夏に届いた花便り(5)



 ハナは十六になった。その頃になると、レオンとの距離がどんどんと遠くなっていった。

 ハナがいいと言っても、彼のほうが立場を気にしながら、必要最低限の会話しかしてくれない。いつの間にか、彼女に対して敬語を使うようになってしまった。


 以前のように意地悪なことを言わない。それと同時に笑いかけてくれることもなくなった。そうなってから、はじめてハナは自身の恋心に気がついた。


 外に出るのが億劫おっくうになる日が何日続いただろうか。息苦しさで目を覚ましたハナは、締め切られたカーテンをそっと開けて、部屋の窓から庭園を眺めた。


 今年も芙蓉の花が、咲いていた。

 そして、近くにはレオンの姿もある。

 ハナは急いで身支度を調えて、日傘を差して薬草園へ向かう。


「レオン!」


「はい、どうかしましたか? お嬢さん」


「芙蓉の花が咲いたでしょう? 少し、お部屋に飾ってもいいかしら?」


「わかりました。お待ちください」


 そう言って、彼はすぐにハナから視線をそらす。

 彼のそんな行動で、ハナの胸がざわざわと騒ぎ出す。レオンが悪いわけではない。悪いのは、まだ大人になりきれていないハナのほうだ。胸が痛くて壊れそう。そして、ひどく喉が渇く。



(だめ! レオンじゃだめなのに……)



 父から、ワトー家に流れる吸血鬼の末裔の話は当然聞いている。人ならざる者の血を引くワトー家の人間は、好きになった人に秘密を打ち明けて、血をもらう。

 ハナは愛する人としか夫婦になれないから、十六になっても婚約者すらいないままだった。


 けれど、レオンはハナの伴侶にはなれない。ハナには兄弟がいないから、結婚相手は商才があり、婿に来てくれる人物がふさわしい。レオンは職人で、読み書きも日常生活で困らない程度しかできない。異国の言葉だって少しも話せない。

 今からどれだけ努力しても、きっとワトー商会の跡継ぎにはなれない人だ。


 父がなんのために、ウォルトを屋敷に住まわせているのか、鈍いハナにもわかっている。

 ハナが自然に、ウォルトを愛するようになればいいと考えているのだ。彼女は、父の期待に応えたかった。

 実際、ウォルトのことは大好きだ。けれどそれは恋ではなく、本当に兄のような親愛の気持ちだった。


 ハナは、意地悪なことばかり言うレオンに、恋心を抱いてしまった。

 豆だらけの堅い手も、よく日に焼けた肌も、土の香りも、どうしようもなく惹かれてしまう。


 初恋の人と結ばれなければ死んでしまうのだとしたら、吸血鬼などとっくに絶えているはずだ。血を吸わなければ、大丈夫。まだ間に合う。人の心は変わるものだから。

 それならば、いっそ会わないようにすればいいのに、理由を探しては彼に会いたくなる。どうしようもない病だった。


 ハナは置かれたベンチに腰を下ろし、青年と呼ばれる年齢になったレオンのことを見ていた。最近は後ろ姿ばかり眺めている気がして、彼女の胸はまた痛む。


「いてぇ……」


 芙蓉の花を切っていた青年が小さな声でうめく。枝が刺さったのか、剪定ばさみで手を傷つけてしまったのか。

 その瞬間、ハナの視界は真っ赤に染まった。四肢が自由に動かず、思考さえも奪われる。


 日傘を落とす音が、妙に響いた。


「お嬢さん? どうした? 大丈夫かっ!?」


「ハナ様、ハナ様っ!」


 私に近寄らないで――――。そう伝えたいのに、声さえも自由にはならない。ハナが覚えているのは、レオンと、そしてどこからか駆けつけたウォルトの声。それから、土の香りと、草の香り。それらを打ち消すほどの強烈な血の匂い。ただそれだけだった。



 §



 ハナは私室のベッドで目を覚ました。


「私……倒れて……?」


 レオンがけがをしたこと。血の匂いがして倒れたこと。意識を失う直前を冷静に思い出す。


「危なかったわ。もう少しで私……」


 血を吸ったら、きっともとには戻れない。気を失っていなければ、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。


 不思議なことに、喉の渇きはすっかり治まり、倒れた直後とは思えないほど頭がすっきりしている。我慢の限界を乗り越えられたような気がして、ハナは肩をなで下ろす。


 サイドテーブルに置かれたベルを鳴らせば、使用人が入ってくる。その後、使用人からの連絡で、すぐに両親がやって来た。


 喉が渇いているか、と才蔵から問われ、ハナは「渇いていない」と答えてしまった。

 それは嘘ではない。実際に、今はすっかり治まっているのだから。

 嘘ではなかったが、父の質問の意図がわかっていて、あえて言葉どおりの意味しか受け取らなかった。

 才蔵は、ハナが誰かを想って喉が渇くようになったのか――――大人の吸血鬼になろうとしているのか、とたずねたつもりなのだろう。

 ハナは命に関わる重要なことだと承知のうえで、思いを秘めたままにしたかった。


 レオンに対する想いは、どう考えても、両親を落胆させてしまうだろう。だから、言えなかった。


 両親が去ったあと、ハナがぼんやりとしていると、花束を持った使用人が部屋へ入ってきた。


「お嬢様、庭師にお花の用意をお命じになられましたか?」


 花束といっても、リボンのついている贈り物ではない。白い紙に簡単に包まれ、麻紐で縛られているだけのものだ。


「え、ええ……」


 倒れる直前、ハナはレオンに芙蓉の花をわけてもらうつもりだった。だから、使用人が預かった花は確認するまでもなく芙蓉の花だ。


「どちらに飾りましょうか?」


「花瓶だけ用意してください。そのお花は大切なものだから、自分で生けたいの」


「それは、よいことでございますね」


 使用人は花瓶や水、そしてハサミを用意して、部屋を出て行く。ハナはさっそく、薄紅色の大輪の花を生けようと麻紐に手をかけた。


「あれ……?」


 芙蓉の花を包んでいた紙を取り払うと、折られた手紙のようなものがぽとりと落ちた。ハナはいったん芙蓉をテーブルに置いてから、それを拾う。


『心配した。よくなったのナら、一度だけ窓を開けて、姿を見せテほしい』


 しわしわの紙に、汚い文字。短い文なのに、つづりを二ヶ所ほど間違えている。レオンからの手紙だった。


 ハナはレオンの育ててくれた芙蓉を一本ずつ丁寧に花瓶に生けたあと、紙とペンを取り出し、彼へのメッセージを書いた。


『夜、寝る前に会いに行きます。薬草園で待っていて』


 二階の私室の窓を開けて、彼の姿を探す。大きな楓の木の近くに、白いシャツの青年が見え隠れしている。

 彼はハナの具合を心配していたのか、すぐにその存在に気がついた。


 ハナが大きく手を振ると、彼は建物のそばまでやって来た。そして、声を出さずに口だけを動かし、何かを伝えようとする。


 ――――ダイジョウブカ?


 レオンの口の動きを、ハナはそう言っていると理解して、大きく頷く。

 彼女にとって、夏の日中はまぶしすぎた。薄目で見ても、レオンの周りがチカチカとして見える。とにかくもどかしかった。

 もっと自由に、昼も夜も、誰に咎められることもなく一緒にいられたら。そんな望みを抱いてしまう。


 とても悪いことをしている。こんなことをしても、未来はないのだとわかっているのに、ハナは小さく折りたたんだ手紙を窓から落とした。

 風に流され、レオンから少し離れた場所に落ちた手紙を、彼が拾い上げる。


 手紙を読んだレオンは、どんな顔をするだろうか。二割の期待、残りは不安と恐怖。ハナはそんな気持ちで彼の反応を待つ。


 ――――ばか。


 彼の口元は短くそう動く。レオンらしいとハナは思った。


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