第12話

 七、


 夜桜と真冬は、楽しいことを探した。

 動物園、水族館、楽しい場所に出かけた。評判の店で美味しいケーキを食べた。話題の映画を見た。まだ作ったことのないお菓子や料理を作ってみんなで食べた。

 

 それでも、さくら町の桜は咲かなかった。


 卒業式からおよそ二週間、三月も下旬。新聞には桜関連の記事が増え始める。さくら町の桜の開花が例年より大幅に遅れていることに言及するいくつもの記事に、小さな町ではそこかしこで心配の声が上がっていた。夜桜は夕刊に踊る「桜咲かぬさくら町」の見出しの文字に眉を顰めた。

 ちりん、と玄関のベルが鳴る。

 詳細は読まずに夕刊を閉じて、重なった古新聞の上に無造作に置いた。夜桜は外に向かって「はあい」と返事をし、慌ただしく玄関へ走った。

「こんばんは、夜桜ちゃん」

 扉を開くと、夜でも眩しいくらいの笑顔が向けられる。

 真冬が笑うと頬にくっきり浮かぶえくぼが夜桜は羨ましかった。えくぼは笑顔の象徴のように思えた。

「いらっしゃい。ごめんね、忙しい日に」

「荷造りは終わっているから構わないよ」

 真冬は故郷を発つ前日、魔女の家に招かれた。

「空中庭園で母が待っているわ、どうぞあがって」

 彼を招いたのは他でもない、この家の主だった。

 夜桜は真冬を連れて、空中庭園へ続く狭い階段を上った。

 屋上に出て、硝子張りのドームに入ると、空中庭園の花々が真冬を出迎える。星と月の光を受けて、薄っすらと花の色は白んで見える。真冬は庭園の美しさに目を奪われて、その場に立ち止まる。

「君が春日井真冬くんですね」

 庭園の中央に、桜色の髪をした女が立っていた。

「あ、はい、そうです……あなたが桜の魔女さま」

 呆然として、真冬は女に視線を囚われている。月の光を受けた魔女は、ぞっと恐ろしくなるほど美しかった。人ではないのだと、言葉の代わりにその姿が語っている。神々しいと形容したくなるほど、闇に浮かぶ桜色の髪は優美だった。星と月の光は彼女の為にあった。

 この町の誰もが「魔女さま」と敬意を込めて彼女を呼ぶ。

 それは敬意のみならず、畏怖を含んだ敬称だった。年若い青年は初めてその意味を知る。

「ええ、桜の魔女とはこのわたくしのことですよ」

 魔女は、一切無駄のない、水の流れのような清廉した動作で一礼して見せる。

「来てくださってありがとう。遅い時間に呼び立てて、ごめんなさいね」

 魔女は真冬に椅子をすすめた。小さな丸テーブルにはカップと菓子が並んでいる。

 夜桜は黙って、茶を注いだ。

「まずはお礼を。娘がお世話になりましたね、真冬くん」

「こちらこそ、夜桜さんには仲良くしてもらっています」

「何でも、笑うのが下手な娘に笑い方を教えてくださったとか」

「いえ、そんな大層なことはしていません」

 真冬は恐縮して、頭を振った。

「結局、笑わせることは出来なかったし、お役に立てなくてすみません。俺、明日この町を出るんです」

「それは寂しいことね……けれど、君は何も謝る必要はありません。十分すぎるほど、君は娘に教えを施してくださいました」

「でも、このままでは、さくら町の桜は咲かないんですよね?花が咲かないことも残念ですが、それで夜桜ちゃんが落ち込まないかと心配で」

 真冬はちら、と夜桜に視線を向けた。夜桜は真冬の優しさが嬉しかった。

「魔女さまが代わりに魔法で花を咲かせることはできないんですか」

 優しい問いに、魔女は破顔一笑した。

「心根の優しい、良き友を得たようですね、我が娘は。しかし、心配には及びません」

 魔女はカップに口をつけた。

「この町の桜は気が長いですからね。ちゃんと待ってくれますよ」

「それは……どういう意味ですか」

「安心なさい、さくら町の春はすぐそこに来ています。そんなことより」

 魔女は真冬の前に小さな硝子瓶を置いた。硝子瓶の中には白濁した液体が入っている。

「夜桜が君にどうしても選別をと言ってね。今日の夕刻までかかって、わたくしと一緒に薬を作りあげました」

 真冬が夜桜を見ると、夜桜は黙って小さく頷いた。

「よく効きますよ、その薬は。なんせ、魔女の手作りですからね」

「これは何の薬なんですか」

 真冬は硝子瓶を手に取った。中で液体がゆったりと動く。

「桜の木に塗る薬だよ」

 答えたのは夜桜だった。空中庭園に来てからやっと夜桜が口を開いたので、真冬はほっとしていた。

「真冬くんのお家の桜は、幹に傷が出来て病み始めていたから。これを塗れば、元気になると思うよ」

 真冬は驚いた顔で、手の中の小瓶にもう一度目を落とした。

「あの木、病気だったんだ……何だか、元気がないなとは思っていたけど」

「特別な薬だから、作るのに時間がかかって。母さんに手伝ってもらって何とか間に合ったの。ぎりぎりになってごめんね」

「とんでもない、家族も喜ぶよ。特にうちのおばあちゃんは桜が好きだから」

 夜桜は真冬の家、彼の祖母、そして庭木の桜を心の中に思い浮かべる。

「家の人に愛されているのが分かる木だった。桜の精は弱っていたけれど、懸命に蕾を膨らませていたわ」

 真冬の祖母にプリンを届けた日、夜桜は庭の桜を見せてもらった。その桜には、根の上で小さく縮んで弱った桜の精が眠っていた。それから一人で薬を作る準備を始め、魔女に手伝ってもらいながら、ようやっと完成させたのだ。

「大切に使わせてもらうよ。魔女さまも、ありがとうございました」

 真冬は赤子のようにそっと小瓶を胸に抱えた。

「春日井の者は、今も昔も桜をよく愛して下さる」

 魔女は懐かしそうに歓笑する。夜桜と真冬は言葉の意味を取りかねて互いに顔を見合わせ、首を傾げていた。

 若い二人は知らない――――魔女がその昔、年若かった彼の祖母に希われ、同じ薬を分け与えたことを。

 

 魔女の家がある丘から川沿いの道へ桜並木はずっと続いている。

 川の水面には星の光を散りばめられていた。新月の夜だったので、水面はいつもより黒々としていた。夜桜と真冬は二人並んで、桜の下を歩いた。

 夜だったが、家が見えるところまでなら、と夜桜は魔女から彼の見送りを許されたのだ。

 二人が歩く川沿いの道はさくら町でも有数の桜の名所だ。例年、この時期には昼から夜まで河川敷は花見をする町民で賑わっているのだが、今年は寂しいものだった。桜が咲かないことには、花見もできない。町民たちは桜の魔女を連日、訪ねてきたが、魔女は「お待ちなさい」と言うばかりだった。その声が聞こえるたび、夜桜は申し訳なくて心をしぼませる。

 閑散とした河川敷を見渡して、夜桜の罪悪感は膨れ上がるのだった。

「夜桜ちゃん、製菓学校ってどのあたりにあるの?」

 夜桜の視界を塞ぐように、真冬が夜桜の顔を覗き込む。夜桜が落ち込んでいるのに気が付いて、彼は話題を振ったのだと夜桜は気づいていた。

 優しさが有り難かったが、申し訳なさのほうが勝った。

「隣町の外れ。駅からバスで三十分くらいかな」

「へー、けっこう近いんだね。バスで通うの?」

「うん、そのつもり」

 会話が一旦、途切れてしまう。

 川のそよそよと流れる涼やかな音が沈黙を柔らかく包み込んでくれる。

「ねえ、真冬くん……大学生になるの、怖くないの?」

 ふと夜桜は真冬に尋ねる。

「ちょっと怖いかな」

「私は小学生になるときも、中学生になるときも、高校生になるときだって、どれも怖かった。すごく怖かった」

 夜桜は自分の声がひどく情けないものに聞こえて耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

 小学生の頃、ランドセルは重石のように背中にずっしりと圧し掛かって嫌いだった。

 進学する度に変わる制服は、枷のように全身を縛り付けているようで嫌いだった。

「知らない場所へ行くのは誰だって怖い、みんな一緒だよ」

「そうだよね……私だけじゃない」

 そう言いながら、夜桜は自分の心が納得しないのを知っていた。

 自分は他の人より、弱い。弱虫だ。だからきっと他の人みたいにできずに、恐怖に負けるのだ。

「やっぱり私は、桜が嫌いだな」

 夜桜は夜空に透ける桜の枝を目で追った。

 桜の花を見ると、どうしても哀しみの記憶ばかりが思い起こされる。

 私はきっとまた変化についていけない、それを想うと夜桜の胸は引き裂かれそうに痛むのだ。

「またそんなこと言う」

 真冬は呆れて、ため息を吐く。

「だって、嫌いなの。仕方ない」

「嘘つき、本当は好きでしょ、桜の花」

 真冬は黙って、しげしげと桜の蕾を眺め入る。

 去年の桜はどんな風に咲いていただろう。自分の瞳と同じ色の花だった。母親と同じ香りのする花だった。

「……いつまでも見ていたいと思うほど綺麗な花だとは思う」

「それを好きって言うんじゃないの」

 真冬は、返事をしない夜桜に向け、さらに言葉を続けた。

「夜の桜って幻想的だよね。夜に見る方が一層美しく見えるから、俺は夜の桜が好きだな」

 そう言われて、今一度、夜桜は桜を見つめる。

 膨らんだ蕾が星々の僅かな明かりで淡く輝いて、それはまるで夢幻。揺らいで、繊細で、触れれば消えてしまいそうな儚さがある。

「夜桜ちゃん、楽しかったよね」

 唐突に真冬が言う。それに対して、夜桜は「うん、楽しかった」と口を突いてすぐに答えていた。

「お笑いも落語も、お菓子作りも、卒業アルバムの編集委員の仕事も、遊園地も他のも全部、ぜんぶ楽しかった」

 夜桜は一つ一つ思い出を上げていく。真冬と過ごした今日までの日々が、色鮮やかに蘇える。思えば、短い間にたくさんのことをした。とにかく楽しいことを探そうと、真冬は夜桜の手を引いた。真冬は楽しいことが大好きだった。夜桜も楽しいことが大好きになった。

 真冬は左右の頬にえくぼを作って人懐こい笑みを浮かべる。

「思い出すと、楽しくて仕方ないや。明日、この町を立つなんて嘘みたいだな」

 嘘ならよかったのに、と夜桜は言えなかった。

「真冬くんと、もうすぐお別れなんだね」

「結局、桜を咲かせるお手伝いはうまくできなかった」

「そんなことないよ」

 真冬は十分に力を尽くしてくれた。

 お役目を果たせない、否、果たさない自分が悪いのだと夜桜は内省した。

 彼にこんな気持ちのまま旅立たせるのはあまりに恩知らずな行いだ。

 このままではいけない、やっと決心がついた。

 夜桜は、隠していた心を、気づかないようにしていた心を、ついに彼に告白した。

「私、笑うのが嫌になっちゃったって、そう言ったら……怒る?」

 真冬は数秒、きょとんとしてから彼女の言葉の意味を悟り、表情を変えた。

 怒るでも、悲しむでも、呆れるでもなく、真冬は彼らしく楽しそうに悪戯っぽく笑む。

「馬鹿だなって思う」

「真冬くんらしい」

 夜桜は、そう言って目を伏せた。

 心から笑って、桜が咲いてしまったら別れと出会いの季節が来る。出会いは恐ろしいものだった。けれど、それと同じくらい別れも恐ろしくなってしまった。

 だから笑わない、桜なんて咲かなくていい。

「桜なんて嫌いだから、咲かなくていいの」

「そう?」

「花が咲いたって、誰の役にも、何の役にも立たないもの」

「そうかなあ」

「桜の花を見ると、哀しくなるひとだっている」

 私はそうだ、と夜桜は独白した。

 目を伏せていた夜桜は、街頭に照らされてできた地面の影を見ていた。桜の枝の影に被さって歩く、大小二つの影。その一つ、大きいな影が不意に立ち止まる。小さな影はその二歩先で、同じように立ち止まった。

「そうだね、桜の花って別れの合図みたいで、確かに寂しくて切ない気持ちになる」

 大きな影は、桜の枝を見上げるように頭を空へ向けた。

「けれど、それ以上に新しい出会いに向けて背中を押してもらえる気がする。だから、みんな、桜に勇気をもらうんじゃないかな」

 大きな影が一歩、小さな影に近づく。

「……勇気?」

 また一歩、大きな影が小さな影に歩み寄った。二つの影は近づいて、交わる。

「君が咲かせた桜に、勇気をもらう人がいるかもよ。例えば、俺とかね」

 夜桜は正面に立って、ぎゅっと自分の手を握った真冬を仰ぎ見た。

「真冬くんが?」

 真冬は大きく上下に首を振ってみせた。

「俺だってさ、この町を離れて新しい場所に行くの、本当は怖いよ。誰かから、何かからもらわないと勇気がでないんだ、弱いから」

 真冬は自分よりよほど優れて、強い人なのだと夜桜は思っていた。

 怖いのはみんな一緒だよ、と真冬が言うのはただの励ましだと思っていた。

 夜桜はようやく理解した。自分は弱い、と言い訳して逃げていただけなのだ。

「あーあ、君が咲かせた桜の花を見て旅立ちたかったな。酷いと思わない?俺はそのために手伝ったのに」

 真冬はわざとらしくがっかりと肩を落とす。

「嘘ばっかり」

「嘘じゃないよ、夜桜ちゃんがどんな顔して笑うのか見たかったんだ。その笑顔で咲く花がどんなのか見たかったんだ」

 真冬は夜桜の前に立って、彼女にぐっと顔を近づけ、瞳を覗き込む。夜桜は驚いて、目を見開いて固まる。

「花の色が夜桜ちゃんの瞳と同じ色か、見比べてみたかった」

 夜桜の桜色の瞳の中いっぱいに、真冬の顔が写り込む。

 なんてね、冗談だよ、と彼はそっと顔を離した。

「俺がいなくても、ちゃんと笑うんだよ」

 夜桜は首を横に振った。

「君が笑わないと、さくら町で花見ができないよ」

 夜桜はやはり首を縦には降らなかった。

 彼女は言えずにいた思いを、この時はじめて、やっと言葉にした。

「寂しい……真冬くんがいなくなるの、私は寂しくてたまらない」

 真冬は夜桜の目元にそっと手を伸ばした。

「泣いちゃうくらい?」

 真冬はからかうように尋ねながら、まつ毛に溜まった大粒の滴を指で拭った。

 桜色の瞳が瞬く度に透明な滴は溢れる。

「休みになったら帰って来るよ。そしたらまた会える」

「そんなこと言って、帰って来なさそう」

 夜桜が言うと、真冬は「信用無いなあ」とおどけて肩を竦めた。

「帰って来るよ。桜の季節は必ず帰る。桜を見たら、夜桜ちゃんを思い出すもの。だから、絶対帰って来るよ」

「じゃあ、私、頑張って桜を咲かせなきゃ」

 夜桜は濡れた睫毛を服の袖でごしごしと拭った。

「真冬くんに勇気をもらった分、私も返したい」

「俺はそんな大層なものを君にあげた覚えはないよ」

「たくさんくれたよ」

 夜桜は分かっているくせに、と真冬をつつくが、真冬はとぼけたフリをする。

「笑ってね、夜桜ちゃん」

 真冬は、夜桜に子守歌のような優しい声で語りかける。

「夜桜ちゃんの笑顔で咲く花が見たいな。今年が無理でも、来年でも再来年でもいいからさ、俺に見せてよ」

「うん、私も……真冬くんに、私が咲かせる花を見て欲しい」

「約束するよ、夜桜ちゃんの笑顔を見にこの町へ帰って来るって」

「何それ、嬉し過ぎて困るよ」

 真冬は呆れたような、困ったような顔で夜桜を小突いた。

「嬉しい時は困るんじゃなくて、笑うんだよ」

「……なるほど」

 暖かい風が、ひゅうと二人の間を駆け抜けた。肌を撫でるように優しい空気の流れは上昇して、桜の蕾を揺らして過ぎ去る。二人は静かに延々と続く桜を仰いだ。桜の蕾はこれ以上ないくらい大きく膨らんでいた。

「花はいつか咲くのかな」

 真冬は微笑を口元に浮かべ、独り言のように小さな声を漏らした。

「きっと咲くよ」

 桜を見上げたまま、そう言った夜桜の顔を見て、真冬は音もなく息をのんだ。

 自分がどんな表情をしているのか、夜桜には分からなかった。しかし、確信はあった。

 桜色の瞳は桜並木に宿る桜の精たちを映していた。木々の根で眠っていた桜の精たちが一斉に目覚めた。欠伸をして立ち上がり、彼らは踊り出した。桜の精たちはきゃ、きゃ、と幼子のように笑い声をあげて、月明かりを追いかけんばかりに舞い踊る。喜びに満ち溢れた精たちは、己が宿り木の蕾に口づけして回っている。桜色の瞳に映る夜の桜並木は活気づいて、溌剌として、躍然として、何とも愉快な情景だった。

 だから多分、自分はそういう顔をしているんだな、と夜桜は思った。

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