蹂躙
胸騒ぎと焦りを覚え、ゼノは市街区の中央へと視線を向けた。
区画整理された家々の向こうに、天を刺す剣のように白い鐘塔がそびえ立っている。
かつて人間の勢力が他種族のそれに圧倒的に劣っていた時代、其々の異なる種族の長が集い、種族による違いに捉われることのない共存と平和を誓った。
アルティジエの中心に立つ白い塔は、そのとき掲げられた白銀の剣を模して造られた、自由と平和の象徴だった。
鐘塔が市街区に落としていた長い影は、太陽が真上に位置する今、その形をすっかり潜めてしまっていた。マリアンルージュとレティシアを捜しに出てから、すでにかなりの時間が経過していることを、嫌でも思い知らされる。
鐘楼へと続く、塔の外壁に掛かる梯子を、黒い豆粒のような人影が登っていた。じきに正午を知らせる鐘が鳴り、腹を空かせた鉱山夫たちが『羊の安らぎ亭』に押し寄せるだろう。
鉱山があると言う街外れの岩山を一瞥し、ゼノは再び前方を走るリュックを追った。
入り組んだ街の路地裏を縫うように走るリュックは、時折その足を止め、鼻をひくつかせては元来た道を行き来していた。途中何度か街を徘徊する憲兵隊の姿を見かけたことから、ゼノの嫌な予感が的中したことは明白だった。
憲兵隊が追って来たのは盗賊の残党などではない。彼等が焼き討った
『羊の安らぎ亭』で憲兵隊と鉢合わせたマリアンルージュとレティシアは、彼等の前から姿を消し、行方を眩ました。ふたりが街のどこに身を隠したのか、ゼノにはまるで見当が付かなかった。
人間とは比にならないほど鼻の効くリュックの嗅覚を以ってしても、ふたりの足取りを追うのは困難なことだった。入浴の際に使用したという流行りの香油の香りが災いし、レティシア自身の匂いが辿れないのだ。
「レティは人間を恐れていますから、人の往来が少ない道を通ったはずです。人混みを避けて向かうとしたら……」
先を行くリュックに声を掛け、ゼノは途切れた街並みの向こう側、岩肌が剥き出しになった坂道へと目を向けた。
鉱山へ続くその坂道は、途中で二つに枝分かれしているようだった。一方はアラン達が働く鉱山へ続いているのだろう。岩山から立ち昇る黒い煙がそれを証明していた。
それならば、もう一方の坂道の先は――
「廃坑……」
呟いて、ゼノは思考を巡らせた。
イシュナードが遺した本に鉱山に関する記述があった。目的の資源を掘り尽くした、又は、なんらかの問題が起き採掘を中止した鉱山は、放棄され、人が寄り付かない廃坑となる。
「月雫の……花の香りだ」
ゼノの隣に並んで立ち、鉱山に目を向けたリュックが囁くように呟いた。
岩山の方角からそよぐ風は、微かに甘い花の香りがした。
どちらともなく頷き合い、ふたりは鉱山に向かって走り出した。
***
静寂が耳に痛い。
光苔の薄明かりの中、分岐路を視界から切り離す岩壁に身を寄せる。時折り頭上から落ちる水滴が、澄んだ音を洞穴内に響かせている。元来た道を振り返り、マリアンルージュは耳を澄ませた。
暗闇の向こうから、追跡者の接近を知らせる微かな靴音が聞こえてくる。一定の調子を崩すことなく近付いてきた靴音は、岩壁を隔てた闇の奥で不意に途絶えた。
理由は考えずとも
宿を訪れた憲兵隊を率いる男の姿を思い出し、マリアンルージュは小さく息を飲んだ。他の憲兵は兎も角、あの金髪碧眼の男――ジュリアーノは危険であると、マリアンルージュの本能が警笛を鳴らしていた。
あの男ならば、土砂の山の向こう側にレティシアが隠れていることに感付くかもしれない。
レティシアの存在を、彼等に気取られるわけにはいかなかった。どうにかして、追手の気を引かなければ。
焦る気持ちを抑えながら、マリアンルージュは周囲に目を凝らす。通路の隅に転がっている苔の生えた石に目を止めると、マリアンルージュは手頃な大きさの石を見繕い素早く拾い上げ、躊躇いなく岩壁に投げつけた。
石は甲高い音を響かせて岩壁に跳ね返り、足元に転がった。僅かな間をおいて、分岐路側の通路から再び靴音が近付いてきた。
身を翻し、弱々しい光が路を示す暗闇の中を、奥へ奥へとひた走る。
岩肌が露出した細長い坑道は、延々と地の底まで続くかのように思えた。岩壁から足元までを覆い尽くす光苔が地中から浸み出た水分を含んでぬかるみ、時折りマリアンルージュの足を掬う。何度か転びかけながらも、マリアンルージュは足を止めることなく奥へと走り続けた。
通路の所々に、この廃坑で使用されていたと思われる採掘道具が無造作に放り出されていた。マリアンルージュは状態の良いつるはしを拾い上げ、ふたたび坑道を走り出した。
この
途中、何度か横道を見かけはした。けれど、目印として残せるものがない以上、地底を縦横無尽に這う廃坑の中で、無闇に入り組んだ通路を選ぶことはできなかった。道に迷ってしまえば、おそらく無事に逃げ切ることはできない。
追手の靴音の調子は相変わらずで、走り続けるマリアンルージュから徐々に遠ざかっていた。追う側の余裕と言うべきか、無理に距離を詰める必要がないと考えてのことなのだろう。その理由には、マリアンルージュも思い当たるものがあった。
自由都市アルティジエは巨大な穴の中心に造られた都市であるため、地中を掘り進めて造られた廃坑は、やがてはその巨大な穴へと繋がってしまう。橋を渡る際、その穴の周囲を見渡してみたが、切り立った岩壁は道具もなしによじ登れるようなものではなかった。
つまり、この廃坑には入り口の他に出口など存在しないのだ。
澱んでいた廃坑内の空気に変化が現れたのは、マリアンルージュがレティシアと別れてから、幾度目かの分岐路に立ったときだった。
どこからともなく微かな風がそよぎ、マリアンルージュの頬を撫でる。風のそよぐ通路――光苔の明かりが徐々に薄れていくその先は、あの巨大な穴へと繋がっているに違いなかった。
この通路が外に続いている可能性があるとなれば、追手は必ずそちらに向かうだろう。出口がある以上、獲物が外に逃げたかどうかを確認する必要があるのだから。
少なくとも一人は巨大な穴へと繋がる通路へ向かうはずだ。そうなれば、二対一。勝算はなくとも逃げ切れる可能性は大幅に上がる。
外に繋がる通路とは別の、澱んだ空気に満たされた通路へと、マリアンルージュは駆け込んだ。分岐路から突き出た岩壁の陰に身を潜め、つるはしの柄を強く握りしめた。
呼吸を整え、恐怖と緊張で強張る身体を奮い立たせる。やがて、聞き覚えのある靴音がマリアンルージュの耳に届いた。
相変わらずの一定の速度で近付いてくるその靴音は、確かに二人分のものだった。乾いた靴音を響かせて、追手が通路に足を踏み入れた。光苔に照らされた緑がかった壁面に、追手の影が映ったその瞬間。
つるはしを振り上げ、岩壁から飛び出すと、マリアンルージュは目の前の追手の脚へ、つるはしを思い切り突き立てた。
例えるなら、熟れた果実にフォークを刺したときの水気を含んだ軽い音とともに、捕獲した獲物を捌く、柔らかい肉を裂くあの感触が、手のひらから伝わってきた。
低い呻き声と共にその場にしゃがみ込んだ追手の姿を素早く確認する。闇に溶けるような濃い色の髪を目にし、マリアンルージュはつるはしの柄を手放した。
躊躇いなく岩壁から飛び出し、しゃがみこんだ追手を避けて、僅かに動きを止めたもう一人の追手――ジュリアーノの横をすり抜けると、マリアンルージュは元来た道を全力で駆け出した。
苔の蒸した
状況は悪くはないはずだ。ジュリアーノの靴音は真後ろから聞こえるが、その距離が縮む気配はない。このまま逃げ切れるのではないかと、マリアンルージュは僅かな希望を胸に抱いた。
だが、その希望はすぐに絶ち切られてしまった。
どこで道を
延々と続くかのように思われた細い坑道が突然終わり、マリアンルージュは駄々広い空間に躍り出た。
群生する光苔に岩肌を覆い尽くされたその空間は、たった今走り抜けてきた坑道に比べて一際明るく、自身の手足や、足元に転がる石がはっきりと見て取れるほどだった。
空間を取り囲む岩壁には他に通路らしきものは見当たらず、奥の地面に暗闇を湛えた巨大な穴が空いていた。
穴の周囲は鉄の柵で囲われており、手前に金属製の箱型の物が設置されている。吊り下がった滑車に掛けられた鋼索がトロッコを釣り上げるその装置は、鉱山夫が階層を行き来するためのものだ。けれど、竜の里を出たことがないマリアンルージュには、それが何のために造られたものかすらわからなかった。
「もう降参か?」
茫然とするマリアンルージュの背後から、嘲笑を含んだ冷淡な声が響く。はっとして振り向きざまに飛び退いたマリアンルージュの眼に、黄金色の髪の男の姿が映った。陽の光の下では澄んだ青空のように美しかった碧眼が、光苔の明かりに照らされ、仄暗く澱んだ光を湛えていた。
固唾を呑むマリアンルージュに歪に笑ってみせると、ジュリアーノはマリアンルージュに手を伸ばし、肩で緩く纏めた髪から月雫の花を抜き取った。
「この花……」
呟いて、品定めでもするかのように白い花弁に視線を注ぐ。
「この坑道で、途中、何度か見かけたよ。陽の当たらない廃坑内に花が咲くことなどあり得ない。場違いにも程がある。何かの目印、おそらくは道を違えぬための目印だと考えて、少々細工をしておいた」
最後にくすりと笑みを溢し、ジュリアーノは月雫の花を足元に投げ捨てると、すぐさま靴底で踏み付け、くしゃくしゃに踏み躙られた花を悦を孕む視線で見下ろした。
「私はね、穢れのない花を散らすのが愉しくて仕方ないんだよ」
満足気に頷いたジュリアーノの眼が、再びマリアンルージュを捉えた。ねっとりと絡みつくような視線に、背筋が凍りそうになる。
月明かりの下、艶かしい下半身を晒して蹂躙されていた花嫁の姿が、マリアンルージュの脳裏を過った。
「悪趣味過ぎる! 貴方のような最低な人間に、その制服を身に纏う資格なんてない!」
法と秩序を守るレジオルド憲兵隊。初めて訪れた人間の世界で、右も左もわからなかったマリアンルージュに、異種族であることも厭わず手を差し伸べてくれるような、心の優しい人々だった。
「その制服は、弱い者を守り、困っている人を親身になって助けてくれる、そういう人が身に纏うものだ。オルランドみたいに!」
小豆色の髪の憲兵隊長の名をマリアンルージュが口にした瞬間。ジュリアーノはその
「――――ッ!?」
一瞬の油断を後悔するには遅すぎた。
脳が危険を察知する間もなくジュリアーノに首を鷲掴まれ、マリアンルージュは剥き出しになった冷たい岩肌の上に押し倒された。
暴れるマリアンルージュの腰に跨がり、ジュリアーノが無理矢理両腕を抑え付ける。その力は優雅な外見からは想像できないほどに強く、いくらもがいても女の力では逃れることが出来なかった。
冷ややかな眼でマリアンルージュを見下ろして、ジュリアーノが不敵に微笑んだ。
間合いを詰められることは、増してこのように抑えつけられる状況に陥ることだけは、絶対にあってはならなかった。捉えられてしまえば、その力の差から圧倒的に不利になるのは目に見えていたのだから。
ゼノにもオルランドにも絶対に使ってはならないと言い付けられていたが、今この状況でマリアンルージュが反撃する術は他になかった。
馬乗りになって身体を
紅蓮の炎が迸る――はずだった。
甲高い金属音に似た音が反響し、ジュリアーノの胸元で揺れる透き通った水晶石が鈍い光を放つ。状況が飲み込めず目を白黒させるマリアンルージュと揺れる水晶石を交互に確認し、ジュリアーノはくすりと含み笑った。
「その顔、今、魔力を用いるなんらかの
対魔術――オルランドの部隊と行動を共にしていたときに耳にした言葉だった。魔力を使った特殊な能力を操る種族を御するために開発された術だ。
なぜ、リュックのように植物を操る人狼達が、成す術もなく虐殺されてしまったのか。その答えはこれだったのだと、マリアンルージュは確信した。唇を噛み締めて、悔しさから目を背けた。
「成る程、合点がいったよ。あの男、いつまでも憲兵隊に居座り、家督を継ごうとも身を固めようともしない。周囲に奇異な目で見られていたが、そういうことか。国の外れのあちこちに、お前のような異種族の情婦がいるわけだ」
オルランドの弱みを握った気にでもなったのか、ジュリアーノは下卑た笑みを浮かべ、喜び勇んで言葉を連ねる。その的外れで不快な発言に、マリアンルージュは眉を顰めた。
嫌悪感をあらわにするマリアンルージュに構うことなく、その顎をくいと摘み上げ、ジュリアーノは情欲に塗れた視線をマリアンルージュの身体に注ぐ。
「一目見たときから、この腕に抱きたいと思っていた。滅茶苦茶に犯し、穢してやりたいと。流石に人間の娘が相手では法による罰則のことも考えたが、異種族となれば関係ない。この国では異種族に人権など無いも同然だからな!」
高らかに告げ、ジュリアーノがマリアンルージュの胸元へ手を伸ばす。臙脂色のワンピースに爪を掛け、その胸元を強引に引き裂いた。
薄緑の光の元、マリアンルージュの白い肌が露わになる。かたちの良い膨らみに目を止め、ひゅぅと口笛を吹くと、ジュリアーノはマリアンルージュの肌蹴た胸元に指先を滑り込ませた。
背筋を凍らすような寒気がマリアンルージュの全身を貫いた。
気持ち悪い怖い気持ち悪い怖い気持ち悪い怖い気持ち悪い……!
腹の奥から悍ましいまでの吐き気が込み上げる。例えようもない不快感に捉われ、思考が錯乱した。
これから行われるのは、マリアンルージュの知識にある唯の生殖行為ではない。その人格と尊厳を辱めるための陵辱行為だ。
なんとかして抵抗しようと、マリアンルージュは周囲を見回した。けれど、両腕を抑えられている今、例え武器になるものが側に落ちていようとも、ジュリアーノに反撃することは不可能だった。
炎の能力は封じられてしまった。
マリアンルージュが扱える竜気では、凶器による攻撃から身を守ることはできても、獣のようなこの男の魔手から逃れることは叶わない。
ジュリアーノの指先が下腹部から肌を撫で上げ、マリアンルージュの左胸の下――朱紅い鱗に触れた。
「――――ぁッ!」
嬌声と共に、マリアンルージュの肢体が跳ね上がる。
眉を顰めたジュリアーノが朱紅い鱗の表面をなぞり、爪で掻いた。
「――――ッ!!」
「そうか、ここが
涙目で声を抑えるマリアンルージュの
成す術などなかった。これから受けるであろう恥辱の限りに、ただ耐えるしかない。
己の運命を悟り、マリアンルージュはそのまぶたを固く閉じた。
涙が一筋、頬をつたった。
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