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「そうだ、旦那」


 料理を運びに出てきた店主が、厨房に戻ってしまう前に、白拓が思い出したように声をかけた。すると、店主は足を止め、こちらを振り返る。

 白拓は運ばれてきた料理にでたらめな調味料をふりかけながら尋ねた。


「最近、この辺りで賊が出るという噂を耳にしたのだが、何か知っているかな」

「ああ、賊かどうかは分からねぇが、民家がやたら荒らされるっていう話は何度か聞いたな」

「ほう」

「それも、無差別にあちこち荒らされるんで、州の役所に届けを出したって言うんだが、上の方からは何も音沙汰がないらしいぞ」

「音沙汰がない?」

「まあ、民家荒らしは今に始まった事じゃないとは思うが、何だかなぁ」

「何か他にもあるのか?」


 白拓はそう問いながら、調味料をかけた料理に手をつける。朱翔はその様子を、眉間に深い縦皺を寄せて眺めていた。それを何食わぬ顔で咀嚼している白拓の味覚はどうかしてしまっていると、毎度の事ながらそう思う。

 しかし、店主は慣れたもので、自身の作った料理にまた別の味付けをされようが、言うことは何一つないようだ。


「どういうわけか、荒らされた民家を調べてみると、どの家も金品の類が一切盗み出されていないというのさ。食物にも手を出してねぇとかで、一体何のために荒らし回っているのやら」

「実害がないのなら今のところは安心だが、不可解なこともあるものだな」

「お前さんだって一応官吏の端くれなんだから、何とかしてくれって上の方にお声掛けしてくれよ」

「そう言われてもなぁ。私は下っ端の下っ端だし、届けを出しても動かないとなると、どうしようもないが──まあ、何とかできるよう努力はしてみよう」


 白拓は仕方がない、とでも言いたげに曖昧に笑んだ。

 いつもこうだと、朱翔は白拓のお人好しさには呆れ果てている。今まで何度、白拓は朱翔の前で安請け合いをしただろうか。その上、自分の仕事を放り出し、それを朱翔に押し付けていくのだから、本当にどうしようもない。むしろ白拓は、自分に与えられた仕事から逃げる上手い口実を得ているように思う。

 官吏でもなく、何処の馬の骨とも知れない子供が、実質州の書庫を管理していると知ったら、上の官吏たちは頭を抱えるどころでは済まされないだろう。


「用心するに越したことはない」


 厨房へと戻っていく店主の背中を見送りながら、白拓は少しその目を細めた。時折見せるその表情だけが、今と昔を繋ぎ止めている。


「君はまだ養い親の屋敷に身を置いているのだったね」

「ええ、そうですけど」

「家人もなく一人でいるのだろう?」

「家人を置いていても養ってあげられませんし、私には必要ありませんから」

「よほど武芸に自信があると見える」

「養父に手解きを受けた程度で、特に自信があるというわけではありませんよ」


 先ほど話題にも上がったように、内乱を終え二年経った今でも、この国の生活は苦しく、賊の出没は珍しいことでもない。追い剥ぎの類も減ることはなく、女や子供が何の護りもなくひとりでいることは、危険極まりないことなのだ。特に、夜の屋敷に一人きりでいるなど問題外だと、そう考える者が大半だった。朱翔のようにのほほんと構えている者は、賊の恰好の餌になりかねない。

 白拓は息を吐き、心底呆れた様子で、朱翔の顔を覗き込んだ。


「まったく、大した大物だね、君は。それで実際に賊に入られて、最悪の事態と対面したらどうするつもりなんだい」


 この時代、賊のことばかりを気にしていては、それだけで短い一日が終わってしまう。警戒していても、それが意味を成さない場合もあるのだ。

 用心するに越したことはない。そうは言うが、用心をしていたところで、押し入られることや襲われることがなくなるわけではない。そうなることを前もって考えていても、実際のところは、そうなってみないと分からないではないか。

 そんな朱翔の心の内を読み取ったかのように、白拓は続けた。


「君のことだから、襲われたらそれまでだと考えているのだろうけど、心配する方の身にもなるのだよ」

「心配、していたんですか」


 朱翔がきょとんとしてそう尋ねると、にやりと笑った白拓は卓子越しに手を伸ばし、朱翔の頭を押さえつけるように掻き混ぜた。


「当たり前じゃないか。瑤俊様にもよく見ておくようにと言われているし、それに──」


 斉瑤俊。

 その人物は養い親の友人で、朱翔に白拓の手伝いを薦めた人物だ。時折朱翔のところを訪れては様子を見ていくのだが、謎多き人物で、朱翔も瑤俊の素性はよく知らない。


「君がいないと、書庫の管理をしてくれる者がいなくなって困るからね」

「……そういう心配ですよね、やっぱり」


 やや不純な心配の動機に、今度は朱翔が息を吐いた。


「でも、私はともかく、瑤俊様は君のことを本当に心配されているよ。その思いに応えようと思うなら、まずは自分の身を案じなさい」

「努力だけはします」


 渋々というように朱翔が言うと、白拓は満足げに一度だけ頷き、微笑んで見せた。


 朱翔の養い親は双龍彰という男だった。

 龍彰は生前、屋敷の離れを使用し、剣術の道場を開いていた。昔は廉州の軍に所属していたという話を聞かされてはいたが、朱翔がまだ幼い頃に家移りしてからこちらは、その道場で生計を立てていた。

 本来ならばそれを継ぎ、道場を続けていくのが養い子としての一番の恩返しなのかも知れないが、武芸にさほど興味もなくこの時代を生きていた朱翔には、不可能なことだったのだ。

 剣を振り回しているよりも、書物を読みあさっている方が好きだった朱翔に、龍彰は何も言わなかった。元々口数の少ない、不器用な男だった。

 時折、そんな自分の養い親の面影を、抄白拓という男に見出すことが朱翔にはあった。性格は似ても似つかない。それなのに、不意に見せる立ち振る舞いや仕草が、とてもよく似ていた。しかし朱翔は、そんなことを認めてなるものかと、頑なに自身の中で否定を繰り返している。


「瑤俊様って、一体何をなさっている方なんです?」


 しばらく思案するような表情を浮かべ、口を噤んでいた朱翔が突然そのようなことを口にすると、白拓は不思議そうに目を瞬かせた。


「龍彰様と瑤俊様はご友人だったろう? 何も聞いていないのかい?」

「養父はあまりそう言うことを話してはくれなかったので。それに、あまり気にしたこともありませんでしたし」

「瑤俊様は以前中央で官吏をされていたお方だよ。今はこの廉州で隠居生活を送られている」


 だが、瑤俊は官職を離れ、隠居しなければならないほど年老いているわけではない。会うたびに聡明な印象を与え、官吏をしていると聞けば納得こそするものの、隠居生活をしているなどと言われても、思わず首を傾げてしまう。


「隠居とは言っても、時折朝廷を尋ねてはいるようだよ。ただでさえ人手が足りないのだし、政も滞っているからね。先王が御隠れになり、主上がいらせられない今となっては、少しでも力のある官吏が欲しいのだろうね」


 そうだ、と朱翔は思う。

 九十年続いた内乱を終え、存王派が勝利したというのに、先王は死んでしまった。それが原因で、未だ冷戦状態が続いているのだ。互いの主張は変わらず、存王派は勝利を放棄することもしない。この状態がまたしばらく続けば、王都は更なる荒廃を続けるだろう。


「王がいないこの状態で、朝廷だっていつまでも踏ん張っていられるとは思えませんけど」

「ほう。では君は、そのうち存王派は滅王派に取って喰われると言いたいのかい?」

「存王派は滅王派に勝利したというだけです。現状を考えてください。敗れたはずの滅王派が望んだ通りの結果になってしまっているじゃないですか。どうせ次の王なんていないんです。少しでも民のことを思うなら、内乱紛いな事なんて今すぐにやめて、国の再建に努めるべきです」


 朱翔がそう言いきるのを、白拓は肯定も否定もせずに、とても面白そうに眺めていた。口元は弧を描き、すうっと目が細められる。

 まるで、考えていることのすべてを見透かそうとするかのような視線だと、朱翔は思った。細められた目の中に映り込んでいる自分の顔から、思わず視線を逸らす。

 すると、同時にくすりと笑う気配があり、ちらりとそちらの様子を見遣れば、白拓が卓子に頬杖をついて、愉快そうに笑みを浮かべているのが目に入った。


「今の言葉を、そっくりそのまま朝廷の頂点に構えている三公に伝えて差し上げるといい。きっとやつらの目も覚めるだろうからね」

「そんなことをしたらどんな目に遭わされることか、火を見るよりも明らかでしょう?」

「良くて城から叩き出される。悪くすれば打ち首、縛り首、磔というところかな」


 へらへらと笑いながらそんなことを口走る白拓に、朱翔は小さく「笑い事じゃありません」とこぼし、冷め切ったお茶で口元を潤した。

 王が斃れたという話は、内乱終結後、瞬く間に国中に知れ渡った。だが、朝廷としては隠蔽しておきたかった事実に違いない。戦での傷が致命傷になったのだと聞いたが、内乱は存王派、滅王派の両派の統率者の死と共に終わり、そして、また新たに始まったのだ。

 いつ終わるとも知れないそれを、本当の意味で解決できる者など、この世界には存在しないのだと朱翔は考えてしまう。内乱でたくさんの大切なものを奪われた朱翔にとって――朱翔だけではなく、この鴻国に暮らす民にとっても――既に王の存在や内乱の意味などは、どうだっていいものになっていた。民を苦しめる王ならいらぬと、そう考える者は少なくないはずだ。


「しかし、朝廷が何の考えも無しに現状を堅持させているとも思えまいよ」

「それはそうですが」

「そうだ。とある噂が、私たち官吏の間で囁かれていてね」


 にやりとした顔は、まるで新たな遊び道具でも与えられた子供のようで、どこか無邪気だ。だが、腹の中では良からぬことを考えているようにも見える。

 朱翔が訝しげな表情を浮かべて見せると、白拓は僅かに声を潜め、卓子の上に軽く身を乗り出した。


「先王と王后の間には、子供があったという話だよ。内乱の最中その御身を守り抜くべく、お生まれになって直ぐ、主上自らがお選びになった民にお預けになったそうだ」

「胡散臭い話ですね。信憑性はあるんですか、それ」

「いや、ない」

「だったら、そんな噂がどこから沸いて出てくるんです?」

「さあねぇ。だけど──」

 呆れ返っている朱翔の鼻先に、白拓は人差し指を突きつけた。それの近さに思わず仰け反った朱翔は、軽く咳払いをすると「何ですか」とため息混じりに答え、その手を払い除ける。


「もしそれが本当の話なら、現状にも納得がいく。真実じゃなかったとしても、朝廷はその噂を利用するはずだろうから、やはり現状のままだ」

「だとしたら、どちらにしても私たちには同じ事です。正当な王位継承権を与えられた太子が、今もどこかで生きているのだとしても、名乗りを上げないのなら主上の器量じゃない」

「自分が太子だということを知らないのだとしたら?」

「だったら太子である意味もない。自覚がないのなら、存在しないのと同義です」


 そう言いきる朱翔に、白拓は「やはり君は手厳しい」と苦笑した。

 王が必要だと、王がいなければ国の理が傾くと考える存王派の考えも、王などいなくとも国は成り立つと考える滅王派の考えも、朱翔には知ったことではなかった。

 何代か前の王が政を投げ出し、官吏に全てを委ねた。元々は王族が全ての元凶なのだ。地位と名誉と実権を取り戻したいがために、九十年も戦い続けるなど、何と愚かしいのだろう。そんなもの早々にくれてやれば、多くの民の命も奪われずに済んだのだ。


「でもね、朱翔」


 白拓の真摯な眼差しが、まっすぐに朱翔に向けられた。

 いっそのこと、いつも愚かな振る舞いを見せていればいいのにと思いながら、朱翔は視線だけを白拓に投げつけた。


「私は弟と賭をしているんだ」

「賭?」

「そう、賭をしている」


 珍しく真面目な表情をしている白拓は目を伏せ、手の平を見つめながら言った。


「太子は必ず現れる。そして、この国をいい方向へ導いてくれるだろう、とね。私はそう信じているのだよ。弟は奇跡でも起きない限りあり得ない事だと言っているけれど、信じて待つのも、悪くはないものだ」

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