第5話 コーラフロート

 庭に面した引き戸を開けた時、カノコは目を瞠った。十月も末だというのに、フェンスにからみついた蔓に、たくさんのアサガオが咲いていたのだった。濃い紫色をしたアサガオだった。そのせいで、フェンス越しの路地を通りかかった、お隣の斉藤さんに「こんにちは」と声をかけられても、ぼんやりとしていて挨拶を返せなかったのだ。しばらくぼんやりした後、しまった、と思い返したカノコだった。けれど、まあいいやと、すぐに思い直す。

 住宅密集地にあるカノコの家の前の路地は、近所の人ばかりでなく、近くにある学校へ通う中学生や高校生、通勤でバス停まで歩くサラリーマン、買い物に行くベビーカーを押した主婦など、意外に徒歩の人間の交通量が多い。今も一人のスーツ姿の男が、ゆらゆらと歩き過ぎるところだった。カノコと同年輩くらいの男なのだけど、妙にスーツ姿が様になっていなくて、就職活動をしている学生のような印象を受ける。その姿が見えなくなったところで、カノコは庭を見渡した。

 カノコは特に熱心に庭いじりをするタイプではなかったから、その庭はそっけなかった。さして広くはない庭の隅に、一本椿が植えられてあるきりで、真ん中に物干し台が置かれていた。その椿も、この中古住宅を買った時に植えられていたものが、そのままになっているだけで、世話もしていないのに毎年時季になると、健気に赤い花をつけるのだった。たまたま同じ時期に家を買った数人の友人が、こぞって庭いじりに精を出し始めた時、カノコはその様子を驚嘆の面持ちで眺めたものだった。

 だからアサガオも、どこかから飛んできた種が勝手に育ち、敷地の境のフェンスにからみついただけのものだった。まだ真緑の葉を茂らせるアサガオは、少し前までは毎朝濃い紫色の花を咲かせ、殺風景な庭にその頃だけ彩りを添えていた。そのアサガオも、すっかり咲かなくなったと思っていたところだったのに。

 すっかり秋めいて肌寒くなったな、とカノコは思った。結婚して二十年。東京の西の郊外に家を買い、ここで暮らし始めて十年になる。娘のまほりも二十歳になった。まほりが成人式を迎えた時、夫は「安穏息災で何よりだった」と、感慨深くつぶやいた。それ以来カノコも「安穏、安穏」と、ことあるごとに唱えるのが口ぐせになっていた。「念仏みたい」と、まほりに揶揄されても「安らかで穏やかなのが一番よ」と、笑って受け流していた。


「お昼、おそうめんでいい?」

 昼近く、ようやく起きてきたまほりにカノコは聞いた。

「えっ、そうめん?」

「もらいもののそうめんがたくさんあってね、早く使いたいの」

 カノコは、かねて用意の台詞を言った。もちろん異議を唱えられても、昼食のメニューを変える気はない。まほりは、それについて特に何も言わなかった。

「温かいのにしてね」

 まほりは羽織ったカーディガンの袖をいじりながら、洗面所へ入っていった。

「この子は本当によく眠る」

 台所に立ってカノコは思う。休日に寝過ごすともったいないって思ってたな、私は。何事もきちんとしておかないと落ち着かない性分だったし。そういえば寝る子は育つというけれど、あの子、あまり背は伸びなかったな。火にかけた鍋を眺めながら、とりとめなく思う。鍋が沸騰し始めると、カノコは戸棚から取り出したそうめんを入れて、茹で上がりを待った。いつもと変わらない日曜日の昼だった。


「お母さん、アサガオが咲いてる」

 昼ごはんを終え、庭を見ていたまほりが言った。引き戸を開けたまま、縁側に腰かけて両手で持った湯呑みからお茶を飲んでいる。

「狂い咲きっていうのかしら、こういうの」

 少し肌寒い空気が家の中に流れ込んでくる。その空気に奇妙な郷愁を覚えたカノコは、戸惑う心持ちになりながらまほりの隣に立って庭を眺めた。前の路地を高校生の男子三人組が、声高にふざけあいながら通り過ぎる。その後を、妙にスーツ姿が様になっていない、カノコと同年輩くらいの男が、ゆらゆらと歩いていった。

「あっ」と、カノコは小さく声を上げた。

「こんにちはー」その瞬間、まほりが言った。

 お隣の斉藤さんが通りかかったのだった。斉藤さんは立ち止まるとにこやかに言った。

「狂い咲きっていうのかしら、こういうの」

 斉藤さんは、指先で軽くアサガオをつつくと「ごめんください」と言って立ち去った。

 斉藤さんの後ろ姿を見送って、カノコは、はて何で自分は声を上げたのだろう、といぶかりながら家の中へ入ろうとした。しかし、ふと気になってもう一度庭を振り返った。文字通り後ろ髪を引かれた気がしたのだ。妙にスーツ姿が様になっていない、カノコと同年輩くらいの男が、またゆらゆらと通りかかるところだった。

「あれはユキオさんじゃないかしら」

 狂い咲きのアサガオの向こうの路地を歩く、その男のたたずまいに、カノコは昔の恋人を思い出し小さくつぶやいた。男は立ち止まって顔を上げ、カノコを仰ぎ見た。

「よく分かったね」

 男は、まるで自然のことのようにカノコに答えた。

「ここから少しの間、カノコさんの様子を眺めさせてもらえればよかったんだけど」

「のぞきは犯罪よ。いったいどうしたわけ?」

「僕にもよく分からない。気がついたらここを歩いてた」

「死んだの?」

 なぜそんな聞き方をしたのか、カノコにも分からなかった。直感的にそう感じたのだ。

「それはたぶん、違うと思う」

「ずいぶんと落ち着いてるのね」

「じたばたしてもしょうがなし」

 泰然と答えるユキオとのやりとりに、昔と変わらぬマイペースさを思い出し、カノコは笑った。「相変わらずね」


 カノコがユキオとつき合っていたのは、まほりが生まれる少し前で、ユキオはカノコより五つ年上だった。カノコが電話をすると「それじゃ、どこへ行こうか」と、決まってユキオは大儀そうに尋ねた。その言葉にカノコは、重い腰を上げるような含みを感じ取り、戸惑うことが多かった。

 カノコもユキオも口数の少ない方だった。そんな二人がつき合うようになったのは、どちらかといえば、ほんの少しだけカノコの方からアプローチをしたからだった。今思えば、そんなアプローチをしたこと自体、カノコには不思議でならなかった。映画鑑賞という趣味が一致したからかもしれないが、曖昧な記憶しかない。何しろ二十年も前のことだ。ユキオが何を考えていたのか、当時のカノコにはさっぱり分からなかったはずなのに。

 二人はよく映画館に行った。暗闇の中でスクリーンだけを見て、会話もしない状況が無口な二人にとって楽だったのだろう。

 映画の後は喫茶店に行った。カノコはコーヒーを、ユキオはコーラフロートを頼むのがお決まりだった。

「コーラフロートが好きなの?」

 一度カノコは聞いたことがあった。

「僕にとってコーラフロートは、ハレの日に飲むものなんだ。アルコールは普通に飲むもの、デートの日にはコーラフロート。ただのコーラじゃなく。デートはハレの日だから」

 ユキオは真面目な顔で、そんなふうに答えた。


「昔よく映画を観に行ったね」

「突然やって来たと思ったら、昔話をしに来たの?」

「そういうつもりはないんだけど、せっかくだから」

「せっかく」という言葉にカノコはまた笑った。本当に変わらない。

「よく覚えてるわ。『レオシュ・ヤナーチェク』」

 つっけんどんな言い方をしてしまった、と思ったから、カノコは昔一緒に観た映画のことを言った。

「何でそんな映画のことを」

「初めてのデートだったから。それであの映画を選ぶというのは、どういう人なのか。興味が湧いた」


 本当にそうだったのか、今となってはカノコにもよく分からない。二十年も経てば人の記憶は、意図する、しないに関わらず改変されるものだろうから。あるいは今のやりとりに、ただ調子を合わせただけかもしれなかった。

 二人で映画を観た後は「次は君のチョイスで」とユキオは言ったものだった。そんなふうに、互いの選んだ映画を毎週交互に観に行った。それが楽しかったような気もするし、義務を果たしている気分だったような気もする。

 ヒヨドリが一羽、椿にやって来て「ギョー、ギョー」と大声で鳴いた。雲は低く垂れ込め、今にも雨が落ちてきそうだった。


「もしかして、他の女性のところへも行ったの?」

 カノコは思いついて聞いてみた。

「うん、ここで三人目。マンション住まいのコは、結局顔を見られなかったな」

 こういうことを馬鹿正直に答えるところもユキオらしい。

 当時からユキオは、他の女性の影を匂わせる振る舞いが多かった。しかしそれは、あくまで影を感じさせるだけで、実際に何事かがあるわけでないだろうと、カノコは思っていた。見栄っ張りなのだ。つき合ううちにカノコは、その程度のことは直感的に分かるようになっていた。だから何? と、自問しつつ。

 あの頃、カノコの方からばかり連絡していた。カノコの仕事が忙しく、連絡できなかった時は一ヶ月会わないこともあった。一ヶ月ぶりに連絡した時でも、ユキオは以前と変わらぬ調子で話す。その後でカノコは、手近にあったメモ用紙をマジックで真っ黒に塗りつぶし、気を紛らわせたものだった。このまま連絡しなかったら「自然消滅」というふうになるのだろうな、カノコはなんとなく思った。「なんとなく」でないことに、心の底では気がついていたのだけれど。

 その想像通り、カノコの方から連絡を取らなくなると「自然消滅」という形で、ユキオとの関係は終わった。カノコはその半年後に知り合った、今の夫と結婚することになる。


「隣のコは、まほりちゃんだね」

「そう。一度会ったことがあるよね。生まれたばかりの頃」

「もう二十歳かあ」


 まほりが生まれたばかりの頃、ユキオから電話があった。さんざん迷った末、結婚報告のハガキをユキオにも出していたのだ。まほりのことを話すと、出産祝いを持っていく、とユキオは言ったのだった。当時住んでいた賃貸マンションに、ユキオはやって来た。周りが畑ばかりの中に、ぽつんとある賃貸マンションだった。初夏の午後の日差しが、五階のベランダからユキオの背中とまほりの顔に降りそそいでいた。

 カノコはコーヒーを淹れた。ユキオにはコーラを出した。

「アイスクリームがなくて」

 カノコが言うと、ユキオは首を振ってうれしそうにコーラを飲んだ。

「まほりちゃん、美人になりそうだ」

 ユキオはお愛想を言って、まだ首もすわらない、じっとしてばかりのまほりを飽かず眺めていた。


「ユキオさんは結婚しなかったの?」

「分かるの?」

「分かるわ。相変わらず子供のまま。我の強い臆病者で、傲岸なところは変わっていないのね」

「そうか……。そうだな、当たっていると思うよ」

 にも関わらず、こんなふうにすぐ迎合してしまうのだ、この人は。カノコは思う。

「カノコさんは、この二十年どうだったのかな?」

「安穏、安穏」カノコは明るく答えた。

「念仏みたいだな」

 ユキオが笑ったような気がした。


 僕は最近、記憶が曖昧になってきた。

 曖昧というより少しずつ欠落していくような気がする。

 欠落した隙間が寂しさに埋められていくような感じだ。

 隙間があちこちにあるので、心全体がのっぺりした寂しさで覆われて、全体に伸びきって薄まった寂しさは、もう寂しさとは呼べないようなものに変わってしまっていて、だから結局僕は……。


「お母さん、雨が降ってきたよ」

 まほりに言われて、カノコは空を見上げた。細かな雨粒が落ちてきている。

「秋の長雨かなあ」

 のんびりとまほりがつぶやいた。雨は庭の椿や物干し台、アサガオを濡らしてゆく。

「まほりは、ここに引っ越してくる前のマンション、覚えてる?」

「何、急に。四年生だったから、覚えてるよ」

「それなら……」

 言いかけてカノコは、何を言おうとしたのか自分でも分からなくなり、首をめぐらせて庭を見渡した。そして「寒くなってきたね」とだけ言った。

「うん?」

 まほりは、不思議そうにカノコの顔を見た。

「中に入りましょう」

 カノコはまほりと連れだって家の中へ入り、引き戸をぴしゃりと閉めた。戸を閉めると家の中は、少しだけ暖かかった。

 台所でまほりが水を使い始めた。昼に使った食器を洗いながら、まほりはカノコに言った。

「さっき、誰としゃべってたの?」


 翌朝カノコが庭を見た時、当然のことながらアサガオは全部すっかりしおれていた。

「ひとつくらい咲いてもいいのに」

 カノコは一人、小さくつぶやいた。

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