竜の鱗

 自由都市アルティジエに夜の帳が下りる。

 夜空に瞬く星のように街の明かりが灯るなか、夕食時を終えた『羊の安らぎ亭』は、昨夜の慌ただしさとは一変した静かなときを迎えていた。


 夕刻に廃坑を包囲していたアルティジエ自警団は、その後、レティシアとマリアンルージュを襲った数名のレジオルディネの憲兵隊員、及びそれに協力したと思わしき同隊員を、街の留置施設へと連行した。

 結果的にレジオルド憲兵隊の全隊員が連行されたことで、『羊の安らぎ亭』の客室のほぼ全てが空き部屋になってしまった。


 廃坑から戻ったゼノは、女将のヴァネッサの指示のもと、使用済みの客室の後片付けを任されていた。

 右手にモップ、左手に木製のバケツを提げ、客室棟一階の廊下を奥へと進む。一階の清掃は大方片付き、あとは最奥の一室が残るのみだ。

 廊下の突き当たりに位置する部屋の前で立ち止まると、ゼノはふと天井を見上げた。


 丁度この真上に位置する部屋で、今、マリアンルージュが休んでいる。引き裂かれた衣服や泥に塗れた身体から状況を察したヴァネッサが気を利かせ、空元気を出してみせるマリアンルージュに、今夜はゆっくり休むようにと言いつけたからだ。

 廃坑から戻った後も、マリアンルージュはリュックやレティシアに対し気丈に振舞うばかりだった。ヴァネッサが止めなければ、今も一緒に客室を片付けて回っていた事だろう。


 涙で頬を濡らした、怯えた瞳のマリアンルージュの顔を思い出し、ゼノは奥歯を噛み締めた。


 廃坑の暗がりのなかで、マリアンルージュがあの男に何をされたのか。

 その全てを聞き出すことが、ゼノにはできなかった。その件については、ゼノが触れてはならないような気がしたからだ。

 あの男に鱗を見られ、触れられた。それだけでも耐え難い屈辱だったに違いない。それにも関わらず、追い討ちをかけるように、ゼノも彼女の鱗を見てしまったのだ。

 不本意とはいえ、傷口に塩を塗ったようなものだ。


 己の首の後ろ側、うなじの下にあたるその部位に、ゼノは無意識に指で触れた。



***



 客室の清掃を終え、厨房に戻ったゼノを迎え入れたのは、いつもより小洒落たティーポットを手にしたヴァネッサだった。

 揃いのカップとソーサーを載せたトレイにポットを置き、ゼノに差し出して、ヴァネッサは笑顔で言った。


「おつかれさん。今夜はもう上がっていいよ」

「どうも」


 軽く頭を下げてトレイを受け取ったゼノの鼻腔を、ポットから漂う嗅ぎ慣れない匂いがくすぐった。優しくて甘い香りだ。

 一日の仕事の終わりに、ヴァネッサは毎晩温かいお湯を沸かしてくれていた。けれど、今夜のポットの中身はいつものお湯ではない。それなりに拘ったハーブが使われているようだった。


「珍しいですね」


 軽く蓋を持ちあげて、ポットの中を覗きながらゼノが言うと、ヴァネッサは小さく息を吐いた。


「あんたにじゃないよ。……ほら、あんなことがあったあとだろう? あの子には元気になって欲しいんだ」


 察しろと言いたげに、ヴァネッサがゼノを見上げる。


「あの子って……俺に、これを運べってことですか?」

「何おどろいてんだい。当然だろう?」


 ヴァネッサの言う『あの子』がマリアンルージュのことだと瞬時に理解し、ゼノは慌てて首を振った。

 行動を共にする仲間とはいえ、ゼノは歴とした男だ。あのようなことがあった後なのだから、廃坑でマリアンルージュを襲った連中と同類に思われていてもおかしくない。

 こういう場合は同性に世話を任せたほうが無難なはずだ。

 

「それならレティシアのほうが適任でしょう。同性ですし、きっとマリアも安心できます」

「ひでぇなぁ。レティだって被害者なんだぜ?」


 唐突に背後から声をかけられ、ゼノが慌てて後方を振り返ると、厨房の入り口で呆れたように肩を竦めるリュックと目が合った。


「マリアはレティの前で弱音を吐けないだろ。要らない気を遣って辛い気持ちを抱え込んで、余計に疲れるだけだ」


 リュックがゼノに歩み寄り、ぽんと肩を叩く。ゼノが恐る恐るヴァネッサに目を向けると、同意を促すように大きく頷かれた。そしてとどめを刺すように、その一言が告げられた。


「あんなことがあったんだ。独りじゃ心細いってもんだよ」



***



 結局、ふたりに押し切られるようなかたちで、ゼノはマリアンルージュの待つ部屋へ向かうことになった。

 重い足取りで階段を上がり、廊下の突き当たりで立ち止まる。手にしたトレイと閉ざされた扉のあいだを、何度か視線が行き来した。

 散々躊躇ったあと、ゼノが扉を叩こうと手を伸ばしたときだった。


「入らないの?」


 後方からマリアンルージュの声がした。

 慌てて振り返ったゼノの目に、ナイトドレスに身を包んだマリアンルージュの姿が映る。ほんのりと上気した肌と湿った柔らかな朱紅い髪から、湯浴みを終えたばかりなのだとわかった。

 想定外の事態に狼狽えるゼノを見てくすりと笑うと、マリアンルージュはゼノの手元――ティーセットの載ったトレイを目線で指した。


「……それ、おばさんから?」


 小首を傾げて尋ねるマリアンルージュの様子はいつもとさほど変わらない。

 特に思い詰めた様子もなく部屋の扉を開くと、マリアンルージュはゼノの手からティーセットを受け取って、真っ直ぐに窓際に置かれたソファへと向かった。ローテーブルにカップとソーサーを並べ、手慣れた様子でハーブティーを淹れはじめる。

 あまりに自然に振る舞われて、ゼノは呆然と立ち尽くした。ハーブティーをカップに注ぎながら、マリアンルージュが口を開く。


「片付け、手伝えなくてごめん。大丈夫だって言ったんだけど、おばさん気を遣ってくれたみたいで……」

「いえ、気にしないでください」


 ゼノが応えると、マリアンルージュはこくりと頷いてソファに腰を下ろした。


「座ったら? せっかくのお茶が冷めちゃうよ」


 隣の空いたスペースを目線で指し、棒立ちのままのゼノを促すと、マリアンルージュは湯気の立つカップに口を付けた。「美味しい」と一言零し、ふたたびゼノに笑いかける。その表情かおにはゼノに対する警戒心など微塵も感じられない。

 確かにリュックやヴァネッサが言うように、今のゼノがマリアンルージュにできることといえば、傍で元気付けるくらいしかないのだろう。

 どうすればマリアンルージュを元気付けることが出来るのか。

 思考を巡らせつつ、ゼノはソファの端に腰を下ろした。


「……やっぱり、嫌だよね」


 不意に、マリアンルージュが表情を曇らせる。

 予想だにしなかった発言に状況が把握できず、ゼノは慌ててソファとマリアンルージュを見比べた。

 動揺するゼノの様子に気付いてか否か、マリアンルージュは静かに目を伏せ、囁くように言葉を連ねる。


「ゼノがわたしと、前よりも距離を置いてるのがわかるよ。男の人に鱗を見られたんだから穢れてるって思われても仕方ないけど……」


 諦めにも似たその言葉に、ゼノははっと息を呑んだ。

 今ふたりが腰掛けているソファは二人掛けのもので、先にマリアンルージュが座っていても、スペースには充分な空きがあった。

 それにも関わらず、マリアンルージュに怖がられるのではないかという不安から、ゼノは必要以上に距離を取って座ったのだ。


 ふたりの故郷では、婚姻前に例の鱗を他人――それも異性に見せることは、淫らで穢らわしい行為だと教えられる。

 例えマリアンルージュ自身にその気がなかったとしても、現実に異性に鱗を見られたのだから、ゼノが必要以上に距離を取れば、嫌悪感を抱いていると誤解されてもおかしくない。


「違っ……、穢れてるだなんて思っていません!」

「無理しなくて良いよ。だって、他の男あんなヤツに撫で回された身体なんて、自分でも気持ち悪いから……」


 慌てて否定するゼノには目もくれず、消え入りそうな声でそう零すと、マリアンルージュはソファのうえで膝を抱えた。


「……洗っても洗っても消えないんだ。鱗に触れられたときの感覚が蘇って、身体中がぞわぞわして、思い出したくないのに震えが止まらない……」


 小さくうずくまるマリアンルージュの背中が小刻みに震えていた。か細い肩に、ゼノは思わず手を伸ばした。けれど、その手はマリアンルージュに届く前に、ソファの上に下ろされた。


 あんなことがあったのに、何も気にしていないわけがなかった。

 思い詰めた様子を見せないように、ゼノに気を遣わせないように、マリアンルージュは彼女なりに精一杯気を張っていたのだ。

 おかしな気を遣う必要などなかったのだ。いつもどおりの、あのぎこちない態度で接していれば、それだけで良かったのだ。

 ゼノは今更になって気が付いた。


「……穢れているだなんて思いません。ただ……」


 逡巡し、躊躇いがちに口を開く。


「傍に居て良いのか、わからなかったんです」


 時計の針が刻む音が静寂の中に響いていた。先の言葉を最後に、ふたりの会話は途切れてしまった。

 膝を抱えて俯いたままのマリアンルージュが、今、どんな気持ちでいるのか、ゼノには解らない。ただ、これ以上傍に居ても悪戯に彼女を傷付けるだけな気がして、ゼノは静かに席を立った。

 床が軋む微かな音が部屋に響く。ソファから離れようと一歩足を踏み出して、ゼノは動きを止めた。


「行かないで……」


 振り向いたゼノと、マリアンルージュの視線が重なる。泣き出しそうな瞳を潤ませてゼノを見上げるマリアンルージュの指先が、ゼノの袖の端を握っていた。


「……ひとりにしないで」


 そこにいるのは、ゼノが知っている、いつもの無邪気で元気な彼女ではなかった。幼い子供のように、酷く弱々しくて。縋るようなその視線に胸が痛み、ゼノはそれ以上身動きが取れなくなっていた。


「……俺が、怖くないんですか?」


 躊躇いがちに訊ねれば、マリアンルージュは黙って首を振った。


「俺だって男です。貴女に酷いことをした輩と本質は変わらないかもしれませんよ」


 念を押すように告げる。

 あの薄暗い通路でマリアンルージュの嬌声を耳にしたとき、心臓が跳ね上がるような衝撃を覚えた。危機に瀕する彼女の声を聞いて、僅かに気が高揚したのだ。

 そして同時に、彼女にあのような声を上げさせた輩をズタズタに引き裂いてやりたいとも思った。

 あのときのゼノは、マリアンルージュを助けようとしたわけではなかった。己の所有物に手を出されたことに対して憤ったのだ。



「……ゼノは、わたしがあの男に何をされたと思ってるの?」


 苦々しく顔を歪めるゼノの顔を心配そうに覗き込み、マリアンルージュが囁いた。


「服を破られて身体中を撫で回されて、……鱗に触られた。……でも、それだけだよ 」


 袖を握っていたマリアンルージュの指先が手の甲をなぞり、ゼノの指先に触れる。どちらからとも知れぬまま、指先が絡み合った。


「わたしは……きみのわたしを見る目が変わってしまうほうが怖い。穢らわしい存在だと思われて、きみが離れていってしまうんじゃないかって……それだけが怖くてたまらない」


 うな垂れて首を振り、マリアンルージュは震える声を絞り出す。向けられた真剣な眼差しとその想いを前に、ゼノは思わず声を荒げた。


「穢らわしいなんて思いません! ただ、俺は男で、不本意とはいえ貴女の……を見てしまったわけで……あんなことがあったあとで、傍に居られたくないだろうと……」


 引き裂かれた布のあいだから覗いた白い肌と、胸の下で艶めかしく輝く朱紅い鱗が、今もゼノの瞼の裏に鮮明に焼き付いていた。

 本来なら、一生を添い遂げる者だけが知る筈の、彼女の秘密――


「……忘れるように努力します。絶対に、誰にも言いませんから……」


 出来もしない約束を口にして、ゼノは口を引き結ぶ。その瞬間、絡み合った指先がきゅっと握られた。


「忘れないで……」


 祈るようにマリアンルージュが囁いた。指先を引かれ、ふたたびソファに引き戻される。

 躊躇いがちに腕を伸ばし、細い肩を抱き寄せる。胸に顔を埋めるマリアンルージュを、ゼノはただ、そっと抱きしめた。



***



 窓辺から射す眩い光を浴びて、ゼノは重い瞼を開けた。

 指先からさらさらと零れ落ちる感触に、自然と視線がそちらに向かう。腕の中のマリアンルージュの髪を無意識に撫で続ける自身の手が目に映り、思わずその身が凍りついた。

 ソファの上でゼノに身を預けたまま、マリアンルージュは安らかな寝息を立てていた。か細い肩を僅かに上下させる彼女からは、昨夜の不安げな様子は感じられない。

 幸せそうなその寝顔に、ゼノの表情にも笑みが浮かんだ。


 昨夜、記憶が途切れるまで、ゼノはずっと考えていた。

 自分が今、どうしたいのか。

 この先、マリアンルージュと行動を共にする上で、彼女とどうありたいのか。


 マリアンルージュは純粋にゼノに想いを寄せている。それは恐らく間違いではないだろう。

 そしてゼノ自身も、そんな彼女を愛しく想っている。

 けれど、ゼノが闇色の鱗の一族である以上、ふたりで里に戻り、平穏で幸せな生活を送ることは叶わない。里の者に認められる相手との婚姻こそが、彼女があの里で幸せに暮らすための唯一の条件なのだ。ゼノではその条件が満たせない。

 かと言って、鱗の色だけで相手を蔑むような他の男に彼女のことを任せたくはなかった。

 マリアンルージュを任せられるとすれば、相手は唯一人――誰にでも平等で、里の皆に認められる親友のイシュナードだけだ。

 だからこそ、ゼノはこの想いを彼女に伝えないままイシュナードに会いたかった。会って話をして、彼の想いがゼノの想像どおりならば、潔く身を引けば良い。元を辿れば、マリアンルージュがはじめに選んだ相手は他でもない、イシュナードだったのだから。

 想いを伝えるのは、彼女が幸せを手に入れた、そのあとで良い。

 そう思っていた、はずだった。



「……ゼノ……?」


 マリアンルージュに名を呼ばれ、ゼノは我に返った。彼女の柔らかい髪を撫でる手のひらも、小さな肩を抱き寄せた腕も、目覚めたときのままだった。


「お……はよう、ございます……」


 急に離れる訳にもいかず、ゼノが言葉を詰まらせると、マリアンルージュははにかむように微笑んだ。


「おはよう。……そばにいてくれて、ありがとう」


 そう口にして、恥じらうように頬を染める。マリアンルージュの笑顔は、ゼノの背中を自然と後押しした。


「マリア」


 突然真顔で名前を呼ばれ、マリアンルージュが怪訝な表情で目を瞬かせる。ゼノが指先をちょいちょいと動かしてみせると、彼女はゆっくりと身を起こした。


「すみません、ちょっとここのあたり、見てもらえますか?」

「……どこ?」

「この、うなじの下……首の付け根のあたりです」


 そう言って、マリアンルージュに背を向ける。

 何がなんだかわからないと、首を傾げてゼノの襟元を覗き込んだマリアンルージュだったが、次の瞬間、彼女は全身を固く強張らせ、目を見開いた。


「……ゼノ、きみは今、自分が何をしてるかわかってる?」

「……はい」

「そ、それならどうして……」


 マリアンルージュの瞳に映ったのは、夜の闇を思わせる、あのお気に入りの耳飾りのペンダントと同じ闇色の、竜の鱗だった。


「別に、罪悪感だの対等の関係だの、そんなものはどうでも良いんです。ただ、昨夜貴女が言ってくれたように、俺も貴女に知って欲しかった……それだけです」


 冷静に、淡々と、無感情に告げるつもりだった。

 けれど、急激に頬が熱を帯びていくのを、ゼノはすぐに自覚した。


「これから約束があるので出掛けます。失礼します」


 ソファから立ち上がり、一瞬だけ振り返ったゼノの視界に、顔を真っ赤に染めあげて瞬きを繰り返すマリアンルージュが映る。

 敢えて見なかった振りをして、ゼノは大急ぎで部屋を後にした。



 本来なら、この鱗の位置を知るのは母親と出産に立ち会った者だけだ。

 竜人族の男女でお互いの鱗の位置を教え合う関係といえば、恋人か夫婦の他に有り得ない。

 先程のゼノの行為は、告白か、或いは求婚に値するものだと、里の者なら誰でも考えるだろう。


 マリアンルージュがあの行為をどう捉えたのかはわからない。いつものように、深い意味などないものだと考えるのかもしれない。

 でも、今はそれで良い。この想いを言葉にして伝えるのは、旅の目的を終えた、そのときだ。


 イシュナードやリュックに話せば、遠回しだと馬鹿にされるのだろう。それでもゼノは、マリアンルージュに知っておいて欲しかった。


 少なくとも今のゼノにとって、彼女は特別な存在だということを。


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