1章3話

 かつて私の遊んだ森や林には道がありました。人が通れるように木々を伐採して地面を踏み固めた程度の物ですが、森の小道などと呼ばれていた記憶があります。左右から大きく張り出して上空を覆わんばかりの枝は時折優しく揺れ、そこから差し込む木漏れ日が小道を彩り、まるで踊っているように見えたものでした。


 しかしこの森には小道などなく、深く積もった腐葉土層に足を取られて歩くのも一苦労です。平坦な場所でなら心強い手押し車は逆に枷となり、より一層私の歩みを鈍らせました。なぜだか荷台に置いたヤカンは落ちることなく張り付いているのがせめてもの救いでしょうか。

 足元の悪い場所でお荷物となった手押し車を引く作業は難しく、まごついていたら見かねた翔くんがハンドルを取って引っ張ってくれました。彼は口が悪く、たまに私のこともババアと呼んだりしますがその根はとても優しいと感じております。お育てになった御両親にとってはさぞ自慢の息子さんだったことでしょう。


「相田さん休憩しようぜ。足元が悪すぎて疲れちゃったよ」


 そう言いながら倒木に背を預けて座り込む翔くんですが、その顔には疲れなんて微塵も見えません。むしろ遅々とした歩みに有り余る体力が爆発しそうな様子です。私に合わせてくれている彼に感謝しつつ紙コップに注いだ麦茶を渡しました。


「かぁーっ、この麦茶いつ飲んでも美味いな。それに量が減らないのも最高だぜ」

「不思議なこともあるものね、これも神様の思し召しかしら」


 これまでにヤカンの容量以上を飲んでいるはずなのですが、麦茶は減る気配がありません。冷たさも保たれており、その心地良いのど越しで疲れも飛んでしまいます。私も自分の麦茶を入れてからヤカンを地面に降ろし、荷台に腰掛けました。森の中のお茶会なんて素敵ですね。

 飲みながら改めてこの森を見渡してみます。大地から伸びた木々は例外なく巨大で、これほど育つまでに一体何千年かかったのだろうと思うものばかり。所々にある倒木もこれまた巨大で、倒木同士が重なって行く手を塞いでいたり、アーチ状になっていたりします。その全てが苔むしているので、眼前に広がる世界はさながら緑の海のよう。海と違って豊富な空気が充満しているのはありがたいことですが、進捗で言うと泳いだほうが遥かに早い事実は否めません。この歳で昔のように泳げるかどうかは置いておいて。


「しっかしこの森、どんだけ広いんだよ。もうかれこれ三時間歩いて出口も見えないとかクソゲーだぜ」


 翔くんはクソゲーという単語をよく使います。口癖なのでしょうが、それは一体どんな雑草なのかなと都度考えてしまいます。聞くのもやぶさかではないのですが、彼が当たり前のように使う単語なのでアイデンテテーに関わるかも知れず、聞かぬほうが良いと判断しました。十九歳と言えども立派な男性なので自分の言動に疑問を投げ込まれては面白くないはずですからね。因みに私の中では螺旋状に伸びる太くて茶色っぽい茎をした植物イメージができております。


「森は遮蔽物が多いから見つけ辛いけれど、案外もう出口の近くかもしれないわよ」

「相田さんってポジティブだよな。ババアの割には体力もあるし」

「こんなに動けるなんて私も驚いているわ。以前は数分歩くと疲れていたもの」

「転生特典ってやつかもな。俺にも何か特典ないかな」

「生まれ変わって特典まであるなんて極楽ね。翔くんは私以上に元気じゃない」

「これは若いからだよ。特典のうちに入るかよ」


 そんな生産性も合理性もなく、しかし私にとっては楽しい会話を交わしていると気味悪い音が聞こえてきました。まるで硬い金属を引きずるようなそれは、ずるずる、ずるずると一定のリズムでこちらに近づいてきます。周囲を見渡せど音源になるような物はなく、ただただ森が広がっているだけなのですが。


「気味の悪い音だな。どこから聞こえてくるんだ」


 不気味な音はかなり近づいており、私達は軽口をたたくのを止めて息を殺すしかありませんでした。やがて至近距離にまで達した音はピタリと止み、それから少ししてまた聞こえ始めました。今度は私達から遠ざかるように。


「何だったのかしら」

「こっちが聞きたいぜ。まあ何であれ相田さんは俺が守ってやるからな」

「あら頼もしいわね。その心遣いが嬉しいわ」

「もともと戦闘のアテになんかしてねーよ。麦茶ももらってるし……」


 きっとこの子は性格で損をしてきたのでしょうね。とても優しいのにそれを素直に出すことができないのですから。もしも私に孫がいて、それが翔くんみたいな性格だったら愛おしくて抱きしめてしまうことでしょう。さすがに肉親でもない八十ババアに抱擁されても戸惑いしかないでしょうし、代わりにお小遣いでもあげられれば良いのですが現金を持っていないのでそれも叶いません。


「じゃ、そろそろ出発しようぜ。暗くなったら歩けないしな」

「そうね、よっこらしょ」


 立ち上がり一歩を踏み出そうとしたその時、どこからともなくまたあの音が聞こえてきました。それも先ほどより明らかに早いテンポで。ずるずるずるずる……背にしていた倒木を見上げた翔くんは、口を真一文字に結びバールを両手で持ち直します。


「音の正体はあれか。相田さん、動くなよ」


 彼の見据える先へと向けた目に映ったのは一匹の赤いウサギでした。それも身体に見合わぬ大きな斧を振り上げ、苔むした巨大な倒木の上から今まさに飛び降りて来んとする縫いぐるみの。

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