第55話

 夜、魚の煮付けに海藻の酢の物、野菜の天ぷら、卵焼きに味噌汁といった食事をとってから、五人はコーヒーを飲んだ。春子がポットで作ってくれたものだ。


 コーヒーポットは部屋まで持ち込み、五人は問題の続きに取り掛かった。二海が今やっているのは、Networkの二問目だった。通信の内容は取れたのだが、それをそのまま読んでも意味不明なデータだった。とりあえずデータ部分だけ出力し、何か操作を加えることで意味が取れないかとプログラムを書く。


 窓の外からは虫の音がよく聞こえてきた。昼間はぜんぜんそんな気はしないのに、やっぱり秋が近づいてきているらしい、と二海はコーディングの合間に思った。でも、今年の夏は終わってしまうのがもったいない。


 しばらく続けてから、階下の春子の「そろそろお風呂入っちゃってー」という声で、五人は風呂に入る順番を決めた。自分の順番が来て、着替えを持って二海は風呂場に降りた。


 熱い風呂を浴びると、全身に積もっていた疲れがすこしさっぱりとした。髪をかわかし、部屋に戻ってまたパソコンの前に座る。


 しかし十二時をすぎると、眠気が強くなってきた。画面を見ている目が閉じたがる。


「ねむい……」

「わかる……」


 部屋全体がどんよりとしていた。コーヒーを飲んでも、立ち上がって歩いてみても、眠い。どうしようもないほど眠かった。


「よし、じゃあ秘密兵器」


 桃がそう言い、下に降りていった。ややあって上がってきたときには、ネムシャキを指の間に挟んで五本、持ってきていた。


「でたー」


 二海とゆあんの声が合わさった。


「これでしょ! さ、みんな」


 桃はなぜか嬉しそうに、全員にネムシャキを手渡した。


「じゃ、一斉に飲みましよ。三、二、一」


 桃合図で、五人は一斉に瓶の中身を喉に流し込んだ。


「あー、まず!」

「においすごっ」

「薬っぽい……」

「うわ、何入ってるの? これ」

「何かで洗い流したい」


 全員が全員とも、しぶい顔をして瓶を置いた。


 しかしネムシャキの効果は偉大で、それから四時頃まではなんとか保った。Networkの二問目も、ビットに変換して処理をすれば意味のあるデータがとれることがわかり、フラグを取ることができた。


 しかし、外が明るんでくることになると、頭がどんよりと重くなってきた。これは前回もあったが、ネムシャキでもどうしようもない。ちょうど問題が一区切りついたところだったので、二海は洗面所に降りて冷たい水で顔をあらった。


 タオルで顔を拭いていると、洗面所のドアが開いた。


「んっ」

「あ、いたの」


 開けたのは優だった。二海は少し横にずれ、洗面台をゆずった。


 優は洗面台で口をゆすぎ、顔を洗い、化粧水と乳液をつけた。そして持ってきていたポーチからパウダーを出して顔にはたいた。その後は眉毛をかき、まつげに何かを塗る。その工程を、二海はぼうっと見ていた。


「……使う?」


 ポーチに化粧道具をしまいながら、優がたずねてきた。二海ははっとし、手をふった。


「ううん、いい、私使い方しらないし」


 優は少しけげんな表情を浮かべたが、「あ、こっちじゃなくて洗面台」と言った。

「あ……ごめん、勘違いして」二海は顔が赤くなるようだった。「そもそも、人の使わないよね、ごめん」

「いや、使うこともあるでしょ」と優は言う。「てか、二海ってあんまり化粧しないのかと思ってた」

「あの……」


 二海は少しためらったが、それでも続けた。


「方法がわからなくて……」

「えー。アプリの動画見たら? 解説してるのあるよ」

「あるの、そんなの」

「あるある」


 優はポケットからスマートフォンを取り出し、アプリの画面を見せた。『今年のオススメ秋メイク』『新作韓国コスメレビュー』『腫れぼったく見えないアイメイク』など、ずらっと動画が並ぶ。しかし、二海は『アイシャドウ』と『アイブロウ』の違いもよくわかっていなかった。


「初心者向けの動画もある?」

「あったと思うけど」


 優はアプリをすこしいじったが、それを止めて「今してみる?」とたずねた。


「え」

「今日あんまもってないんだけど。BBクリームとアイブロウと」

「……いい?」


 普段だったら「いい、だいじょうぶ」というところだろうなあ、と二海は思った。何しろ今は頭がぼんやりとしているから、なんだか何でも言える気がする。


 優はまず、ポーチから出したクリームを二海の顔全体に塗った。くすぐったかったが、二海はなるべくじっとして、息もしずかにするようにした。


「ちょっと、眉切ってもいい?」

「あ、お願い」


 小さなはさみで、優はちょいちょいと二海の眉をカットした。感触だけが二海に伝わってくる。その後、繰り出し式の鉛筆のようなもので、眉毛をかいた。それから頬骨のところにピンク色のパウダーをはたく。


「とりあえず、どうでしょう」


 鏡を見た二海は、自分の顔に驚いた。劇的に何かが変わったというわけではない。目の大きさも鼻の形もかわらない。それなのに、なんだかふだんよりぐっと垢抜けて見えた。ぼんやりとした印象が急にひきしまった感じがする。


「えー! すごい」

「いやー、今日は道具があんまりないから。私が本気出したらもっといくからね」

「これでまだ本気じゃないの?」

「そりゃそうよ、当たり前ー」


 その言い方がおかしくて、二海と優は二人で笑った。すごいなあ、と二海は本気で思った。こんなことができるなんて。自分にはずっとできないものだと思っていたのに、こんなに軽々とやってしまうなんて。かわいい子がしているメイクは、なにか魔法の粉でもかけているものだと二海は半ば本気で信じていた。自分で見よう見まねで粉をはたいてみたり、唇を塗ったりしてみてもぜんぜん意味がなかったからだ。それが、こんな短い時間で、ひとつひとつ手順を重ねてできてしまうものなのだとわかって、興奮していた。


「ちょっと、私も家帰ったら練習してみる」

「いいね。メイクはなかなか奥が深いよ」

「さっきのアプリ入れる」

「入れなー。れなさんの動画いいから」


 二人は話しながら階段を上がった。二海は、すっかり目がさめていた。

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