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『始めようか』


 暗闇の中を、若く穏やかな通信機越しの声が告げた。風の音とこすれ合う低木の葉や長く尖った雑草の音がかき消す。


「支援ありがとうございます」

「いつもサンキューな、ハン。もう茂みで座り込むのも退屈だ」


 前者は恐らく二十代にも達していない、緊張した少女の高い声。後者は二十代後半と思われる、落ち着き飄々とした男性の発言。


『妨害は三十分しか持たない。それ以上続けたら発覚する可能性があるから気を付けてくれ』

「はい、分かってます」

「土産はあまり期待しないでくれ。最悪カルフォルニアの砂でも持って帰る。帰ったら一杯やろうや」

『リョウ、安く言わないでくれよ。運に逃げられるよ』


 ひそめられているものの少女の張り切った声と、思慮の欠片も無い男性からの軽口。彼女らの周囲にはまばらに草木の生えた乾燥地帯が広がっている。


 通信機越しの返事は苦みを帯びた声だった。


「じゃあ二杯」

『いや、数的な問題じゃなくて……』

「リョウさん、任務前だから集中しましょうよ」


 懲りずに冗談を吐く青年だが、遂に呆れた二人から叩かれる始末だった。澄んだ空気を通して照らす星明かりは青年の笑顔の輪郭をぼんやりと映す。


「ほら、お前のせいでかわいいアンジュちゃんにも怒られたじゃねえか」

『関係ないだろ! 君は何で何時も空気を読まないんだ?』

「というか“ちゃん”付け止めて下さいよ!」

「楽しけりゃ良いんだよ。分かった、集中すれば良いんだろ?」


 それでも懲りず、しつこくジョークを繰り返しても打開策にはならず、重なる二人に叩かれる始末。軽く首曲げストレッチをしてようやく気を引き締め、左手首の腕時計に右手をやった。


 隣の少女も、腕時計にある一秒毎に更新される数字を真面目に見ている。数字はもうじき日付が変わる事を教えていた。楕円形の月もほぼ南を示している。


『三十分経ったら攻撃するからそれまで脱出しておいてくれ』

「また明日。ビールかウイスキーでも用意しといてくれ。あとブリトーもだ。ソースはテリヤキ風が良いな」

「リョウさん!」


 更なる軽口が飛ぶ。隣の少女のやや抑えられた叱りと同時に、耳に当てた通信機から息が漏れる音がした。


『では改めて始めようか。三、二、一、マーク!』

「マークです!」

「おう!」


 二人は通信の掛け声と同時に、腕時計のタイマーを残り三十分に設定する。通信を切り、二つの影は草をかき分けながら、目前一キロメートル先にある、闇で“見えない”筈の建物へ向かって、走り出した。





















 何故走っている?


 見えるのは果てしなく続く白い廊下。後ろから足音も迫ってくるが、見たくない。


 ようやく辿り着いた曲がり角。“奴”に遭遇した。


 黒い上下の防弾・防刃スーツに包まれ、顔は同色のバイザーヘルメットが覆う。背中にはアサルトライフル――思考の暇もなく、黒い手がこちらを掴もうと伸びてくる。


 ならば、左手で横へいなし、隙の生まれた側頭部を狙い右裏拳。相手は前方の壁に激突した。


 不意に背後から、何者かが自分を羽交い絞めにした。他の足音も後ろから聞こえる。


 相手のつま先を踏み付けた──くぐもった呻き声。拘束する力が抜け、もう片足を軸に相手を後方へ振り回す。


 バチッ――オレンジの火花が見えたかと思うと、黒い姿が痙攣する。担いだ人体を投げ捨て、その先に居た別の黒服と当たって吹っ飛んだ。


 改めて見ると、倒れた二人以外にもう一人、手に持った棒状の物体が差し出される――大電流を流すスタンバトンだ。


 その手首を左手で掴み止める。次なる左フックを右手で受け取る。そして掴んだままの相手の左手首を折り曲げた。ヘルメットの奥から苦痛を訴える狼狽。


 足音。振り向くと、駆け込む三つの黒い人影。そして三本の棒先が自分を突き刺そうと……


 遅い。


 見る。スローモーションの如く三本の腕の動きがゆっくりと、判る。


 払い蹴りを一閃――それぞれのバトンが弾かれ、床や壁を叩く。動揺したのか、勢いが緩む。


 掴んでいる敵を両手で抱え、後ろを向きながら腰を落とす。振り回して空中に弧を描きつつ、後方の一人へ叩き落とした。


 残る二人が自分を挟んだ。右方のパンチをはたき、左方の前蹴りをキャッチして離さない。


 更に右から連続拳の襲来。空いた右手で何とか捌くが、次第に左方へ追いやられる。


 瞬時、掴んでいる左方の足を引き寄せ、頭を下げる。鈍い音──右方の拳が左方の頬にめり込んでいた。


 逃さず、踏み出していた右方の膝を右足で蹴り折る。軸足を踏み換え、左方の顔面へ左足裏をヒット――吹き飛ばし、相手は仰向けに倒れた。


 関節の痛みにひざまずいている右方の顎へ、膝の一撃。後頭部から壁に叩き付けられた相手は、だらしなく落ち込んで動かない。


 シュパッ──火薬音。同時に、肩へ鋭い痛覚。


 針状の物体が皮膚を刺していた。本能的に危機を察知し、引き抜く。恐らく捕獲用の麻酔弾か。


 振り返ると、銃を構えた大量の人影。黒く塗られた無機質な表面は、一切の表情と人の気配を感じさせず、人型兵士ロボットであると一目で分かった。


 廊下の曲がり角を盾に弾丸を防ぎ、直進。今度は正面に三体のロボットが待ち構えていた。次の分岐路はその丁度後ろ。


 少ない方がずっと良い。加速――向こうが銃を構える。


 見える――銃口。そして、発砲光。


 体をスライド。銃弾は体ギリギリを掠め、後方の壁に突き刺さった。


 今度は横に広くばら撒かれた銃弾。斜め前方へ跳び込み、地面を転がる。続けて表面積を小さくしたスライディング。


 針が鋭角で床に刺さるのが横目に見える。遂に中央のロボットの足元へ滑り込み、脛を蹴った。起き上がりながら左へローキック。


 二つの金属の人体が倒れる。立ったところへ、右方の銃口が光った。


 揺らぎ。


 胸を刺そうとする銃弾――横から指で取り、捨てた。


 何故そんな事が出来た? しかし状況を打破する方が先だ。


 突進し、駆け込みの勢いを乗せたブローが腹部へ衝突――潰れる手応えと重い破砕音。金属製のボディは割れ、機関部が剥き出しになる。


 今度は足を引っ張られる感触。咄嗟に反対側の足を下し、引っ張られる力が消えた。足元に目をやれば、ロボットの首からスパークが散り、動かぬ金属の人形と化していた。


 ふと、正面のロボットが殴り掛かってくる。頭を傾けながら右ブロー。


 金属の拳が顔の横を通り過ぎるのと同時に、右拳に感触――腹部の機関部が火花を散らし、がっくり倒れる。


 最後の一体が後ろから銃口を向け、トリガーを引いていた。


 体を後ろへ逸らす――胸の上を掠める鋭さ。倒れる勢いで回転し、壁に足を着け、折り曲げた膝を勢い良く伸ばす。


 反作用で突進、ナックルでメタルの顔面を抉る。着地した時にはロボットは停止していた。


 再び走り出そうとした、その時、


「お前は逃げられない」


 冷たい声。誰かが正面で堂々と立っている。


 こちらよりも頭一個分大きい男性が一人。鍛えられ引き締まった大柄な肉体は、行く手を遮るのに十分過ぎた。横にある筈の通路の隙間さえ感じない。


 距離五メートル――認識した時には姿が消え、目前に現れた。


 相手の右手がぼやけた。直感的に腕を腹へ――肘に衝撃を感じる。次の瞬間、威力のあまり吹き飛ばされ、背中から不時着する。


 倒れたまま後ろを見れば、他の兵士やロボット達が退路を塞いでいる。掛かって来ないのを見ると、あの男に一任しているらしい。


 余程あの男が強いのか……しかし他に手段は無い。


 手を着いた反動で起き上がり、次なる攻撃に備えようと身構える。しかし、既に男の姿は、正面一メートルの距離にあった。


 男の両腕から繰り出される、無慈悲な連続撃を手で抑えつつ、反撃の前蹴り。呆気なく掴まれ、相手から手刀が伸びる。


 腰に激痛が走る。持ち上げられ、真横の白い壁に叩き付けられた。背中に硬い衝撃――更に迫るパンチの嵐。


 腕を左右に揺らし防御を試みるが、圧倒的な速さの拳がガードをすり抜け、痛みの度に背中が壁に打ち付けられていく。


 逃げたい。


 奮い立ち、殴ろうとする拳を両手で受け取った。伸びた腕の先にある肩に、手刀を炸裂させる。男が一歩後退。


 隙を逃さず、向こうへとストレート――停止した。


 男の腕は、こちらの拳を呆気なく掴み止めていた。外そうとも離れない。何も受け入れてくれない。


「お前と俺とでは根本が違う」


 突如、掴む奴の掌が光り、自分の身体へ流れ込む輝き──揺らぎ。その拍子に力が抜け、膝が地面に着いた。


「アンダーソン、やはり見込み違いか……」


 向こうは何かを呟いているが、次第に音量が小さくなっていき、聞こえるのは耳鳴りだけとなった。


 力が入らず、地面にうつ伏せになる。瞼も重くなり、揺れる視界が黒く塞がれる。


 残る皮膚に張り付く床の感触も、やがて消えた。



 逃げろ。


 何も解らない。誰も教えない。


 足を動かして白い床を蹴ろうとしても動かない。


 捕まりたくない。何故追うんだ。逃げたいのに。


 何故教えてくれないんだ。知りたいのに。


 何故何も分からないんだ。


 教えてくれ!





















 ガウンのような病人衣の少年を捕えた、茶髪で三十代前半と思われる碧眼の男。気絶した少年の胸倉を片手で掴み、持ち上げる。


 近くの兵士の足下に、ドサッ、と気絶した少年を落とすが、起き上がらない。


 数人が駆け寄り、一人が注射器を持っていた。針先が白い肌に突き刺さり、ピストンを中の透明な液体と共に押し下げる。すると、少年の呼吸が弱まった。


 すると、ロボットの一体が少年を担ぎ上げ、近くの台車に乗せる。台車は自律走行機能を持っているらしく、廊下の何処かへと去った。


 騒ぎに駆けつけたロボット達は何事も無く退散し、兵士や研究者、人だけが集まっていた。


 その中の一人、歩み寄って来たのは赤毛の中年の男性。


 男は彼の姿を認めると近付き、話し始める。大柄な茶髪の男性より頭一つ分は小さかった。


「中佐、捕えました。念のため起きないよう薬を打たせておきましたよ」

「ご苦労だったアレクソン君。しかし、覚醒したのか?」

「いえ、まだその途中段階に当たる所でしょう。それ程強くもありませんでしたし。お蔭で被害は少なく済みましたが……ところで、制御は効いてなかったのですか?」

「一応、『チップ』は埋め込み済みの筈だったのだがな。移植初期の拒絶みたいなものだろうか」

「それにしても、何故精神があんなに不安定状態を起こし、逃走という行動を取ったのか……」

「うむ、記憶は無い筈だというのに不思議な事だ」


 アレクソンと呼ばれた男性は興味無く踵を返す。一方、中佐と呼ばれた人物の額に、一滴の冷汗が流れていた事には、誰も気づかなかった。

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