第34話 雨は未だ降り止まず

 今日も相変わらずの雨だった。梅雨前線は六月ももうすぐで終わりというこの時期になってようやく本気を出し始めたようで、ここ数日は一日中しとしとと降り続けている。太陽はどんよりとした雲に覆われたまま、姿を見せていない。おかげで俺の気分まで滅入ってしまいそうだ。


だが体に染みついた習慣というのは恐ろしいもので、いくら雨が降ろうが気が滅入ろうが俺はいつものように早起きをして通学路を歩いていた。


 俺の横にはピンク色の傘を差した桃ともう一人、ここ数日ですっかり見慣れた卯崎の姿があった。


「それでね、桜ちゃん。一年は夏休み明けに調理実習があるんだけど、私たちが去年やったときは新が塩と砂糖を間違えてさー。もうあの時は大変だったんだよ!」


「そうなんですか、先輩らしいですね」


「ほんと昔から新は料理できないからね。あ、そう言えばさ――」


 桃と卯崎はここ数日でずいぶん仲が良くなったようで、桃に至ってはいつの間にか卯崎を下の名前で呼んでいた。今も俺をのけ者にして二人で俺の過去の失敗を楽しそうに話している。ええ、ほんとに楽しそうでなによりです……。


 卯崎は、桃の言葉に相づちを打ったり、時折微笑みを交えたりしながら会話をしている。その様子を見ている限りでは、日曜日の時よりは気持ちが落ち着いているのだと思う。


 と、そう想いをはせていると、嫌でもあのことが思い出される。

 あの時、俺を説得しようとするつぼみさんの声音は、まるで小さな子供をあやすような、穏やかなものだった。……いや、まるで、ではないか。自分のわがままを押し通そうと感情だけで動いた俺は駄々をこねる子供そのもので、だからつぼみさんは俺を優しく拒絶した。「これは大人の問題だから子供が入ってくるべきではない」と。


 実際、それは正しい判断だったのだろう。あの時は勢いで俺が卯崎の味方をする、なんて言ったが、それでいざ彼女の両親に対峙したとき、何か有効な手立てがあったのかと言われれば決してそんなものなどありはしなかったのだ。


 それでも、俺の中にある、卯崎の両親に対する怒りは燻る事はなかった。正直、顔も見た事のない相手にどうしてここまで思えるのか、自分でも不思議だ。それだけ卯崎に肩入れしてしまっているという事だろうか。


「――らた? おーい、新、聞いてるー?」


 と、気づけば目の前で桃が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。……ていうか近い近い顔が近い。


「ん、おお。聞いてたぞ。で、何の話だっけ?」


「聞いてないんじゃん……。もうすぐ期末テストだねって話をしてたの」


「ああ……そう言えばそんな時期か」


 我が校の期末テストは七月の二週目に行われる。それが過ぎてしまえば終業式を経て次の週の終わりから全学生の希望、夏休みが訪れる。


「私ちょっと不安だなあ。中間も赤点ギリギリだったし、夏に補修かかっちゃうと部活にもいけなくなっちゃうし……」


「なら、今から準備しておくんだな。あと一週間以上あるんだから、しっかり勉強しろ」


「うええ、新がママみたいなこと言ってくるー」


「当然の事を言ったまでだろ」


「正論は聞きたくないのー!」


 桃は耳をふさぐような仕草のあとに、「ねっ、桜ちゃん?」と卯崎に話を振る。


 振られた卯崎は微笑みながらそれに答える。


「まあ、前日に詰め込むよりかは事前にきちんと準備をしてしまった方が楽ですよね」


「桜ちゃんまで! ……もしかして桜ちゃんも頭良かったりするの?」


「中間テストは五番でしたね」


「ごっ……」


 絶句する桃。ていうか俺も驚いた。え、なに、こいつそんなに頭良かったの?


 思い返してみれば、俺は卯崎とそう言った話を何一つした事がなかったのだと気づいた。趣味も特技も、休日の過ごし方だって知らない。強いて言うなら紅茶が好き、という事くらいだろうか。


「……私、桜ちゃんに勉強教えて貰おうかな」


「アホか。相手は後輩だぞ」


「で、でも私より今回の試験範囲理解できそうだし……」


「それは否定できない」


「そこは否定してよ!」


 そんな俺たちのやりとりに、卯崎はまた微笑んで口を開いた。


「そうですね、流石に一年上の勉強は難しいと思います。それに、私も自分の勉強をしないといけないですし」


「そ、そうだよねえ……」


 卯崎にも断られガックリと項垂れる桃。


「ま、あれだ。期末が終われば夏休みだし、イベントもたくさんある。それを楽しむためにも取りあえず今だけは頑張っとけよ。俺も数学以外なら教えてやるから」


「……うん、そうだよね。夏休みは楽しい事がいっぱいあるんだから、期末テストごときに邪魔されるわけにはいかないっ!」


「おお、そうだぞ、その意気だ」


 そんな風に俺が桃をフォローしていると、卯崎がぽつりと呟きを漏らした。


「……夏休み、ですか」


 その言葉は雨の音にかき消されそうなほど小さな声だったが、それでも俺の耳にははっきりと聞こえた。


 ……卯崎はまだ自分の家に帰れる見通しが付いていない。夏休みを迎えるまでにそれが果たされるかも分からない。


 卯崎が自分の家に帰るためには卯崎の両親を何らかの手段であの家から立ち退かせなくてはいけないが、それはつぼみさんの役目だ。俺の役目ではない。


 俺にはどうする事も出来ない。

 そのことか酷く歯がゆく、やるせなかった。


「……」


 そんな俺の横顔を、桃が見つめている気がした。


***


 全ての授業が終わり放課後になると、俺はまっすぐ家へと帰った。


 お悩み相談は、今はまともに取り組める状況ではないと言う卯崎の判断で中止になっている。


 その卯崎はというと、恐らく今頃桃と一緒に下校しているはずである。というのも、俺は一緒に帰っていないからだ。なんなら朝も電車降りた時点で桃たちとは別れて学校に行く時間ずらしてるしな。だって一緒に帰って友達に噂とかされると恥ずかしいし……。


 冗談は置いておいて、実際卯崎とはこの間のデートごっこで噂を流されているので、用心しておくに超した事はないと言うわけだ。まあ、俺は地味すぎて周囲に認知されてなかったらしいんですけどね。別に全然悲しくなんてないけどね、うん……。


 それに桃も、一人にしておくわけではないから大丈夫だろう。幸い、連日の雨で陸上部も部活が中止になってるしな。

 というわけで、俺はこの数日間、久しぶりに一人で下校していたのである。


 いつもよりも早く帰ってきた我が家で、買ったまま放置していた積み本を消化していると、玄関のチャイムが鳴った。

 その音で意識が本から離れた俺は壁に掛けられた時計を何とはなしに見やった。


「って、もう二時間も経ってたのか……」


 読書をしていると本当に時間があっという間に感じる。そう思いながら玄関へ向かい、ドアを開ける。と、そこには意外な人物が立っていた。


「桃……? どうしたんだよ、急に」


「うん、まあちょっと、新に用があって」


「俺に……?」


 こうして桃から俺の家に訪ねてきた事は久しぶりだった。というより、桃が俺の家に来ること自体、この前の日曜日が本当に久々の事だったのだ。その前は恐らく中学の頃だろう。


 高校に入ってから、お互いに家に呼ぶ事、呼ばれる事に妙な抵抗感が生まれたのだ。だから、登下校以外でのやりとりは基本的にラインで済ませていた。


「用があるなら普通に連絡よこしてくれれば良かっただろ」


「何というか、直接会って言わなきゃいけない気がして」


「なんだよそれ。……まあ、それなら中入るか?」


 俺の言葉に、桃は少し考えてからこう言った。


「あのさ、外で話さない?」

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