第15話

 実に数奇なる因果を絡め取られ、アオハは夕刻には、自分の生家であるスカイアッドの邸宅に身を置くことになった。

 学院主都の北西部に立ち並ぶ旧市街。その片隅にひっそりと佇む、今となっては古めかしい造形をした屋敷だ。

 丁寧に刈り込まれた芝生の小径を抜け、かつての面影をかすかに残す生家を前にして、アオハの胸には空虚な想いばかりが巡っていた。

 そもそも異産審問官の世界に身を投じて、かれこれ何年も戻ろうとしなかった家だ。十年前の惨劇で半焼した後、あるじ不在のまま主都の再興計画に巻き込まれ、今の自分には縁遠い場所になっていたのだから。

 間もなくして、この家の管理を任されていた老婆――イザルが戸口に顔を見せ、


「アオハ坊ちゃん……ああ、きっとご無事だと信じておりましたよ……」


 そう言って強く抱きすくめられてしまった。もうそんな年頃でもないのに、マルを隣にしてはたじろいでしまうほどの熱き抱擁だった。


「ふふ、わたくしも驚きました。アオハがまさかオードレット副長とご縁があったなんて」


「驚かされたのはこっちの方だ! マルが学院長その人だったなんて!」


 このマルリアン・シュナイドラなる元王族の少女は、学院の代表者という地位にあるらしいことを突然知らされた。

 それも、かつてスカイアッド家の使用人だったイザル・オードレット本人の口からであれば、もはや信用する以外にない。


「坊ちゃん。これには組織の複雑な事情があるのです。学院内部には、マルリアン様のような旧王家の方々が実に大勢関わっておられる」


「それは、つまりは十三の旧王家を領内から追放した剣王国との因縁があるのか?」


 以前より一層深くなった皺を寄せ、優しげだった目がふと複雑な思いを訴えた。


「それに、旧王家が背負ってきた過去の資産を託す先が、もはや学院にしかなかったという事情もありました。結局わたくしたちは、どこにも行き場のない人間なのです」


 黒髪のマルを前にしても表情一つ変えないイザルを、アオハも受け入れるしかない。


「そうだったのか。いずれにせよイザル・オードレット、僕たちを助けてくれてありがとう。あなたも息災であって嬉しいよ。それに、これまで顔を見せに来る余裕がなくてすまなかった。未だにヨアンのことは……」


 それ以上は言葉を継げない自分がいる。手を胸に、遂には目を伏せるほかなかった。

 ヨアン・オードレットという名が、今も心に深く穿たれてた。

 この家も、十年前の惨劇から一人生き残ったヨアンの祖母――イザルも、アオハにとって絆であり、そして消えない傷だった。

 なのにこの老婦はただ柔らかな笑みをたたえるのみで、まだ過去を恐れるアオハを決して焦らせようとはしない。


「あの子への気持ちも、坊ちゃんのことも、私は昔と変わりはありませんよ。ロボも、アオハ坊ちゃんをよく今まで守ってきてくれましたね」


 そう言って、アオハの肩で翼を休めるロボの頬に触れる。細められる琥珀の目。

 年月を経て、複雑怪奇に絡み合った思い。

 だが、今その余韻に浸っている余裕はない。


「急ですまないがイザル。聞いてほしい話があるんだ。それと、会ってほしい子がいる」


 決意を奮い立たせてそう伝えると、かつて幼年期に見せたのと同じ厳しい表情をイザルが浮かべた。


 数々の遺跡調査に関わってきたアオハの父――クロノ・スカイアッドの助手をかつて務めていたイザルは、今は学院の副長としてマルの職務を代行する立場にいた。

 そもそもマルが学院長の座に就いたのも、前任者の急逝による唐突なものだったという。

 マルが言うには「ただのお飾り役」「自分の力ではどうにもできない血筋と遺産の巻き添えになっただけ」とのことだ。

 見習いレリクスハンターとして不慣れな遺跡探索に身を投じていた理由も、真面目な彼女のことだ、きっと立場上の使命感からハンターの世界を学ぼうとしての行動だろうとアオハは推測していた。

 裏の納屋に動力車を押し込め、荷台で眠りこけていたリュミオラを抱き上げてやる。


「随分と静かだと思っていたら、案の定だなリュミは」


「ん……りゅ………………」


 体に触れても一向に目を覚ます気配がないどころか、心地よさげに身を寄せてくる魔神の少女。この我が物顔の無防備さには、こちらとしても不安がないわけではない。

 小さなリュミオラを抱え、動力車の前で唖然と立ち尽くすイザルに目配せする。

 自分の倍以上もの人生経験を積んできたであろうこの老女も、さすがに驚きを隠せないと言った顔で、リュミオラと、そして荷台に鎮座する巨大な怪物の体躯とを交互に見比べた。


「オードレット副長。あなたには彼女が何者なのかわかりますか?」


 マルの問いかけに、イザルはしばし逡巡した後に、ただこう答えた。


「…………その背中の翅は……いにしえのメルクリウス――錬金妖精に似ているわ……」


 それは驚嘆か、あるいは畏怖によるものなのか。リュミオラを見たその声が、ひたすら動揺に震えているのがわかる。


「錬金妖精? 僕が知る限り、この子は魔神と呼ばれていた。魔神とは違うのか?」


「いいえ、私にはその魔神というものについての知識はありません。錬金妖精メルクリウスというのは、先史の錬金術師が発明した、ヒトを模した魔導器のことです。でもまさか実物を発掘してきただなんて……私も旧い書物で似かよった研究を読んだことしかなかったのに。ああ、なんてことなの!」


 そのまま頭を抱え、遂にはしゃがみ込んでしまった。


「先史時代の人間は、人智を超えた叡智を導き出すため、異界から超越存在を召喚する技術を研究していたわ。彼らと対等に対話するためには、彼らをヒトの枠組みに当てはめるための器が必要だった。器の内に呼び寄せた〝神〟鳴る意志。でもヒトの似姿に押し込めること自体が冒涜だと、あの研究は……」


 とうとう錯乱したかのように呟き始めたイザルに、マルが慌てて駆け寄る。

 同時に、ようやく腕の中の姫君が目を覚ましたようだ。


「りゅ……?? /なんかうるさいの/アオハ、あのものは誰?」


 そう言って地べたで茫然としていたイザルを指差した。面識のない人間を警戒したからか、途端に荷台の蟷螂が、がたりと爪を立てて勝手に立ち上がる。

 その様が余計に衝撃的だったらしい。イザルに失神されては困ると、慌てて幌を閉じた。

 リュミオラを「大丈夫だ」と安心させると、再びイザルに向き合う。


「僕たちの異産審問団が壊滅した原因。それは、ラーグナス枢機卿が曝いた魔女の霊廟という施設で、この子たち魔神をよみがえらせてしまったことから始まったんだ」


 言葉にして、ようやく自分が対峙していた不確かなものの正体が実態を帯びたと感じた。


        ◇ ◆ ◇


 リュミオラと対面したイザルの消耗もあり、邸宅の居間へと移動した一同。互いが知り得たことを踏まえ、今後どう行動するべきかについてを、今一度話し合う運びとなった。


「――そんな馬鹿なことが! ラーグナスがこの町に戻ってるって、どういう意味だ!?」


 イザルから知らされた衝撃の事実。その筆頭が、ラーグナス枢機卿の生還だった。


「ですが、ラーグナス殿は唯一の生存者として、あの事件の翌日に教会へと戻られています。今回派遣した救援隊も、発端はラーグナス殿の生還を受けてのものでして……」


「ああ、なんてことだ……あの男は今どこに?」


「それが、異産審問のさなかに瀕死の重傷を負われ、今は療養中の身とのこと。かと言って我々は星教会側に干渉できず、こちらには一向に情報が入ってこない始末です」


 第十階層そのものを事前封鎖までしての異産審問は、審問団の壊滅によって失敗に終わった。世論は二分し、学院主都は騒然とした空気に包まれていたのだという。

 星教会ならびに主都評議会からの要請を受け、学院は審問団の救援隊を編制。だが、その救援隊の全滅を受け、全ての発端となった星教会に対する民衆の不満は爆発寸前にまで上り詰めていた。

 こうして、これ以上の事態の混乱を防ぐべく、主都そのものが封鎖される結果になったということだった。


「――だが、ラーグナス・フランヴェイラは、傷を負ったどころか魔神復活の首謀者だ。何らかの企みを胸に秘め、堂々とこの町で次の策を練っている」


 マウリで見たあの男は幻などでなかった。なら何のつもりでこの町まで戻ってきたのか。


「ラーグナス殿は、生還されてから表立っては姿を見せていません。彼は、魔女の霊廟で知り得た真実を我々には伏せていた、というのが真相なのでしょう……」


 一番隅のソファに腰かけたイザルは、疲労を隠せない表情を見せた。

 それは先の体験で得たものだけでないのだろう。学院事務方における実質的な代表者という立場上、主都評議会や星教会などの組織間の板挟みになっているのは想像に難くない。


「いずれにせよ、いま坊ちゃんを魔女の霊廟に行かせることはできません。厳戒態勢のなか、監視の目もあります。それに、これ以上犠牲者を増やさないためにも私は……」


「いえ、辻褄が合わない点がありますわ。霊廟で目覚めた魔神は全て倒されたはず。ならば救援隊を壊滅に追い込んだ元凶が別にいる――とも推測できないでしょうか?」


「……まさか、それもあの男の――ラーグナスの仕業って言いたいのか?」


「あくまで推測ですが、竜に姿を変えられる異産を持つあの人物ならば、あるいは」


 あの男が霊廟に戻り、救援隊を殲滅した。理由は、そこに眠る異産の独占か、あるいは裏切りの証拠隠滅か。マウリでの所業を思えば必然性のある推理だ。


「ラーグナスの目的が何なのか僕にはわからない。ただ、彼はこのリュミオラを探していた。あの男は魔神の封滅が目当てではなく、その力を手に入れたかったように見えた」


 そう考えて、違和感も残る。


「ただ魔神の力が欲しいだけなら、何故これほど大がかりな騒ぎを起こしたのだろう……」


「坊ちゃんが仰っていた、剣王国の騎士たちをあえて関わらせた件も私には気がかりです」


 全てが憶測に過ぎない。だが星教会が答えない以上、あらゆる可能性を模索するべきだ。


「何故あの男は一人で魔神を手に入れなかった。何故僕たちや騎士まで巻き込んだ」


【それは、我が王の力――古代言語の解読能力を買ってのことだとあやつは言っていた】


「僕ひとりを利用するためだけに、あそこまでの隠れ蓑が必要だった? いや、それは考えにくい。彼は少なくとも枢機卿としては非常に聡明な人物だった。僕の力だけが必要なら、わざわざ騎士団を同行させたことに説明がつかない」


「でも事実としてかのラーグナス枢機卿は、リュミを追って村を一つ襲いました。あの人物の内にどのような真意があったとしても、今は邪悪な人物です。放置はできません」


 マルがすっくと立ち上がると、明らかな一点をもって宣言する。彼女がこうも強くあろうと振る舞うのは、学院領の一端を担う使命感からか。


「……ともかく。アオハ坊ちゃんの生還についてはまだ伏せ置くべきでしょう。今のこの町では、誰もがことの真相に耳を傾ける余裕などありません。それどころか、あの場所から異産審問官がひとり、異産を伴って帰還したとあれば……」


 得体の知れない力に人は怯え、身を守るために結末を求める。そう言う類のものを、既にマウリで味わわされてきたのだ。

 しかも枢機卿が先に生還しているとあれば、アオハこそが悪役にされてしまう懸念すらある。


「教えてくれないか、イザル。リュミオラをこのまま生かしてやることはできないだろうか。この子は異産だとしても、自分の意思で誰かを傷つけるようなことはないんだ」


「確かにその者は、お二人に懐いているように見えますが。私に何ができるでしょうか。今はこの家に坊ちゃんたちを匿うのが精一杯で、これ以上何がお手伝いできるか……」


「リュミオラは先史文明期に生まれた異産じゃない。この子が知っているのは今の僕たちだけなんだ。だから残酷な世界にこれ以上関わらせたくない。星教会やラーグナスにもだ」


 そうは言っても、イザルの立場でできることはそれほど多くないのだろう。

 ならば、自ら行動するよりほかないのだ。


        ◇ ◆ ◇


 様変わりしていた生家の厨房に立ち、アオハは言葉もなくテーブルに向かっていた。


「――ねえアオハ。そこにあるカボチャを三枚におろして小骨を抜いてくださらない?」


 カブの皮むきに苦戦するマルからそんな言葉をかけられても、アオハは上の空だった。


「チーズが貯蔵庫から逃げてしまったの。はやく捕まえませんと」


 貯蔵庫から戻ってきたマルからそんな言葉をかけられても、アオハは上の空だった。

 ただアオハは

「ああ、少しだけ待っててくれ」

の一点張り。本来ならアオハがこの家の家主なのに、彼を気遣うマルも困り果てるしかない。


 結局アオハは厨房から追い出され、リュミオラのおもり役を任命された。

 マルはイザルと夕食の支度を進めてくれた。今は無闇に足掻く機ではないからと言った。気を紛らわすためなのだろうか、驚くほど様々な家事に没頭してくれた。

 かたやリュミオラは、学院主都に来てからというものの、ずっと大人しく待機させたまま。アオハもろくに構いもしなかったため、どこか拗ね気味の顔をしていた。

 居間のソファでひとり、ぽつんとしたまま身動きができなかったリュミオラのところへ、アオハは納屋から車椅子を持ってきた。


「アオハ/それなに/小いちゃなクルマ?」


 小さなリュミオラを抱き上げて、車椅子に腰かけさせてやる。


「これは車椅子といって、椅子のここに車輪がついているだろう? こうやって脚の不自由な人を運ぶための道具だ」


 後ろから軽く押してみせると、少し錆び付いていた車輪がきいと鳴いた。


「りゅー/これも車輪/リュミの車輪?」


「ふふ。これはむかし僕の祖父が使っていたものなんだ。でも今日からリュミのものだ」


「でもこの車輪/リュミの思いどおりにならないなの」


 スカートの裾からヒレ状の足を伸ばし、宙にバタバタと泳がせるリュミオラ。彼女の半分を構成する蟷螂とは異なり、意思が繋がっていないのだから当然ではある。


「リュミのあし/はやくてつよくてカンタン」


「ああ、わかってる。でも家の中でアレを付けたまま歩き回るのだけは我慢しておくれ。リュミの体は大きすぎて、この家の床が抜けてしまうから」


「うりゅ/とてもざんねんなの」


 ちっとも残念そうではない口振りで、車椅子に収まったこの儚げな魔神は、精一杯に伸びをするのだった。


 そうして車椅子の彼女を押して家を案内することにした。

 初めての家にリュミオラもはしゃぎ、つかの間の休息をようやく実感できた。

 一通り巡って最後に、かつての自室に彼女を招待することにした。

 いつかと寸分変わりない木製の開き戸を開けると、部屋を占める膨大なレリクス、そして懐かしの玩具や研究道具、書物が視界を埋め尽くしてアオハたちを歓迎してくれた。十年前の思い出の品々は、イザルがいつの間にかこの部屋に整理してくれていたものだった。


「アオハ/これは何? /小いちゃな顔?」


 余り気味の袖口から闇色の手が指差した先には、古めかしい一枚の写真が飾られていた。

 それに思いがけず過去を呼び覚まされた。リュミオラに写真を取ってやる手がかすかに震えてしまい、彼女の前だというのに何故だか恥ずかしくなってしまった。


「これは僕の両親だ。リュミに〝親〟というのは、ちょっと難しいのかもな」


 やはり意味が理解できないのだろう。小首を傾げる彼女に、父と母を指差して説明しても、そもそも魔神には親という概念がないのだから、結局はただの述懐に終わる。


「僕の大切な存在。そう理解してくれればいい」


「リュミと同じくらい? /マルと同じくらい? /トリししょーと同じくらい?」


「あはは……それは困った質問だな。比べて誰が一番というものではないんだ」


「アオハの大切/どこにいる?」


 思いがけず、ハッと息を飲んでいた。

 命を賭してでも封滅すべき異産――この〈白き魔神〉と、いつの間にこんな言葉を交わす関係になっていたのだろう。


「ううん、ここにはもういないんだ。僕の両親は死んだ」


 その苦痛を忘れるために生家には戻らず、それから星教会の寮でずっと暮らしてきた。


「アオハかなしい?」


 と、知らずに気が緩んでいたのだろうか。車椅子の座面に膝を付くと、いつかのようにリュミオラがすがり寄ってきて、その黒い指先が目尻から雫を拭ってくれた。


「いや、気にしないでくれ。もう昔のことなんだ」


「アオハかなしい/リュミかなしい/でもアオハが教えてくれた/かなしいのはこうする/アオハとリュミのはじまりがこう」


 ――ああ、なんてことだろう。


 車椅子から必死に背伸びして、同じ背丈になった魔神が自分をそっと抱きしめてくれた。


「……ほんと、お前は何者なんだ。魔神? 優しいお前を、誰がそう呼んだ?」


「リュミはリュミだよ/われのはじまりになんじあり/リュミわすれない/アオハの『ぎゅっ』がリュミをリュミにしてくれた」


 何者であろうと、自分はアオハあっての存在だと、異産の唇が人の言葉で囁く。


「……これからどうすればいいのか、自分でもわからなくなっているんだ。やっとこの町まで戻ってこられたのに、実際はまだ何も終わっていなかった。元凶であるあのラーグナスは、これからも僕たちを追い求めるだろう。そうなったとき、僕は逃げればいいのか、戦えばいいのか、それすらも……」


「リュミはアオハといるよ/ずっといっしょだよ」


「……そうだな。でもな、この家にずっとはいられないんだ。今日はこうして穏やかに過ごせても、いつか教会やラーグナスにリュミのことが知られてしまうかもしれない」


 既に自分の姿を見た人間がいる。

 例えば関所の憲兵から星教会に自分の生存が伝われば、アオハ自身が異産を悪用する逆徒とみなされる可能性がある。そうなれば教会本部はあらたな異産審問団を派遣し、彼らによって審問を受けることになるのは避けられない。


「ラーグナスはきっとお前を捕まえに来る。お前を奪うために手段なんて選ばない。この町に火を放つことだってするさ。あの男は邪悪な魔術師で、竜にだってなれるのだから」


 膝に手を揃えて耳を傾けてくれるリュミオラは、どこか高貴な雰囲気をたたえていた。出会ったころの無邪気さも、今はあの恐ろしい半身とともに脱ぎ捨ててしまったかのよう。

 けれども、そのどちらが本来のリュミオラなのか、自分に決めつける権利などない。

 むしろこうして人の服を着せ、人の道具に押し込めて彼女の自由を――力を奪っているのが、果たして正しいことなのか。

 自分の利己に従わせているだけではないのか。


 ――僕は一体、何を守ろうとしている? この命を賭すべきものとは果たして何だ?


「明日にはここを発とうと考えているんだ。どうするかはまだ決めていない。ただ誰の手も届かない場所へ行く。それしか僕には浮かばなかった」


 アオハは、躊躇っていた。これから次に行動を移すことを恐れていた。

 どこへ向かうとしても、きっと何かと戦うことになる。

 そこに何があるとしても、戦うのは自分自身ではなくリュミオラだ。彼女を自分の意志の代行者として――武器として戦わせることになる。


「お前はどう思う、リュミ?」


 イザルの言葉を思い返す。彼女は器――錬金妖精メルクリウスだと言った。

 先史文明国家テクネト・アルキナの魔女たちが生み出した魔神の内にあるものの正体がヒトならざるものだとしたら、リュミオラのたたえるこの微笑みを何と受け止めればよいのだろう。

 魔神とは本来、戦争のための兵器だった。

 そんな彼女に名前を付け、言葉を学ばせ、人間らしく近付かせた。

 そうして自分に都合良く解釈したかと思えば、今度は争いのための道具に利用しようとしている。


「もし何かがお前に立ち塞がったら。相手がどんな敵だったとしても――たとえそれがあのラーグナスだったとしても、僕はもう、お前に〝殺せ〟なんて言いたくない」


 〝殺せ〟と命じるのが正しい使い方だ。そして、その正しい使い方を許してはならない。


 ――僕は真逆で、二重に間違っている。でも……。


「でも、これまでお前と旅してきて……辛い場面も見てきたけれど、お前は僕にたくさんの奇跡も見せてくれただろう? あれは、僕にとっては本当に、本当の奇跡だったんだ」


「アオハ……?」


 闇に染まった彼女の手を取ると、そっと自分の胸に触れさせる。いつか、彼女が奇跡の力で救ってくれた、死に迫る傷痕があった場所だ。


「英雄になれ、って。いつだったか騎士が僕に言ったよ。悪いリュミを殺めれば、英雄になれるんだって。でも、リュミは悪くなくて、僕にとって奇跡になれるのなら、僕は……」


 溢れ出てくる言葉を一旦飲み込む。彼女の手を強く握りしめ過ぎていたようだ。


「僕は約束した。お前の行く末とともに在り続けよう。そのために全てを捧げる、と」


 賢い子だから、その言葉をまだ覚えていてくれたのだろう。こちらを見つめる紅玉の瞳がくすぐったそうに細められるも、最後に彼女ははっきりと頷いてみせた。


「なら、もう心に決めた。お前が何者であろうと、どんな力と可能性を持っていようと、他の誰でもない、リュミにとっての英雄に僕はなろう。お前がこの世界で自由に生きていけるよう戦おう。あのラーグナスとだって目を背けずに戦おう。僕はお前に約束する」


 と、リュミオラが軽やかに喉を鳴らしてすがり付いてきた。まぶしそうに目を窄め、耳元で物語るように。


「われは戦う存在/なんじは血を/われは光と鋼を/魔神リュミオラは英雄アオハの刃」


 どこか誇らしげに、そう囁いたのだ。


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