番外編3 双子の犬① 衛兵の朝

 あの日、キエンは夏の青々とした草原を馬で駆けていた。


 キエンはここではないどこかへ行ってみたかった。


 晴れた空の下で吹き抜ける風は気持ちが良くて、キエンの馬はキエンの思う通りに走ってくれる。


 住んでいる家からどんどん離れていくに従って、キエンの心は高鳴った。


 だけど果てに真っ直ぐに伸びた地平線を目指しても、キエンはどこにも辿り着かなかった。一日中駆けて遠く遠くに来たはずなのに、どこまで行っても草しか生えていない景色は何も変わらなかった。


 やがて赤くて大きな太陽が、見張りを終えるみたいに沈んでいく夕方がやってくる。


「もう、帰ろうよ」


 キエンの隣をずっとついて来た、従兄弟のリウンが言う。

 リウンはキエンと同じ年の九つの子供だったが、リウンはキエンと違って自分の家から離れることを怖がっているようだった。


「そうだな」


 仕方がなくキエンは、来た道を戻ることにする。残念ながらキエンもリウンも、家族から離れて生きていける年齢ではない。


 一日駆けたくらいじゃ景色も変わらないほどに広すぎる草原に、キエンは囚われ続けなければならないのだ。


 ◆


「あっつ……」


 湿度が高く不快な朝に、キエンは形を失った夢からさめる。


 碧の国の夏は早朝から暑く、布団はじっとりと汗に濡れていた。


 キエンは故郷に思い入れはないが、この目覚めの悪い朝にはあの心地の良い夏の風が懐かしくなることもある。


(今、何刻だ?)


 時刻を告げる太鼓の音に起き上がり宿舎の窓から外を見ると、空は思ったよりも明るく夜が更けていた。太鼓が叩かれる数も、普段より多い。

 キエンはこの国の軍隊でそれなりに責任のある役職についているが、どうやら今日は寝坊をしてしまったらしい。


 慌てて汗で重くなった木綿の寝間着を脱いで、キエンは軍の隊服に着替える。


(リウンは夜番だっけ……って、ああ、そうか。もう、あいつは……)


 いつもキエンを起こしてくれていた同室の従兄弟の寝台を見て、キエンはもう彼がこの世界にいないことを思い出す。


 二人で暮らしていたときには何も不足を感じていなかった木造の宿舎は、一人になってみると妙に広くて家具や物が少ない気がした。


 同じ日に生まれ、同じ顔を持ち、同じ背で、同じ物を食べて育ったキエンの半身であるリウン。


 二人には同じものがたくさんあるように、違うものもたくさんあった。


 リウンはむりやり都に連れて来られたが、キエンは自分の意志でここまで来た。リウンは望まぬ形で親殺しの罪を背負い、キエンは同じ罪を自ら犯した。


 そして誰よりも故郷から離れることを怖がり嫌がったリウンは異世界の少女とともにずっと遠くに行ってしまい、どこかに行ってしまいたかったキエンがこれからもこの碧の国で生き続ける。


(まあ、俺はこの都が嫌いじゃないし、困ってないけどな)


 キエンは黒染めの上衣と袴を大雑把に着て、髪をととのえる暇もなく部屋を出た。大急ぎで支度を済ませたので、朝食を抜けば多少の遅刻はしても大遅刻は免れるはずであった。



 一つの軍の部隊の責任者として、キエンには朝からやるべきことが多くある。


 まずは武器庫の鍵を守衛から借りたキエンは、足早に無機質で冷たい白壁の建物が並ぶ宮殿の外れの敷地を歩いていた。


 この碧の国の都の宮殿では、川をせき止めて造られた人工湖を取り囲んだ正殿を中心に、楼閣を備えた庭園や官吏が働く省庁、兵士や官女の居住部など、様々な用途の場所が広大な敷地に集まっている。


 国王のいる正殿の周辺は朱塗りと金細工に彩られた華やかな空間だが、そこでの豪奢な暮らしを支える人間たちが働き眠る場所は重苦しさはあっても美しさはない。


 やがてキエンが武器庫に着くと、扉の前にはの新米の兵士たちが訓練のために集まっていた。


「おはようございます。校尉殿」

「ああ、おはよう。今開ける」


 キエンはまるで遅刻も何もしていないかのように振る舞い、錠に鍵を差し込み扉を開けた。


 堅く丈夫な木材で造られたその倉庫の中には、刀や弓、槍に鉾など、使い込まれきちんと手入れされた武器が整然と棚に並んでいる。


 若い兵士たちは素直に礼儀正しく並んで各々の武器を取り、訓練を行う演武場へとぞろぞろと歩いていった。


(一、二、三…。休んでるやつはいなさそうだな)


 キエンはその演武場に向かう兵士の数を数え、欠席者がいないかを確認した。


「それじゃ、しばらくはお前が組手を見てやってくれるな」

「はい。わかりました」


 兵士たちが問題なく演武場へ行くのを見届けると、キエンは一番年長の兵士に訓練の指導を命じた。


 この次には、宮殿や都の護衛にあたっている兵士たちの出勤簿の確認をするために詰所へと向かわなくてはならない。


(だけどその前に、食堂に寄ってなんかもらおう。こんなに空腹じゃ仕事ができない)


 キエンは少し遠回りして、普段朝食を食べている食堂へと向かった。


 食堂はキエンよりも遅い時間からの勤務の者たちがちょうど朝食をとっているところで、料理が無くなっているということはなかった。

 キエンと同じように軍隊の服を着ている男たちは、整然と机に並んで座って粛々と肉入りの饅頭を食べていた。


「時間がないから、饅頭だけをくれ」

「はい。饅頭一つ」


 キエンは蒸し器の前に立つ配膳係の男に頼んで、饅頭を一つそのままもらった。

 男は茸の汁物も椀によそっていたが、キエンは席についてゆっくりそれを飲んでいる暇はなかった。


 食堂を出て歩いて詰所に向かいながら、キエンは肉味噌そぼろの入った饅頭を頬張る。


(やっぱちょっと冷め気味だな……)


 水分過多で皮がべたついた蒸し饅頭は、熱々というわけにはいかずにぬるい。


 しかし多少不味い部分があっても細かく刻まれた筍の入った辛口の肉味噌そぼろはキエンの好きな饅頭の具であるので、余裕をもって味わって食べることができないのは残念だった。


(リウンがいたころは、面倒な仕事は全部あいつに任せることができて便利だったんだけどな)


 饅頭をほぼ食べ終え、手にくっついた皮をなめてとりながらキエンはため息をつきたい気持ちになった。


 リウンは真面目なお人好しだったので、キエンが適当に理由をつけて頼めばたいていのことはやってくれた。キエンはリウンに仕事を押し付けては、昼寝をしていたものだった。

 しかしリウンがいなくなった今、キエンが気軽にさぼる方法はなくなっていた。


(別に今でも本気を出せばいくらでもさぼれるんだが、迷惑かけても平気な相手がいるかいないかじゃ全然違うんだよな)


 キエンにとってはリウンは最も近しい相手であると同時に、もっとも便利で都合が良い存在でもあった。そのため彼の喪失は、寂しいと同時に不便でもある。


 やがて正殿の入り口と結ばれた門の近くの詰所にキエンがつくと、軍隊についての書類の管理を主な仕事にしている官吏の男がキエンの確認が必要な木簡をとりまとめて待っていた。


「校尉殿。こちらが本日の朝に提出された出勤簿です」

「ああ。今、終わらせる」


 キエンは木簡を受け取り、自分の席に座って硯で墨をすり筆を手に取った。

 棚や引き出しに細々と書類や物が詰め込まれた雑多な空間に、キエンが今座っている簡素な木製の机はある。


(門番に見回り、哨兵に監視役……。今日もみんなご苦労なことだ)


 キエンは衛兵たちの勤務の予定が書かれた紙と照らし合わせながら、提出された木簡の本日付の部分に自分の名前を書いた。

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