に、優都は百五十センチあるかないかとかなり小柄な少年で、手の甲を覆い隠しかねないほどの制服の袖を持て余していた。

 関西の出身と言うだけあってたしかに、彼は千尋の聞き慣れたものからはすこし揺れたイントネーションにゆっくりと言葉を乗せていた。一言ひとことを噛みしめるように時間をたっぷり使った優都は、三十回以上も繰り返されてなおざりになった拍手を受け、わずかに安堵のような表情を浮かべて席につく。つい数ヶ月前まで過酷な受験戦争に身を置いていた印象も与えない穏やかな話し方をするものの、面持ちはどことなく緊張気味だ。この中学に外部から入学するのは、たしか相当に難しかったはずだろう。

「矢崎です。初等部からここなんで、知ってるひとも知らねえひともよろしくっす」

 回って来た自分の番は適当に受け流し、さらに適当になって来た拍手もろくに聞かず早々に席に着く。最前列の優都はわざわざ体ごと振り返って真剣な表情で他人の自己紹介を聞いていた。千尋が席につき終わったときには優都の視線はすでに千尋の後ろの席に向いていて、目が合うことはなかったけれど、このまま前を向いていたら残りの時間ずっとこの視線と向き合い続けるのかと思い千尋も心もち後ろに体を回した。二人の後ろの席の女子は、自己紹介など聞くまでもなく千尋の去年のクラスメイトだった。


「ええと、矢崎、だよね? よろしく」

 自己紹介が終わったあと、入学式が始まるまでにはいくらかの待ち時間があり、あちらこちらでぽつぽつと雑談が生まれてくる。列の一番前に座っていた優都は、振り返って千尋に声をかけてきた。中等部からの入学組で、出身が東京ですらない優都は、クラスに気軽に話しかけられる友人など当然ひとりもいなかったのだろう。

「おう。森田――優都、か。珍しい字してんな」

 朝、プリントとして配られたクラス名簿の出席番号三十二番に、優都の名前はあった。ユート、の音を聞いて、ぱっと思いつく漢字ではなかったことに目が留まる。「よく言われる」と肩を竦めて、優都も千尋の手元の紙を覗き込んだ。ざらつく薄茶色の藁半紙の上、一年C組三十三番、あえて口にしなかった下の名前を目に入れると、優都はその名を持つ百七十センチの少年の顔に向き直った。いままでずっと言われ続けてきたコメントを予想して、千尋は聞こえないように溜息を吐く。

「千尋って顔じゃねえだろ? よく言われる」

「そう? 似合っとると思うけどなあ」

 拍子抜けしたように、繕わない調子で発された言葉は、今度はテレビの中でしか聞き覚えのない響きを持っていた。優都は千尋が一瞬面食らったような表情をしたのに気付いたのか、目を伏せて気恥ずかしそうに身を縮めた。

「まじで? それもそれでなんか微妙だな」

「え、ごめん。褒め言葉のつもり、だったんだけど……」

 言葉が違うことを気にしているのだろうか、ひとことずつ確かめるように咀嚼して送り出される音たちは、千尋の言葉に比べてペースはかなり緩慢だ。優都の言葉を聞いている時間は、複雑に絡まったコードを指でほぐすときのそれとよく似ていた。苛立ちを覚えるほどではないにせよ、その内容に比して、たしかに長い。

「だって、かっこいいだろ。千尋って名前」

「……おまえ、なんかずれてんな」

 そう言ってのけた優都が、至極真面目な顔をしていたことに千尋は思わず笑った。思い思いの、それでもいくぶん緊張混じりの雑談と、余所行きの笑顔が飛び交う教室のいちばん廊下側の列、いちばん前の席で、優都は千尋の揶揄に対してすこし不服そうに眉をひそめた。

「悪いって、褒め言葉だよ」

「褒めてへんやろ」

「面白いやつだな、って思った」

「……それは?」 

「これはまじで褒め言葉」

「ほんまに?」

「ほんまに」

 戯れに千尋が口調を真似たとき、優都は一瞬微妙な表情を見せたけれど、それが嘲笑の意図を持っていないことを察すると、どこか気が抜けたようにすこし首を傾げて笑みを浮かべた。人も、環境も、言葉も馴染みのないところにひとりで入り込んでいく気苦労は、千尋には共感することはできなくとも、なんとなく想像することくらいはできる。

 式のために講堂に移動することを伝えられ、教室を出ようと立ち上がると、小柄な優都は千尋を見上げて「やっぱり、背え高いなあ」と呟いた。感嘆混じりのその言葉に「百七十くらいはある」と返せば彼は目を丸くして、それからくしゃりと笑い、「すごいね」と言いづらそうに音を発した。

「無理して言葉直すことないだろ。伝わんないわけじゃねえし」

「……話しにくかったりしいひん?」

「いまんとこ別に」

 特に気を遣ったわけでもない素直な感想を述べると、優都はほっとしたような表情で「よかった」と笑った。このほんの数分の会話だけでも、優都があまり器用ではないものの真面目な性格であることは窺える。担任の「廊下は静かに歩けよ」の声に慌てて前を向いた優都は、おそらく千尋より二十センチ近く背が低く、優都の一つ前に並んでいた、もう名前も顔も覚えていない女子生徒のほうが、わずかに頭の位置が高かった。


 優都は千尋の予想通り相当に真面目な男で、入学式の翌日から、千尋が登校するときにはとっくに席についており、真新しい教科書や参考書を開いてその日の授業の予習に勤しんでいた。後ろの席に千尋が来たことには気付かないまま数学の教科書とにらめっこをする優都に「おはよう」と声をかけると、彼はすこし驚いたように手を止めて、千尋の顔を視界に入れ、表情を緩めて「おはよう」と言葉を返した。千尋も始業よりはかなり余裕を持って登校していたのもあり、そのとき教室にいたのは優都と千尋だけだった。「早いな」と声をかけると、「朝型やから」と優都は苦笑した。

「千尋も、十分早いやろ」

「俺は満員電車が嫌いだから。早いほうがちょっとはましだし」

「東京、ほんまに朝の電車すごいな。話には聞いとったけど、びっくりした」

「だろ。ピークで乗ったら死ぬ」

 優都が自然と自分のことを下の名前で呼ぶことに気付いたけれど、まあいいか、と意外なほど自然に思っていた。あまり気に入ってもいない中性的な名前を、千尋は自分から他人に呼ばせることをほとんどしてきていなかったが、優都の声で発されるその響きには思ったほど違和感は覚えなかった。

 登校してくる人数が徐々に増えてくる時間帯になると、優都は机の上を片付けて千尋の席のほうに向き直って座った。初等部からの千尋の友人たちが、かわるがわる千尋の周りに寄ってきたついでに優都に声をかけ、自己紹介と当り障りのない会話をしながら優都の関西弁をからかって、優都はすこし恥ずかしそうに笑っていた。

 驚くことに、優都はいちばん最初の自己紹介だけでクラスメイトの顔と名前をほとんど正確に覚えていたようで、人見知りをするタイプでもない彼は自然にクラスの輪の中には溶け込んでいた。けれど、そもそも喋るのが遅いということもあってか、会話の中心にいるというよりは他人の話を笑いながら聞いていることのほうが多い。優都は、だれのどんなくだらない話にもしっかり耳を傾けていて、それに向けた返答のひとつひとつがきちんと考えられた意味を持っていた。会話の八割はほとんどなにも考えず適当に片付けていた千尋にとって、それほどまでに他人に真摯に向き合う優都の姿はちょっとした衝撃ですらあった。


「おまえさ、部活決めてる?」

 入学式の翌日にあった部活紹介のあと、千尋がなんの気なしに声をかけると、優都は首を傾げて「全然」と答えた。

「小学校のときとか、なんかしてなかったの」

「学校のクラブではバレーしとったけど、部活になるとついてける自信ないなあ」

「あー、俺も。ミニバスしてたんだけど、バスケ部は無理だわ」

 初等部からの持ち上がりの生徒は、初等部時代のクラブと似たようなものを選ぶ割合が高いなか、新しい所属先を考えるのはなかなかに面倒なことではあった。いっそ帰宅部でもいいか、と早々に思考を放棄した千尋の横で、優都は「新しいことしてみたいな」と呟いて、悩まし気に部活一覧のプリントを眺めていた。

 「なんかよさげなのあったら誘って」という千尋の丸投げに、「わかった」と頷いた優都が弓道部という存在感の薄い部活を見つけ出してきたのは、仮入部期間の三日目だった。だれの話題にものぼっていないその部活の名前は、初等部から翠ヶ崎にいる千尋にすら耳馴染みのないもので、優都がそれに言及したとき、千尋は思わず「うちにそんな部活あったんだ」と呟いた。

「有名な部ではないん?」

「俺は聞いたことねえよ。活躍してるとこじゃないと思う」

「ふうん――朝、そこの先輩に声かけられて、弓引いたはるとこ見せてもらってんか。綺麗やなあと思って」

「結構部員いた?」

「朝は自主練って言うたはったし、今日はそのひとしかおらんかったな。詳しいことはなんもわからんけど、あのひとはたぶん上手なんやと思う」

 目を輝かせて朝の出来事を語る優都は、いつもよりもこころなしか饒舌で、その分もともとの言葉遣いが色濃く現れた話し方をしていた。ここのところ、優都がクラスメイトや先生の前では意図的にこちらの言葉を話そうとしているのを、千尋は何度も耳にしていた。ただでさえ喋るのが遅い彼は、言葉を気にしているとき、それにさらに輪をかけてゆっくりと言葉を繋げていく。周囲のスピードにありとあらゆる面でうまくついていくことができていない優都は、ときおりどことなく疲れたような表情を浮かべることもあった。だからこそ、無意識に口をついているのであろう言葉にはあえて言及する気もおきず、千尋は優都の話に相槌を打ちながら最後まで黙って耳を傾けた。

「放課後も行ってみるつもりなんやけど、千尋も一緒に来おへん?」

 わずかに身を乗り出してそう問うてくる優都にとって、その朝の出会いはなかなかに魅力的なものだったのだろう。「いいよ、どうせ暇だし」と千尋が答えると、優都はうれしそうに表情を緩めた。

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