通りゃんせに関する考察(阿見手片利の遺稿より)

通りゃんせは比較的新しいわらべ歌だ。これが全国的に流行したのは明治時代のことであると言われているが、その発生は江戸時代末期である。江戸末期の風俗をまとめた岡本昆石の『吾妻余波』には遊戯歌として『天神様の細道』が記されている。これは現在の歌詞よりも短く、現在のものとほぼ同じ歌詞が最初に文献に表われたのは明治二十七年に刊行された同著者による『あずま流行時代子供うた』においてである。しかしここには『怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ』の一節は見当たらない。

これが完全に現在のかたちとして採譜されたのは大正時代、本居長世の手によってである。多くの人を魅了してやまない最後の旋律も、この時に彼の手によって作曲されたと考えるのが一番自然な流れだろう。この曲は映画に使われ、また昭和期にはいると音響信号機に使われたこともあって、日本全国津々浦々にまで全く同じ歌詞、同じ曲調で知られることとなった。調査にあたって細かい地域ごとのバリエーションや、伝播した時代による差異などが見つかることの多いわらべ歌の中で、これは特異なことである。

そこで私は、この本居長世編曲以前にあった本来のかたちを探すことにした。『あずま流行時代子供うた』に採録されている『天神様の細道』はすでに現代の歌詞とほぼ同じであるため、さらにそれよりも古くに遡って調査を行わなくてはならない。この歌が様々な要素を切り貼りして派生したものであるということも、調査において大きな壁となった。

例えばこの歌の最大の謎とされる『行きはよいよい帰りは恐い』の部分であるが、ここは現在広く知られる埼玉県の三芳神社説とは別に、関所遊びから派生したものだという説がある。この説については遊びの形態と歌詞とを別々に分けて考えた方がわかりやすいだろう。

『通りゃんせ』は二人で関所を作り、その下をくぐって通る子供を捕まえる遊びである。このことから関所遊びがもとになっていると考えることは容易だ。しかし、それならば「行きはよいよい帰りは恐い」と付け加える必然性がない。関所は行きも帰りも人の出入りを見張る場所であり、普通の関所を模したならば「行きも怖いが帰りも怖い」であるはずだ。

この疑問に対する回答としてあるのは、一部の地域で歌われていた類歌である。この歌のかなり古い形では「ご用のないもの」ではなく、「手形のないもの」を通さないと歌われていたのだ。東京版『通りゃんせ』の流布に従ってこちらの歌詞は早々に知られなくなったが、この歌が関所遊びであった名残として基本のルールは残されたのである。

ここに埼玉の三芳天神の話が絡められたのは、その立地の特異さ故にだろう。三芳天神は川越城の天神曲輪にあり、ここに詣でるにはお城の城門を通らねばならなかった。それゆえに城内から機密などが持ち出されぬよう、天神参りの帰りには厳しいボディチェックがあったのだ。こうした特別な場所は大人たちの話題になりやすく、それを聞いた子供たちが遊びの中に組み込んだのだろう。確かに誰か一人を捕まえる関所遊びの動作には、「行きはよいよい帰りは恐い」の方がしっくりと当てはまる。

こうした様々な地方から持ち寄られたわらべ歌が切り貼りされ、そして実際に子供たちが遊ぶ中で洗練と変遷を繰り返して出来上がったものが現在の『通りゃんせ』なのだ。

最初に、私は『通りゃんせ』の歌詞を細かく分けてみることにした。


とおりゃんせ、とおりゃんせ

ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ ①


ちっと通してくだしゃんせ

ご用のないものとおしゃせぬ  ②


この子の七つのお祝いに

お札をおさめに参ります  ③


行きはよいよい、帰りは恐い

怖いながらもとおりゃんせとおりゃんせ ④


このうち、②と④は文脈的にも同一のものだと考えられる。「通してくれ」といっている相手に対し、番人は「行きは良いが帰りは悪い、それでも良ければ通りなさい」と許可を与えている。本来の関所遊びとしての問答の部分である。

にある連高原付近には、この原型となったと思われる古い関所遊び歌が残されていた。遊びの動作は現在の『通りゃんせ』とほぼ変わらぬものである。


通る通るぞここ通る

通すまいか通すまい

押し通るならスットコパー


「スットコパー」は、どうやら首を切る擬音であるらしく、捕まった子供に罰として首を切り落とす真似をする。この罰が不道徳であるということで昭和の初期に禁じられ、この歌は消えた。私が採録に向かったときも、年の離れた姉が遊んでいるのを見たことがあるという年寄りが何人かいただけで、実際にこの遊びをしたことのある者は一人もいなかった。

連高原は江戸の飢饉による被害の大きかった地域であり、人減らしのために多くの子供が江戸へと奉公に上がった。この子供たちが関所遊びの動作を江戸へと伝えたのであろう。

遊び自体は江戸の子供にも受け入れられて広まったようだが、野暮ったい『スットコパー』の旋律は江戸の子供たちの感性には合わなかった。そこで同じようにして各地から奉公に来ていた子供たちが伝えた短いわらべ歌をつないでそこに歌詞をつけ足して江戸風の関所遊びが出来上がったのである。

③の部分は、歌詞だけを見れば②と④の文脈をつなげるためにつけ足された部分であるが、メロディーは同じく連高原に伝わる子守歌のものである。


ねんねこねんねこねんねこよ

寝ぬ子はお山に返しましょ


たったこれだけの短いメロディーを組み込んだからこそ、ここだけが少し上ずった異質な歌謡のように感じられる。同様に、②に使われているメロディーは東北地方に残された『子守の慰み』という個人所蔵の覚書の中に記録されている子守歌が元であると考えられる。

江戸には様々な理由で地方出身の子供たちが集められていた。年季の決まったきちんとした奉公にだされた身元の明らかな子供だけではなく、口減らしのために親に売られた子供や人さらいによって江戸に連れてこられた身元不明の子供まで考え合わせれば、それこそ日本全国津々浦々からの子供たちが江戸に暮らしていたのだ。『通りゃんせ』はこうした悲しい子供たちが江戸に伝えたいくつもの地方文化を土台にして、それを洗練した一曲へと育て上げた江戸の子供たちの感性とが生み出した、江戸風俗の縮図なのである。


       (阿見手片利)

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