腐った林檎

 暗闇の中で何者かが蠢く気配を感じ、少年は重い瞼を開いた。

 これが夢ではなく現実ならば、記憶を辿る限り、ここは憲兵隊宿舎の三階の一室だ。昨夜任務を終え、休息のために部屋へ戻ったことを、少年の脳が覚えていた。

 カーテンの隙間から射し込んでいた月明かりはいつの間にか消え失せて、しんと静まり返った部屋の中で、衣擦れの音だけが耳に届く。

 少年が寝返りを打って、カチャカチャと音を立てる黒い影に目を向けると、黒い影が少年を振り返って言った。


「起きろ、テオ。出動要請だ」


 テオと呼ばれた少年は、数回まばたきを繰り返すと、仰向けに寝転がり、大きく伸びをした。半分眠ったままの身体を引き摺るようにして起き上がり、黒い人影に向き直る。

 同室で生活を送る仲間は四人。かれこれ半年の付き合いになることもあり、声を聞けば相手が誰であるかはすぐに判った。この声の主は、テオの教育係を任されている先輩のジルドだ。


「……朝、じゃ、ないですよね? こんな時間に?」


 疑問を口にしながらも、ろうそくの儚げな明かりを頼りに身支度を始める。着崩れた制服の上からベルトを締め、愛用の剣を腰に携えると、テオは自室をあとにした。


「眠そうだな」


 閉じかけた瞼をこすり、制服を正しながら自室に鍵をかけたところで、先に部屋を出ていたジルドに声を掛けられた。曖昧に笑んではぐらかし、テオは部隊の集合場所へと急ぐ。

 眠たいのは当然だ。先の任務を終えて深夜に宿舎に戻り、ようやく眠りについたところで起こされたのだから。

 ベッドに入る前に美しい月明かりに照らされていた窓の外は、いつの間にか闇に覆われており、夜明けがまだ遠いことが窺える。こんな深夜に出動要請とは馬鹿げていると言いたいが、人手の少ない憲兵隊に所属する彼らにとって、このような事態は日常茶飯事だった。


 レジオルド憲兵隊。法と秩序の国を名乗るレジオルディネ王国の、軍の規律と国内の治安維持を任務とする組織である。

 この国の憲兵隊は内部で大きく二つの組織に別かれており、王都と主要都市の警備を任される王都憲兵隊は、組織内で『金の林檎』と呼ばれていた。王都憲兵隊に所属する者の多くは、王都の有力な貴族か軍の上層部に親をもつ、いわゆる特権階級のエリートだ。

 この国では軍隊こそが国の最高機関であり、国の為に戦地へ赴くのは誇り高い行為だと讃えられる。

 しかしその反面、特権階級のお偉方には、危険な戦場に可愛い我が子を送り出すなど以ての外と考えるお優しい親も多い。そういった金と権力のある地位の者が体裁を保つ為に、危険な任務が少ないうえに手っ取り早く民衆から信頼を得ることが可能な王都憲兵隊に、大切な跡取りを入隊させるのである。

 彼らの任務は王都を守護し軍の規律を正すという大役ではある。だが、王都周辺は元々犯罪率が低いため、実際の任務は巡回と称した散歩程度のものでしかない。

 国民の多くが知る、国内の治安維持の為に昼夜各地を駆け回る憲兵隊は、組織内では『腐った林檎』と呼ばれ、『金の』者達に侮蔑の対象にされていた。

 内部に不正があるわけでもなく、何処も腐ってなどいない。王都と主要都市を除く国内全ての治安維持を任されている、正真正銘の治安維持部隊だ。

 隊員の殆どが王都とその周辺地域から募った平民出の者であり、極端に貧しい家の出の者が多いことを理由に、勘違いした特権階級の者達に見下された結果、このような蔑称で呼ばれているのだ。


 組織が二分化する以前であれば、このような時間に出動要請がかかることもなかっただろう。だが、以前にも増した広大な土地で、日夜増え続ける事件や犯罪を相手に、憲兵が休んでいる暇などない。

 組織の拡大を訴える声も大きいが、憲兵隊の維持費が国民の血税に賄われている以上その実現も難しく、平民出の隊員が使い捨てにされているのが現状だった。


 しかし、内情を知らない一般国民にとって、有事の際に国の為に命を賭け、国王とその民を守る憲兵隊は、騎士のように名誉ある立場であり、幼い子供達の憧れでもあった。

 テオも例に漏れず、幼い頃から憲兵隊に憧れて、努力の末に正規隊員に任命された一人だ。入隊してから今日までのあいだ、日々の厳しい訓練と苛酷な任務を懸命にこなす日々を送ってきた。


「それにしたって、こんな深夜に出動要請だなんて、どれだけ緊急事態なんですかね」


 先を行くジルドの背にテオが不満交じりに問いかけると、ジルドは振り返りもせずに淡々と答えた。


「伝書鳩が来たのは昨日の昼前だそうだ。最東のエストフィーネからの要請だったようだが、は十二隊とも出払っていたからな。連中があんな村まで出向くわけもない。大方、俺達に声が掛かるまで忘れられていたんだろう」

「それが本当なら、酷い話ですね」


 ジルドの答えを聞き、テオは大きく溜め息をついた。



***



 テオとジルドが所属するレジオルド憲兵隊第十七隊は、任務に就く際、王都を出てすぐの街道沿いに集合がかかる。

 ふたりが王都を出た頃には、隊員は既に街道沿いに整列し、隊長の指示を待っていた。


「眠そうだな、テオ」


 薄らぎ始めた闇の中で、隊列の先頭で馬に跨っていた男が笑みを含んだ声で言った。


「すみません、まだ慣れなくて……」


 言葉にしてしまった後で、テオは慌てて口を噤んだ。

 これから任務に着くという状況で、眠気を隠すこともできずに指摘され、そのうえ言い訳をするなんて。失態以外の何物でもなかった。

 しかも、今テオが言い訳を述べたその相手は、テオが所属する第十七隊の指揮を取るオルランド隊長その人だった。

 

 レジオルド憲兵隊第十七隊隊長オルランド=ベルニ。

 小豆色の髪に褐色の瞳と、見た目の華やかさはないものの、生真面目で実直な性格が精悍な顔つきに現れており、不器用な性格から王都の貴婦人のあいだでは近寄り難い人物だと噂されている。

 レジオルディネ有数の由緒ある貴族の嫡子でありながら、自らの意思で腐った林檎に所属したことで、憲兵隊内部でも奇人と名高い人物だ。

 しかしながら、昼夜問わず国内領土を駆け巡り、治安維持に務めるその姿は、まさに憲兵隊の鑑であり、テオのような若い隊員の憧れでもあった。


 尊敬する隊長の前での大失態に、テオはがくりと肩を落とし、ジルドと共に隊列の最後尾に着いた。

 隊員が揃ったことを確認すると、オルランドは今回の任務について掻い摘んだ説明をはじめた。出動要請の本文を、良く通る低い声が読み上げる。


『最東の村エストフィーネより。

 村の近辺で野盗が不穏な動きを見せている。至急、応援を頼みたい』



***



 夜明け前の薄闇が広がる空の下、レジオルド憲兵隊第十七隊は、石畳で舗装された街道を隊列を組んで移動していた。

 任務明けの数時間休息を取っただけでは、人も馬も万全の状態ではいられない。エストフィーネの村までは、平常時に馬を飛ばしてでも半日以上かかる。野盗が村に目を付けているという話が事実であり、既に偵察が行われているのであれば、村が襲撃を受けるより先に憲兵隊が辿り着く可能性は、もはや絶望的だ。

 先頭で隊を率いるオルランドも、それは重々承知の上だった。けれど、要請が半日以上放置されていた以上、一刻も早く応えるのが憲兵隊の使命であると彼は考えていた。

 野盗が動き出すのが夕刻から深夜にかけての時間だと考えれば、夕刻前に村に到着するためにも、今、この時間に移動しておかなければならない。


(隊員と馬の負担を最小限に抑えるためにも、並足で歩を進めておきたいところだな)


 オルランドが街道の先の薄闇に小さな灯りを発見したのは、そんなことを考えていた矢先のことだった。


 その灯りは、ちらちらと闇の中で見え隠れしていた。動き方から推測するに、灯りの主はおそらく人間だろう。だが、いくら街道とはいえ、こんな夜更けにまともな人間が一人歩きをしているとは考えられない。


「不審者だ。総員、止まれ」


 オルランドが合図を送り、馬を止める。それに続いて全隊員が馬を止めた。

 本来なら、ここで腹心か腕の良い部下に偵察を頼むところだが、オルランドはそうしなかった。有事の際は自らが動いて現状を把握し、指揮を取る。それが彼の信条だった。

 隊員にその場に留まるよう指示を出し、副隊長のアルバーノに馬を任せると、オルランドは街道を取り囲む草むらへと踏み入った。背の高い草むらが街道沿いにひしめくこの土地は、姿を隠して目標に接近するには最適とも言える。

 夜明け前で空が白み始めているとはいえ、王都を発った時点ではまだ深夜だったこともあり、オルランドの部隊はそれぞれが灯りを提げて移動していた。

 灯りが多ければ、相手に存在を気取られる可能性も高くなる。あの朧げな灯りにオルランドが気がついたのだから、こちらの存在は確実に相手に知れているだろう。

 

 夜明け前の冷たい風が吹き、草むらが海のように波を打つ。相手に存在を気取られぬよう気配を殺し、ざわめく草の海を掻き分けて、オルランドは距離を詰めた。

 憲兵隊が動きを止めたことに気がついたのか、灯りの主は立ち止まり、街道の先に群れる影の様子を窺っているようだった。

 生い茂る草むらに身を隠し、オルランドが街道を覗き見る。亜麻色のマントを羽織った灯りの主は、フードを目深に被っているため、その人物像が窺い知れなかった。

 音を立てぬよう息を殺し、剣の柄を握り締める。

 周囲を警戒した灯りの主が、街道の向こう側へ注意を向けたその隙に、オルランドは草の海から飛び出した。相手の背後に回り込み、振り返りかけたその喉元に剣の切っ先を突きつける。


「突然ですまないが正直に答えて貰いたい。きみは何者――」


 オルランドの言葉は、突然の熱風に遮られた。

 灯りの主の指先から紅蓮の炎がほとばしる。扇状に火の粉が降り注ぎ、周囲の草むらに引火した。

 炎に囲まれ、オルランドが怯んだその隙に、灯りの主は身を翻し、オルランドと対峙した。熱風にフードが煽られ、その素顔が暴かれる。



 朱紅あかい、鮮血のように朱紅い長い髪が風に揺れる。

 まるで翡翠のような瞳を持つ、それは美しい女の姿をしていた。


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