第1話 陸抗、陸遜の名誉を守る

 呉の将陸抗は、家にあった美しい青色の羽のついた帽子が好きだった。その帽子についていた羽を根こそぎ剥ぎ取ってしまったことがあった。帰宅した父陸遜の顔は今まで見たことがないものだった。赤壁で大敗し逃げまどったという曹操もこのような顔をしていたのだろうかと陸抗は想像した。


「これはわが君より賜った珍しい帽子なのだ。元通りにして家宝とせよ」

 ぼろぼろになったカワセミの羽はとても飛べそうになかった。

「私には羽がありません」

 何を思ったか、そう答えていた。

 陸遜はしばらく考えた後、

「翼が欲しいか」

と尋ねた。

「はい。美しい翼を持ち、空高く飛んでみたいです」

 陸抗は想像した。自分が翼を持ち、空高く飛ぶ姿を。その美しい翼を。

 美しい翼・・・青色の美しい羽・・・そう思った途端、現実に引き戻された。


「お前の名は抗だ。その重さに抗い、空を飛んでみせよ。いつか同じ志の者と出会い、二人で大空を駆けてみせよ」

 夢を持つ、ということがあの瞬間だったのではないかと今にして思う。

 父はあの時、私に夢をくれたのだと陸抗は思った。

「帽子は・・・元通りにしておけよ」

 最後にそう言い残して陸遜は背を向けた。


「父上が亡くなられた」

 245年、陸抗は父を埋葬するため、故郷である揚州呉郡呉県に帰り母に報告した。


 父、陸遜は呉(222年 - 280年)の丞相として皇帝孫権に仕えてきた。蜀漢の劉備軍を破り、呉の危機を救ったこともある。しかし後年、孫権の後継者問題(以後、二宮事件と呼称する)に巻き込まれることになる。


 二宮事件。

 太子孫和とその弟孫覇の対立に始まり、孫覇派は太子廃立を求めた。太子を廃立すべきではないという陸遜に対し、廃立派は太子派の讒言を繰り返した。讒言を信じた皇帝孫権は太子派の重臣を次々と左遷、流刑とした。


 その後、太子廃立を決めた孫権であったが、公にする前に陸遜から抗議の上奏があった。太子廃立の秘密を漏らした疑いで厳しい取り調べを受けたのが楊竺である。楊竺は、取り調べに耐えられず自分が漏らしたと自供。このため楊竺は処刑された。彼は死ぬ前に、政敵であり自分を前々から悪く言っていた陸遜について20条の罪を孫権に訴えたのである。

 孫権は陸遜に罪について何度も問いただした。先に太子派の仲間を次々に失い、自分にまで疑惑がかかった陸遜は絶望し、川に身を投げた。


「あの人は死をもって叔父上をお諫めしたのです」

 陸遜の妻は、前主であり現皇帝孫権の兄である孫策と大喬の娘である。皇帝孫権は叔父にあたる。二宮事件以来、叔父と夫との板挟みになってきたが、夫が最悪の方法で身を引く結果となった。


 この時陸抗は二十歳。父を亡くすには早すぎた。

 兄陸延は体が弱く夭折ししたため、陸抗は後を継がねばならない。


 父の訃報と共に、父の後を継いで建武校尉となるよう辞令が使者の口から言い渡された。辞令のお礼のため陸抗は帰郷の途中、都に立ち寄り主孫権に拝謁できるよう申し出た。

 ほどなくして使者が現れた。


「わが君におかれては、20条の罪にある陸遜に対していまだ許しがたいとのことである」

 政敵にあった楊竺の讒言がまだ尾を引いているとは。楊竺はその性格の悪さを陸遜に指摘されていたため、死ぬ間際に最も憎い相手を陥れたのだ。

「わが父には恥じ入るところは何一つございません」

 陸抗は使者に対して、20条の罪についてひとつひとつ丁寧に父の正当性を説明した。

「若いのにしっかりしていらっしゃる。わかりました。わが君には幼節殿(幼節は陸抗の字)のお言葉を漏らさずお伝えいたします」

 使者は孫権に報告し、陸抗は孫権との謁見が叶った。


「お前の父には悪いことをした」

 第一声がそれであった。

 晩年の孫権は、かつて曹操から「あのような息子が欲しい」と言われた英傑ぶりが消えていた。皇帝に即位して以来、疑問を感じることが多い。


 229年に皇帝に即位。

 翌230年、 衛温・諸葛直らに兵1万を与え、夷州・亶州(日本と仮説する)に派遣した。しかし兵の大部分を失い帰還した。

 兵、あるいは奴隷を集めるために派遣したにもかかわらず、逆に兵を失ったのである。 後の元寇のごとく、神風によって日本にたどり着けず、損害を被った。

 孫権は事の次第も聞かず、衛温・諸葛直らを処刑した。かつて始皇帝が徐福を日本に派遣したが帰ってこなかったことを考えれば、日本に渡るのが難しいことは想像できるはずである。しかし何の調査もせずいきなり派兵した。その上での失敗など、部下に問うべきではない。


 233年には、魏から独立した公孫淵に孫権は九錫を与え、燕王に封じた。呉と公孫淵とで魏を挟み撃ちにする予定であったが、使者の張弥と許晏は殺され、その首は魏に送られた。

 呉から公孫淵の元に辿り着くには魏を通るか、海を渡らなければならない。移動が難儀である上に、燕自体に国力がない。遠からず魏は公孫淵の討伐に向かう。その時、公孫淵が善戦したのならばそれに乗じて魏を攻めれば良いのであって、公孫淵と誼を結ぶ必要はなかった。


 結局、公孫淵は魏の司馬懿に討たれた。

 公孫淵の燕を正式な領土にした魏に対して、邪馬台国の卑弥呼は魏へ使者を送った。孫権が失敗したが、燕を領土にしたことにより魏は日本と交渉するようになった。孫権の悔しさは幾何のものか。そして魏が成功して、呉が失敗したのは単なる運なのか。魏の準備、調査は万端であったのではないか。


 241年に孫権の長子孫登が33歳で病死した。翌242年正月に孫権は孫和を太子に立てた。しかし同年8月には孫覇を魯王に立て、太子である孫和と孫覇を同様に扱った。前述の二宮事件である。


「陸遜は真の社稷の臣であった」

 父陸遜が国を思い、命をもって抗議したことについて言っているのであろうか。本来の孫権の器が蘇ったのであろうか。

「わが君よりいただいた毛皮とカワセミの帽子、黄金の帯は末代まで家宝とせよ、というのが父の口癖でした」

 石亭の戦い(228年)で曹休を破った陸遜に、孫権は皇帝並の待遇を与えた。宴の席で孫権は自身のモモンガの毛皮の衣服、カワセミの羽の帽子を陸遜に贈った。そして黄金の帯を脱ぎ、陸遜に自ら帯を締めてやったのである。

「真の社稷の臣、真の名将であった。」

 家宝の話が、孫権に陸遜の勝利を思い出させた。孫権への忠誠心も印象付けたらしい。

「陸遜に罪はない。お前の言うとおりである。陸遜の跡を継ぎ、今後も朕のために励んでほしい」

「仰せのままに」

 短い謁見であったが、父の名誉は守られた。


 まさか子どものころの失敗の思い出が、父の名誉を守ることになるとは思いもしなかった。孫権の「真の社稷の臣」、という言葉であの時のことが思い出されただけのことである。


 それにしても、父陸遜も同じ志を持つ者と大空を駆けたかったのだろうか。

 同じ志を持つ者とは出会えたのであろうか。


 しかし父の翼は折れ、鳳は川へと沈んだ。

 父に確かめる術はなかった。

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