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 監獄には血と錆の匂いが立ち込めていた。天井から吊られた枷が手首に噛み付き、時折その鎖が骨をすりつぶすような、鉄の擦れ合う音を奏でている。

 宙吊りになった少年は身に纏う布切れさえなく、生来の肌も原形をとどめないほど傷と血にまみれていた。肉屋の獣だって、もう少しましに解体されるだろう。傷つけるためだけに傷つけられている体は、痛みという悲鳴さえ上げられなくなっていた。

 ――くそったれ。

 火の渦に呑まれて漂流する意識の断片から、少年はようやく意味のある言葉を拾い上げた。肉体から乖離していた思考が神経の糸をより合わせると、激痛が雷となって蘇り、自我という自我を容易く引き裂いた。

 手足に実体はなく、ただ熱い、燃え盛る火炎そのものに感じられた。それが枷に繋がれているのを、少年はどこか異なる世界の出来事のように眺める。どこまでが自分で、どこまでが痛みか判然としない。あるいは既に自分の体は塵と消え、残された意識だけが幻想を見ているのかもしれなかった。それにしては、あまりにも酷な夢を見せるものだ。

 しかし、息苦しさが少年に現実を突きつけた。つぎはぎの体が吹き飛びそうなほど咳き込むと、血肉とともに歯が一本、錆びた床に転がって音を立てる。歯ぎしりしようにも、その大半は失われていた。

 ――俺が、何をした。

 惨めだった。自分が惨めだという認識が失われるくらいに。だが、少年はこれがまだどん底でないことを理解していた。実際、今の少年はすこぶる調子が良い。なにせ、まともに物を考えることができるのだから。

 ゆっくり辺りを見回して、くろがねの戦斧が傍らに立てかけてあることに気付いた。その用途は限られている。皮を裂き、骨を砕き、はらわたを潰してなお足りないとなれば、あとは手足を斬り落とすくらいしかない。

 ――逃げよう。

 唐突に、逃走の二文字が頭をよぎった。体だけでなく心まで摩滅して、考えることすらできなくなる前に。時期は今をおいて他にはない。擦り切れた思考を引きずって少年は考える。戒めを解く方法、檻を破る方法。どちらも大して難しいことではなかった。

 狂乱の中で、少年は最後の力を振り絞る。はっと息を飲み込み、腕の力だけで手枷を引き、両手を近づける。鎖がきしみ、手首がちぎれそうになる。だが、ちぎれて枷から抜けるのであれば、その方がありがたかった。

 足が浮いているので、体重以上の力はかからない。利き手の右手で左手をつかむと、渾身の力で握りつぶした。飛びそうになる意識をどうにかつなぎとめ、つぶれた手を枷から引き抜く。いつ以来かわからぬ床の感触は、決して心地よいものではなかった。

 お前は怪物になれると言われ続けた。死から帰るたびに怪物に近づいていくのだと。少年を傷つける人々の目的が、それだった。

 ――なってやろうじゃねえか。俺自身の力で。

 少年は、今まさに怪物になりゆく自分を実感していた。全身の痛みが遠のいていくのは錯覚でなかった。右腕を勢いよく振り切って鎖を引きちぎると、右手が満足に動くことを確かめて、斧を握る。

 ――逃げてやる。生きてやる。

 持ち上げた斧は、拍子抜けするくらいに軽い。苦もなく斧を檻に叩き込むと、けたたましい金属音とともに格子が歪んだ。

 黒髪の少年は、鏡の色をした瞳をぎらつかせて、獰猛に笑った。

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