第参話


しかし幼い彼らも、自分たちがただ守られていれば良いだけでなく、母を、まだ赤子の妹を、そして互いが互いを守らねばならぬことは理解わかっていた。

だから草むらの中から突然その老人が現れた時、四郎丸はさっと弟の前に出て庇おうとしたし、五郎丸は兄を助けようと足元の石を拾った。


「おお、これはいとけないお子がたじゃ」


嗄れた声に皺深い顔、ひょうひょうとしたその老人は、曲がった腰を手にした杖で支え、にこにこ笑いながら兄弟に話しかけた。


「どうされた。お母上とはぐれなさったか」


好々爺然としたその笑みを胡散臭く感じながら、後ろ手に弟の小さな手を掴もうとした四郎丸は、しかしあるはずの場所で求めるものに触れぬことに驚き焦る。

と思う間もなく、つい、と横を通り抜けて自分の前に出てきた弟に愕然とした。

彼は生来虚弱で病がちだが、この年頃の子供にとって一年の差は大きい。

すでにひとりで邸内のあちこちを駆け回るほど足腰がしっかりしてきた四郎丸に比べ、まだまだ五郎丸は足元も不安定な状態のはずで、まさか小さい弟が自分の腕をすり抜けて不審者の前に出ていくとは思わなかったのである。


「ごろう!」


兄の焦燥など知らぬ気に、五郎丸はとことこと老人に近寄って、皺だらけの顔を見上げた。


「だいじょうぶ。あにちゃまとおさんぽなの」


恐れ気もなくそう言って、四郎丸を振り返ってにこりと笑った。


「ね、あにちゃま」

「…これは見かけによらず剛気なお子じゃ。迷うたのではないと申される」


ほほ、と笑って意味あり気にこちらを見やる老爺に、四郎丸は唇を噛んでぷいとそっぽを向いた。

気儘に蝶を追う弟と歩くのは楽しかったが、母や皆の心配を直接目にしている四郎丸は、そろそろ急がねばと思ってもいた。

しかしなにぶんこのあたりは草深く、彼らが幕屋を見つけることも、大人たちが彼らの小さな姿を見つけることも難しい。

子供心にもひと気のない遠くまで来てしまったことは伺い知れて、心細く思い始めていたところだったのだ。


兄君えのきみはそうは思うておられぬようじゃな」


そう揶揄されて、人の悪そうに忍び笑う老人を睨め付ける。


「おまえ、だれ?」

わしか。儂はこの荘にずっと住んでおるのよ」

「なはなんという」

「こりゃ驚いた。見れば名のある家のお子であろうのに、名乗りの礼儀も心得られぬか?」


そう呆れた口調ながら、老爺の目は相変わらず揶揄うような色を含んでいる。


「…おれはしろうまる、という。これはおとうとの、ごろうまる」


無礼を咎められ、口を尖らせて不服そうに名乗る四郎丸に、老人は大袈裟に一揖してみせた。


「ご丁寧に痛み入る。これは井原木いばらぎの爺と申す」

「おじじは、このあたりのさとのものか?」


不躾に身元を問う子供に、老人は気分を害した様子もなく答えた。


「そういうことじゃ。丸さま方のお父君のお父君が、帝よりこの荘を賜る前から、我が一族はここに住んでおっての。果てなき時を紡いでまいった。儂の父も、そのまた父も、そのまた父も、ずっとな」

「じじちゃまのととちゃま? じじちゃまのじじちゃま?」


くるくると瞳を回して一生懸命理解しようとする五郎丸に老爺は笑んだ。


「そなたにはまだちっとばかりむずかしいかの?」

「じじちゃま、ここ、すんでるの?」


兄と違い、相手の身元を不審がる意図でなく、四郎丸は老爺に尋ねた。


「そうじゃよ。ひとりでずっと、な」

「ひとりなの? さびしくなぁい?」

弟君おとぎみはお優しいの。爺が淋しゅうないかと気に掛けてくだされるか。じゃが淋しゅうはないよ」

「ごろうもさびしくないの。ととちゃまも、たたちゃまも、あにちゃまも、いっぱいいるよ」


たーくさん、と両手を広げて見せた五郎丸を横目で見ながら、しかし四郎丸はぽつりと呟いた。


「…でもちちうえやあにうえは、いつもはいっしょじゃない」


それは日頃気丈で揺るがない子供である四郎丸にしては、珍しい寂寞の言葉であった。


「兄君はお淋しいと見ゆるの。お父上や兄上がご一緒でないと不安か」

「…ふあん?」

「淋しくて心配、ということじゃ」


なめらかな眉間に子供らしからぬ縦皺を寄せ、四郎丸は黙り込んだ。


「あにちゃま、さびしい?ごろう、いるよ?たたちゃまも、あきはも、ささらもいるよ!」


思いもかけぬ兄の屈託に驚いて、五郎丸は四郎丸の顔を覗き込んだ。


「ごろう…」

「だいじょぶだよ。さびしくないよ!」


必死に訴えかける様子に、四郎丸は弟の小さな身体をぎゅっと抱きしめ返した。


「うん……おまえといっしょだ」


日頃、独りでいるのを好むからといって、まだ幼い四郎丸がまったく肉親の情を欲していないわけではない。

むしろ彼ほど親兄弟を必死に求めている子供はいないともいえる。

肉親ではない側仕えの者たちに、真綿に包まれるように見守られ、あれをするなこれをするなと言われたくないというだけだ。

そして、父母を、同胞はらからを身近に感じていないと不安を感じる。

つまるところ彼が独りになりたがるのは、それだけ普段、周りに肉親以外の人間が多いということに他ならない。

その証拠に彼は、いくら乳母や侍女たちが止めても聞く耳を持たぬが、両親や長兄に諭されるとじっと素直に聞き、神妙な顔をして頷く。五郎丸おとうとの姿が見えなくなるとこうやってすぐさま探しに飛び出す。

といって彼は血のつながりというものに絶大なる信を置いているというわけではなく、ただ彼らを慕い、大切に思っているということなのだった。



(続)

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