欲が為に、意味を持つ―7―


 〜ある日の富田家 Chapter2〜



 PM11:00を過ぎた辺り。これは何を指すのか?答えは───なんて言うまでもなく、大体の人が寝に入る、もしくは既に就寝している時間帯だ。それは富田家も例外ではなく、家計簿を付け終えた玲二も、愛用の眼鏡を外しがてら寝室に向かおうとしているところだった。


「ね……レイママ……?」


 その時。彼…………いや、うん、そう。彼の背に誰かの細い声が掛かった。普段なら既に寝ているはずの、その声の持ち主──パジャマ姿の咲夜が、振り返った先でリビングを覗き込んでいるのを見て、玲二は色んな意味で驚く。


「あらサクちゃん、まだ起きてたの?駄目じゃないっ、寝不足はお肌の大敵なんだから!」

「うん、ごめんなさい……」

「……どうしたの?そんなところで隠れてないで出てらっしゃい。座ってお話しましょ?」

「ん……」


 どうした事か妙にしおらしい様子に、玲二は遅れてハッとした。きっと先日の──どこか物憂げに見えた笑顔が記憶に新しい、あの時の話をしようとしてくれているのかもしれない。

 そう考えると堪らなく心配になってしまうが、出来る限り動揺を抑え、優しく微笑む。


「ホットミルクでも飲む?」

「ううん、いい。ハルはもう寝てるよね?」

「ええ」

「だよね、良かった。あのね……お願いがあるんだけど」

「お願い?」


 ──あのサクちゃんが?

 驚きと喜びがいっぺんに来た。それにこの幼気いたいけな表情のコンボ。それだけでもう何でも聞いてあげたい気持ちになる。


「大した事じゃ……多分、ないんだけどさ」

「うんうん、何でも言ってちょうだい!」

「こ、今度、遊びに行ってもいい?」

「え?いいに決まって……あ、お小遣いの相談ね?」

「ううん、それは大丈夫、貯めてるのあるから」

「ええ?じゃあなぁに?」

「んと……実はその、泊まりで……的な」

「お泊まり?あらそうなの?お友達と?」

「……友達ではない」

「……ん?」


 急に雲行きが怪しくなってきた。

 どうやら玲二のイメージにあった、かわいこちゃん達が三人くらい集まってのきゃっきゃうふふなパジャマパーティーは早くも夢と化したらしい。


「じゃあ誰と?」

「部活の先輩」

「ああそういう事。何人で?」

「……アタシだけ」

「じゃあ二人って事ね?そんなに仲良しなの?」

「いや……そんな事はないかな」

「ちょ、ちょっと待ってサクちゃん?どういう事?ママよくわかんなくなってきたわ……!要は何、そんなに親しくもない先輩のお宅に、お泊まりしに行きたいって話?」

「そう!」

「な、何しに?」

「これ!」


 「見てっ!」と元気良く差し出されたるは、赤いカバーのスマートフォン。画面には誰かとやり取りをしたメッセージアプリが表示されている。


「わんこ!」

「わんこ?」

「飼ってんだって、この先輩!しかもハスキーとレトリーバー!おっきい!超もふもふ!ほら、この写真もめっちゃ可愛いっしょ?」

「そ、そうね?」

「触りたいの!」

「さわ……え、ええ?」


 キラッキラに目を輝かせる咲夜に、玲二は心から困惑した。咲夜が大の犬好きなのは知っていたけれども、まさかそれだけの為に人様の家に行きたいと言い出すとは……!


「あと散歩とかもしたい!で、いいなぁって思ってたら、そんなに好きなら今度の三連休遊びに来ないかって言われてさ!もし良かったら泊まってっても良いってさっ!」

「そ、それで?」

「取ってこーいも出来るんだって!」

「あっそうじゃなくて」

「一日中遊んでていいんだって!」

「わかったから!サクちゃん、わかったから一回落ち着いて、ママからも質問していい?」

「ん?」

「その先輩ってどんな人?」

「うーん……凄い人だよ、良い意味でも悪い意味でも。頭も良くて美人だし、学校じゃ人気者だね。ファンクラブがあるくらい」

「ファンクラブ!へぇ、そうなの。じゃ、サクちゃんからの印象は?」

「え?地雷処理戦車」

「じ……は?何て?」

「地雷処理戦車。地雷をガツガツ踏み潰していく奴」

「遥か斜め下な評価にママドン引きだわ」


 後で画像検索してみたのだが、文字列から想像した通りの巨大などぎつい迷彩が画面を埋め尽くしたので、すぐさま履歴から消去しておいた──。


「ふぅ……ごめんなさいね、サクちゃん。今のところママは、どうしてもOKをあげられないわ……」

「……やっぱり?」

「んもん、そうよぉ。理由はわかってるでしょ?」

「うん……お泊まりだからだよね?」

「やだそうじゃなくてっ、お世話になるその先輩よ!いくら誘われたからって何もそんな……何?ジライショリセンシャ?みたいな人のところに行く事はないでしょ?」

「え……でも、わんこ……」

「ワンちゃんならママが今度ふれあいワンニャンランドに連れてってあげるから!」

「…………!!!」


 その時、咲夜に激震走る!!

 ずぎゃん!と雷が落ちたかのような衝撃顔で、咲夜はぐわっと玲二を凝視した。そこには衝動のままに筆で綴られた“その手があったか!”という文字がある。

 そしてしばしの沈黙の後、ゆっくりゆっくり視線を下ろしたかと思うと「……そうじゃん」と虚ろがちに呟きだした。


「そうじゃん……アタシ何言ってんだろ、いくら早急に癒しが欲しかったからって……あのセンパイんちに行くとか、しかもよりによって泊まりだなんていくら何でも考えナシすぎる。……あまりのもふもふに我を失ってた」

「おーい。サクちゃん、帰ってらっしゃい」

「ありがとうレイママ。アタシ、危うく罠にハマるところだったよ」

「罠!?」

「本当にありがとう。レイママが連れてってくれるならそれが一番だから!明日会った時に断ってくるね!」

「あ、ああ。うん、そうしなさい?何だかよくわかんないけど……あのね、遊びに行くのもお泊まりするのもママはぜーんぜんっ構わないのよ。だけど、もっと信用出来る人じゃないと心配──」

「──あんだ、まだ寝ねーのか?」

「あ、トラくん!」


 話し声を聞きつけたのか、今度は富田家の大黒柱、虎由がリビングの戸を開いた。のっしのっしと近付いてくる寝間着姿の彼の頭は、剛毛とは程遠いサラッとした仕上がりとなっている。普段はワックスで固めているので誰も想像出来ないが、本当はこんなに柔らかい髪質だったりするのだ。……以上、余談であった。


「ちょうど良かった。トラくん、週末の予定が決まったわよ!サクちゃんがワンちゃんと遊びたいんですって!」

「何、本当か?何処ならそれが出来るんだ。ドッグランって奴か?いや待て、念の為シフトを確認してくる」

「待って待って!大丈夫だよそんなに慌ただしくしてくれなくても!」

「そうもいかないわよぉ、他でもないサクちゃんのお願いなんだもの!ママ、腕によりをかけてお弁当作っちゃうから!それともリッチに外食が良い?ハルちゃんならそっちのが喜びそうね」

「だな」


 ──ああ、毎回こうなるからますます頼み辛くなっちゃうんだよなぁ……

 と、苦笑いで二人を見守るのは咲夜だ。咲夜は皆の事が好きだからこそ常に何かを遠慮しているが、富田家はその逆で、好きだからこそ常に何かをしてあげたいと考えている。愛のデフレスパイラルとでも名付けようか。


「それはともかく聞いてよ、サクちゃんたらね?ワンちゃんと戯れたいからって好きでもない先輩のお家に遊びに行こうとしてたのよ」

「好きでもない先輩だあ?サク、お前……ん?その先輩ってもしかすっと、タツミネって嬢ちゃんか?」

「え!そうだけど……な、何で知ってるの?もしかしてお店で会った?」

「嘘!知ってるの、トラくん?」

「まあな」

「うわマジで?いつ?先輩何も言ってなかったのに……」


 咲夜は微妙な気持ちになった。大方、自分が居なかった日に店に出向かれたりでもしたのだろう。知らない内に親族と学校の誰かが顔見知りになっていた事実に若干居心地の悪さを感じたが、それもあの人の狙いの一つだったんだろうなと腑に落ちるところもある。


「で?あの嬢ちゃんに誘われたって?」

「うん。でも断るよ。トラ叔父さん達と一緒のが絶対楽しいもん!」

「別に行ったらいいじゃねーか」

「へっ!?」

「つーかよ、何でどっちかだけ選ぼうとしてやがんだ?俺らとも行って、あの嬢ちゃんとこにも行けばいいじゃねえか」

「え、え、いやでも……」

「ちょっと何言ってるの!駄目よ、サクちゃんが潰されちゃうでしょっ、戦車に!」

「ハァ?戦車だかジンジャーだか知らねえが、そんなんにサクが負けるかよ、なぁ?」

「……まあ、確かに負けるつもりはこれっぽっちもないけど」

「だろ?……そうだな、いざっつー時はこう言ってやれ。『何かあったらタダじゃおかねえ、“親父”が黙ってねーぞ』ってな」

「? わかった」

「……んまぁ、トラくんがそう言うなら……サクちゃんに任せるけど」


 渋々といった様子で引き下がる玲二。

 視線の先にいる虎由は、何故か負けん気に満ち溢れていた。何があったか知らないが、どうやら好戦的な性格に火が付いているらしい。


「ところでサクよぉ。お前、犬と猫どっち派だ?」

「わ……犬とネコで?どっちも好きだけど……うーん、やっぱり犬かな!」

「ハッ、そうか!そうだよなあ!」


 ギラリと機嫌良く笑った虎由は、咲夜の頭をガサツに撫で付けて寝室へと姿を消した。お陰で一気にボサボサになってしまったそこを触りながら、咲夜はキョトンとした眼差しを玲二に向ける。


「トラ叔父さんってそんなに犬好きだったっけ?」

「好きかどうかって言われたら、普通な方じゃないかしら?さ、私達もそろそろ寝ましょ」

「あ、うん。でも、じゃあ何であんなに……?」

「うふふ。それはねぇ──」


 困ったように。でも嬉しげに。

 頬に手を当てながら、夫を想うつまは答えた。


「きっと嬉しかったのよ、貴女がトラくんと同じ犬派で。あの人、サクちゃんと似てるって言われるのが一番嬉しいみたいだから」

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