4, その男(reprise)


 もう悲しくはない。何かを恨む気も、羨む気も、ない。脳裏に浮かぶ誰も、憎いわけでもない。悔しさも、もうない。怒りは少しあった。みじめな気持ちは、確かにある。諦めもある。ここまで来てしまった。見殺しにして逃げることだって出来たのに、来てしまった。

 自分を追い詰めた男の言葉が、自分を糾弾きゅうだんしていたわけではないと知っている。押し付けるわけでも、見ないふりをしていたノアをわらうわけでもない。諦めさせようとしているのだとわかっていた。ひとを救うのも、守るのも、もはやノアの手には余ることだと。だから諦めろと。そう言われているのだとわかった。


「……もう、もうたくさんだ、うんざりする! あんたもあんたのとこの誰かも、ずっと頭の中でごちゃごちゃ言ってる! デイジーもエイダも母さんも、そばにいて欲しい時に死んでる! もうあんたらの顔なんか見たくないのに! あんたら以外何を言ってるかもわからない……やってられない……」


 だから少しだけ腹が立って、そして寂しかった。とうに、ノアは諦めていた。人を救うのも守るのも、わからなくなり始めた頃から諦めつつあった。ヒーローなんかじゃない。人と認識できる者を殺して、ひとと認識できなくなったものを救っていると、自分がただの人殺しだと実感してしまう。復讐から始まり、誰かを救いたいと思って救ったことがない。憂さ晴らし、あとは惰性だせい。たとえノアの後ろに、守られるべき人間がいても、引き金はいつだって指がちぎれそうなほど重かった。それひとつを盾に命をかけるのは、怖くて怖くて仕方がなかった。けれど、ヒーローと呼ばれなくなったら、ノアは人殺し以外の何と自分を呼べばいいのかわからない。だから守ってきた。だから救ってきた。

 けれど、そうしたら、もっとわからなくなった。自分が人殺しだと実感しないために人を殺した。それを、誤魔化ごまかしたくて、ヒーローと呼ばれたかった。

 守ったひとたちは、わからない。ノアが、人を殺したことを喜んでいる。握手を求められて握った手は、引き金の重さを知らない。知らないのに、引き金を引けと言う。助かって涙を流す目は、命を誰かに握られる恐怖を知っている。知っているのに、ノアに命をかけさせる。ノアには理解ができない。わからなくなった。

 救ったひとたちがわからなくなると、誰もノアをヒーローと呼んでくれなくなった。何と呼ばれているのかわからない。ノアに何かを言うひとたちの中に、本当にいないのかわからない。ノアを人殺しと呼ぶひとが、いるのではないかと怖くなる。


「ノア、お前、死ぬつもりだな」


 ノアはとうに、憧れたヒーローを諦めていた。不敵に笑い、悪をたおしていたあのヒーローを、心の奥底に仕舞い込んだ。誰に讃えられても、褒められても、羨まれても、自分が一番わかっていたからだ。何を守っても、救っても、どれだけ命をかけても、相手がどんな悪でも、ノアは自分を英雄視できない。ひとを救うことは、人を救わないことだ。なにかを拾えば、何かを切りてることになる。だれかを生かすというのは、ノアには誰かを殺すことだった。どちらかを選ぶというのは、片方を選ばないことだ。

 救った命よりも奪った命の方が重くなった瞬間に、ノアは諦めた。守っただれかより、殺した誰かに天秤てんびんが傾いた時に、ノアはヒーローを諦めた。


「ああ、そうだ」


 人を殺した者が、どんな罰を受けるか。痛いほど知っていた。ノアが一番、断罪してきたからだ。


「……死ぬのを止めはしないさ。けどなノア、俺には責任がある。お前にも責任がある」


 一度でも希望を見せたら、ずっと見せ続けなければならない。それはノアの言葉ではない。けれどシミのように消えなかった。ノアにとっては、それは今や逆だ。一度奪ったのだから、奪い続けなければ。死ぬまで奪い続けなければ、ノアの諦めが無駄になる。憧れたものを諦めた、ノアの寂しさが、報われない。


「……何の責任だ。希望を見せた責任か? それとも、人を殺した責任か」


 そう聞いたノアに男が向けたのは、初めて見たような真剣な顔だった。何かを決意したような、とにかく命をかけている、男の顔だ。けれど見覚えがあった。


「英雄を、夢見させた責任だ」


 何も言うことが出来なかった。


「本当はこの世界にはヒーローなんていらない。俺もお前もいらないからこんなにも命に羽が生える。でも俺たちはわからなくなっても、嫌気がさしても惰性だせいで人を救い、誰かに夢を見させた。終わらせなければ、俺たちの悪夢をまた誰かが引き継ぐ」


 同意も反発も、または曖昧あいまいな言葉もどれでも、発せなかった。


「ヒーローをてよう。一緒にててくれないか、ノア」


 ノアは泣いていた。自分たちがてられていることに気付いたからではない。悪夢から覚めないからでもない。死にたいからでも、死にたくないからでもなかった。

 ノアも夢を見ていたからだ。憧れた胸には炎が灯って、困難な道も希望にあふれさせる、力にあふれた素晴らしい夢だった。何を後悔しても、ありし日に戻りたいと思っても、憧れたことを悔やむことはついぞなかった。こんな悪夢の中だって、あの日の夢は悔やまない。

 その夢は、力だ。奥底に仕舞い込んでもなお、諦めたノアに語りかけてくる。自分を人殺しだと責めるのは、憧れたからだ。自分の諦念ていねんがこんなに寂しいのは、ヒーローとの訣別けつべつだからだ。だが憧れたせいではない。ヒーローのせいではない。強さを夢に見るのは、強くなりたいからだ。だってみんな、強くなりたい。だからこんなにも救われない。自分が救われないのだから、きっとヒーローも救われない。

 ノアはヒーローの結末を知ってしまった。何度も繰り返し夢に見たヒーローが、どうしていなくなって、どうやって死んでいくのか、わかってしまった。わかってしまったら、もうただ頷くしかなかった。


「命をかけるのも、命をうばうのも、いい加減自分たちでやらせなきゃいけないんだ。なあ、そう思うだろ。ヒーローさま」


 その不敵な笑顔には、見覚えがあった。ノアが憧れたヒーローと同じ顔だ。とっくの昔にてられた、ノアの夢だった。きっと泣きながら殺された、ノアのヒーローだった。


 ……アレックス・ハーディーは、ヒーローだった。ノアだけではなく、すべての弱きものにとってのヒーローだった。その不敵な笑みで、インタビューに答えていた姿を、誰もが希望だと思った。楽しく幸福なことばかりではないこの世に、光をもたらしていた。

 ヒーローになる前のアレックスの運命を変えたのもまた、ノアと同じく復讐だった。息子を産んで死んだ妻と、逃走中の強盗犯にき殺されたその息子は、アレックスの運命を大きく変えた。

 棺桶の中で、嘘のように安らかに眠る息子に、アレックスは何も言うことができなかった。涙も流せず、ただ睫毛まつげを数えていた。妻の遺志灯る息子は、なんの感慨かんがいもなく死んだ。死ななくてもいい時、死ななくてもいい場所で、死ななくてもいい理由によって。その復讐は、もはや当然のことだった。

 それを成しげた後はノアと同じく、惰性だせいで人を救っていた。そしてその不敵な笑顔の形に凝り固まった表情筋は、彼の疲れを世に知らせることはなかった。やがてわからなくなり、そのまま人知れず消えていき、今では覚えている者の方が少ない。

 いらなくなっててられた、誰よりも軽い命だった。


(ああ、デイジー……君に会いたい、会いたくてたまらない……どうか一緒に来てほしい、俺と、永遠に許されない楽園に。永遠に救われない地獄に、君にも来てほしい……君が生きていたらよかった)


 ノアは、深く頷くと涙を拭った。それを見たアレックスが立ち上がり、どこかに電話をかける。その横顔の、睫毛まつげを数える。


(君が生きていたら、ひとを殺した俺は君に殺されて、二人とも地獄に行けたのに)


 ノアにはその場にいる全員が、震えているように見えた。人質も、アレックスも、他の構成員も、全員が恐れおののいていた。

 怖くてしかたがなかった。切なくてどうにかなりそうだった。寂しくて死んでしまいそうだった。


(そしたら、そうしたら、今度こそきっと、地獄で君を守れるのに)


 アレックスがマスターに助けられながら電話していたのは、どこかのマスコミのようで、程なくして外にいたのだろうテレビカメラが、防弾チョッキを着込んでヘルメットを被ったカメラマンと一緒に届いた。リポーターはいらないとでも言ったのか、それとも来たがらなかったのかカメラマンだけだった。


『やあ、俺はアレックスという』


 持ち込んだのだろう小さなテレビで本当に放送されているか確認すると、アレックスはカメラに向かって話し出した。相変わらず立てこもり犯とは思えない、穏やかで優しい話し口だった。


『俺たちはヒーローと呼ばれていたが、今はもうヒーローじゃない。病気になったから逃げた。今はヒーローを救うために、罪のないひとたちを殺したりしてる。ここ数年起きた大きな立てこもり事件、ノアというスーパーヒーローが解決した事件はほとんど俺たちによるものだ。ニュースを見てれば知ってるよな?』


 アレックスがカメラを通して、顔のわからないひとたちに話しかける最中、ノアは今まで殺した人を思い出していた。この組織が活動を始めたのは、ノアがヒーローになるかならないか、そんな時期だ。ノアの前のヒーローが消えて、数ヶ月経った頃。


『勘違いしないでほしいのは、俺たちは別にノアに手柄を与えるとか、そんなことのためにやっているわけじゃない。そんなことのために命をかけていたわけじゃない。ただ個人的な感情で動いていたにすぎない』


 構成員を見渡しても、ノアの前のヒーローはいない。ノアが殺した記憶もないが、多分死んだのだろうと結論づけた。

 今はノアにもわかっている。ヒーローなんてそんなものだ。殺されたのか、自殺でもしたのかはわからないが、とにかく死んだのだろう。


『宣言しておく。ノアはもう、君たちを守らないし救わない。君たちのために命をかけることはもう二度とない。ノアも病気になったからだ』


 人質が、息を呑むのがわかった。当然だ。目の前で、わずかな希望が断たれたんだろう。けれど誰一人何も言わなかった。きっと世界中、見ているんだろう。夢の顛末てんまつを知りたいんだろう。


「あんた、逃げたくはならないんですか」


 話し続けるアレックスを尻目に、マスターがノアに話しかけた。


「マスターは、逃げたいんですか」


「いえ、俺はもうとっくに死んだ身です」


「……ねえ、俺の前のヒーローって、どうなったんです?」


『この病気は、ヒーローだけがかかる。死ぬまで治らない。死ぬまで俺たちは苦しみ続ける。一度ヒーローになってしまえば、いずれ誰もがかかる病気だ』


 マスターは黙った。アレックスの声が響く中、ノアはマスターを見つめる。どこか遠くを見るような目だった。


『俺たちは、ヒーローと呼ばれていた人間のほとんどは、かつて英雄の誰かに憧れていた。そうしてその憧れのまま、ヒーローになるスタートラインまで辿り着いた』


 なんとなく、悟った。

 アレックスは話し続ける。話しながら、自分の指を見ていた。何かを指折り数えているのが見えた。三本目の指を途中まで折ったところで、言葉を一度止めた。


『……けれどヒーローになった時は、誰かを救おうとしてなったわけじゃない。功績のうちのほとんどは、惰性だせいでひとを救った結果だ』


 アレックスやノアがこうなった経緯も、病気の内状も言わず、淡々と続けた。指は三本目を折りかけて止まったままだ。


『ヒーローは使いてだ。逃げられずにゴミみたいにてられた奴もいた。でもそれでいい。救わなくなったヒーローに価値はない』


 声音からアレックスの深い絶望を感じ取った。いつまでも崩れない不敵な笑みと、穏やかな絶望の響きが、ゾッとするほどアンバランスだ。ノアの知らない絶望だ。


『だから俺たちは今から、俺たちの手でヒーローをてる』


 きっと、これから知ることになる。

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