びしゃがつく夜

卯堂 成隆

第1話

 雪の季節が近づくと、激しいみぞれの降る夜が来る。


 そう、その夜も激しいみぞれが降っていた。

 鉛色の空から、白い糸を連ねて地へと投げるように。

 雨よりも激しく、まるで天が怒りに身を震わせるように。


 そんな激しい天気の中を、一人の男が歩く。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく……靴を捕らえる氷交じりの水音は、みぞれが地を打つ激しい音の中でもやけにはっきり聞こえた。


 だが、しばらくすると妙な事がおこりはじめる。

 誰かがその男の後をついてくる……そんな足音が聞こえはじめたのだ。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。


 振り返るが、後ろには誰もいない。

 気のせいか、それとも周囲の壁で音が反響しているのか。

 だが、どうにも薄気味が悪くて男は足をはやめた。

 早く帰ろう……こんな夜は、嫌なことを思い出す。


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。


 おかしい。

 やはり、誰かの足音がついてくる。

 いったいこれは何だというのか?


 その時、不気味な冬の夜の遁走曲フーガをかき消すように、一台の車が対向車線からやってくる。

 ――まぶしい。

 そのライトの光に怯んだかのように、男はおもわず足を止めた。

 だが……。


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 男が足を止めたにも関わらず、何かの足音は止まらない。

 ――何かか来る!?


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 足音はだんだん大きくなるが、あいかわらずそこには何も見えなかった。

 冷たく夜を照らす街灯の光を照り返すのは、空から激しく叩きつけられる霙の白い残像だけ。


 間違いない……見えない何かが、俺の後を追ってくる!!

 男は背後から迫る音を怖れ、その恐怖に耐えかねたように走り出した。


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。


 逃げども、逃げども、足跡が男の後ろをどこまでもついてくる。

 いやだ、こっちに来るな!!

 だがその時、男はこの窮地を脱するための希望を見つけた。


「そ、そこのタクシー! 乗せてくれ!!」

 男は手を上げ、通りすがりのタクシーを呼び止め、ドアが開くなり後部座席に転がり込む。


「お客さん、どこまで?」

 男が自分の自宅の住所を告げると、タクシーの運転手は目的地があまりにも近いことに不可解な顔をしつつも、みぞれの降る中を何事もなく走り出した。

 そしてようやく助かったのか……と、男が安堵のため息を吐いたその時である。


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。


 その後ろから、あの不気味な足音が聞こえてきたのである。

 ――まだ追ってくるというのか!?


「す……スピードを上げてくれ!!」

「いや、お客さん無茶言わないでくださいよ。

 こんな天気の中でスピードを上げたら、事故っちまいますって」

「どうでもいいから、早くスピードを上げろ! あの不気味な足音が聞こえないのか!?」

 切羽詰った男の様子に気違いでも見たような目をむけると、タクシーの運転手はわずかではあるがアクセルを踏む足に力をこめた。


 だが、結局男は不気味な足音から逃れる事はできなかった。


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 帰宅した男の家の周りを、まるで男を監視するかのように不気味な足音がさまよい続ける。

 そしてその奇妙な現象は……みぞれが降り止んで、空がつかの間の休息を得るまでつづいたのであった。

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