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 馬屋に劉志恒が姿を現してはじめて、悠玄は自分たちが明確な落ち合い場所を定めていなかったことに気づいた。それでも、悠玄の元へ時間通りに現れた志恒は「おはようございます」と一言だけ口にし、自身の馬の準備に取りかかる。

 悠玄はすっかり準備を終え、干し草を食んでいる馬の首を撫でながら、少し離れた場所で蹄鉄を確かめている志恒を見た。


「とりあえず、今日の目的地は廉州の亦呉にした」

「浄州との州境の町ですね。内乱後州都機能が移動したとか」

「俺の叔父が住み着いている麓路までは、そこからゆっくりでも三日ほどの距離だ」

「廉本家に一度お戻りですか」

「そう考えている。昨日のうちに早馬を出しておいたが、もしかしたら門前払いを食うかもしれない」


 いつもの官服とは違う、比較的簡素な衣裳を正しながら、悠玄は何でもないようにそう漏らす。横目で窺うように見た志恒は、相変わらずの無表情だ。


「……行きたくないのなら、そうと言って構わないんだぞ」

「あなたがそれをおっしゃいますか、悠玄様。よく見張っておいででなければ」

「俺は浪玉様や嵐稀様のように疑り深い性格をしていないんだ、あいにくとな」

「少しは疑ることを覚えた方がよろしいのでは?」

「嫌だ。面倒だろう、疲れるだけだ」

「……あなたに信頼される部下は幸せですね」

「何を言う。お前も俺の配下だろうが」


 準備ができたら行くぞと言って、悠玄は手綱に手をかけて歩き出した。

 今から出発すれば、廉州亦呉までは夕暮れ前に到着するはずだ。晴朗の町は廉州寄りに存在している。ただし、目立たないよう城下は通らず、少々遠回りにはなるが、森林を抜けていこうと既に話はまとまっていた。

 いろいろな意味で滅王派に顔が知れていた二人は、ひと目につかないよう廉州に入らなければならない。だが、無事に廉州へ到着したとしても、気は抜けなかった。州境にある亦呉の町は、浄州からの出入りが激しい。


「悠玄様の叔父上はどのようなお方なのですか?」


 廉家の話からは遠退くものとばかり思っていた悠玄は、その話題をあえて取り上げた志恒に、少し困惑した。不自然ではない程度に考え込むような素振りで口を噤み、僅かに苦笑を浮かべて見せる。


「父とは似ても似つかないお方だ。厳格さからはほど遠いな。それから、少し変わっている」

「変わっている、ですか」

「ああ。会えば分かると思うが……廉家にしては珍しく武芸にとんと縁もゆかりもない。ただ、その才覚が認められて、父の代から当主名代として廉家を預かっている。だが、現在廉家には当主と名乗れる者がいないから、実質は叔父が当主といっても過言ではないな」


 その名を廉泉介といい、璃衒のように武術の腕もなければ体格にも恵まれなかったために、幼い頃は兄と比較される毎日だったと聞く。

 男の身でありながら、太刀を長時間支えていられるほどの腕力すらなく、代々武芸者を生み落としてきた廉家には、致命的とも言える欠点ばかりを抱えて生まれてきた男だった。


「廉家の異端と言われているんだ、今も、昔も。隠遁生活を送っている祖父らの圧力で、未だに外への露出もままならない。太刀も扱えないような男は、廉家の恥だそうでな。俺も餓鬼の頃は毎日そう言われて育ったものだ。我が君主の剣となり、盾となれ――お前の命に価値なんてものはない、とな」


 物心つく以前から、気がつけば己の身の丈よりも長い太刀を常に持ち歩いていた。それがまるで体の一部であるかのように、ごく自然なこととなっていたのだ。人を殺すだけのためにある道具を腰に佩き、それが普通であることのように感じていた。

 生まれたときから、感覚が麻痺していたのだろう。今思えば、あまりに屈折した幼少時代を送ってきたように思う。


「何度呪ってやろうと思ったか知れない。毎日吐くまで剣稽古でな。でも、師範には止めたいだなんて怖くて言えるわけもないから、いつも夜になると叔父の室へ逃げ込んでいた。そこで喚き散らしていたんだ」

「叔父上がお慰めを?」

「まさか。号泣する俺を見てカラカラ笑っていた。ふざけているだろう? もう嫌だ、止めたいと泣き喚く傷だらけの子供を目の前にして、だったら止めてしまえと容易く言ってくれるような男だ」


 昔はよく、何も知らないから言えるのだと悠玄は思っていた。

 だが、剣を振るうこともせず、悠玄の苦痛も知らずに生きてきた泉介を理解していないのは、まだ幼すぎた悠玄の方だったのだ。考えもなしに心を抉るような酷い言葉を吐き捨てていた自分を、今は恥ずかしく思う。

 あの時、いや、それ以前から、泉介は悠玄以上の苦しみを味わってきていたのだから。


「強い方だよ。優しくて、まあ、少しばかり自分に甘いところもあるが、話を最後まで聞き続けてくれるだけの忍耐力はあるはずだ。剣を持たない人だから、出会い頭に斬り付けられる心配も必要ない」


 悠玄はどうしても、璃衒に父を見ることができなかった。もしかしたらその分、泉介に父性を求めていたのかもしれない。師と弟子の関係を貫き通した悠玄と璃衒は、いつの間にか、親子という枠組みから遠く離れてしまっていたのだ。


「だから、お前は肩の力を抜いていろ。緊張するのは俺一人で十分だ」


 久しぶりの帰郷に加え、太尉を一時的にとはいえ剥奪されたとなれば、泉介はまず悠玄を笑うだろう。昔からそういう男だった、今更驚きはしない。

 しかし、璃衒の死後は一度も廉州に戻っていない自分を、素直に迎え入れてくれるだろうかと考えたとき、あの少々捻くれた叔父がどういった行動に打って出るか、悠玄には想像もつかない。

 宮城から森林に抜ける細い裏道を進みながら、悠玄は肩越しに志恒を振り返った。

 あの叔父ならば、劉志恒の存在に興味を抱くはずだと半ば確信はしているものの、そこから葵家の情報を聞き出すことができるかは分からない。


「とりあえず、目指すは亦呉だ。くれぐれも気は散じるな」

「はい」


 一見すればただの城壁でしかない壁の前に立ち、悠玄は手の平で撫でるように触れながら言った。すると、よく注意をして観察しなければ分からないほどの割れ目を見つけ出す。少し力を込めてやると、壁が押し戸のようにゆっくりと開かれた。これは仕掛け扉で、外側からは開かない仕組みになっている。

 目の前には、青々とした木々が生い茂り、その先は永遠と獣道が延びていた。鬣をつかみ、馬の背に身を乗り上げると、腹を軽く蹴って走らせる。

 唯一、浄州と隣接していない葵州。その情報は、朝廷にすら入ってくることが少ない。当主の名を総じて葵焔峰といい、代替わりと同時に本来の名を捨て、そう名乗るようになるため、外の者は一体いつ当主が次の世代に引き継がれたのかも把握することができないのだ。

 それでも、隣り合っている州の廉家とは交流があったと言われているが、廉本家の長子である悠玄ですら、葵家の者と一度として顔を合わせたことがなかった。

 しかし、廉家当主名代ならば、話は違ってくるだろう。廉州牧が葵本家二男ならば、少なからず面識を得ているはずだ。

 ほんの僅かな手懸かりでも構わない。葵家ならばあるいは、太子の生死すら把握している可能性がある。三男と太子は血の繋がった兄弟であるのだから、不思議な話ではないだろう。だが、その場所へたどり着ける保証はどこにもないのだ。

 やはり、頼みの綱は、叔父の廉泉介以外にはいなかった。

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