第11話 春宵奇譚

 春の宵は少しずつ、夜がにじむように始まる。

 リコは読んでいた本から顔を上げ、二、三度まばたきをして、もう一度視線を落とした。薄闇にまぎれた活字が、かすかに震えている。今にも動きだしそうだ。

 さっきまで、ちゃんと読めていたのにな。

 そこでようやくリコは、手元がずい分と暗くなっていることに気がついた。

 集中力、切れた。

 栞をはさんで本を閉じ、座卓の上に置く。物語は佳境を迎えたところだったけれど、こうなってはもう読んでいられない。

 主人公の少年が友だちに頼まれて一緒に夜中の学校へ、忘れ物を取りに行くのだけど、学校では昼間と違う先生と生徒たちの不思議な授業が行われていて、主人公は図らずも、その授業に巻き込まれ囚われの身になってしまう。友だちとも離ればなれ。

 続きが気になるけれど仕方がない。

 座卓に向かうと正面は、南向きの窓で障子が閉ててある。障子越しに見る外の光はやわらかで、まだ明るくて、部屋の中ばかりが妙に薄暗い。そのことがリコを落ち着かない心持ちにする。結局、午後の半日を部屋で本を読んで過ごした。

 その午後はいろいろなものたちが、窓の外を通り過ぎた。大きいもの、小さいもの。羽のあるもの、地を這うもの。四つ足のもの、人のように歩くもの。一番大きいものは、イタチほどの四つ足で体も尾も長かった。一番小さいものは、忙しなく羽を動かして飛び回る、ホウジャクのような虫だった。人の形をしたものも、その大きさはイタチが立ち上がった程度で、昼間なのに手提げ提灯を持っていた。

 障子越しだからリコの目にそれらは、シルエットとなって映る。

 回り灯籠のように、いつまで続くか分からないその行列を、リコは時おり本から目を上げて眺めた。穏やかな、いつもと変わらない春の午後だった。

 集中力が切れた途端、リコは空腹を覚えた。そういえば昼食もとらなかった。もう晩ご飯の時間だ。今、家にあるのは、帰りがけに買ってきた玉子とベーコンのデニッシュ一つだけ。それでは少々物足りない。買い物に出ようと、リコは薄暗い部屋の中で立ち上がった。


 その日の午前中、リコは散歩に出たものの、帰ってくると気分が悪くなり、少しの間横になっていた。

 朝、起きた時は調子がよかったのに。

 数日続いた寒さが緩み暖かな朝で、めずらしくすっきりと目を覚ましたリコは、陽気に誘われて外を歩いてみたくなったのだ。家から二十分ほど歩いた最寄り駅の高架をくぐり、その先にある公園まで。

 ひょうたん型の大きな池の周りに、遊歩道やベンチを整備しただけの公園は、そこだけに雑木林の名残があって、柵もなく、住宅街の真ん中にぽっかりと空が広い。暖かだけど花曇りの空は、高いところが刷いたような明るい灰色をしていて、形のある雲はどこにも見えない。

 ふたをされてるみたい。

 リコは歩きながら伸びをして、ついでに空を見上げた。

 岸から池に向かって雪崩れるように咲く、満開の大きな雪柳をいくつも横目に見ながら、リコは遊歩道を歩いた。時おり吹くわずかな風にも雪柳は律儀に揺れて、しなやかな細い枝を大きくしならせ、行く手をさえぎるように、リコの体にまとわりつく。その度にリコは立ち止まって振りほどく。羽虫の飛び回る、甲高い羽音もする。

 池の端まで来ると、大きなカエルの石像が池に向かってその口から、滔々と水を吐きだしている。リコは道なりに回り込んで向こう岸へと歩を進めた。そのまま真っ直ぐ行けば、雑木林に踏み入る小道へ至る。回り込むとその辺りは、ちょっとした広場になっていて、ベンチもあり、雑木林を拓いたらしく、コナラやクヌギがまばらに残っている。ベンチの一つに腰かけて、カバンから取り出した水筒の水をひと口飲んだ時、リコは鼻先に甘い匂いを感じた。

 あ、いい匂い。

 目を閉じて思い切り深く息を吸う。

 水と土の匂いもする。新緑の匂いはまだ少しだけ。

 花曇りのやわらかな日差しを顔に受け、そのまましばらくぼーっとする。

 ベンチの後ろの芽吹き始めた下草に隠れて、数株の沈丁花が満開だったことにリコは気がついていなかった。


 匂いにあてられたんだ。きっと、そうだ。

 家に帰って気分の悪くなったリコは、理由をそう考えた。食欲もすっかりなくなっている。昼食にと買ってきた、玉子とベーコンのデニッシュは後で食べよう。

 代わりにとリコは牛乳を温めた。沸騰する間際に指先ほどのバターを落とし、ひとつまみの塩を入れ、スプーンでゆっくりかき回して火を止める。温めた牛乳をマグに入れ、両手で包むように持ち上げて口をつける。お腹が中から、じんわりと温かくなる。座卓にひじをついて半分ほど飲んだところで、リコは目を閉じて後ろへぱたりと倒れるように横になり、そのまま寝入ってしまったのだった。


 目を覚ました時、すっかり気分はよくなっていて、それで午後の半日を読書して過ごすことになったわけで、それ自体に文句はないのだけど、季節の変わり目なのに少々油断していたと、リコは自戒する気持ちになった。

 とはいえ、今は空腹を満たすことの方が先決だ。リコは最寄りのスーパーを目指して家を出た。大股で歩を進める。そしていつものようにスーパーへの近道の、街灯もない狭い路地を左に折れた。

 あれ、何か暗い?

 秋の日はつるべ落としというけれど、夜がにじむように始まる春の宵は、日が沈んだことに気がつきにくい。両脇に高い板塀の続く真っ直ぐな路地を、リコは歩いた。板塀は黒塀で、街灯のない路地をいっそう暗く感じさせる。

 丁字路の突き当たりに石敢當が見えてきた。そこを右に折れればすぐにスーパーだ。通り慣れた道のはずが、今日は何やらよそよそしく感じる。リコは自然と早足になる。

 あ……。

 右に折れると黒い板塀に囲われた細い路地が、闇にとける先まで続いていた。

「参ったな」

 リコも思わず声が出た。

 私はただ、お腹が空いているだけなのに。

 しばし立ち尽くしたリコは、後ろが少し明るくなった気がして振り返った。丁字路の反対へ続く路地が薄ぼんやりと明るい。真っ直ぐに続く路地が、高い板塀の上に灯された、いくつものぼんぼりに照らされているのだった。ぼんぼりは鈴なりに、振り向いた先の路地を奥までずっと、両側から照らしている。

 スーパーへは薄暗い方の路地を行くのだけど、その先はいつもと違って、闇にまぎれて見えない。リコは左右を見比べてため息をつく。

 お腹空いた。

 そうして、闇に対する本能的な不安からか、スーパーへ行く道とは逆の、ぼんぼりの灯る明るい路地へ一歩を踏みだした。

 と、どこかで小さく鈴のなる音がした。

 数歩歩いたところで立ち止まり、少しの間耳をすませてみる。何も聞こえない。

 歩きだすとまた小さく鈴の音がして、リコはうなる。

 やな感じ、こういうの。

 リコは無視することに決めた。

「お急ぎでしたか、やっぱり」

 歩き始めたリコを追いかけるように、後ろから声がかかる。唐突に聞こえたのは女の声だった。

「はい?」リコは振り返る。

 しまった、無視することにしたのだった。

 でも振り返ってしまったものは仕方がない。

 そこには和装の女が立っていた。半身の姿勢で、半ばこちらに背を向けてうつむいている。薄暗い路地の方へ顔を向けているので、目鼻立ちもはっきりしない。ほとんど白装束に見えた和服は、よく見ると薄い紫色を帯びている。乱暴に結い上げた後ろ髪の下に、細く青白いうなじがのぞく。

 急いでいるかと聞かれ、リコは少し考える。今の空腹具合を思えば急いでいないこともない。けれど、そんな理由で急いでいると言うことが気恥ずかしくて、リコは口ごもる。

「いつものお店は、この先です」

 黙っているリコに頓着せず、うながすように女は言って、先に立って歩きだす。

 ここでこうしていても仕方がないし、とりあえずここを抜けられればいっか。

「どうもありがとう」

 親切な女性でよかった。無視することに決めたさっきの決意はどこへやら、リコはふらふらと女の後に続く。薄暗く、足元が不如意なものだから、歩きだしてすぐ、先を歩く女との間に距離ができてリコはあせる。

「ちょっと暗くて、そんなに早くは……」

「あら、ごめんなさい」

 女は立ち止まると、持っていた手提げ提灯にマッチを擦って火を入れた。さあどうぞというように、あらためて招く姿勢になる。

 最初から持ってたっけ、あんなの?

 リコは不思議に思ったけれど、この路地を抜けられるならと、気にしないことにして、急いで女に追いついた。

「明るいと安心しますよね」女は言った。

 女の持つ手提げ提灯が、淡い黄色い光の輪を足元に作る。それだけのことに、リコはひどく安心する。下手に考え過ぎずに、いつも通りの道でよかったんだ。いつもと違うけど……。

 そう、いつもの違うのだ。親切にされて、ほいほいついてきてしまったけれど、いつまでたっても黒塀の続く路地を抜ける気配がない。不安な気持ちが募ってくる。「まだですか?」などと聞くのも不躾な気がして、不安な気持ちを抱えたまま小走りに近い早足で、リコは女についてゆく。歩いているはずの女が、ふと気がつくといつの間にかリコの数歩先を歩いているのだった。堪えきれずにとうとうリコは言った。

「すみません、あの……どうでしょう?」

 不躾にならないよう気を遣ったら、意味のよく分からない一言になった。その言葉に女が立ち止まり、早足で歩いていたリコは女の背後でたたらを踏む。

「あの……」

 そのまま動かない女に、おずおずと声をかける――。


「この先は奈落ですよ」女が言った。

 そして肩からゆっくりこちらを振り返る。


 その動きに弾かれるようにリコは踵を返して駆けだした。

 これはダメ。何かダメ。きっとダメ。やっぱりダメ。

 来た道を戻りながら、リコは心の内でつぶやく。

 反射的に体が動いちゃったけど、いきなり逃げだして悪かったかな。親切にしてもらったのに。そう反省しそうになって、いやいやと、これも心の内で首を振る。あれ絶対、顔見たらダメなやつだったし、今も追われているはずだし。後ろ振り返って見てないけど、たぶん。

 リコも少々混乱している様子。

 買い物なんかに出てこないで、晩ごはんはデニッシュ一つで我慢して、ゆっくり物語の続きでも読んでいればよかった。今さら仕方のないことだけど……あれ、もう?

 駆けだしてすぐにリコは、真っ直ぐに続く薄暗い路地の先が、ぼんやりと明るんでいることに気がついた。

 ずい分と時間が経った気がしていたけれど、大した距離を歩いてなかったのかな。よかった。

 両側の板塀の上に灯されたいくつものぼんぼりが近付いてきて、薄ぼんやり照らされる石敢當が見えた。とりあえず早くこの路地を出よう。リコは石敢當のある丁字路を勢いよく左へ曲がる。その途端――「ひゃっ!」

 何かにぶつかって尻もちをつく。

 ヘンな声出ちゃった。

 後ろに両手をついたままリコは今、自分がぶつかった何かを見上げた。

 何、狸? じゃないや、ごめん。心の内で今度はあやまる。

 リコが見紛うのも無理のないこと。リコがぶつかったのは信楽焼の狸を思わせる、大きな丸いお腹を突き出した男だった。扁平なその顔の太い眉や黒目がちのギョロリとした目も、どこか信楽焼の狸を彷彿とさせる。背丈はさほど高くなく、ずんぐりしている割になで肩で、首は二重あごに埋もれている。

 おじさん? いや、おじいさん? 男を見上げてリコは思った。

 男は壮年ほどにも見えるけれど、その風貌のためか長い歳月を経て岩が苔むしたような、人ならざる存在感があって、四百歳と言われても信じてしまいそうな年齢不詳の雰囲気があった。

 男の黒目がちのギョロリとした目がリコの背後をにらむ。

「うちの土地で何してくれてんの!」

 たぶんリコの後ろにいるであろう女に向かって発した声は思いの外甲高く、リコは拍子抜けする。何かおばちゃんっぽい。しかもエセ関西弁?

「こっちはもう四百年ここで、こっ……こつこつ真面目に商売してんのや!」

 か、噛んだ。

 どやしつけるつもりで言っているのだろうけれど、どうも迫力に欠ける。それでも男は、ふんと満足げに鼻を鳴らした。女を追っ払ってくれたのだろうか。

「あの」リコが遠慮がちに声をかける。

「お嬢ちゃん、大丈夫か」

 尻もちをついたままのリコに男が手を差し伸べる。

「ありがとうございます」

 差し伸べられた手はリコの想像通り毛深かった。

「知らん人に着いてったらあかんて、教わらんかったか。小っさい頃」

「面目ないです」

 男に手を引かれて立ち上がったリコは愛想笑いで応えた。

「この辺のコか? 気をつけないかんよ。啓蟄けいちつ過ぎたばかりは、あんなんがぎょうさん湧くから」

 本当に面目ない。季節の変わり目だから気をつけようと、昼間思ったばかりなのに。

「あの人、お知り合いですか?」

「知り合いのわけあるかいな。ありゃ、斑猫はんみょうや!」

 男はそう言うと「それじゃ、わしも急ぐから。気いつけて帰り」と手を振って、薄暗い路地の奥へ歩いていった。

 あ、そっち行くんだ。

 リコは男の背中に向かって深々と頭を下げた。

 私は家に帰ろ。

 顔を上げたリコが振り返った時、板塀の上に灯っていたぼんぼりが一斉に消え、薄暗かった路地がほとんど真っ暗になった。消えたぼんぼりは、うっすら白く光の跡を闇に残し、点々と板塀の上を奥へ続く――白木蓮が満開だった。

 リコはぽりぽりと頭をかく。

 今夜の晩ごはんは玉子とベーコンのデニッシュ一つで我慢しよう。物語の続きを読んでいれば空腹もまぎれそうだし。そして早めに寝てしまおう。昼間も寝ちゃったけれど大丈夫かな。たぶん平気かな、春だし。いくらでも眠れそう。明日、明るいうちに買い物に行って、そうだ、ひさしぶりに外食でもいいな。

 リコは家に向かって、軽い足取りで歩き始めた。

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