言葉が為に、口閉ざす―6―


 橘委員長は、コトノハ少年だった。

 コトノハ少年は、橘委員長だった。


 何を言っているのか わからねーと思うが、咲夜も 何がどうなっているのか わからなかった。


「頭がどうにかなりそうだった……」


 恐ろしいものの片鱗を 味合わされたぜ───ってオイオイ。


「いい加減正気になれアタシ……」

「頭痛いの?瀧本さん」

「え?いいえ?」

「え?」

「え?」

「ううん……大丈夫なら、いいのだけど」


 翌る日の、放課後。

 未だ混乱冷めやらない咲夜を澄んだ目で見つめてきたのは、立てば芍薬・座れば牡丹・歩く姿は百合の花──の、竜峰天華その人であった。

 皺一つない制服、毅然とした振舞い、それでいて慈愛の籠ったその瞳。相変わらず(いい意味で)間近で見る顔じゃないと、少々赤くなりながら距離を取るそんな咲夜の今の格好は、セーラー服でなくエプロン式の制服姿。そう、ここは神楽坂女学院でなく、商店街の洋菓子店•blooMomentなのである。


 というのも……外出届を出す事の有意義さを知った天華が、生徒会が休み且つ、咲夜が店の手伝いをする予定日を見計らい、こうしてちょくちょく足を運ぶようになっていたからだ。もちろん最初こそ難儀に思っていた咲夜だったが、何というか……率直に言って、もう慣れた。

 それにここでの二人は単なる客と店員なので、お店の安泰を思えば──と心を入れ替えた店員側がいち早く受け入れ、今に至っている。(※一方で客側はありとあらゆる打算や下心でいっぱいである)


 故に先程、トチ狂った独り言を漏らすなどという粗相は、弘法にも筆の誤りという他ない。要はそれくらい、【橘委員長 もしかして:コトノハ少年】事件が、当人にとって大ショックだったという訳だ。咲夜は小さく溜息を溢す。


「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

「はい……?」

「だって何だか顔色が……クマも少し……」


 ああ、それなら仕方ない。何故なら夕べはあまり眠れなかったから。何なら、あれからどう帰宅したのかの記憶も定かでない。


「大丈夫です。……って、だからあんまり親しげに話し掛けないでくださいってば。スタッフの目もありますし、いつクラスメートとかが来店するかわからないんですから……私、前にも言いましたよね?」

「そうは言っても、あまり話さないのも不自然でしょう」

「それはそうですけど」

「だったら───」

「“お客様”」

「……はあ、わかった。じゃあ“店員さん”、ミルフィーユとチョコレートケーキをお願いします」

「かしこまりました!いつもありがとうございますっ」


 咲夜はにぱっと笑い、強引に話を逸らす事に成功した。が、それでもその背に受ける視線はなかなか途切れない。以前、天華は先の注意を受けた時、「お店ならではの呼び合い方があるのも悪くないわね」と意味深に頷いていたのだが、今ばかりはさすがに心配の意が強いらしく、その表情は“一般客”としてのそれを遥かに越えている。だが、そんな気遣いを察せられたからと言って、今の咲夜に応じられるだけの余裕があるかどうかと聞かれれば答えはNO。

 なので、レジスタッフに「お友達いつもの割引お願いします」とにこやかに告げてさっさと持ち場に戻───ろうとしたのだが、「いや待てよ?またお店に来てくれた学校の先輩をいきなり無下に扱いだすなんて確かに“普通”はしないな?」とすんでのところで思い留まり、とりあえずそのままの笑顔で天華の隣に並び立ったのは内緒の話である。お陰で逆に怪しまれずに済んだようだ。

 ちなみに、常連一歩手前&パーフェクトビューティーガール&オーナーの姪咲夜の先輩生徒と好条件が揃い踏みなだけあって、blooMomentスタッフはほぼ全員天華を上客として認識しつつある現状も厄介事の一つだったりする。恐らく、これも彼女の作戦の内なのだろうが……というか、結局こうなるんだったらマドレーヌ一つくらい人前で食べてくれたって良かったのに。まあ別にいいけど。



 だけども───咲夜はやはり、天華を真っ直ぐ見る事が出来ずにいる。


 この人はきっと、本当に良い女性だ。交際相手としてならこれ以上ない、百点満点の……α。ただ、その潜在本能にさえ負けなければ……それ関連の出来事を除きさえすれば───きっと、良い関係を築けていけた。……いや、その実全く逆で、大して関わる事なく三年間を終えたのかもしれない……そんな人に、あの日、告げられた一言。愛の告白。大嫌いで、大好きな───“運命”。


 本音を言えば、全く嬉しくない訳ではなかった。でも、それよりずっと落胆の方が大きくて、悲しくて。どんなに期待しても、どんなに待ち望んでいても、結局自分に好意を向けてくれる人は、瀧本咲夜でなく、その身に流れるΩの血に惹かれているのだと……そうしっかり理解していても。こうしてむざむざ駄目押されると泣きたくなるのは、奥に隠した柔らかい心のせい。だから時折、咲夜は無性に自分の事がわからなくなる時がある。

 果たして、羊を装いたいが為に皮を被っている狼なのか……狼になりたいが為に皮を被っている羊なのか………。


「……またね」

「あっ、はい。えと……またいらしてくださいね」


 店先まで見送った際、考え事をしていたせいで、本来こちらから言うべき別れの言葉を先に使わせてしまった。慌てて顔を上げると、ばちりと絡む、天と夜。一瞬言葉を失う咲夜に、天華はこう言った。


「七時間から八時間」

「……ん?」

「最適だと言われている睡眠時間。個人差はあるけど」

「あ、はい。え?」

「出来るなら、今日のお風呂は電気を点けずに入って。それで、手を目に当ててゆっくり温めて、寝る前はなるべくスマホを触らずに……あ、小さくクラシックを掛けてみるのもいいかも」

「あの……ごめんなさい、何の話ですか?」

「……。ぐっすり眠れるだけで、前を向ける気持ちもあるから」

「……ああ」


 何となく合点がいき、大人しく頷く。


「……やってみます」

「うん。……私に出来る事なら、何でも言って。それがもし私の手には余る事だったとしても、ツテを辿って絶対力になってみせるから」

「は、はい」


 店外だからまだいいものの、往来の多い場所でこうグッと迫られると反応に困る。


(そもそもアンタの手に余る事なんてあんのかって話なんだけど……)


「………本音はね」

「本音?」


 そんな咲夜の憂いをよそに、そっと続ける天華。


「瀧本さんの支えになるのは、私だけでいいと思ってる。し、」

「……し?」

「何かに悩んだ時、楽しんでる時、ぼんやりしてる時……最初に思い浮かぶような存在で在りたいとも思ってる。ううん、いつかきっとなってみせるから……今は、その始めの一歩ね」

「……それは───」


 ──私が、好きだから?

 開きかけた口をつぐむ。予想出来る事は、理解しておきたい事と必ずしもイコールで結ばれているものじゃない。

 何だか体が怠い、もしかしたら熱があるかもしれない、でもここできちんと測って自らの不調を視覚化したくはない。このまま知らないままで、知らないフリで、頑張り続けたい。それと酷似していた。


「何?」

「あ、何でも。あー、はは。ま、そうなれるといいですね」

「そうやって余裕でいられるのも今の内なんだから」

「……ですかね」


 ククッと笑ってやると、天華の唇も楽しげに弧を描いた。



 ───その夜の、初めて洗面所の明かりだけを頼りにした入浴はなかなか新鮮だった。手のひらと全身から伝わる熱が、じゅわっと目の凝りをほぐしていく感覚がとても気持ち良くて、ああ、腫れぼったかったんだなあと改めて、今更ながら。


「あ……ありがとうって、言ったっけ」


 そうしてベッドに身体を沈めた咲夜は、ふと、問題の先輩と別れ際のやり取りを思い出し、そんな独り言を呟いた。


「言ってないや、多分……」


 アドバイスを受けておいて礼の一つも言えない人間に育てて貰った覚えはない。そんな生き方、美しくない。『美しく死ぬ為に美しく生きなさい』とは、過去、ハンサムママ•玲二から贈られた言葉である。

 早速メッセージアプリで一言送ろうとしたが、そういえば寝る前はスマホを控えるようにとも言われた記憶も甦り、迷った挙句、今度会った時にまとめて言おうと決心した。

 枕元には、栞を挟んだままの一冊が。咲夜はその表紙を、まるで壊れ物を扱うかのように優しく撫でた。


「本ならいいのかな。そういう事じゃないか……いや駄目って訳でもないんだろうけど、先輩はアタシのクマを見てああ言ってくれたんだから……寝不足になりそうなのはやめとこ」


 このクマの原因と読書のし過ぎは関係ないけれども。

 ……待て、元を辿れば全く無関係って事もないのか、ああ……。


「……ねえ。反則負けにならない、よね?」


 あの人との勝負──と、うずらぼんやり瞼を閉じた世界で、矢印尻尾の悪魔が答えた。愛想なく、さァ、どうだかねと。


 ──だって、完全なイレギュラーじゃん。


 それに並び立つようにして、金ピカ輪っかの天使も。細かくルール決めしてなかったとは言え……と、少しも苦笑を隠さずに。


 ──“もし他の誰かに運命を感じたら”、なんてケースは、ね……。





「あ、おはよー瀧本さん、昨日ね、委員長が探してたよ」


 咲夜は盛大にすっ転んだ。

 隣接した席の椅子に足を引っ掛けて。


 あ、やばい──このまま倒れたらどうなる──ド派手に音を立ててぶっ倒れたら──きっとまた心配されて──弱い存在だと思われる───……!?


 スローモーションにも思える一瞬の中、クラスメート中の視線を掻っ攫った咲夜の上半身が床に呑み込まれかけたその時、死にものぐるいとも言える奇跡の意地が発動する。

 なんと模擬新体操よろしく、寸前で両手を付き、上手い具合に身体を丸め、そのままでんぐり返しの要領で何事もなかったかのようにぐるんと立ち上がってみせたのだ。全ては気合いが魅せた究極の誤魔化し方である。10点!

 尚、もちろん別の意味での注目度は増した。


「えーっ!何突然、大丈夫!?」

「あっウン!ちょっとこないだ見た映画の真似してみただけだから!」

「全然そんな風には見えなかったんだけど……!?」

「でっ、それより何?橘委員長が?私を?」

「あ、そうだった。瀧本さんがいきなりアクロバティックな登場してくるからすっかり忘れてた」


 と切り出したのは、同じく図書委員会のクラスメート。だから咲夜は、委員長というワードだけでそれが誰かを瞬時に理解したという訳だ。


「昨日の放課後。瀧本さんが帰った後、教室に来たの」

「な、何か言ってた?」

「ううん?もう帰っちゃいましたよって言ったら、『そっか……』て」

「…………!!」

「何か約束でもしてたんじゃ?」

「や、してない……教えてくれてありがとう」


 という訳で……まあ、改めて言うまでもないだろう。力無く席に着いた咲夜の、その日一日のメンタルがドン底に叩き落とされた事なんて。

 ああ!一体何故察してあげられなかったのか……そんな後悔ばかりが襲い来る。

 だって、考えてもみろ。正体がバレてしまったヒーローの思考回路を。自分の正体を知ったその者を「まァいっか〜ドンマイドンマイ!てへぺろ☆」なんて悠長に放っておく奴がいるか?いやいない!いるはずがない!


(ああああ……アタシ、自分の事しか考えてなかった……最低!)


 彼女はどんなに不安だっただろう?どんなにショックだったろう?言いふらされるかもしれない、幻滅されたかもしれない。そんなありとあらゆる負の感情があの人を包み込み、自分以上に眠れない夜を過ごしたに違いないのだ。神と崇めるあのお方を、そうさせたのは一体どこのどいつだ?……この、大馬鹿野郎があ!


「やっぱ行くわ」

「行くってどこに?」

「橘委員長のとこ……」

「あら。それは……このホームルームを抜け出してまですることなのかしら、瀧本さん?」

「そりゃあ……っ、へ?」


 衝動のまま立ち上がった先には、担任教師の加島紫乃。にこっとした大人の笑みに射抜かれた瞬間、恐怖で押し黙り、真顔で腰を下ろす大バカヤローがそこにいた。


 そしてまた余計な注目度が増してしまった事も……言わずもがな……。



──

─────



『名前と言えば……小学生の時、名前の由来の作文発表会やらなかった?あ、家族の作文?そうなんだ、学校ごとに違うのね……じゃあ、せっかくだから聞いてみたらどう?さくちゃんの名前に込められている、大事な願いを───』



 名前。大切な名前。一人一人が持つ宝物。だが瀧本咲夜は一時期、『瀧本咲夜』が好きでなかった。何故読み方として『サクヤ』なのか、何故数ある漢字の中で『夜』が選ばれたのか。そういった事を年端も行かぬ頃に何度もからかわれ、幼心ながらに傷付いていたからだ。と言ってもそれももう、過去の話。今では瀧本咲夜は『瀧本咲夜』である事を誇りに思っている。──ある一点を除いて。


 また、『サク』と愛称で呼ばれる事も好きだった。正確には、“そう呼ぶ事を許した相手”が好きだった。自分の中で、“愛称で呼び合うのは特別な関係の証”という認識があったからである。自分を愛称で呼ぶ者達は皆、咲夜も気持ちを込めて、下の名前、もしくは愛称で呼び返していた。

 しかし、それは裏を返せば、その他の者は全員必要以上に近寄らせない事を意味している。だから例えば、天華は『竜峰先輩』もしくは『センパイ』。來夢ならば『小鳥遊会長』など……さりげなく本名をしっかり避けて呼んでいるのだ。伝わるのなら役職名だけで済ます事も少なくない。その徹底ぶりはクラスメートも例外でなく──


『よろしくねぇ、お隣さん。私、仲西あずさ!』

『あ、こっちこそよろしく。瀧本咲夜です。咲夜でいいよ』

『じゃあ私も!あずさって呼んでねぇ』

『……んや、にっしーがいいな』

『え?』

『仲西から取ってにっしー。どう?』

『に、にっしー?初めてのアダ名……あずちゃんとかならあったけどぉ……』

『新鮮でいいでしょ?』

『う、うん……?』


 ──とまあ、あのあずさでさえ実はこんな具合であった。一見気さくに感じられるかもしれないが、咲夜のボーダーラインが引かれたが最後、もうそこから内には入れない。入れさせない。そういう強い意志が、誰にも知られず胸の奥底で燻っていて───……



「あ……」

「……良かった」


 昼休みに入った直後、咲夜は三年生の教室まで走り、無事の再会を果たしていた。何組か知らなくても、当たるまで探し続けるつもりでいたのだ。だからすぐ、A組の廊下側でばったり会えたのは僥倖だった。


「橘委員長」

「咲夜ちゃん……」

「昨日はせっかく来てくれたみたいなのに、話せなくてすみませんでした。あと一昨日も、その、色々と……今日なら時間あるんですけど、委員長はどうですか?あ、部活か……」

「だ、大丈夫。今日はお休みだから、えっと……うん、五時半くらいまでなら」

「そうでしたか。じゃあ放課後、あの猫の所で待ってます。……いいですか?」

「いいも何も……私……だって……」

「大丈夫ですっ!」


 怯えたように顔を伏せる橘を目にしたら、思いがけず大声が出てしまった。またもや周囲の視線を集めそうになり、慌てて背を向けた咲夜は……


「えっと……っ、アタシ!何も変わってないですから!」


 とだけを言い残し、その場を去った。



 その日。決して滲む事のないインクで書かれたボーダーライン……それを塗り替えようとする瞬間が、訪れようとしていた─────


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