第7話 返済不要の奨学金は与党の党利党略

 「広海、どうするの奨学金。去年はもらってなかったわよね」

と千穂。都内に実家のあるクラスメートと違い、父島の実家を離れて暮らす広海にとって学費や生活費は悩みの種だ。高校時代から親戚の家に下宿できているのがせめてもの救いでもある。

「うん。実家にもあまり迷惑掛けたくないしね。両親のすねも散々、かじっちゃったから、もうそんなにじゃないの。今年からはどっちみち奨学金のお世話になるつもりよ」

冗談交じりに広海は言った。3月の終わり。ランチタイムを過ぎた喫茶『じゃまあいいか』には、千穂たちの他に客はいない。

「広海は成績も問題ないし、応援団長やってた実績もプラスに評価されるから大丈夫だな。無問題モーマンタイ

太鼓判を押すのは大宮幹太だ。

「そんなことないわよ」

「どうせ奨学金受けるんなら、返済しなくてもOKな給付型申し込んだら」

金銭面であまり心配のなさそうな千穂も、自立を考えているのか奨学金制度への関心は高い。アドバイスのつもりで広海の背中を押した。

日本の奨学金制度は大きく2種類に分けられる。ひとつは一般的な貸与型。将来、就職した後、決められた期間に分割して返納するタイプだ。利子が付くものと元本だけで利子が付かないものがある。もうひとつは給付型といわれる返済の必要のないタイプ。将来、教員などの公務員などに採用されると返済が免除になるのも、このタイプに分類される。貸与型の場合は、大学4年間の総額ともなれば結構な金額になるので、分割といっても月々の負担は重い。“就職氷河期”と囁かれたひと昔前に比べれば就職率は確かに上がっている。しかし、大卒が特別な存在ではなくなった昨今では、大卒の新卒と言えども将来が保証されるわけではない。それどころか、正社員か非正規かといった深刻な問題にも直面している。奨学金の返済が遅れたり滞るケースも少なくない。返済の遅れは、現役学生の奨学金の原資不足に直結するから、制度の運用上も好ましくない。一部には、教育の機会均等、教育の経済格差を生まないようにとの理由で給付型の奨学金制度の拡充を求める声もあり、政府も対策に乗り出したところだった。政策としての給付型の奨学金の拡大は、18歳選挙権を導入する上で若者に政治に関心を持たせる対策として格好の話題で、絶好のタイミングにもなった。

「それは嫌。嫌っていうかダメでしょ」

広海は即座にキッパリと否定した。

「どうして? 後で返済する必要ないのよ。借金じゃないんだから、心配しないでもらっておけばいいじゃん」

長崎ながさき愛香あいかには頑なに拒絶する広海の気持ちが理解できない。

「あのね、貸与型はともかく給付型だけは絶対イヤ。国っていうか政府の計算通りになるのはまっぴら御免よ」

広海の考えはこうだ。給付型の奨学金の拡充策には、単に学生支援というよりは、選挙の若者票目当ての政治的な思惑が見え隠れする。かつては選挙対策として生産者米価、つまり国が生産者から買い取るコメの価格引き上げが当たり前だった。農家を優遇することで与党は農村票を集めた。しかし、長年にわたる減反政策や昨今のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)など農家にとって大きな打撃が予想される政策への方向転換もあって、農村票や農業の主な担い手でもある高齢者の票を期待できなくなってきた。政府与党にとって、給付型の奨学金制度の拡充は、農村票に代わる若者票を取り込むための切り札とも囁かれている。

「私、じゃないの。能天気に踊らされたりしないわ。だってそうでしょ。返済しなくても良いのは、そりゃ嬉しいわよ。でも、そのお金って元々は税金だったり寄付金だったりするわけでしょ、血税か、人によってはなけなしの貴重なお金かもしれない。今の大学進学率がどのくらいか分らないけれど、義務教育じゃないのよ。経済的な理由で大学進学自体を諦めて、働いている同い年の人だっていっぱいいるわけよね。官房長官の言う安保法案に賛成する憲法学者の数じゃないけど、わけ。一方は成人になる前から社会人として納税者になっているのに、一方で返す義務のない奨学金を受け取ってお気楽にキャンパスライフをエンジョイなんて、絶対おかしいと思うの」

「確かに政府は給付型奨学金の設置の目的について、経済的な理由で中途退学せざるを得ない大学生の救済を挙げているけど、そもそも経済的理由で大学進学自体を諦めなきゃいけない高校生や、実際、高卒で働いている人たちの立場にはちっとも触れていないよね。それはやっぱりしっくりこないし、不公平感は否めないわ」

千穂は就職組の同級生の顔を思い浮かべた。

「『お金に色はついていない』って言う政治家もいたけれど、例えば私がもらうことになるかもしれない奨学金は、就職した同級生が納める税金かもしれないわけよね」

「確かに」

高卒で就職する人たちは初めから今回の給付型の奨学金を受ける対象ではない。同じ18歳で奨学金を受けるどころか、未成年ながら税金を納める納税者の側に回るのだ。ごく一部の人間しか対象にしていない給付型の奨学金には妥当性がない、というのが広海の考えだ。一定程度成績が良いからといって、義務教育でもない費用の一部について、まるっと給付を受けるのは筋違いだと感じている。どちらかと言うと、給付の恩恵を受けることができない側の論理で、給付の対象となる側の言い分ではない。喩えて言えば、自ら身を切る改革を実践しようとする稀有な政治家の姿勢に似ている。そこが広海らしさだ。

「学業を続けるための奨学金制度自体には意義があると思うわよ。でも、もらいっ放しの制度はやっぱりダメ。何でこんな当たり前のことに気づかなかったんだろう。これも、渋川ゼミの効果かな」

 天井をぼんやり見つめて考えていた幹太は、自分の浅はかさを責めた。高卒者と大卒者の生涯賃金を比べても、大卒者の方が明らかに高い。その差額は厚労省の統計で6,000万円から7,000万円と集計されている。広海の主張のように、もらいっ放しなら格差はさらに広がることになる。この制度にはやはり問題がありそうだ。

「返す必要がないってことになると、甘えも出てくるかもね。同じお金でも、それが借金でいつか返さなきゃいけないお金なら使い方も慎重になると思うけど、最初から返さなくても良いって分かっているお金だと、どうしても管理がルーズになりそうだし、使い方も甘くなりそう」

愛香は自分になぞらえて考える。

 (独)日本学生支援機構のまとめによると、無利子・有利子を合わせた貸与中の受給者は約123万人。卒業し、返還中は約292万人。うち、3ヶ月以上の滞納者は20万8,000人に上る(平成22年度実績)。中には返済できずに自己破産に追い込まれるケースが約1万件と報道された。国会では、返済の必要のない給付型奨学金が月3万円を基本に支給する法案が成立。全国に約5,000ある高校にそれぞれ1人以上を割り振るという。所得の少ない住民税の非課税世帯のうち、学力や部活動の取り組みを基準に推薦する方式が採用される。

「奨学金の詳しいことは分からないけど、使いみちって別に報告の義務ないんだよな。学費の一部に使うのはもちろん、必要な書籍代でもマンガや雑誌代でも、映画観に行っても分らない。領収証だって要らないんだよな。何か国会議員の文書通信交通滞在費とか地方議員の政務活動費に似てないか。政治家が考えている奨学金って、財源は基本血税だし」

皮肉っぽく幹太。皆俄然、真剣に考え始めた。

「なるほど、選挙対策か。すっごく分り易いね。国会議員も霞ヶ関の官僚の面々もほぼほぼ大卒でしょ、それも有名どころばっかり。大学行くのが当たり前で、大学進学しない人のことなんか端っから頭の片隅にもないの。だから、そういう発想になるのね、きっと。若者票を期待した選挙前の政策として有効としか考えないのも納得できるわ」

千穂の指摘は手厳しい。そして、あながち外れていない。

「もちろん、給付型の奨学金もないよりはあった方が学生にとって有難いことは有難い。ただ、税金を使うのはどうもな。税金を使わずに給付型の奨学金を実現するやり方もあると思うんだけど、どうかな」

マスターの渋川恭一が皆を見回して質問する。

「税金を使わない奨学金? 何か禅問答みたい」

「“足ながおじさん”がいっぱい現れないと無理じゃない?」

「タイガーマスクとか…」

「黄色い悪魔か」

恭一の呟きに、ストーリーに詳しくない面々は的をたツッコミができずに、互いに顔を見合わせるだけだった。よく“的をた発言”と言う人がいるが、勘違いしやすい誤用ごようだ。弓道で的に矢を射ることに由来するのだから。「雰囲気ふいんき」とか「ワン・ツー・マン」にも気をつけたい。正しくは「雰囲気ふんいき」であり「マン・ツー・マン(man to man)」である。

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