第43話

「アドレスって何」


 優が今開いているのは、『CTF攻略ガイド』の『バイナリ解析』の章だった。しかしそう聞かれても、二海にだってわからない。


「えっと……」


 優の開いているページを読み、なんとか理解できる箇所がないかと探したが、だめだった。『汎用レジスタ』だの『特殊レジスタ』だの、理解出来ない言葉がずらずらと並んでいる。


「ごめん、わからない……」

「じゃ、ここは?」

「えっと……機械語っていうのは……えーと……」

「わかった、もうだいじょうぶ」


 二海は困ってしまった。プログラムをゆあんにハックされた後、優はその手法を二海にたずねようとしてきた。二海が答えを持っていないとわかると、その後やってきた桃にも同じことを聞いた。


「うーん。私もちょっとわからないなあ。本はあるからこれを読めばわかるかも」


 そう渡された本を、優は何日もかけて読み解こうとしている。放課後もこうしてコンピューター室にやってきている。座る席は一番端の、ゆあんの席が見えないような場所だ。そこでページをながめ、わからない箇所はこうしてだれかにたずねようとする。


 しかし優の進みははかばかしくなかった。今優が開いているページは、『バイナリ解析』の二ページ目だ。それも当たり前だ、と二海は思っていた。『CTF攻略ガイド』の記述は、CTFの解法に焦点を当てている。基本的な知識の解説はしていない。そして今優がとりくんでいる箇所は、それなしでわかるようなものではない。


 とはいえこのレベルなら、桃であれば理解しているはずだ。そう思い、数日前の夜、二海はメップラで聞いてみた。しかし返ってきたのは『ちょっと考えがあって』という、よくわからない答えだった。


(私よりは桃ちゃんのほうがよくわかってるだろうから……)


 そう思い、それ以上なにか言うことはしなかったのだが、とはいえ桃の『考え』が二海にはさっぱりわからなかった。自分の担当の練習問題も、少し手をつけてはやめ、少し手をつけてはやめでまったく進んでいない。落ち着かないのだ。桃の『考え』も、いつまた本を開いてやってくるのかわからない優も、その存在をまったく無視しているゆあんも、ぜんぶが二海を落ち着かなくさせていた。その中でもまだ近寄りやすいと思う桃のほうをちらりと見ると、今は里々と話し込んでいる。


「……そうしたら、ここはプログラミングが必要になってくるってこと?」

「そうですね。手で解くのは難しいと思います」

「いよいよかー」里々は腕を組んだ。「むずかしそー」

「最初はちょっととっつきにくいかもしれないですけど、でもコツをつかめばすぐですよ」

「そうかなあ。でも、面白そうだよね。楽しみー」


 そこで、桃は顔を上げて二海を見た。目がばっちり合ってしまう。桃は軽く笑みを浮かべ、「二海ちゃんも一緒にやらない?」と声をかけてきた。


「プログラミング?」

「そー。WebでもNetworkでもあると便利だし」


 確かに練習問題をやっていると、攻撃の自動化やデータ処理にプログラムを使うと解説で示されていることがある。そこで使われているのはたいていPythonというプログラミング言語で、経験のない二海には難しそうに見えた。他にもやらなければいけないことはたくさんあったので、Pythonを覚えるのは後回しにしていたのだ。


 しかし、そろそろ潮時かもしれない。二海はカバンを持ち、桃と里々のそばに寄っていった。


「教えてもらえるの?」

「というよりも、一緒にやるってかんじだね」


 桃は自分のノートパソコンを操作し、ブラウザで開いているページを見せた。


「これ、無料でできるPython講座なの。動画で教えてくれるし、一トピックごとに確認問題もついてて、ぜんぶWeb上でできるから環境構築の手間も省けるし」


 いいことづくめに聞こえた。ある一点をのぞいては。


「英語……」

「英語だ……」


 二海と里々は同時に声を上げた。


「里々さんは、英語……」

「苦手ー」

「私もあんまり……」

「まあ、わかります。だから、持ち回りでやるのはどうかなと思って」


 桃の提案を、二海は最初飲み込めなかった。その表情を受けて、桃が説明を加える。


「つまり、一人ひとりに担当するトピックを割り当てて、担当分を訳してくるっていうこと」

「ああ……」

「……自動翻訳じゃだめ?」


 里々が言う。英語に対する苦手意識がかなり根強いようだ。


「試してみたんですけど、用語をうまく訳してくれなくて、結局元の文読まないと意味わからないってことになっちゃうんですよね。それなら手分けしたほうが早いかなと」

「そうかあ……はー……いつかは対決する日がくるとは思っていたけど、思ったより早かったなあ……」


 里々が机に突っ伏し、悲劇的な口調で言う。二海も声には出さなかったが、なるべく簡単な部分を担当したいなと考えていた。


「あ、でもさあ、これ、みんなでやったほうがいいんじゃない?」


 里々が突っ伏したままで言う。


「みんなで、て、クラブの?」


 二海が聞くと、里々は「そーそー」と頭を動かした。


「重荷はみんなで背負いあおうよ」

「確かに、そのほうが一人あたりの訳す分量は少なくなるし、いいですね」


 桃は賛同する。だが、二海はすぐ同意できなかった。いいかどうかではなく、できるかどうかが疑問だった。みんな、というと、ゆあんと優のことを指しているのだろうが、あの二人が参加するだろうか。


 しかしそんな二海の心配をよそに、桃はノートパソコンを置いて優の席へ向かった。


「佐々岡さん、さっき話してたんだけどさ、プログラミングの教材、一緒にやらない?」

「えー。私、今これやってて、てかこれをわかりたいだけで」

「そこさー、難しいところだから、この教材やると理解の助けになるんじゃないかなあ」

「えー」

「あと、単純に人が増えると助かるんだよね。せっかくいるんだしさ、どう?」

「っても……うちにパソコンないし」

「学校のやつ使えるしさ。それにいちおう、これクラブ活動だし、その本もクラブのやつだし。それに、つまらなかったらいつでもやめていいしさ」


 桃はねばりづよく交渉した。それからまた二、三言葉をかわし、ついに優は二海たちのところへやってきた。二海は桃のやり方に感心し、そしてすこし悲しくなった。自分にはああすることはできない。それでも、眼の前のことをやるのが精一杯で、悲しさを味わう暇はなかった。


「あーあと、ゆあん!」


 桃が声を上げる。


「こっち来て。一緒にやろ」

「えー。やだ」

「またそういう……」


 桃は腰に手を当てた。里々が立ち上がり、ゆあんのそばへ行く。


「やろーよー、一人だけ入れないんじゃいやじゃない。ほらほら」


 里々はゆあんの腕をとり、半ば強引にひっぱった。ゆあんも一つ上の、まだそれほど親しくない相手にはそこまで強く出られないらしく、「え、ちょ」と言いながらもやってくる。


「そしたら、一章は私がやるから、そこから持ち回りね。二が二海ちゃん、三がゆあん、四が里々さん、五が佐々岡さん。後は最初に戻って同じ順で」

「あ、うん」


 二番目か、と二海は急いで二章のタイトルをチェックした。一が『Introduction to Python』、二が『Numbers and Strings』だから、まだそれほど難しそうなところではない。


「え、これ全員でやるの?」


 優が聞く。「そうだよ」と桃は答えた。


「私……」

「まあ、とりあえず一周やろう」と桃は優が何か言いかけたのを遮った。「わからないところあったら聞いてくれて全然かまわないから」

「何で聞いたらいいかなあ?」里々が聞く。「スマホ?」

「あー、それでもいいですけど、これ、このクラブのチャットツールがあるんで。入れ方教えますね。このほうが作業しながらならやりやすいんで」

「いいねー」


 桃が里々と優にチャットの使い方を教えている間、二海はちらとゆあんの方を見た。腕組みをしてじっと前を見つめ、何もしゃべらない。何か声をかけたほうがいいかどうか迷ったが、二海は結局何も言えなかった。

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