レイ・リコード ~光の旋律~【地の文リメイク中〜】

久遠悠

序章にして最終楽章 始まりを告げる優しき奏鳴曲

予定調和 (Side:Pair producter)

 冬のおわり。あるいは、春のはじまり。

 まだ解け切らない雪の下、雪割草レヴァラフロルが息づいて芽吹きのときを待つ。

 おおきなおおきな喪失の果て。静寂に包まれた空と風のなか、少年は歩いていた。





 真っ白い雪の上に、一人分の足跡が続いていた。

 空は澄み渡る紺青。雲ひとつない空の下、美しい樹氷の森が広がっている。

 昨夜、ひらりひらりと舞った季節外れの雪は、たった一晩でここら一帯を冬に逆戻りさせたらしい。零れた白い息が、千切れて消える。

 暦はスミレの月に入ったというのに。おまけにここは大陸の南部だというのに。少し辟易とした気分になりながら、エルスは紺色の外套コートを手繰り寄せた。


 深い森は静かに眠っているようだった。ともすれば、時が止まったかのような白く幻想的な雪景色。目覚めの日はいつか来るのだろうか。とりとめもなくそんなことを考える。

 エルスは無言で森を進んでいった。革の靴底で雪を踏みしめて道を作り、樹氷の枝を押しやる。枝が揺れ、はらはらと枝に降り積もった雪が黒髪に落ちた。音もなく透明に解ける。


 何度、同じことを繰り返しただろうか。

 視界が一気に開けた。光を跳ね返した雪がまぶしく光る。


 森のなか、ぽっかりと開けた空間に白い塔が見えた。


 正確には、それは塔だったものだった。伐採した後に残った切り株のように、白い塔は根本近くで切り取られていた。崩れた数々の瓦礫は雪に埋もれ、朽ちて久しい。

 色褪せた廃墟に、かつての塔の面影はどこにもない。千年生きた大樹のごとく立派な白い塔は、いとも容易く時の流れの彼方に消え、埋没した。


 そのことに感傷的になるでもなく、エルスは呟いた。


「……あれから、一か月程度しか経っていないんだがな」

「まるで、時の流れがここだけ狂ってしまったかのようね」


 背後から妖精のように愛らしい声。

 瞬間、反射的にエルスは腰裏の短剣に手を伸ばした。抜き放ち、振り向きざま相手を斬りつけようと身を捻り──

 ふわり、と光が舞うのを見た。とっさに息が止まりかけ、だがゆっくりと取り戻し、エルスはその名を口にした。


「……シルヴェステル」

「久しぶりね、エルス」


 目の前に、十歳ぐらいの金髪の少女が宙に浮かんでいた。淡く微笑んでいる。

 陶器のように白い肌と真っ黒いワンピースはうっすらとした燐光をまとっていた。双眸は、と同じ翡翠色。

 ふふっ、と、少女が無邪気に笑う。年端もいかない姿によく似合う笑い声。


「驚かせちゃったかしら」

「神出鬼没って言葉、知ってるか?」


 エルスは呆れるでもなく、半眼になった。一枚どころか一億枚くらい上手の相手だ。いちいち気にしていたらキリがない。


 シルヴェステルが、翡翠色の瞳をわざとらしく大きく開いた。


「まあ、人のことを幽霊か何かみたいに」

「なら干渉権限をこれ以上乱用するな。こっちはこんなこともうこりごりだ」

「ごめんなさいね。でも、ありがとう。あなたのおかげで助かったわ」


 思いもよらない言葉に虚を突かれ、とっさにエルスは口をつぐんだ。

 素直に謝られ、感謝までされてしまっては、それ以上何も言えなくなるというもの。

 代わりに。


「……なら、お前はこれで満足か。シルヴェステル」


 少女が小さく首を傾げた。足元まで伸びた長い金髪が、動きに合わせて緩やかに波打つ。


「それは、どういう意味かしら」

「そのままの意味だ」


 シルヴェステルの翡翠色の瞳に、黒髪の少年の姿が映る。

 十五、六歳ぐらいの端正な顔立ち。少年らしい細い腕と肩の線はまだ頼りない。中性的で未成熟。どこにも所属してない。どこにも行けない。中途半端。

 曖昧で不確定な、どこか精彩を欠いた静謐な表情のなか、ただ、蒼空色の瞳だけが意志の色を宿していた。


「その質問は、言外に別のことを尋ねているように聞こえるんだけど。言いたいことがあるのなら聞くわよ。不満でも、叱責でも」

の尊厳にかけて言うが、そういうつもりは、ない」


 静かに、だが冴え切った声で答える。


「この結果がお前の予定通りだったとしても、あいつの覚悟や俺の判断を、予定通りなんていう言葉で片付けられたら、たまったものじゃないからな。ただ──」


 言いかけたエルスの顔に陰が落ちる。軽く俯いたまま、彼は続けた。


「良い悪いにかかわらず、想定した通りに物事が進むというのは快感なのか、それとも退屈なのか、少し気になっただけだ」


 ひとひらの花が、エルスの顔の前を舞った。

 白く、美しい銀の花が空から降り始める。大地を埋め尽くすように。

 シルヴェステルは決然とした表情で答えてきた。


「遣り残したことは全てやった。辿り着くところにも辿り着いた。そういう意味では、満足よ」


 揺るぎない答えにエルスは目を閉じた。そうか、と短く返す。


「そんなことより、聞きたいことがあってここに来たんでしょう?」

「そっちこそ、俺が聞きたいことぐらいわかってるんじゃないのか? 調

「そう言ってくるっていうことは、もう気付いているみたいね。仕組みも仕掛けも」

「当たり前だ」


 しばしの空白。

 シルヴェステルが口の端を緩く持ち上げる。薄氷でも張ったような、今にも解けて消えてしまいそうな、儚くて切ない微笑み。


「とても、とても素晴らしいことになったでしょう?」


 春風にはまだ遠い、冬の風が吹き抜ける。透き通った香りがする一つの風が。

 それは雪を走り、空を駆け、花をどこまでも流し、何もかもをさらって吹き抜けた後、最後にふっとエルスの黒髪をなぞり──虚空に消えた。


 やがて。


「……ああ」


 ただ、一言。

 簡潔に彼はそう言った。

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