第四話 前編

 悠といる時間がすっかり増えた奈津海。

 何故だか彼のことを放っておけなくなってしまった。

 特別な感情はない……と思う。


(悠を一人にしておくと危なっかしくてしょうがない。そう、例えるなら保護者役よね)


 漠然とした自分の感情に答えを導き出した奈津海は、すっきりとした顔で市街地の街路樹を歩いていた。彼女の後ろには悠がくっついて来ている。

 放課後、帰宅しようとしていた悠をカラオケに誘ってみたところ、了承を得ることができた。本日のオタ研は、週に一、二回ある定休日らしい。

 一雨きそうな雲行きを気にしながら歩いていると、目的の建物を見つける。一雫の雨が頬に滴り、早足で店内に向かった。

 奈津海はエントランスにいたスタッフに声を掛ける。

 手続きを済ませて伝票を受け取った後、ドリンクバーでグラスにそれぞれジュースを注いだ。


「さあ! 今日は歌うわよ!」


 手元の伝票番号と合致した個室を見つけると、そこに入室した。

 Uの字型になっているソファーの真ん中に奈津海が、悠は彼女から見て右手前に座る。


「じゃあまずあたしが曲入れるわね」


 液晶パネル型のリモコンをタッチペンで操作し、明るめのJ-POPを予約した。

 一番を歌い終えて、今はちょうど曲の間奏。


「悠もどうせ来たなら何か歌えば?」

「あ、はい」


 画面の上方に予約したタイトルが小さく表示された。


(ゆ、悠も歌えるんだ。ってそりゃそうよね、あたしったら見くびりすぎだわ」


 曲を歌い終え、一息つこうとジュースで喉を潤す。

 そんな折、画面に流れ出した美少女チックなアニメーション。奈津海はその衝撃に思わずむせ返った。


(ハイテンションな女性ボーカルの曲ぶっ込んできたーーーー。こりゃあ大事故の予感しか――いや、意外に物静かな人って、神的に上手かったり)


 そんな淡い期待はものの見事に外れた。

 普段の話し声とほとんど変わらない声質。抑揚もつけない一定の音程による歌声が、空間内に静かに響き渡る。


(いけない、いけないわ、あたし。笑うなんて絶対いけ……ぷっ、フフフ)


 下唇を噛んだり、ほっぺたをつねったりといった小細工は通用せず、呼吸は荒くなる一方だった。

 永遠に感じた三分半がようやく終わりを迎える。奈津海はどっと疲れが押し寄せてきた。

 だが、奈津海の戦いは序章に過ぎなかった。


 奈津海は途中から吹っ切れたのか、遠慮なく笑うことにした。

 悠も腹を立てることなど一切なく、変わらずいつも通り。

 

(そういえば、今の状況って、よくよく考えると密室に二人きりよね)


 曲も区切りがついて、画面が宣伝用PVに切り替わり、静寂が再来する。

 一度意識してしまうと、普段は気にならない悠の外見につい目がいってしまう。

 学校外にもかかわらず、着崩さずにきっちり上までボタンが留まる制服。線の細い輪郭、一文字に結ばれた薄い唇に、スーッと通った鼻筋。しかし、目元は前髪で隠れてしまっている。


(その奥がどうなってるのか、知りたい)

 

 奈津海は無言で立ち上がって、理由もなしに悠の隣に座った。

 

「ねえ悠? あたしのことどう思う?」


 要領を得ないばかりか、マヌケな質問をしたと奈津海は思った。

 

「優しい人だと思います」

「じゃあ外見的には?」


 少し間が空いた後、悠は返答を口にした。


「綺麗な人だと思います」

「前髪が長くてよく見えてないじゃない。だから――」


 手を悠の顔に近づけた奈津海は、前髪の先端からおでこに向かって押し上げるように、手のひらを動かした。


(あれ、思っていたのとは違う。もっと細い目をしてると思ったら、意外にぱっちりしてんだ)


 くりっとした目が、奈津海の視線と合わさる。

 相変わらずの無表情の悠。

 そのとき、額の上に乗った彼女の手を悠が掴んだ。彼は強引にその手を引き剥がした。

 

「えっ?」


 悠から初めて受ける明確な拒絶に目を見張る。

 再び隠れてしまった目元やその無表情からは、本心をうかがい知れない。

 ただ、今やったことが彼の中で拒むような出来事であったということだけは、はっきりとわかった。


「ゴメン、嫌だった?」

「……」


 と、気付いたら悠はまた妄想空間に移行していた。


(う~嫌われたかなあたし……)


 奈津海はすっかり意気消沈してしまった。


 個室に連絡が来るまでの間、二人は歌も歌わず、一言も話さず、時を過ごした。

 空調機器をも壊さんとする淀んだ空気から逃げるように、奈津海は個室を出る。

 エントランスまでの長い廊下を歩く二人の間隔は、やって来た時に比べると幾分か離れていた。


 エントランスに差し掛かった奈津海は、ちょうど受付近くにいた三人組と目が合った。


「あれ? ナッツーじゃん」


 真っ黒に焼いたヤマンバギャルの祥子だった。

 彼女の両脇にいるギャルも、奈津海とよくつるむメンバーである。左側には、盛り髪が特徴の温厚そうな顔つきの珊瑚。右側には、髪に大きなリボンを付けた、小柄でタレ目が印象の亜莉沙。

 通路とエントランスの微妙な境目にいた奈津海に近寄ってくる。通路の幅は狭く、奈津海が障害物になって三人から悠は見えづらい。


「やっほー」


 と明るい調子で奈津海は応える。

 反面、祥子は敵意の混じった眼差しをこちらに浴びせた。その威力に一瞬で怯んでしまう奈津海。


「あのさナッツー、最近付き合い悪いよね~。なんで~?」

「え、えっと」


 すぐに頭に浮かんだのは、後ろにいる悠の顔だったが、その画像は瞬時に消し去る。


「HR終わった頃にしたメッセージにさ、返信どころか既読すらないんだけど~」

「ご、ゴメン」

「いいよ、いいよ、謝らないで。ナッツーはあーしたちより他の子との遊びを優先するってわかったから~。じゃあね、海野さん」


 そう告げた祥子はエントランスの方にUターンすると、取り巻きの友人を引き連れて向こう側の通路に去っていった。

 あだ名ではなく苗字で呼ばれた事実に、奈津海は言葉では言い表せないほどのショックを受けた。


「あれ? 亜里沙どうしたの?」


 てっきり祥子たちと一緒にいなくなったとばかり思っていた。なぜか、奈津海の前から動こうとはせず、微動だにしない。

 彼女は背丈が低く、無口なので、こうして視界に映らないことがたまにある。

 さっきから噛み続けるガムを一気に膨らませる動作に合わせて、亜莉沙が歩き出した……こっちに向かって。

 奈津海の側を通り抜けた彼女は、悠の手前で立ち止まる。

 そして彼の肩に手を置いた。そのままの状態で硬直する。


「……」

「……」


 無口、無表情。

 同調する二人は、何か通じ合うものでもあるのだろうか?

 時間がゆっくり流れる感覚。

 満足したのか、手を離した亜莉沙は、踵を返して向こう側の通路に姿を消した。


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