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 思い出もあまり多くはなかった。

 麓路を出ることすら希にあるだけで、亦呉の町も数える程度しか足を踏み入れたことがなかった悠玄は、これから向かおうとしている常闇が、どの区に存在しているのかも分からない。


「これが空振りでないことを祈りたいな」

「もし空振りだと仮定しても、収穫がなかったわけではありません」

「だが、双龍彰のことなら叔父は既に承知のはずだ。手ぶらで出向くよりはいいと思うが、無駄手間になる可能性は高い」

「そういえば、その名代からの書状はお読みになりましたか」


 確かそんなものがあったなと、苦笑を浮かべた悠玄は懐に手を探り入れた。

 すっかり忘れ去られていた目的の書状を取り出し、細い筒の中から文を滑らせると、近くの灯りを借りて文面を追いかける。

 それは、簡易的な文だった。悠玄の帰郷を歓迎すること、それに際し、劉志恒を共として邸に戻ることへの許可と、途中で二、三の買い物をしてくるようにという私用の命令が記されていた。


「……泉介叔父上」


 悠玄は呆れてその名を呟くと、その文を松明の炎の中へとくべてしまった。

 一瞬にして黒い灰となったそれは、ふわりと風に煽られて地面に落ちると、通行人たちが順々に踏みつぶしていく。


「何か気にかかるお話しでも?」

「いや、至って端的なものだった。お前の来訪を歓迎すると書かれていたぞ。一度ゆっくり話してみたいと思っていたらしい。それから、麓路への道すがら、いくつか寄り道をするが、構わないだろう?」

「寄り道、ですか?」

「叔父がご所望でね。麓路のいくつか手前にある小さな村に、こぢんまりとした茶菓子屋があるのだが、叔父は昔からそこの月餅が好物なんだ。麓路城下の仕立屋と扇屋に出していた注文の品を受け取ってくるようにともあった」

「それはすべて家人の手間なのでは……?」

「そういう叔父なんだ。会えば分かる」


 初めて顔を合わせる志恒にとってみれば、話を聞けば聞くほどに、どのような人物なのかを想像することすら難しくなる。どんな人物かと問うてみたところで、悠玄は「会えば分かる」の一点張りだ。

 だが、言葉では説明できない代わりに、一目会えば、ただそれだけで理解することができる。

 叔父と出会うことは恐怖だろうかと、悠玄は思った。

 可能なら会わずにいたい人物との対面は、人の心に様々な感情をもたらすものだ。それが緊張なのか、まさしく恐怖なのかは、悠玄には分からない。

 悠玄の中では既に終わっている清算が、志恒の中では未だ葛藤を続けている。

 しかし、もし再会の時に志恒が現れなかったとしても、あの叔父ならば眉ひとつ動かさずに、好物の月餅を受け取ろうと子供のように手を伸ばすに違いない。その様子を簡単に想像することができて、悠玄は苦笑を浮かべた。

 その時、無意識を装っていた悠玄の脇を、微かに張り詰めた空気が通り過ぎていったのを感じた。意識せず、柄に伸ばしかけた手で拳を握り、肩越しに後ろを振り返る。そこに広がっているのは、未だ賑わいを失わない亦呉の町で、特に変化はないように思えた。


「何か感じたか?」


 悠玄は人の波を視線で追いかけながら問いかけた。確かに今、小さな殺気のようなものを感じた気がしたのだと、傍らに立つ供を見れば、顎が僅かに動いたと分かる程度の頷きを見せる。


「見失った」

「あの長身の男です。追ってみましょう」


 二人は密かに機会を窺っていたのだ。常闇へ向かう者の多くは、その目に闇を宿している。纏う雰囲気は棘を持ち、他人を容易に近寄らせはしない。それは獣のように獰猛で、絹糸のように繊細な神経を併せ持つ。

 一定の距離を保ちながら、二人は人波の中でも頭ひとつ飛び出している男の背を追いかけた。運良く進めば、このまま常闇へ入り込むことができるだろう。相手が見られているという感覚を自覚する前に、到着できればそれでいい。

 どれほど歩いただろうか。徐々に人の姿も少なくなり、松明の炎も少なくなっていった。しばらく進んだ所で、男の追跡を止めた悠玄は、志恒の胸を押し返して物陰に身を隠す。壁にぴたりと背中を押しつけ、砂利をこするような足音が遠退いていくのを、ただじっと聞いていた。

 そっと道を覗き込めば、この先にある三つ目の細道に入っていく男の背が見えた。もう一度物陰に身を引き、たっぷりと時間を空けてから、再度男の気配を追う。

 三本目の曲がり角を覗いた時、そこには誰の姿もなかった。だが、人の気配を感じる矛盾に確信を抱き、地を踏みしめるようにして足を前に運んでいく。

 人一人がやっと通れるほどの細い路地を真っ直ぐに進んでいくと、とうとう突き当たりにぶつかった。左右に道はなく、暗闇だけが目の前に立ちはだかっていた。

 通常、こういった宵闇は、世間から隠された場所に存在している。それは、気質の者らを無闇に立ち入らせないためや、政府からその存在を上辺だけでも隠しておく必要性があるからだった。正面から、ようこそと歓迎して出迎えてくれるような場所ではない。

 悠玄は入り口を間違ったかとため息を吐いて見せた後、がつんと爪先で目の前の壁を蹴った。すると、待つ間も取らせないほど早く、目線の高さで小さな扉が勢いよく開かれた。


「何の用だい、兄ちゃんたち。夜遊びなら余所へ行きな」


 室の中でぼんやりと灯る炎に揺れた目は、やはり曇って見える。それが悠玄を見て嘲笑うかのように歪み、その更に後ろでは、何者かが動く気配を感じ取った。


「ここを通してもらいたい」

「通りたいなら通行証を出してもらわなきゃ困るぜ。こちとら遊びじゃないんでね」

「あいにくだが俺たちも遊びできたわけではない」

「どうしても先へ行きたかったら別の入り口を探すんだな」


 そう言って閉まりかかった小窓を、悠玄は片手で押さえた。それを訝しげに見た守衛に向かい、待つようにと指を立ててみせる。


「通行証が必要といったか」


 悠玄は衣裳の至る所をあさり、一枚の金貨を見つけだした。それを指先で弄びながら子供のように笑い、最後に親指で弾き上げる。


「通行料はいくらかな。金貨二枚? それとも、三枚か?」


 くるくると手の平を返すたび、溢れるようにして増える金貨に、扉を隔てた向こう側にいる男は目を丸くしていた。悠玄は増える金貨に頓着しない様子で、最終的には五枚にまで増えたそれらを、ばらばらと地面に落とす。

 釣られるようにして、男は落ちた金貨に目をやった。だが、次に顔を上げた時、その目には瞬時に焦りの色が浮上する。いつの間にと思うほど素早く、その小さな窓から剣の切っ先を差し込まれていたのだ。目と鼻の先にある尖端は、微かにでも動けば双眸をくり抜いてやると言いたげに、ぴくりとも動かない。


「金貨ならくれてやる。余計なことは考えるな、そのまま錠を外せ」


 地を這うような低い声でそう囁けば、男は切っ先を睨み付けながら、小さく舌を打った。間もなく鍵を外すような音が聞こえ、扉はゆっくりと内側に開かれていく。

 悠玄は小窓に剣を差し込んだまま、志恒に先へ進むよう促した。


「……何者だ」

「答える必要があるか? そもそも、答えるべき問いとも思えない」

「ただじゃすまされないぞ」

「そうか。ならば、俺たちがここにいたという情報を外へもらされぬよう、お前たち全員を消すまでだな」


 言葉とは裏腹に、剣を鞘へと収める悠玄を見て、男が安堵の表情を見せるのが分かった。本気で殺されると思ったのかもしれない。もちろん、今からでも不審な身動きを見せれば、剣を抜く準備が悠玄には調っている。

 その場に背を向けた悠玄は、志恒が開けて待っている扉に足を向けた。向こう側の世界は明るく、喧騒に包まれていた。


「ひとつ聞きたいのだが」


 通りを行き交う人の流れから、悠玄は思い直したように後ろを振り返る。


「最近よく出るらしい賊について、なにか知らないか?」

「あんたに答えてやる謂われはない」


 悠玄はその返答に一度目を丸くしたが、すぐに破顔すると「そうだな」と苦笑をする。

 自分ばかりが欲しい情報を得られたとして、それでは公平とは言えないだろう。情報も時に物々交換であり、常に見返りを必要とする、形のない商品なのだ。


「突然悪かった。邪魔をしたな」

「……待て」


 まさか呼び止められるとは思わず、扉を閉める手を止めた悠玄は、守衛の男を不思議そうに見た。小柄だが、体格のいい男だ。入り口に散らばった金貨をすくい上げ、手の平で転がしながら、二枚の金貨を左手に移し替える。


「これが行きの通行料。帰りの通行料を含めても金四枚だ――一枚余るが」

「取っておけばいい。非礼に対する詫びだ」


 そう言って去ろうとした悠玄の顔面を目がけて、男の弾いた金貨が飛んでくる。それを造作もなく掴み取った悠玄は、男のあまりに律儀な態度に、目を丸くした。


「あんた、ただ者じゃないな」

「いや、残念ながら俺はただの人でしかない」

「時折覆面の役人が抜き打ちで現れては、宵夜の重役をしょっ引いて行くが?」


 ある意味鋭いその直感には、悠玄も驚かされた。

 おそらく、多くの場数を踏んできたのだろう。その場で最良と思える判断をし、決断を下す。そうでなければ、守衛など任せられはしないだろう。感覚で分かるのだ。相手の匂いを嗅ぎ分ける才能を持っている。


「俺たちが役人に見えるか?」

「見えないな。どす黒い血の臭いがぷんぷんしやがる」

「それはお互い様だろう」


 男の皮肉を軽く受け流し、悠玄は笑った。


「で、賊について何か話す気にはなったか? 申し訳ないが、無駄話をしている暇はない」

「……このところ、亦呉から新たな賊が発生したという話は聞かないな」

「ならば、今回の一件は余所からやってきた世間知らずの仕業か、もしくは以前から存在している賊の残党か」

「だが、その手口はこれまでにないものだ。わざわざ家主の留守を狙い尋ねる賊の話など聞いたことがない」

「ああ、それは俺も思った。今回の連続した騒動は、賊の考える手口として少々常軌を逸している」

「それが分かっていれば、自ずと答えも見えてくるはずだ――悪いが、これ以上は何も言えないぜ」


 悠玄は何度か瞬いた後、心の内を探るような視線で男を見つめた。特に偽りを噛ませる必要もないだろう。嘘を口にしているようにも見えない。

 その視線から逃れるように目を逸らした男は、開けたままにしていた入口の小窓を閉めると、椅子に腰を下ろした。物陰に隠れ、こちらの様子を終始窺っていた誰かも、襲いかかってくる様子はない。

 面白そうに笑った悠玄は投げ返された金貨を、もう一度弾き返した。


「情報料だ。ではな」


 先に出て待っていた志恒の後に続き、悠玄はひらりと手を振りながら外へ出る。閉めようとするよりも先に勢いよく閉ざされた扉は、拒絶を意味しているように思えた。

 これは嫌われたものだと肩を竦めれば、外で話を聞いていた志恒が、近くにまでやってきた悠玄を見下ろす。


「悠玄様のお手を煩わせずとも、そういった交渉事は私が引き受けます」

「そうだな、次からはよろしく頼む」


 そう言って志恒の肩を軽く叩き、悠玄は左右に延びる道を左に曲がった。

 隣は妓楼なのか、女の甘ったるい匂いと化粧の匂いとが相まって、誘惑するように鼻孔を刺激する。ちらりと目をやってみれば、客引きをする気など更々ない様子の遊女が、煙管を噴かしながら、気怠そうに通りを眺めているのが見えた。

 花のような煙の匂いだ。そう感じ取った時には既に、妓楼の前を通り過ぎていた。


「先ほどの男の話が事実だったとすると、やはり一連の騒動を起こしている者たちの正体は──」

「賊ではないと考えるのが妥当だな。詳しく聞いてみないことには何とも言えないが、調べてみる価値はある。何か目的あってのことだとしたら、俺はそれが何なのかを知りたい」

「これまでの事件と、今回の元廉州軍将軍の件が関係している保証はどこにもありません。無駄手間になるやもしれませんが」

「そうなると仮定した上で、あまり期待をしなければいい。たまには憶測よりも直感に従ったって構わないだろう?」

「……あなたの勘は当てになりませんから」

「お褒めに与り光栄だよ」


 常闇はまだ目覚めたばかりだというのに、余所見をしていれば、肩と肩が触れ合うほどの混雑を見せていた。腰に太刀を佩いている者も少なくなく、それ故に、互いに対する警戒の色も強い。

 ここで起こった個人でのいざこざはすべて、当人同士の問題となり、周りの者は一切関与しない決まりだ。手助けをするのは自由だが、後で何が起ころうと、言い訳や言い逃れをすることはできない。自由という観念がはびこり、自由が故に不自由な場所が、ここだ。


「――――」


 それは丁度、細い路地の前を通りかかった時だった。

 誰かの視線を強く感じた気がした悠玄は、周りを行き交う者たちの迷惑も考えず、唐突に足を止めた。案の定、半歩後ろを歩いていた志恒は、悠玄の背中に詰まり、不思議そうにその名を呼ぶ。

 つけられていたわけではないはずだ。そんな気配を感じてはいなかった。

 では、この不可解な眼差しは一体何なのだと、向けられていると思われる方向を睨み付ける。

 しかし、その場所にあったのはただの暗闇でしかなかった。正面は突き当たりだ。何も見えはしなかったが、そこに誰かがいるような気がして、目を逸らすことができない。

 だがそれは、感じた時と同じように、何の前触れもなく消えてしまった。途端、解放された身体が鼓動を取り戻す。


「志恒。お前、今」

「はい?」

「……いや、何でもない」


 悠玄はそう言うと、もう一度だけ、暗闇に目を凝らした。

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