The Man from Nowhere

12-1

 死神が後をついてくるみたいに、僕の後ろを銃声がついて回った。まるで一人だけベトナムの奥地に置いてけぼりにされたようで、僕はランボーのようだったと思う。

 木立の中まで逃げ込むと、さすがに追手もまばらになってきた。傭兵たちに斥候スカウトの心得はないのだろう。一度行方をくらましてしまえば、あとはこっちのものだった。

 しかし、問題もあった。

 というのも、僕ははじめから帰ることを考えてなかったからだ。ここで逃げるなど、考えていなかった。もしリンとの約束が果たせれば、それで死んでもいいつもりだった。

 だが、事情は変わった。これでまた装備を調えて、再び御堂とあいまみえなければならない。あの少女を見つけなければならない。

 ――どうにかして九龍に戻る方法を考えなければ……。


 雑木林を抜けたとき、僕は驚かざるを得なかった。

 深い森の中から出てきた僕を待っていたのは、峠道の減速帯と、そこに停車した一台のタクシーだった。しかもそのボンネットには、行きに僕を乗せてくれた運転手が腰掛けて、タバコを吸っていた。

「ハロー、あんちゃんグゥーグゥー

 吸っていたマルボロを地面に捨て、靴底ですりつぶす。彼は笑顔だった。僕は肩から出血し、両手には拳銃を持っていたというのに。

「……どうしてここに……?」

「お客さん、心配だったからよ」

 拙い英語。その言葉も、僕にはもう懐かしく聞こえていた。

「こんな場所にくる観光客、ふつういないね。だから、なにかおかしいと思った。そしたら、案の定だったね」

「……怖くないんですか? 僕を見て」

 肩からの出血が腕を這い、指先へしたたり落ちていく。ガンメタルブラックのHK45CTに赤が添えられた。

「怖い? もちろん怖いよ。でもね、俺もこう見えてムショあがり。こういうことは慣れっこね。なんだかイヤな予感がして引き返してみたら、案の定ってわけさ。イヤだね、まったく……。乗りたきゃ乗りな」

「……いいんですか? 敵が追ってくるかもしれない」

「運賃さえ貰えればね。お客さん、どこまで?」

「……じゃあ、九龍まで」

了解ジードウ。さあ、乗って」


     *


 九龍まで戻った僕だが、帰るアテなどロクになかった。

 結局、レンゲが泊まっているリゾートホテル前につけてもらうと、僕は転がり込むように部屋に入った。さすがにエントランスホールに入る前に血は拭き取ったけれど。

 倒れるように部屋に入ると、レンゲの車椅子がやってきた。彼女は傷だらけの僕を見下ろしていた。

「……終わったのかい?」

 彼女は僕の手を取ろうとした。だけど、僕はそれを振り払った。

「まだだ。まだ終わってない。……レンゲ、まだキミの力がいる」

「アタシの?」

「ああ、とりあえずは……」

 歯を食いしばり、痛みに耐える。肩の出血はまだ治まっていない。筋肉がブチブチと音を立てて切れている気がした。もちろんそんなはずはないのだが。

 悶え苦しみながら立ち上がると、僕はサイドテーブルを手すり代わりに、バスルームへ向かう。

「とりあえずシャワーと、止血帯を貸してくれ。それと、御堂アキラの居所を捜して欲しい」

「御堂だって? アイツは――」

「消えた、だろ? でも、彼は消えてなんかいない。顔を変えて香港に潜んでいる。……いま、彼は一人の少女を連れて香港市内に潜伏しているはずだ。僕を殺すため、罠をしかけて」

「その場所を突き止めろって?」

「そう。僕がシャワーを浴びてるあいだに」

 僕はそんな無茶ぶりを投げかけると、バスルームに転がり込んだ。レンゲからの返答はなかった。


     *


 黄金色の蛇口をひねると、天井からいっぱいの雨が降り始めた。熱いシャワーが僕の肌を愛撫し、血の混じった汗を洗い落としていく。

 僕は水滴のついた姿見を前にして、うなだれた。


 ――おじさん、誰?


 少女の言葉がリフレインする。


 ――おじさん……ここの人じゃない、よね?


 そして、その言葉に重ね合わさるようにして、彼女の言葉も響いていく。それは北京の蝶の羽ばたきが、ニューヨークで竜巻を起こすみたいに。


 ――だから、キミはを救ってあげて……。


 彼女が最期に遺した言葉が脳裏によぎる。


 ――そう約束して……。私の願いは、それ、だけ、だから……。


 蛇口を元の位置に戻す。天井から降り注ぐ雨は、とたんにそのなりを潜めた。

 バスルームの鏡に映る僕は、ひどく疲れた様子だった。さすがは高級リゾートホテルということもあってか、風呂場の鏡もいいものなのだろう。無数の水滴を浴びても、それは僕の顔をくっきりと映していた。

 伸び放題の髪。目元までを覆い隠す前髪と、首筋まで伸びた襟足。ろくに手入れもしていないので、まるで鳥の巣のような有様だ。それに口元の無精ヒゲは、もはやゴマ塩を越えて、手入れのなっていない芝生のようだった。

「……これじゃ『おじさん』なんて言われても仕方ないよな」

 僕は自分に向けて冷ややかな笑みを送った。

 それから、洗面台の回りを探して、アメニティのカミソリを探した。

 そうだ。これは出逢いなのだから、いつまでも彼女の死に打ちひしがれている余裕はない。悔しいが、御堂の言っていたことは正しいのだ。僕は、リンとのつながりを探すために、彼女の遺言を守っていた。彼女の死を認めたくないから、いつまでもそうしていたのだ。

 ――でも、もうその必要もない。

 カミソリと、シェービングクリームを手に取る。蛇口をひねって洗面器にいっぱいの水を貯める。

 僕は、鏡に映るその浮浪者のような顔に、刃を差し込んだ。

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