純文学とライトノベルの違い

崩紫サロメ

県知事様が書いているのはライトノベルなのか

「さて、次の論題だ」

 スレイマンは開いていた聖典コーランを閉じてイブラヒムに笑顔を向けた。


「私が仕事中に書いているものは、純文学なのか、ライトノベルなのか、というものだ」


 カッファ県庁における職務の後、聖典をともに講読し、その内容について論じ合う、ということを、二人の少年たちは続けている。

 そこで出てきた論題に、イブラヒムは思わず首をかしげた。

 純文学? ライトノベル? 聞き慣れない言葉だ。いや、それ以前に。


「おっしゃる意味がわかりません。スレイマン様は県知事サンジャクベイなので、仕事中に書いておられるのは、公文書なのでは?」

 書記であり、大宰相府からの監視役でもあるイブラヒムは皮肉な笑みを浮かべた。


「う……その通りなのだが……。だから、待ち時間、待ち時間の話だ」


 聡明な少年、スレイマンは14歳のときからクリミアのカッファで長官の任にある。

 それは、スレイマンが王族だからだ。


 普通、スレイマンのような傍系の王族は、地方長官となってもたいして仕事をしない。

 下からあがってきた文書の中身を見ずに印を押すような場合も、実際にはある。

 だが、スレイマンの場合は逆だ。

 利発で仕事熱心な少年は、視察に周り、自ら報告書を作成し、結果として部下の仕事を奪い、秩序を乱していると、州知事から注意されたのが約1年前。

 イブラヒムがカッファに赴任する少し前のことだ。


「ええ、そうですね。スレイマン様は仕事が早いですから……」


 それで時間をもてあますのはイブラヒムにもわかる。

 結局、下の者や関連部署の仕事が終わるまで、次の仕事にはかかれないことが多い。


「勿論、清書は仕事中にはしていない。だが、思い浮かんだことは、すぐに控えておかないと、忘れてしまう」

「ええ、分かりますが……それで、純文学云々は一体何なのですか?」


「人は何かと、物事を区分したがるものだ。そして、優劣をつけたがる。勿論、神が直接語られたコーランと、人間が書いたその他のものを区別するのは当然だろう。だが、人間の書いた、あるいは語った物語においても優劣があるだろう」


「ええ、それは、人間の能力には差がありますから」

「それは仕方のないことだとは思う。だが、主題や形式によって、優劣をつけることについて、私は論じたい」

「それが、先ほど言いかけていたものですか」

 スレイマンは頷いた。


「小さい頃、通俗的な物語を読んでいたら、“そのようなものを読んでいないでお勉強をなさいませ”と言われたことがある。だが、そのお勉強の内容も、やはり、物語なのだ。当然、そなたも学んだであろう『王書シャー・ナーメ』、『ホスローとシーリーン』などだ」

「ええ、ペルシアの古典ですね」

「ペルシアの古典であっても、物語ではないか」


「スレイマン様は、同じ“物語”であっても、その中で優劣がつけられることがご不満ですか?」

「まあ、不満といえば不満だ。私が線を引くとしたら先ほど言ったように、神によるものか、人によるものか。人によるものならば、その内容の優劣であるべきでは」

「つまり、特定の主題や形式の物語を“劣ったもの”とする風潮はおかしいということですね」

「しかも、主題や形式に線を引く、その基準がよくわからないのが不満なのだ。だから」


 スレイマンは紙に線を引いて説明し始めた。


「現状として、物語は二つの種類に分かれる。教師が読むことを推奨するものと、読むことを推奨しないもの」


「そういう区分なのですか!?」

「近習学校ではそうではなかったのか」

 その区切り方に、イブラヒムは驚いたが、スレイマンの言葉にあっさりと納得させられた。

「ええ、確かに……」


「仮に、前者を純文学、後者をライトノベルと呼んでおこう」


 謎の言葉はスレイマンが定義した物語の区分らしい。


「はあ。それで、スレイマン様が書いておられる物語は、純文学なのか、ライトノベルなのか、というお話ですね」

「そうだ。どう思う?」

「答えは出ているのでは? ライトノベルでしょう」

「ふふ、何故そう思った?」

「そうした区分に不満をお持ちで、低い評価をされているライトノベルに属する形式で優れたものを書き、その垣根を取り払いたい……ということでは?」

 スレイマンは、大きく頷き、イブラヒムの手を取って喜びかけたが、少し脹れて俯いた。


「言おうとしていたことを全部言われてしまったではないか……」

 イブラヒムは笑って答えた。

「いえ、まだまだあるではありませんか。純文学とライトノベルは具体的にどのような違いがありますか?教師はどのようなものを読めと言い、どのようなものを読むなと言うか……」


「そうだな……恋愛や異世界の物語を読んでいると、よく叱られたな」

 そうしたものの中には、青少年を健全なイスラームの信仰へと導くとは言い難いものも多い。

「ええ、私もそうです。しかし、それを言うならば、ペルシアの古典は異世界での恋愛ものが殆どですが」

 実際の歴史を元にしながらも、大幅に改編され、異世界として作りなおされているのが、イブラヒムにとっても馴染みのあるペルシア古典の世界である。

 しかしそれらは、教養ある者なら学び、暗誦すべきものとされている。


「な。ほら。トルコ語だから駄目なのか?」

「それはあるかもしれません。ペルシア語の物語ならペルシア語の勉強になりますが、トルコ語の物語は外国語の勉強にはなりません」

「その側面はあるとは思うが、物語とは、外国語の勉強のためにあるのだろうか?」

「違うと思います」

「では、何のためにあるのだ?」

「私は、自分が書く方ではないので、そのようなことは考えたことはございません。スレイマン様は、何故物語を読み、お書きになるのですか?」


「必要としているから」


 スレイマンは淡々と答えた。


「私は、イスラーム法学者になりたいし、そのためにはすべての時間を聖典と注釈書の読みに割くべきだと思ったこともある。だが、そうしていると、聖典の言葉が、全く頭に入ってこなくなってきた。何故だと思う?」

「お疲れだから?」


「ああ、勿論そうなのだが、聖典は、神が、人間に対して語られた言葉だ。神の望むように生きられない、弱く愚かな人間に。だが、ずっと聖典と注釈書ばかり読んでいると、自分が迷いも弱さも抱えた人間であることを忘れ、神になったかのように思ってしまう。そんな状態で聖典を読んでも頭に入らないか、もっと酷ければ歪曲してしまうだけだ」


「なるほど。物語は、読むことによって教訓を得るのではなく……」

「登場人物の人間らしい行いに共感したり、憤ったり、そういうことをしながら、感覚として人間らしさを取り戻す作用があるのだろう。そして、再び神に向き合うことができる」

 そう言いながら、スレイマンは聖典の表紙に敬意を込めて手を置いた。


「その意味ならば、トルコ語でもペルシア語でも関係ない……むしろ、自分の母語が一番心を揺さぶるということになりますね」

「ああ。だから、私はトルコ語でライトノベルが書きたい」


 ふわっと笑ったスレイマンを、やはり眩しい、とイブラヒムは思った。


「ええ、書いて下さい、私も読みたいので」


「この前話したものが書けたら、次は『千一夜物語』の翻案を書きたいな」

 スレイマンが口にしたのは、バグダード生まれの、およそ高尚とは言い難い、スレイマンの定義でいくと“ライトノベル”に分類される通俗小説だ。


「異世界、魔法、恋愛……イスラーム的ではないが、人間的。だからこそ、誰よりもイスラーム的であろうとする私が必要とする。矛盾しているか?」

「いいえ」


 矛盾は、していない。

 だが。


「やはり、スレイマン様は変わっていると思います」


 スレイマンはその言葉を当然のように褒め言葉と受け取ったようだ。

 聖典を開き、先ほどの続きから、美しいアラビア語で朗誦し始めた。


(神の言葉を聞き入れるためには、人の物語がいる……)


 わかるような、わからないような。

 ただ、スレイマンの言葉が心地よく響く。

 今はそれに身を委ねよう、と思った。

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