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 口の中に入り込んだ砂が、奥歯の上で嫌な音をたてて噛み砕かれる。それを今すぐに吐き出してしまいたい衝動に駆られながら、それでも朱翔は這うことを止めない。

 だが、次の瞬間、手を伸ばせば触れることのできそうな距離に、突然の足音を聞き取り、朱翔は思わず息を呑んだ。ひゅっ、と風の鳴るような音に、しまったと肩を震わせ、呼吸の音すらもらすまいと両手で口を塞ぐ。

 一人、二人――足音を注意深く聞けば、少なくともこの場には三人の者がいるようだと、かろうじて察することができた。門前にも見張りが立っていると仮定すれば、邸内には最低でも四人以上の賊が侵入していることになる。

 もし見つかってしまえば、一溜まりもない人数だ。しかし、相手がたとえ一人だったとしても、勝算は二割ほどだろう。運良く自分よりも実力が下の者にぶつかったとして、誰か別の仲間がやってきたときのことを考えると、思わずぞっとする。


「おい、見つけたか」


 感情のすべてを意識的に削ぎ落としたような声が、ほぼ頭上から聞こえてきた。途端に心臓が跳ね上がるのを感じ、一層きつく口に蓋をする。

 それは、相手を支配しようとする者の口振りだ。ある程度高い地位にあり、命令し慣れているのが分かる。計画性のない賊と半ば侮っていたが、意外と統率の取れた集団なのかもしれない

「いえ、こちらも未だ発見にはいたりません。母屋の捜索を続けています」

「景文からの情報だ、間違いはないと思うが、入念に捜索を続けろ。そのものは見つからなくとも、手懸かりは転がっているはずだ。手ぶらでは帰らないぞ」

「御意」


 一人がその場から離れていく。残るは二人だが、気配が完全に断ち消えるまでは、この場所から一歩たりとも動かない方がいい。


「それにしても、白銀の髪の男ですか」


 呼吸を忘れるほど息を詰めていた朱翔は、つい先ほど聞いたばかりの言葉にはっとする。

 また、白銀の髪の男だ。


「我々の行く先々に現れる素性の知れぬ男──本当に、お心当たりはないのですか」

「あれば苦労はしないだろう。気味の悪い男だ、我々に尻尾も掴ませぬのだからな。相当の手練れと考えて相違ないだろうが、こちらにとって敵となるか味方となるかは分からん」

「昼間から夕暮れ時にかけてその姿を見たという者が、この近辺にも何名かおります。ですが、今回も巧みに姿をくらましたようで」

「我々と目的を同じくしているのであれば、それは脅威でしかない。やはり、捨て置くわけにはいかぬだろう」

「双龍彰の縁の者でしょうか。廉州軍関係者ならば考えられますが」

「そうだな。だが、それは憶測に過ぎん。今は目先の問題をいかに解決させるかが先決だ。ここまできて見つからぬということは、既に何者かが持ち去ったと考えて然るべきか」

 龍彰の名に反応してしまいそうになった体を地面に縫いつけるようにして、朱翔は石に徹することを止めなかった。先ほどまでは火照っていた体も、手の指先と足の爪先から、徐々に熱が奪われようとしている。寒さを感じはじめている背中の震えは、段々と大きくなろうとしていた。


「――雹鸞様!」


 慌ただしく近づいてくる足音に、朱翔の緊張感は増した。ゆっくりと静かに吐き出した息が震えている。それが寒さからきているのか、恐怖に打ち震えているのか、今の朱翔の精神状態では判断がつかなかった。


「なにごとだ」

「母屋に家主の息子が帰宅した形跡があります」

「なんだと?」


 一瞬、朱翔は自分の心臓が止まったのではないかと思った。

 やはり、火鉢は池にでも沈めておくべくだったのだ。そんな時間はなかったと理解していても、そのような後悔は必ず後をついてくる。


「飯堂で足止めをしているはずだろう」


 今まで一切の感情が感じられなかった声に、はじめて焦燥感のようなものが表れた。

 ぴりぴりとした緊張感が空気を震わせる。すぐそこに立っているはずの賊に聞こえてしまうのではないかと恐怖するほど、心音は徐々に頭を目指し、後頭部に妙な浮遊感を漂わせていた。


「それが、手違いがあったようでして。男は既に帰路につているはずだと――」

「御託はいい。それで、その男は今どうしている」

「我々の浸入に気づいたのか、姿を隠したようです」

「朔を利用し闇に乗じたか」


 ここで動けば負けだと分かっている。相手側も、まさかこれほど近くに朱翔が身を潜めているとは想像もしていないだろう。しかし、当の朱翔は、この場からすぐにでも逃げ出したくて仕方がない精神状態に陥っていた。

 気づかれるわけがないと確信している半面、今にも気づかれてしまうのではないかという矛盾した気持ちが、交互に襲い掛かってくる。


「こちらの姿が見られているとしたら厄介だな」


 賊に姿を見られた者の末路は、既に決まっていた。こうなってしまっては、一刻先の朱翔の命すら定かではない。

 体はじわり、じわりとにじり寄ってくるような寒さを感じはじめているというのに、額から頬、顎を伝って、汗がいくつも滴り落ちていた。


「とにかく、その者を探し出し、ここに連れてこい。双龍彰の息子とはいえ名ばかりだ。ただの拾われ子に彼ほどの剣術は見込めまい。まったく、飯堂で大人しく酒に飲まれていればよかったものを」


 誰かこの状況をもっと分かるように説明してくれ、という思いが頭の大半を占めていたが、説明してくれる者は誰もいない。しかし、これで賊たちは、たとえこの邸に侵入した本当の用件を済ませたとしても、すぐに撤退しないことだけは朱翔にも理解することができた。

 少なくとも、この邸内から朱翔の姿を見つけ出すまでは、立ち去ることはあり得ない。だが、永遠にも思えるこの緊迫した時間をやり過ごす手段など、朱翔には分かるはずもなかった。

 誰の助けもなく、この邸内から脱出することは可能だろうかと考えたとき、考えられる手段は四方を囲う塀を越えていく方法だ。しかし、朱翔の運動能力では、もたついている内に引っ捕らえられるのが落ちだろう。丸腰のまま敵陣に飛び出していくのは自殺行為であり、それこそ地獄を見ることになる。

 たとえ腰に太刀を佩いていたとしても、男たちの言うように、朱翔には龍彰のような剣術はない。こうなってみてはじめて、朱翔はもっとよく龍彰から指南を受けておくべきだったと、叶わぬ後悔を抱いた。

 残る道は、日の出までこの膠着状態を守り抜くことだったが、それではあまりに計画がお粗末に思えた。だが、すぐ近くに立っている賊たちがこの場から離れてくれない限りは、朱翔も動くことができない。しかも、何かを思い至り、足下を覗き込まれでもすれば、一溜まりもないのだ。

 ここにきて、朱翔は自分が思いの外往生際の悪い人間だったのだと、そう初めて自覚するに至った。どの思考をめくってみても、大人しく捕まってやろうという選択肢は存在しない。そして、なぜかそう思っている自分自身に、心底ほっとしている。

 だが、そうして一息吐くと同時に、緊張の糸が一瞬だけ、ぷつりと途切れてしまったのかもしれない。小さく身動ぎをして瞬間、衣擦れの音よりも、紙が擦れあうような音が不自然に聞こえた。

 それを耳にしたのは、朱翔本人だけではない。その事は明らかだ。今まで聞こえていたはずの会話が途端に止み、殺気か飛ぶ。

 まるで、それが合図だったかのように、朱翔は身体を転がして渡り廊の下から飛び出すと、離れに向かって一目散に駆け出した。背中には怒濤の声が追いかけてくるが、それに耳を傾けている余裕はなかった。


「明日会ったらただじゃおきませんからね──!」


 また出会えるかも分からない相手を思い出しながら、朱翔は懐の紙を忌々しそうに握り潰した。

 風を切るような音が耳元を掠めたと感じた刹那、頬に一瞬、火傷のような痛みが走る。目の前の木に矢が突き刺さっていることを確認するよりも早く、頬を伝う生温い熱に眉根を寄せた。

 血が流れている。

 しかし、それを拭っている暇すら惜しい。

 ただ、細胞が湧きたつように興奮している感覚が全身を駆け巡り、朱翔は大声をあげてしまいたくなった。

 離れの扉に手をかけた朱翔は、それを乱暴に開き、後ろ手に勢いよく閉めた。肉を断つような鈍い音が、いくつも扉に突き刺さる。

 足下に転がっていた竹刀を取り上げると、それを支え棒のように扉の溝へと引っ掛け、朱翔は更に奧へと進んだ。途中、壁に掛けられていた太刀を適当に取り上げる。

 激しく叩かれる音に思わず後ろを振り返れば、扉が蹴破られようとしているのが見て取れ、暗がりの中で荷に躓きながら、身を隠せるような場所を必死で探した。

 その時、近くの窓に闇よりも暗い影が横切り、咄嗟に物陰へ体を滑り込ませる。頭上付近で窓の割れる音がし、ばらばらとその破片が容赦なく降り注いできた。身を屈めている朱翔の隣を、硬い靴音が通り過ぎていった。

 破片が散らばったその場所から移動すると同時に、朱翔は自分の足から沓を脱ぎ捨てる。木材を使った床の上では、いくら静かに歩いたとしても、沓が音をたてるのだ。二足の沓を片手に持ち、利き手には太刀を震えるほど強く握り締め、朱翔は暗闇に向かい合った。

 おそらく、離れへ侵入して来たのは一人と考えていい。残りは全ての出入口を封鎖し、あるいは離れの外で朱翔が出て来たところを捕らえようと、手ぐすねを引いて待ち構えているはずだ。

 内乱時も何度か修羅場を切り抜けてきた。その時は決まって、死ぬかもしれないという死への概念が脳裏をちらつくものだ。

 それは今も同じかと訊ねられたとしたら、朱翔は首を傾げざるを得なかった。

 なぜか、死ぬ気がしないのだ。極度の緊張と恐怖は相変わらずだというのに、打ち震える鼓動は、どこまでも力強い。

 死の臭いが、どこにも感じられなかった。

 もしかしたらこれは、ただの諦めなのかもしれない。明日の保証すら得られない今この時をどう過ごそうと、それを口うるさく聡そうとする者など、誰もいないのだ。ならば、好き勝手にやらせてもらおうと、朱翔がゆっくり腰を上げようとした、その時だった。

 首筋に、ひんやりと冷たい何かが押し当てられる。それは、気配も殺気も感じさせなかった。それなのに――と、朱翔は冷や汗を流す。


「馬鹿め、気を散じたな」


 低くもなければ高くもない、少し掠れた少年のような声が耳元に聞こえた。生暖かい息が吹きかかるほど近い。背筋にぞくりと悪寒が駆け上がった。


「おかしな動きをすれば殺す。声を出しても殺す。分かったらゆっくり立ち上がれ」


 おかしなことに、その者の声と存在には、殺意というものがまったくと言っていいほど感じられなかった。朱翔は言われるがままに立ち上がったが、その声の人物を振り返ることは、どうしてもできなかった。


「話を聞いていなかったのか、妙な動きをすれば殺すと言ったはずだ。早くしろ」


 じゃり、と砕け散った窓の破片を踏むような音が聞こえた。どうやら奧へ様子を見に行っていた賊の一人が、すぐ近くにまで戻ってきているらしい。

 朱翔が最後に聞いたのは、小さな舌打ちだった。

 次の行動を考える間もなく、首の裏側に鈍い痛みが走り、目蓋を閉じるだけでは得られない漆黒の世界へ、無理やりに押し込まれようとしている。

 最後の抵抗とばかりに頭を持ち上げた朱翔は、相手の顔を見てやろうと目を凝らしたが、やはりこの暗闇と痛みに霞む視界では、何者も捕らえることはできなかった。

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