第4話 3.真実

 のんびりとした朝のメロディに布団の余韻を楽しんでいると、突然「芙美ちゃん」「起きて」「起きなさい!」と段階を踏んだ命令口調が飛んでくる。締めはメグが布団を引っぺがすという一連の流れは、入学一週間で既にこの部屋の恒例行事となっていた。

 小さい身体のどこから出るのかと疑問に思ってしまうメグの声量に飛び起きつつも、芙美は開ききらない目でよろりと洗面台に移動し、多めの歯磨き粉をつけて歯を磨いた。

 よくよく聞いた情報では、メロディを奏でる卒業生は町子と同じクラスだった男子らしい。そういえば女子を出し抜いて選ばれた合唱祭のピアノ伴奏は圧巻だった。

「でもこんな曲じゃ起きれないよ」と歯ブラシを咥えながら小声で愚痴り、芙美はガラガラと豪快な鵜外で締めた。

 弘人への恋心に終止符が打たれ、一人きりになってしまった土曜の夜は流石にベッドで泣いてしまったが、昨日メグが帰ってきて夜遅くまで実家の大家族の話を聞いているうちに、咲の喫茶店での出来事が町子の記憶であるかのように遠く感じてしまった。

 現実味が薄れて、けれど叶わなかった恋の痛みはまだ引いてくれない。

芙美がぼんやりとしたテンションついでに、

「私、この間言ってた男の人にフラれたんだ」と、前置きなしに報告すると、メグが血相を変えて「ええっ」とシャツのボタンも半分しか留めないままで芙美に駆け寄ってきた。

「それ、本当なの? 土曜日? やっぱりこっちの人だったんだ」

「――うん。でもいいの。分かってたことなんだ」

 少しずつ、少しずつでいいから、自分がそれを受け止めていかなければならないと、メグに伝えた言葉は自分への決意表明だ。

 パジャマのズボンに制服のシャツという中途半端な格好で、「芙美ちゃん……」とメグは目を潤ませ、そっと芙美を横から抱き締めた。

「大丈夫だよ。折角共学なんだから、私もメグみたいに気持ちを改めて彼氏を見つけるよ」

 失恋の痛みを抱えているのは、メグも同じだ。きっともっと好きな人に出会えたら、この気持ちも思い出になるだろうから。

「そ、そうだよ! 頑張ろう、芙美ちゃん。来週は寮の新入生歓迎会があるらしいよ!」

 パッと身体を離したメグが声を弾ませる。

「歓迎会? パーティみたいなもの?」

 芙美の脳裏にパッと浮かんだパーティの図は、大きな会場を貸切って行われる有村興業主催のきらびやかで堅苦しいものではなく、咲の喫茶店での鍋パーティや先日のすき焼きパーティだった。大勢でわいわいゲームでもすれば、そりゃあ楽しくて何か新しい気持ちが芽生えるかもしれない。

「うん、私、頑張るよ」

 ガッツポーズで意気込む芙美を、メグは「頑張ろう」と励まして鏡を覗きこむ。

「とりあえず、新しい恋を始めるためにも、その寝癖とクマをどうにかしようか」

 と、自前のスプレーとブラシを手に寝不足顔の芙美の髪をいじりだした。彼女の手に掛かると、芙美のコンプレックスである、うねうねな癖毛もお洒落なふわふわパーマのようになるから不思議だ。神業と言ってもいい。

 そして。楽しい歓迎パーティを思い描いて盛り上っていた芙美を叩き落とすような内容の『歓迎会の詳細』が書かれたポスターが食堂に貼られていた。


「き、肝試し?」

 楽しさが一瞬で恐怖に変わった瞬間だった。

 炊きたてのご飯と味噌汁、そして焼き魚。そんな朝の匂いに包まれた食堂は、次から次へと下りてくる寮生たちで混雑していた。いつもは食堂の開放と同時に入るのだが、芙美の身支度に手間取って今日は少し遅れてしまった。今日の髪は高い位置のポニーテールだ。目のクマは大分薄くすることができて、メグはご満悦である。

「うわ楽しそう!」と隣で目を輝かせるメグを疑って、芙美はもう一度詳細に目をやる。

 日時は週末の金曜日七時半から。場所は南校舎から体育館まで。肝試し、とだけ書かれていて内容は当日発表らしい。

「あれ、芙美ちゃんこういうの苦手?」

 メグに聞かれて、芙美は「うん」と力なく答える。

「メグは暗いとこ怖くないの?」

「慣れちゃってるのかな、うちの実家って後ろがお墓だしね」

「そうなの? 凄いね。私は無理だよ。近くに墓地なんてなかったもん」

 芙美の泣き言に肩を叩き、メグは「まぁしょうがないよ」とポスターの下を指差す。丸文字で書かれた『強制参加!』という文字が、赤のアンダーラインで強調されている。

「ここで、上級生には逆らえない!」

 ビシリと人差し指を立てたメグが、背後の気配にくるりと首を回した。

「祐くん! おはよう」

 芙美には一瞬誰のことか分からなかった。彼女が笑顔いっぱいで挨拶した相手は、陸上の推薦で県外から来た、クラスメイトの野村祐(のむらゆう)だ。同じくクラスメイトで彼のルームメイトの修司と連れ立ってやってきた。

「おはよう」とまだ眠そうな目でぼんやりとポスターを見上げるが、祐は「ふうん」と呟いただけだった。修司といい二人とも口数が少ないほうなので、部屋は静かそうだ。

「熊谷くんも、おはよう」

「おはよう。えっと……」

「森山、め、ぐ、み、です」

 機転を利かせて先に名乗るメグ。一音一音に女の子らしさがこめられていて、流石だと感心してしまう。

「あぁ、ごめん。おはよう、森山さん――と、有村さん」

 おまけのように名前を呼ばれ、芙美は驚いて肩を震わせた。

 流石に単体で名乗っただけの効果はあるようだ。込み上げてくる記憶に恥ずかしさを抑えながら、「お、おはよう」と挨拶すると、修司は芙美の目元をまじまじと見つめ、ふっと鼻を鳴らした。

「また泣いてたのか」

「ち、違うの!」と声を上げて否定する芙美に、メグはこっそりと耳打ちしてくる。

「ちょっと芙美ちゃん! いつの間に仲良くなったの?」

「そうじゃないの。えっと……」

 もう一度、三人相手に否定して、芙美は修司に訴えた。

「これは、ただの寝不足なの」

「そうなんだ」とあっさりと答え、修司はポスターを横目に、

「せいぜい、腰抜かして泣かないように」

 からかうように笑って、修司は祐と共に配膳の列へ行ってしまう。

「彼って喋るんだね。ニヒルなだけだと思ってたのに」

 意外だというメグを振り向いて、芙美はドキリとした。説明を求める視線がにこやかにこちらを見ている。

「偶然会っただけなんだよ。この間、駅前行った時にちょっとだけ」

「そう――」と、メグは何か言いたげな表情を浮かべ、遠くに行ってしまった祐を目で追って「わかった」とそれだけ答える。そういえば、メグの心が何となく祐に向いているのが分かった。彼女の視線が気付くと彼に向いている事が多い。背が高くてスポーツマンの彼には、きっとメグ以外にも同じ想いを抱く女子は多そうだが、入学直後の今なら競争率も低そうだ。

 がんばれ、と心で応援する。彼女にその声は届いていないはずなのに、メグは意味深な笑顔で芙美を振り返り、「芙美ちゃんも頑張って!」と、勘違いのエールを送ってきた。


 そんな恋愛話で忘れていた歓迎会への不安が、昼休みの会話で一気に引き戻される。

「この校舎、出るみたいだよぉ」

 クラスメイトの真子(まこ)が声色を使ってお化けを真似る。

「そうそう。卓球部の先輩が先週見たんだって。他にも目撃者がいるっていうしね」

 相槌を打ちながらそうはしゃぐのは、亜子(あこ)。二人とも近隣の中学校出身で自転車通学をしている、お弁当グループのメンバーだ。

「ええええっ!」

 昼休みの賑やかな空気に、芙美の悲鳴が掻き消えていく。突然知らされた情報に、箸で挟んでいた唐揚げがご飯の上に転がった。何と、校舎に本物の幽霊が出るらしい。

「何か出た方が楽しいよ、芙美ちゃん」

 空になった弁当箱に蓋をして、メグは相変わらず余裕の表情でごちそうさまと手を合わせる。寮生の昼食は昼前に校舎へ届けられる、寮の食堂で作られた特製弁当だ。

「本物が出るなんて、聞いてないよ。私が平気なのは作り物のお化け屋敷のこと!」

 激しく主張する芙美に、亜子が「それでね」と眉をしかめる。

「昔ここの生徒が殺された事件があるでしょ? その霊だっていう噂で持ちきりなのよ」

「嫌ぁああ。そんなの知らないよぉ」

 そんなリアルな情報聞きたくなかった。どうせ肝試しをさせられるなら、知らないほうが良かった。芙美は両手で耳を塞いだが、三人の会話は筒抜けだ。

「あ。その話聞いたことある!」

 そんな芙美と対照的に、メグは興奮気味に身を乗り出す。

「雪のダムで倒れてたやつでしょ? 十年以上未解決で、怨念が残ってるって聞いたよ」

「――は?」

 そうそう、とはしゃぐ三人に、芙美は思わず疑問符を投げつけた。恐怖に怯えていた気持ちが、一瞬で冷めていく。

「ダム……って。じゅ、十六年前の?」

「ちゃんとした年数は覚えてないけど、そのくらいだったよね。有名な話だよ」

 真子の言葉に、芙美は「えええええっ!」と我を失ったように大声で叫んでしまった。

 今度は昼休みの空気を引き裂く高音だ。教室中の視線を浴びて、芙美は慌てて視線を落とし、胸元を掴んで衝動を押さえつけた。

「ちょっと芙美ちゃん、大丈夫? そんなに恐がらなくてもいいと思うよ」

「私もいるから、平気だよ――ね?」

 宥める三人に囲まれて、混乱したまま頷いた。

 まさか亡霊騒ぎの発端が町子だとは予想もしていなかった。町子の怨念が残ってる?

「ない! ないよ! そんなこと絶対ない! ちゃんと成仏してるって!」

 本当のことを全部言ってしまいたい。町子の霊が出るなんて、百パーセントない! と。

 突然否定した芙美に、亜子は「だよねぇ」と面白半分の表情で同意する。

「うんうん。平気だよ、芙美ちゃん。私も全然信じてないし」

 前向きでポジティブなメグの言葉は心強い。

 けれど、本当に『出る』のなら、何が生徒を騒がせているのだろうか。

 (もしかして、魔翔?)

 最近それが目撃されるようになったのなら、自分が引き寄せているのかもしれない。魔翔が今まで芙美の前に出なかったのは、もしかしたら別の土地に居たからかも――と、色々な考察が頭を巡るが、結局別の亡霊だったらどうしようと一人で怯えていると、メグが飲み終えたフルーツ牛乳のパックを潰しながら、とんでもないセリフを口にした。

「でもそれって、佐倉先生のお姉さんなんだよね」

 耳を疑って、芙美は「え?」と聞き返す。今度は最初から冷静だ。それでいて、頭が言葉を受け入れつつも、心が理解するまでに時間がかかった。

「佐倉……先生?」

「そうだよ。それは知らなかった? イケメンの物理の先生」

 芙美のクラスを担当する物理教師といえば、おなかがポンと出た、町子のクラス担任だった男だ。知らない、と首を横に振る芙美にメグが夢見がちに手を組んで語り出す。

「隣のクラスだったら、佐倉先生だったのに。先生、若い頃にお姉さんを亡くして辛いのに、そんな亡霊とか騒いだら可愛そうだよね」

 本当に、本人なのだろうか。泣き虫の小さな彼の記憶が邪魔して、想像が追いつかない。

 芙美は、ガタリと椅子を引いて立ち上がった。立ったままの姿勢で最後の唐揚げを頬張って、急いでコーヒー牛乳を流し込む。

 口に物が残ったまま駆け出す姿は、もはやお嬢様とは程遠い。

「芙美ちゃん、どうしたの? ねぇ」

 メグの問い掛けに答える余裕もないまま、芙美は教室を飛び出した。


 職員室の入口には全職員の名前が入ったプレートが並んでいて、物理教師の場所には確かに『佐倉夏樹』の名前があった。

 入口近くの席で食後のお茶を飲んでいた年配の国語教師が、「佐倉先生」は格技場に居ることを教えてくれた。体育館二階にある、空手部・柔道部・剣道部の練習場で、板敷きの向こう半分が畳敷きになっている。

 夏樹が空手部の顧問だと聞かされたのは意外だった。小さい頃よく近所の子供と喧嘩をしていたが、やり返すことができず、泣いて帰ってくる事が多かったからだ。

 静まり返った昼休みの体育館。階段を半分まで駆け上ったところで、板敷きのスペースに人影を見つけ、芙美は足を止めた。あまりにも突然過ぎて心の準備ができていない。

 ――「お姉ちゃん」

 いつも町子を追い掛けていた夏樹。余りに慕ってくる無邪気な姿を鬱陶しく思ったこともあるが、泣いたり笑ったり、ころころ変わる表情や仕草が可愛くてたまらなかった。

 夏樹は今二十六歳。最後に見た十歳の印象が強すぎて、大人の姿を想像することができない。何度も大きく深呼吸するが、緊張は募るばかりだ。

 けれど。開け放たれた扉の向こう。白い道着姿の影がこちらを振り向いて、目が合った。

 一瞬で彼だと理解すると、芙美は解き放たれたように階段を上り、サンダルを脱ぎ捨てて格技場へ駆け込んだ。

「夏樹!」

 思わず口にしてしまった彼の名前に、芙美は我に返って唇を手で押さえた。

「教師に対して呼び捨てとは、良い度胸だな」

 最初の言葉が、そんな叱責だった。

「す、すみません」

 確かに無粋な発言だったと謝って、芙美は改めて彼が町子の弟・夏樹であることを確認する。子供の時と様子は大分違うが、さすが姉弟だ。町子の苦手だった低くて丸い鼻が、そのまま彼に付いている。輪郭や雰囲気が町子と良く似ているし、メグたちの言う通りまぁまぁのイケメンに育ってくれた――ことは認めるが。その表情はあからさまに、芙美を邪魔者扱いしている。威圧感に芙美はたじろいで彼から視線を外した。

――「お姉ちゃん」

 その記憶が、頭の中で砂嵐のようなフィルターに覆われてしまう。

 夏樹相手に怯える自分に納得がいかず、対抗するように胸を張った。

 自分が町子でないことは重々承知だが、彼の姉であるという意識が強く前に出てしまう。

「一年の癖に、大分好戦的な顔だな。うちの部に来るか? クラスと名前は?」

「部活はまだ考えていません!」

 胸元の青いリボンは一年生の印。壁半分に設置された大きな鏡越しに芙美を見る夏樹に、

「一年二組、有村芙美です」

 と、数日振りの自己紹介をする。

「あぁ――名古屋から来たお嬢様か」

 予測のつく反応だったが、はっきり口にして言われると、やはり嬉しいものではない。

「そう言われるの、嫌いです」

「俺も、生徒に呼び捨てにされるのは好かないな」

 夏樹との再会は、芙美がずっと描いてきたものとは大分掛け離れていた。憎まれ口を叩かれ、負けられないという闘争心まで沸いてきてしまう。

 ただ、こうやって口喧嘩もよくしたなぁと、昔に帰った気がして、楽しいとも思えた。

「で、何だ――俺に用事か?」

 鬱陶しそうに、けれど仕事だからと割り切っているのか、夏樹は芙美に身体を向ける。

両手を組んだ仁王立ちの上から目線が芙美を苛立たせるが、『可愛い弟』を頭の隅々から引き出して、その衝動は押さえつけた。

 彼にずっと会いたいと思っていたのに、何も言葉が浮かばなかった。夏樹は町子の弟だけれど、魔法使いのことは知らない。故に、名乗り出ることはできない。

 話したいことは家族のことだ。町子が死んでからのことは、きっと彼にとって辛い話にしかならないと思うが、色々教えて欲しかった。

「えっと、ご家族は……じゃなくて。先生、一人暮らしなんですか?」

 変に悟られないように遠回しに言葉を選ぶが、夏樹は「何でそんなこと聞くんだ」と言わんばかりに、一重瞼を更に細めて眉間に皺を寄せた。芙美が負けじと強い視線を送ると、疲れた息を吐いて顔を逸らす。

「祖母と二人だが」

「えっ、お婆ちゃん生きてるの?」

 飛びつくように声を上げる芙美を、

「ウチの婆さんが生きてて、お前に何の関係があるんだ」

 夏樹は怪訝な表情で見下ろしてくる。

「だって、お婆ちゃん……元気なの? 会いたい!」

 もう会えないと思っていた。十六年前だって、とても元気だったとは言い難い。会える可能性なんてゼロだと勝手に確信していたが、嬉しい誤算だ。

「元気だけど。会いたい、って……」

「おうちに遊びに行ってもいいですか?」

「はぁ? 女子高生が教師の家に来る意味が分かるか? 軽率すぎるだろ」

 どうしても会いたかった。一目見るだけでもいい。晴れた日の縁側で、一緒にお茶を飲んだ記憶が蘇ってきて、芙美は掻き立てられる衝動に、強く懇願する。

「じゃあ、家の場所教えてください!」

「だから無理だよ。俺から教職を剥奪したいのか」

「そんなこと言ってません!」

「第一お前、俺に今日初めて会ったんだろ」

 それを言われると、急に何も返せなくなってしまう。ここで自分が町子だと言えば――そんな気持ちが起きるのも一瞬で、彼は咲たちとは違うのだと自分に言い聞かせる。

――「ただの友人や家族なら、多分信じてないと思う」

 咲の言葉を思い出して、その通りだと唇を噛んだ。勢いを失くして俯いた芙美に夏樹は、「関わるなよ、俺に」と、宥めるように思いを突き返してくる。

 これ以上求めても、彼は首を縦に振ってはくれない。諦め切れないけれど、今は従わなければならない気がして、芙美は嫌われついでに言おうか悩んでいた言葉を口にする。

「先生のお姉さんの噂聞きました。校舎に亡霊が出る、って」

 触れられたくないワードなのは百も承知だ。彼の気持ちを掻き乱すだけなのは分かっているのに、このままただの他人でいたくはなかった。

「ふざけるな! お前、いい加減にしろ!」

 夏樹は一瞬で色白の顔を紅潮させ、感情を吐き出した。

「でも、貴方に伝えなきゃいけないの」

 負けられない。逃げちゃいけない。きっと彼はこの噂を気にしているから。

「町子は亡霊になって徘徊なんてしてないから! 私が絶対に保証する!」

 自分でも驚くほどの声を張り上げて、一呼吸で言い切った。

 窓が全部閉められているせいで、空気が重く部屋に篭り、芙美の呼吸を響かせる。

 怒鳴られるかと思ったら、夏樹は戸惑いの表情を浮かべ、芙美の腕を強く掴んだ。

「誰だ? お前……」

 やっぱり彼は、あの夏樹だ。強がってもやはり町子の死に囚われている。

「バカ夏樹」

 囁くように吐いて、芙美はその手を振り払った。

 勝手に死を選んだ町子が悪い。彼を責める権利などないのだ。

 困惑する夏樹から目を逸らし、芙美は逃げるように格技場を後にした。


 教室に戻ると、まだ少しだけ次の授業まで時間があった。

自責の念に駆られて落ち込む芙美に、メグが勘違いの好奇心を向けてくる。

「佐倉先生のイケメンっぷりを確認してきたんでしょ? 凄い行動力。尊敬しちゃうよぉ」

芙美はハッとして、「ち、違うよ!」と机に突っ伏した顔を起こした。

 会いに行った事実がある以上、はっきりと否定する事ができない。

「で、どうだった?」と、メグは目を輝かせるが、期待に叶う答えが見つからず、

「か、かっこ良かったかな」とりあえず、これは感想だ。嘘はついていない。

「でしょう?」と喜ぶ笑顔にノッてしまったら、それが恋心だと彼女の中で変換されてしまいそうな気がして、芙美は「でもね」と素早く言葉を挟んだ。

「好みのタイプではなかったよ」

 たとえ血縁でなくなったからと言っても、夏樹への恋心は起きそうになかった。


 その後、夏樹とは学校で顔を合わす事が何度かあったが、お互い言葉を交わすこともなく、特に進展はなかった。

 祖母への思いと日増しに強くなる肝試しへの恐怖に比例して、町子の噂は学校中に広まっていった。面白がる者も怖がる者もいたが、皆がその「イベント」を心待ちにしている。

 『肝試し』と称して、一年生十八名に身体を張って真相の裏付けをせよということだ。

「僕たちはゴールで待ってるから、楽しんできて下さい」

 理想のメガネ男子とメグが賞賛する三年の寮長が、朝食の時にそんなことを言っていた。

 主催の先輩たちは、亡霊などどうせいないと思いつつも、出たら面白いと思っている。

 本来なら途中で脅かすくらいの仕掛けがあったほうが盛り上るのかもしれないが、今回は「出る」可能性が少なくない。そこをわざわざリスクを負ってまで、途中の闇で待機する意味はない――だから、「ただ歩くだけ」なのだ。開催を否定する教師も居たが、閉門前だと先輩たちが押し切って、結局予定通りの決行となってしまった。

 寮で早めの夕食を済ませ、制服姿のままメグと校舎へ戻る。集合場所になっている一階図書室脇のホールには既に七割方の寮生が集まっていた。一階の廊下には明かりが点いているが、すぐ側の階段の奥は既に真っ暗で陰湿な空気を漂わせている。

 今日が早く終わりますようにと朝から祈り、いよいよそれは佳境を迎えようとしていた。

「二人とも、これ引いて寮長のトコ行ってね」

 上が丸くくり貫かれた立方体の箱を差し出してきたのは生徒会の書記を勤める二年だ。箱の正面に『女子』と大きく書かれている。

「くじ引きですか?」

「そうだよ。男女が同数だから、同じ数字同士のペアで行ってもらうよ」

 そんなの聞いていない。一人でないのは心強いが、まだあまり面識のない男子と歩くのは緊張するし、ましてや魔翔や亡霊と対面してしまったらどう対処していいのかさっぱり見当がつかない。だったらせめて、

「メグと一緒がいいよぉ」

 彼女となら融通が利くし、暗闇も得意だと言っていた。けれど、そんな望みも本人にきっぱりと否定される。

「芙美ちゃん! こんな時に女同士で行動してどうするのよ!」

 やる気満々である。もはや『肝試し』より『男子と二人きりイベント』に闘志を燃やしている。メグは力強く穴に手を突っ込んで「お願いします」と祈りを込め、小さく折りたたんである紙を引き抜いた。

 中には数字の『6』と書かれていて、続いて引いた芙美のくじには『3』と書かれていた。このイベントを受け入れなければ、と腹を括って結果を確認する。

 寮長の前に置かれたホワイトボードには、続々ペアが書き込まれていき、『6』の欄にある男子の名前を確認すると、メグはついさっきまでの勢いを床にばら撒くかのように愕然と肩を落とした。彼女にとってそれはハズレくじだったようだ。

 『3』はまだ埋まっておらず、『男子』くじの箱を持つ先輩を探すと、今まさにクラスメイトの修司と祐が手を入れたところだった。攻撃をかけるようなメグの鋭い視線がその手元を狙い――「あああ」と小さい悲鳴を上げた。

「メグ?」と、遅れて芙美はその声の意味を知る。

「芙美ちゃんって、祐くん狙いじゃないよね?」

 こっそりと尋ねられ、「まぁ、そうだね」と返す。野村祐の手にする紙に『3』が書かれているのだ。対になる芙美の『3』は、メグにとって一等ハワイ旅行的な当たりくじに見えるのだろう。

「交換する?」

 先輩たちの目を盗んで、芙美はそう提案する。メグの祐への気持ちは何となく知っているし、彼女にとっては当たりくじでも芙美にとっては他の数字と大差ないと思ったからだ。

 メグは、ぱっと目を輝かせるが「でも、駄目っ」と戒めるように呟き、「ちょっと待ってて」と言い残すと、向こうできゃあきゃあ騒ぐ女子の間へ飛び込んで行った。何やら熱弁を振るい、皆を納得させて戻ってくる。抽選結果を見た直後とは一変して、満面の笑みだ。

「ありがとう、芙美ちゃん」

 芙美の手からくじを抜いて、持っていた方の紙と入れ替える。良く見ると、それはハズレの『6』ではなく、『8』と書かれたものだった。

「これって――?」

 書き足されていくホワイトボードの男子『8』に、名前が記入される。

「頑張ってね、芙美ちゃん」

 何を頑張れば良いのかさっぱり分からない。

 くじ引きとはいえ、結局出来レースみたいなものなのだろうか。目当ての男子を狙って、女子たちの中で巧妙に操られた結果、芙美に回ってきたのは、二等電子レンジ位の価値がある、熊谷修司とのペアだった。


「アンタか」

 結果を知った修司の開口一番がそれだった。メグの勘違いから仕組まれた彼とのペアだが、芙美は少しだけホッとしていた。少なくとも、祐や他の男子よりは面識がある。

「よ、よろしく」

 彼と闇を歩いて「何か」が出たら、どうすれば良いのだろうか。本当に亡霊が出るなら、悲鳴を上げて走り去ればいいだろう。けれど、もしそれが魔翔だったら。

 芙美に戦う術はない。けれど、自分が居ることで奴等をおびき寄せているなら、何かしなければならないと思うが、そのシミュレーションが全くできない。

 不安を逃がすように顔を上げると、修司が「どうした?」と声を掛けてくる。

「そんなに怯えた顔するなよ。ただ歩くだけだろ?」

 歩くだけであって欲しい。彼に色々悟られたくない。町子が絡んでいるし、魔翔が出る可能性もあるのだから、咲に相談しておけば良かったと後悔が募る。

「うん、大丈夫」と、気遣う修司にそんな言葉しか返す事ができなかった。そして、おなかの前で組み合わせた両手に渾身の祈りを込める。

――魔翔さん、私じゃ貴方のお腹を満たしてあげられないので、出てこないで。

「何やってんだ?」

 ごにょごにょと呟く芙美に、修司は怪訝な表情を向けてくる。

「神頼み……お化けが出ませんように、って」

「やっぱり怖いのか」

 一組一組とスタートしていくペアを見送って、緊張が高まってくる。魔翔や亡霊のことを差し引いても、闇を歩く行為は芙美にとって難関だ。

 そんな折、スタートを直前に控えたメグの声が耳に届いてきた。無口な祐を相手に、実に楽しそうに盛り上っている。

「怖いから、手、繋いでもいい?」

「あぁ」とつれない返事をしながらも、しっかりと祐はメグの手を握り締めている。

 おい! と後ろからツッコミを入れたくなり、芙美はぽかんと口を開いた。メグはそんなキャラじゃなかったはずだ。実家の裏は墓地で、暗闇なんて全然平気じゃなかったのか。

 あの小柄で可愛らしい容姿は恐ろしい武器だと、改めて実感した。


 いってらっしゃいと笑顔の先輩たちに見送られ、芙美たちも意を決してスタートする。

 照明のない道のりは、どんどん闇が深くなっていき、手摺を伝って足元を確認しながら一段一段を上っていく。一歩前を行く修司が「気をつけろよ」と振り返る。少し速いペースの足取りを、芙美は必死に追い駆けた。

 三階に着いた途端、ホールのざわめきが遠退いた。しんと闇の音が広がって、今まで気にならなかった自分の足音に身を震わせる。

 二年生の教室が並ぶ廊下を東の端までまっすぐ移動し、突き当りの階段を下りれば、ゴールの体育館はすぐだ。今日は満月が出ているせいで教室側は多少明るかったが、廊下の反対側はトイレや文化部の部室が並んでいるせいで窓が遠く闇に塞がれている。

 五分前に出た前のペアは、既に姿が見えなかった。

 何よりも先に『怖い』という言葉が浮かぶ。傍らの修司は廊下の奥を見据えて、何かを警戒しているように見えた。彼もやはり恐怖を感じるのだろうかと思ったが、怯える様子はなく、そんな姿が頼もしく見えた。縋りたい気持ちが先立って芙美は彼へと手を伸ばすが、ハッと我に返る。

 こんな時、恋人でもない男子に触れても良いのだろうか。

理性と羞恥心に邪魔され、掴みかけた手を引いて自分の胸元に握り締めた。やっぱり、メグと一緒が良かった。彼女になら思う存分泣きつく事ができるのに。

 「行こうか」と促されて頷くと、修司が広げた右手を芙美に差し出した。

「怖いんだろ?」

 嬉しいと思うその手を、芙美はすぐに掴むことが出来なかった。恐縮して俯くと、先に彼に手を取られる。途端に身体が火照って、芙美は唇を強く結び、気丈に振舞う努力をした。けれど、そんなぎこちない表情に修司は笑いを浮かべるばかりだ。

「今は真っすぐ歩くことが優先。祐たちなんて、腕組んで歩いてるんじゃないのか?」

「う、うで……じゃなくて、手だけ、貸してください……」

「はいよ。でも、この様子だと何も出てないんじゃないか?」

 修司は廊下の奥の闇を見据える。確かに静かだったが、それでも恐怖は変わらない。

 少し冷たいと感じる掌。一度繋がれた手を離すまいと、芙美はぎゅっと握りしめた。

「あとは歩くだけ。平気だろ?」

 ――「平気だよ、芙美」

 修司の言葉にふと思い出したのは、父・和弘とのエピソードだった。前にファーストフード店で会った時もそうだった、と芙美は一人で吹き出した。

「熊谷くんって、うちのお父さんに似てる」

「おい、それは俺がオッサンくさいって言ってるのか?」

「オッサンじゃないよ。まだ三十五だし」

 彼に手を引かれて、ゆっくりと廊下を進んでいく。急いで走り抜ければあっという間にこの時間から逃れることが出来るかもしれない。そうすれば楽だと思うのに、もう少しこのままで居たいという自分でも驚くような感情が邪魔した。

「小学校の時、お父さんと大学の学祭に行った事があって、初めておばけ屋敷に入ったの」

 東京に住んでいた時だ。和弘の出身大学で祭があると言われ、風邪引きの弟を置いて二人で出掛けた。

「うちのお父さんて筋金入りの方向音痴で、お化け屋敷で居なくなったことがあったの」

 どれくらい方向音痴かといえば、休日に家族で伊豆の温泉に車で向かったのに、辿り着いた海で太陽が水平線に沈んでいったくらい性質が悪いものだ。

 突然の昔話に修司は相槌を打っていたが、まさかの展開に「えっ」と声を漏らした。

「一本道の筈なのに、中で迷子になっちゃって。真っ暗なところで泣いてたら、お化け役の男の人が、血塗れメイクのままで助けてくれて……」

「それで駄目なのか、こういうの」

芙美は「うん」と頷いた。入る前に「平気だよ」と言ってくれた言葉も空しく、和弘がお化け屋敷から脱出したのは芙美の出た五分後だったのだ。

「――って。俺は方向音痴じゃないからな?」

「うん。でも、頼りにしてるから!」

 強く訴えて、芙美は彼の手を強く握り締めた。

 話をしていると暗闇への怖さを少しだけ忘れることが出来たが、闇に浮かぶ一つ一つの風景が現実へと引き戻してくる。教室の机や椅子の後ろにそれ以外の陰が潜んでいる気がして、なるべく教室の中を見ないようにした。

 廊下の半分が過ぎた時、修司がふと芙美を呼んだ。

「有村さん、もし何か出たら、アンタは一人で体育館まで逃げろ」

「えっ?」

「出たら、の話だけど」

 突然何を言い出すのか。真面目な顔で修司は逃げろと言う――この手を解いて。

「一人で、って。どうして?」

「危険な目に遭ったら困るだろ?」

 かっこつけているつもりなのだろうか。

「嫌だよ、一人にしないで。何か出たら一緒に逃げて」

 何かが出たら――自分が取るべき行動の正解すらまだ出てはいないが、この手を振り解いて逃げるのは自分じゃない。思いつく手段の中に、彼が残る選択は絶対にない。

 修司は困り顔で芙美を見下ろしていた。「分かったよ」と、そう答える彼の声が、その場しのぎに聞こえて、芙美は再び神に祈る。

 階段まであと少し。こんな会話が杞憂で終わりますように、と。

 しかし、最後の教室に差しかかった時だった。

 教壇側の扉。その奥は他と様子が違う。窓からの青白い光を遮るやたら大きな影。

「ひっ……」

 視界の隅がその姿を捉え、芙美はかすかに悲鳴を漏らし足を止めた。

 魔翔だった。しかも、とびきり大きいサイズだ。修司を握り締めた手が汗ばむが、奴に萎縮してしまい放す事ができなかった。

 彼もその影を見ている。奴等は普通の人間には見えないはずなのに、今回騒ぎにまでなってしまったということは、やはり見える時もあるのだろうか。

 緊張を逃しながら、そろりと奴の正面へ向く。つるりとした卵のような丸い身体を、そこから生えた人間の足が支えている。手はなく、白い光を伴った大きな口以外は全てが闇の色に同化していた。

 いつから奴はそこに居るのだろう。出現を合図する空気音もない。学校の闇に共存しているかのように、そこで餌を待っている。

「お前にはアレがどう見える?」

 前のペアには見えなかったのだろうか。町子の亡霊だと噂していた先輩は、白い光を見たと言っていた。普通の人間は見え方が違うのか、それとも別の魔翔なのか。

 彼には奴がどう見えているのだろう――息を呑む修司の問いに、芙美は言葉を躊躇った。

 戦えるか――? 戦えないだろう?

 強く自分に言い聞かせる。芙美や修司の身体より大分大きい。背はさほど変わらないが、丸い胴体部分だけで三倍の横幅はあるだろう。

 町子ですら、こんなサイズと戦ったことはない。だから、懸命な手段を判断せよ――。

「こ、怖いよ、修司くん。逃げようよ」

 精一杯の名演技。メグに習って必死に説得すれば、一緒に階段を下りてくれるだろうか。

 奴を刺激しなければ、力のない芙美を追ってくることはない筈だから。

 無理するのは禁物だと先日弘人に注意されたばかりだ。過去の二の舞にならないために。

 キィと。魔翔が一つだけ鳴くのを聞いて、芙美は修司の手を引いた。

 けれど。

「俺は大丈夫だから。一人で逃げてくれるか? すぐ追い駆けるから」

「駄目だよ熊谷くん。危ないよ」

 魔翔はこちらを向いている。力のない芙美を餌だと知っている。

「お願い!」と懇願する芙美を拒んで、修司は「ごめん」と繋いだ手を振り払った。

「お前は逃げろ!」

 大きく叫ばれたその言葉に、芙美の記憶が呼応する。

 ――「逃げろ」

 それは町子の記憶だ。雪のダムで同じようにその言葉を聞いた。

 目の前に居る彼は、熊谷修司という芙美のクラスメイト。

 そんなわけがある筈ないのに、突然頭をよぎった可能性に、そうでない理由を上げる事ができなかった。確信できるのが不思議なくらい、自分はそれを受け入れている。

「類――なの?」

 芙美を見る修司の表情に、当惑の色が混ざる。お前は何を言っているのだ、と。

 けれど、彼はその言葉の意味を理解している。否定はしない。そして、全てに納得した。

「お前、町子……なのか?」

「そうだよ! 類も、生まれ変わったんだね」

 類と再会できるとは思っていなかった。感慨深い喜びと同時に、自分が彼の死の現況である事が突き刺すように記憶を犯す。

「るい、私……」

 謝罪の言葉を吐き出そうとする芙美に、修司は「静かに」と人差し指を立てる。

 息を呑んで耳を澄ますと、闇の奥に声が聞こえた。恐らく次のペアだ。

「話は後にしようか。このまま逃げてもいいけど、噂の元は絶たないとな」

 目算して修司は「一分でカタをつけるぞ」とブレザーの内ポケットからそれを取り出す。

「杖? 戦えるの?」

 戦いを、力を放棄したいと言って大魔女を倒そうとした彼に、今力があると言うのか。彼の手に握り締められているのは、確かに魔法使いの杖だ。

「私、魔翔は見えるけど、杖も力もないの」

「ならコイツは俺の力に沸いたんだろ。いいか、すぐ終わらせるから俺の前に出るなよ」

 「うん」と返事して、芙美は廊下側まで下がり、壁に背をぴったり合わせた。

 彼が類だと言うことをまだ実感できずにいたが、杖から流れ出た緑色の光に、記憶の波が押し寄せてくる。

 キィ。

 待ってましたと言わんばかりに、闇に佇んでいた魔翔が動を示す。

 風船のように膨れている胴体が空腹には見えないが、白い口を大きく開いて、巨体を支える太い二本足が修司目掛けて跳躍する。

「気を付けて!」

 町子がこんな奴と見間違われていたのかと思うと、無性に腹が立った。自分が飛び出して戦いたい衝動を堪えて修司を見守ると、彼は返事の変わりに少しだけ笑みを見せ、目の前にぐるぐると魔法陣を張った。

 キィと魔翔は警戒し、並んだ机の上に片足を着地させ、もう一度跳ねる。

 机がガラガラと派手に横倒しになると、音に反応した次ペアの悲鳴が聞こえた。

「静かにしろよ、迷惑だ」

 回転する魔法陣が、修司の杖の動きに合わせて魔翔へと照準を合わせる。

 ひゅうと空気を震わせる風は、修司の力によるものだ。ピタリと止まる魔法陣は、今まさに空中から修司目掛けて飛びかかろうとする魔翔を捕らえている。

「ここで撃っていいの?」

 咲の作り出す異空間ではない。その照準のまま撃てば、魔翔もろとも天井が崩壊する。

「俺の力を忘れたのか?」

 得意気に笑って、修司はその杖に力を込めた。硝煙を撒き散らして、ドンと放たれた光の弾が魔翔の巨体を天井に叩き付けた。轟音に窓がピシピシと軋み、蛍光灯が高い音を立てて弾ける。パラパラと舞い下りる破片に、芙美は腕をかざして防御を取る。

 緑色の力を全身に喰らい、歪み出した魔翔の体はジュウと溶ける様に千切れ、ボタボタと床に落ち、そして闇の中へ蒸発していく。

 そんな一連の流れに、芙美は感嘆の息を吐いた。

「本当に、あっという間だったね」

「褒め言葉は後でいいから。ほら、騒ぎが大きくなる前に戻すぞ」

 そう言われてようやく、彼の力を思い出す。

 空中に再び現れた魔法陣は、球体の光だった。普段描く平面の魔法陣と同様、その意味を込める文字列が光の中で幾重にも重なる。修司の掲げる杖に合わせ、頭上に浮かび上がった光の玉は彼の合図で放射し、教室中をその色に包み込んだ。

 眩しさに目を細めた一瞬で、倒れた机も、割れた蛍光灯も天井も、何事もなかったように元通りの姿へ戻っていく。

「忘れてたよ、これ」

 修司はにやりとほくそ笑んで、杖をしまった。

 バタバタと廊下を走ってくる音がして、芙美は修司と顔を見合わせる。

「熊谷くん、有村さん、二人とも無事ですか?」

 寮長の声。どうやら次ペアが音に驚いてホールへ戻り、助けを求めたらしい。

「慌てるなよ。力は普通の人には見えないから」

 言い置いて、修司はぽんと芙美の肩を叩いた。

 確かにそうだ。けれど、教室に居ることと音の説明を、どうすれば良いのだろう――と迷う暇なく三人が飛び込んでくる。寮長と、その後ろに祐とメグだ。

「芙美ちゃん! 大丈夫?」

 教室を見渡したメガネ男子の寮長が何もないことを確認して、ホッと肩の力を抜いた。

「どうした? 後ろのペアが、凄い音がしたって顔面蒼白で戻って来たから、何事かと思ったよ。何かあったのか?」

 返事に窮して、芙美が修司の制服の裾をつまんで助けを求めると、

「すみません。ちょっと魔が差してしまって」

 淡々と述べられた言葉に、芙美は「は?」と慌てて彼から手を放し、驚愕した。

「あ、そうだったんだ。なら仕方ないな」

 真顔で受け止めて、寮長は更に「邪魔して悪かった」と付け加える。

 真に受けないで下さい――と芙美は声にならない叫びを訴えるが、弁解することも出来ず、がっくりとうな垂れた。

 寮長の後ろで「いやぁん」と大喜びするメグの声が、グサリと胸を貫いた。


 結局町子の亡霊騒ぎは解決しないまま、「いつも大人しい熊谷くんが、意中の彼女を闇で襲った」という勘違い騒動で、肝試しは幕を閉じた。はやしたてる周囲の声も修司はは全く気にして居ない様子で、芙美ばかりが俯いたまま頭を上げることができなかった。

「ほら満開だよ。見て、芙美ちゃん」

 最後の組のゴールを見届けて、寮生たちは校庭に繰り出した。先輩たちが用意した、ブルーシートとイベント用の大きな照明。光が照らし出すのは、プール横に並ぶ満開の桜だ。

 肝試しの開催には怒り心頭だったが、そんな怖さや周りの冷やかしも全て打ち消してしまう程咲き誇る薄紅色の桜に、芙美はぱあっと破顔した。

 寮母のミナが用意してくれたジュースとお菓子でささやかに行われた夜桜見物に、自分の思い描いた『歓迎パーティ』の図を合致させて、芙美は「これだよ!」とはしゃいだ。

配られたジュースを手に桜を見上げていると、「こんばんは」とミナが横に並んで花を仰ぎ見る。メグは「祐くんを連れてくる」と勇んで彼の元へ向かったが、当の本人は修司の騒動で先輩たちから一緒になって冷やかされていて、難航しているようだ。

「ごちそうさまです」

「ジュースくらい気にしないで。こっちは大人なんだから。それより肝試しどうだった? 修司くんと大変だったみたいだね。何か出た?」

「で、出てないですよ、お化けなんて!」

 ぎこちなく否定して、気を逸らすように桜へと視線を返すと、ミナは少しだけ残念そうに「そうか」と呟いた。

「でも修司くん強そうだから、何かあったら守ってもらうのよ?」

 からかっているのだろうか。もう誰もが『二人はデキている』という先入観で盛り上がっている。修司と話をしたいと思うが、二人きりになるのは難しそうだ。メグが祐と共に修司も引っ張ってきてくれればいいが、それでもメグたちがいては過去の話ができない。

「ミナさぁん」

 三年の男子がサイダーを片手にハイテンションでミナを手招きした。流石、寮の女神様だ。ミナも「はぁい」と笑顔で手をヒラヒラと振り、満更でもない様子で「またね」と彼らの元へ行ってしまった。

 芙美はもう一度桜を見上げて、ほのかに香る甘い臭いを吸い込み、いまだ先輩達に取り囲まれている修司を振り返る。彼が類だという突然起きた再会は、芙美をどんと雪の日の記憶へ引き戻す。あの日、彼へ向けた炎の記憶に、悲鳴を上げたくなるのを堪えた。

「芙美ちゃん、祐くんに声掛けれないよぉ」

 芙美の気持ちを知る由もなく、メグが珍しく泣き言を言いながら戻ってきた。

「そりゃあ残念」と宥めて、横に立った人影に顔を起こす。

 修司だった。どうやってあの輪から抜け出すことができたのだろう。芙美は驚いて彼のいた場所へ視線を返すと、何故か先輩達に問い詰められているのは祐だった。

「あそこの先輩が、森田さん狙いだっていうから。嫉妬だよ、嫉妬」

「私?」とメグは困った顔をして、それでも祐へ熱い恋の眼差しを送る。

「でさ、森田さん。コイツ借りてもいい?」

 突然の修司の要望。彼と二人になれると思うと、あれこれ悩んでいた頭がスッキリと覚悟を決める。しかしメグはキッと修司を睨んで、「駄目」とはっきり拒否した。

「いくら熊谷くんでも、芙美ちゃんは渡さないよ」

 ぎゅっと芙美の腕に絡み付いて、修司の顔に向かい条件を提示する。

「祐くんを連れて来てくれたら、二人きりにさせてあげる」

「あぁ――そういうこと」

 納得して、修司は「いいよ」と戻って行った。ここで駆け引きするとは流石だとメグに感心する。そして、修司もあっさり先輩達のところから祐を連れ出してきた。

「お前何だよ、いきなり」

 理由もなく引っ張り出され、祐は掴まれた腕を振り払うが、メグに気付くと妙に大人しくなってしまう。修司はそんな祐を「どうぞ」とメグに差し出し、ほらと芙美を促した。

「行くぞ」

 嬉々するメグに見送られ、芙美は飲みかけのペットボトル片手に彼の後を追う。桜並木の下を歩いて南校舎側へ出ると、駐車場もガラガラで人影もなくひっそりしていた。

「暗いけど平気か?」

「うん、大丈夫」

 フェンスの隙間を抜けて、桜が咲く丘の斜面で地面に腰を下ろした。花を灯すライトはないが、月明かりのお陰で十分明るいと感じる。

「えっと……類?」

 熊谷くんと言おうとして、類と改めた。

 彼に伝えるべき言葉を頭に並べて、その殆どが類への謝罪だったからだ。しかし彼は気まずそうに溜息をついて、

「俺は、修司になって最初から前の記憶があるわけじゃないんだ。だから、俺の基本はこっちって言うか。だから、今の名前で呼んで欲しい」

「し、しゅうじ」

 言われるままに呼んでみる。慣れない名前を口にするのが、少しだけ恥ずかしかった。

「俺も、町子っては呼ばないから」

 うんと頷いて、芙美は気を紛らわすようにジュースを流し込んだ。

「類は俺の中で作り上げた夢みたいなものだと思った時期もあったけど、力もあれば魔翔も沸く。ここに戻ってきて、一つずつ夢が現実と重なって実感させられるよ。やっぱり、修司だけでいる事は無理なんだな」

 修司は確か、新幹線の駅一つ分覇離れた県北の中学校出身だ。

「類を確かめるために戻ってきたの?」

「それもあるけど……お前は、弟に会ったのか?」

「少し話しただけで、名乗り出たわけじゃないけど。私はね、夏樹がここで教師になってるなんて知らなかったんだよ」

「そうか。俺は、ここで町子の弟が教師をしていることを知って、謝りたくて仕方なかった。町子を死なせてしまってすまない――と。でもこの身体じゃ、いざあの人を目の前にしても,何も言えなかった」

「類だけが悪いんじゃないよ。戦いを引き起こしたのは町子なんだから」

 彼を止めようと先に攻撃を仕掛けた。町子の死は自分自身が引き起こした戦いの代償だ。

「そうさせたのは類だろ? それに、類にとどめを刺したのは町子じゃなくて魔翔だ」

「そうなの――? でも……」

 いくら最後が魔翔でも、死に至る十分なダメージを与えたのは町子だ。彼女が息絶えた時点で類も瀕死だったことに変わりはない。

 ぶんぶんと頭を横に振り、芙美は両膝を地面に付けて彼へと頭を下げた。

「町子が類と戦ったことに変わりはないよ」

 いざ謝罪を口にしようとすると、言葉が全く浮かんでこないのは、彼が夏樹に何も言えなかったのと同じだ。謝罪したところで、罪から逃れられる訳ではないのに。

「……ごめんなさい」

 その言葉だけは言わなければならないと、搾り出すように吐いて彼に伝えた。

「記憶に捕らわれるなとは言わないけど、そんな顔するほど捕らわれ過ぎるなよ」

 涙で片付けられる物ではないからと意識していたのに、意思を逆らって涙が滲んだ。

「町子のお陰で、災いは起きなかっただろ? 謝るのは俺のほうだ」

 土の地面に手を付いて、修司はその位置まで深く頭を下げる。

 お互いに、謝ることしかできなかった。漫画か何かで「昔は敵だったけど、今は仲間だ」と笑顔で分かち合うシーンを見たことがあるが、そんな簡単に割り切れるものではない。

 けれど、町子が聞いた類の最後の声は忘れない。

「あの時類は、「逃げろ」って言ってくれたよ。あれが類の本心だって信じてる。町子が死んだ時は辛かったけど、芙美に生まれ変わって楽しいこともいっぱいあったよ。だから、私たちの罪は半分ずつにならないかな」

「半分……?」

 顔を上げた修司の前髪に絡んだ土がパラパラと落ち、芙美は手を伸ばしてそっと払った。

「うん。半分ずつ。そう思えば、今の修司や芙美として前に進めるでしょう?」

 提案を口にして、それが正しいと思いながらも、彼への後ろめたい気持ちはスッキリと晴れてはくれない。

「町子らしい意見だな」

 今日という日の結末が、こんな形で終わるなんて想像もしていなかった。彼に謝る日が来ればいいとは思っていたが、予想を覆す現実とは、ある日突然やってくるものだ。

「修司、あの日の事聞いてもいい?」

「ダムのむことか? いや……悪い。全部は言えないんだ」

 質問を察して、先に修司が謝った。類が大魔女のところへ向かおうとしたこと、町子とは別の場所で倒れていたこと、聞きたい事は山ほどあるのに――。

「どうして?」

「お前や他の奴等の命に関わるからだ」

「命? 他の奴って、咲ちゃんたちのこと? 修司も会ったの? みんなに」

「も、って。お前は会ったのか? その身体で、あいつ等に」

「まだなら修司も今度一緒に行こうよ。弘人も類に会いたいって言ってたよ?」

「アイツが?」

 えっ、と修司は訝しげな表情で小首を傾げる。二人は元々仲が良かったわけでもないし、芙美にとっても弘人の言葉は驚きの発言だった。

「うん。みんな元気だったよ。だから」

「俺はやめとくよ。アイツ等に合わす顔がねぇ。元気だって知っただけで、もういいよ」

 会い辛い気持ちは分かる。仲間と揉めたまま類は死んでしまったのだから。

 けれど、ダムの事件でみんなの心にできてしまった傷を、時間が埋めてくれれば良いと思う。力と、仲間になった頃の楽しかった時間を求めて、ここまで帰って来たのだから。

「修司には力があるんだよね。今もまだ、大魔女を殺そうと思ってる?」

「それは思ってないよ。類の罪を繰り返せば、また誰かを苦しめるだけだって自覚してる」

「そ、そうか」と頷く芙美。修司はあぐらをかいて懐から魔法の杖を取り出した。

「これは、類が俺に残したものなんだ」

「それって杖? 類の? ダムでの戦闘後に? 生まれ変わるって知ってたの?」

「いや、類は何も知らなかった。誰の手にも渡すまいと思って、死の直前に埋めたんだ」

 興奮気味の質問攻めに、修司は苦笑気味に説明する。

「まさか本当にまた使うなんて思ってなかったけどな。この杖も十六年埋まってたとは思えないくらいそのまま出てきたよ」

「修司は、戦うことを選んだんだね」

 迷いのない表情。肝試しで見た戦闘もそうだったが、類はこんなに強かっただろうか。彼の魂を修司が受け継いだことで、少し変化が起きたのなら、自分はどうだったのだろうと神妙な面持ちで町子の記憶に浸っていると、修司が「そういえば」と芙美を覗き込んだ。

「この間駅で泣いてたのって、弘人と何かあったのか?」

 思いついたように尋ねてきた言葉を、「違います」ときっぱり否定する。あの時はただ一人で感傷に浸っていただけだ。嘘はついていない。

「そっか」と笑う修司に、芙美は「その後フラれたけど」とボソボソ小声で報告する。

「十六年は長いんだよな」

 そう呟いて、修司は斜面に足を放り出し、ようやく桜へと顔を上げた。

「この体になってから、春が来ると嬉しいって思う」

 穏やかに笑う修司の視線を追って、芙美もその桜を仰ぐ。満月の浮かぶ青い空に花びらが風で流れていく。あの雪の日の風景が全ての終わりだと思ったのは十六年前。また春を迎えることができたことが奇跡だと思える。

「ところでお前、魔翔の声を聞いたことがあるか?」

 ふいに修司がそんなことを聞いてきた。

「魔翔? キィキィってやつ?」

 お決まりになっている奴等の声。それ以外に何か奴等の吐き出す音を耳にしたことがあるだろうか。確かに何か話してもおかしくないような大きい口をしているが、食べること以外に能力があるのだろうか。

僅かに間を置いて、修司は「そうだな」と頷いた。その一呼吸分の空白に、芙美の答えが彼の求めたものでなかったことを感じた。

「他に何か話すの?」

「いや――話さないよ」

 何か隠してる? そう思ったが、問い詰める気にはなれなかった。

 あまりにも空気が穏やかで、これ以上乱したくないと思ったからだ。

「芙美は名古屋から来たんだよな。力もないのにわざわざ巻き込まれに来ることないのに」

「仲間外れにしないでよ。私だって、戦いたいの」

 十六年振りに見る魔翔に恐怖さえ感じたが、横で大人しくしていろと言われることのほうが辛かった。

「杖があれば、力は多分戻るぞ。俺がそうだったから」

「ほんと? やっぱり!」と胸を高鳴らせる芙美を、修司は厳しい視線で制する。

「けど、浮かれるなよ? 奴等に隙を見せるな――これだけは頭に入れといて欲しい」

「うん。強くなりたいよ、私は。だから、頑張る」

 皆を守れるくらいに。そして、また桜の花を見ることができるように。

 強く意思表明したところで、青い闇夜に懐かしき声が溶け込んでいく。

「大変っ!」

 町子のクラスメイト。ビブラートのかかった、甘いラブソング。その歌声に込められた意味に芙美は焦って立ち上がり、腕時計を見やった。

 九時五十分。これは消灯のメロディだ。十分後に各部屋へ見回りが入る。

「あぁ――忘れてた」

 こんな時に、修司はのんびりしている。危機感を全く感じていないらしいが、芙美にとっては一大事だ。

 肝試しでよからぬ勘違いを皆に浸透させ、花見の席からエスケープ。で、消灯に戻らないなど、あってはならないことだ。明日から顔を上げて歩くことができなくなってしまう。

 「先行くよ」と駆け出し、一言だけ言いたくなって急停止する。

「修司、また話しようね。それと咲ちゃんが、類は女の子に生まれ変わってるかもって言ってたから、やっぱり一度会ったほうがいいよ」

 途端に怒り顔で「あんの野郎!」と修司は立ち上がる。そういえば、咲と類はよく喧嘩していた。お互い怒っている筈なのに、傍から見ると楽しそうで可笑しかった。

「修司も急いでね」と忠告して芙美は再びダッシュしたが、結局足の速い修司に追いつかれて、ミナが玄関の鍵を閉める五秒前に二人で寮へ滑り込んだ。


 類に会えたことをいち早く咲に報告したかったが、土日はメグの買い物やカラオケに付き合ってなかなか一人の時間が取れず、ようやく電話できたのは日曜の夕食後だった。

 本屋で買ってきた分厚い恋愛小説を読むのだと、メグが張り切って机にかじりついたところを見計らって、スマートフォン片手に抜け出してきた。寮の周りは畑や田んぼばかりで死角がなく、芙美は修司と話した桜の下へ向かう。花はまだ咲いていたが、今朝方降った雨のせいで、大分葉が見えてしまっている。地面に落ちた花びらの絨毯を逃れて、フェンス側のコンクリートに腰を下ろした。

 渡されたカードの番号を打ち込むと何コールかの後転送がかかり、「はい、粟津です!」とすぐに咲が返事した。

「咲ちゃん! あのね、えっとね」

「ん? あぁ、もしかして芙美? どうした?」

 類のことを話そうとすると、たちまち頭が興奮してうまく言葉にすることができない。

「落ち着いて」

「う、うん――あのね、うちのクラスに類がいたの」

 とりあえず思い付いた結論だけを伝えると、長い沈黙が起きて、その後に「え?」と小さく咲が聞き返してくる。確かに、あまりにも説明不足だと反省し、芙美は、

「だからね、クラスメイトの中に、類の生まれ変わりの男の子がいたんだよ!」

「ええええっ」

 今度は間髪入れずに、咲の声が受話器の向こうに轟いた。あまりのボリュームに芙美はスマートフォンを耳から遠ざけ、落ち着いたのを見計らって改めて構える。

「本当かい? 類って、あの類? 桐崎類?」

「そうなの。私もびっくりしちゃって」

「そんな事ってあるんだね。すごい事だよ、それ。そっかぁ、男だったか」

 興奮冷めやらぬ様子で、咲は声を弾ませる。

「カッコ良くなってたかい?」

「え――そう言われてみれば、あんまり変わらないかもしれない」

「そうなの?」と咲。顔が違うのは当たり前だが、漂う雰囲気が修司と類は一緒だ。

「うん――友達がね、彼のことをニヒルだ、って言ってたよ」

「それって、ただ無愛想なだけなんじゃないの? 確かに類だね、それは」

 うんうん、と咲は一人納得する。

「でも、良くその子が類だって分かったね。お互い名乗り出たわけじゃあないんだろ?」

 芙美は、週末の肝試しの話を咲に伝えた。

「丸くて足の生えた魔翔かぁ。見た目が良くないね、それは。私は会ったことないかな。魔翔ってさ、前も言ったけど、魔法使いのレベルに応じて出てくると思うんだよね。だから、もしこの間店で出たやつより大きかったなら、類は私より強いんじゃないかな」

「ええっ?」と思わず飛び出た自分の声の大きさに、芙美は慌てて口に掌を押し付けた。周囲に誰もいないことを確認して、ボリュームを絞って話を続ける。

「でも、力が戻ったのは最近みたいなこと言ってたような」

「そうかぁ。でも、あんなに嫌がってたのに、魔法使いを選んだんだね。新生・類かぁ。会いたいなぁ。今度連れておいでよ」

 咲は実に楽しそうだが、芙美は類の言葉を思い出して「それがね」と言葉を濁らせた。

「今は会いたくないって言うの。頃を見てから、って」

「確かに気まずいのはあるんだろうけど、弘人も会いたがってたんだろ? 折角運命的な再会をしたんだ、芙美が嫌じゃないなら誘ってみてよ。それとも、芙美が弘人に会い辛い?」

 先日は笑顔で別れることができたが、また仲間として会うことに戸惑いを感じてしまう。

「……ちょっとだけ。でも、頑張るよ。私もみんなで集まりたい」

 弘人の件は、それでも気の持ちようで何とか乗り切れる気がするが、問題はどうやって修司を連れ出すかだ。咲の店に向かったら、きっと感付かれてしまうだろう。

 何パターンか頭に思い描くが、どれも修司が怒って逃げ出す結末に辿り着いてしまう。

「難易度が高いよね」

「急がなくて良いよ。類は芙美が町子だって分かって、嫌な顔したかい?」

「ううん、そんなことないよ。昔の類と話してるみたいだった」

「アイツは元々優しいし、弘人よりずっと大人だからね。側にいるなら頼ると良いよ」

「あれ、その台詞――」

 つい先日、同じ様な言葉を聞いた。

「この間、肝試しの後に、寮母のミナさんに同じ様なこと言われたなぁ、と」

「あぁ、送った時に会った美人さんか」

「そうそう。あの時咲ちゃん、ミナさんを誰かと間違えたんだよね」

「うん。どっかで見た気がしたんだけど。全然思い出せないや。年取るって恐いね」

 あははと笑う咲に、芙美は「咲ちゃんもまだ若いよ!」と真面目にフォローを入れる。

「でも本当、いつ力が戻って魔翔に襲われるかもしれないし、気をつけるんだよ。町子が強かったから立ち向かいたい気持ちもあるんだろうけど、素手で戦う相手じゃないんだからね。ちゃんと助けてもらうか、一人ででも逃げるんだよ」

「分かってるよ。ありがとう、咲ちゃん」

 魔翔にいつ襲われるか分からない。今この一人で居る所を襲われたら、無防備に殺られてしまうのだろうか。

 闇を見据えて、戦いたいと気が焦る。

 杖を見つけなければならないと、心の中で決意する――魔法使いに戻る為に。


 部屋に戻りシャワーを浴びる。

 ベッドに入っても、ずっと杖のことが気になっていた。

 あの時どうして手放してしまったのだろうか。大切なものだと自覚はあったはずなのに。類のようにどこかに隠すことができれば、今戦うことができたのに。

 けれど隠す余裕はなかったし、生まれ変われる事も知らなかった。そんな可能性を大魔女に教えておいてほしかったのに、彼女はどうして教えてくれなかったのだろう。

「ごめん。眠れない?」

 机の明かりをベッドに向け、パジャマ姿で読書を続けるメグが、パタリと本を閉じた。相当彼女にとって魅力的な内容の本なのか、夕方から読み始めた二段構成の恋愛小説は、すでに読んだページの厚みが一センチほどになっていた。

「ちょっと考え事してただけだから」

 ライトを消そうとするメグに大丈夫だよと手を振り、芙美はよいしょとベッドを降りた。

「修司くんのコト? 私に話せる事なら、いつでも聞くからね」

「か、彼のコトじゃないよ。でもありがと。ちょっと喉乾いちゃったから下行ってくるね」

「わかった。ちゃんと上着着ていくんだよ? コッソリね」

 一階はパジャマ姿禁止。芙美はパーカーを羽織り、百円玉を握りしめて部屋を出た。

 誰もいない食堂は薄暗く、暗闇を逃れるように急いで自動販売機のフルーツ牛乳を買うと、廊下に並んだソファに腰を下ろした。ごくごくと一気に半分飲んで大きく息を吐き出すと、突然現れた気配と同時に、少し怒り気味の声が飛んでくる。

「こら。消灯時間過ぎてるわよ」

「すっ、すみません」

 びくりと肩をすくめ、声の主を見上げる。ハーフパンツにTシャツ姿のミナだ。大きな胸のせいでシャツが小さく見えてしまい、女子の芙美でさえドキリとしてしまう。

 ミナはほのかなシャンプーの匂いを振りまいて、芙美の隣に腰を下ろした。

「眠れないの?」

 答えにためらって、視線を落とすように頷く。ミナは「そうか」と短く呟いて、

「じゃあ、ちょっとだけよ。元気ないけど悩み事?」

「悩み、っていうか。大切なものを失くしてしまって。どこを探して良いのかも全然見当がつかないんです」

「それじゃ、落ち着かないわね。でも、本当に大切なものなら見つかるよ。持ち主の想いが籠っているものなら、きっと返ってくる」

 そうあってほしいと祈って芙美は強く頷き、残りのフルーツ牛乳をズズッと飲み干した。

「それにね、探しているものって、案外近くにあったり、身近な人が拾っていてくれたりするものよ。灯台下暗しっても言うでしょ?」

 無邪気ににっこり微笑むミナ。彼女から視線を外し、芙美は助言に沿って頭を整理する。近い場所……やはり、最初に行くべき場所はダムなのだろうか。身近な人という見方で言えば、町子に一番近いのは夏樹だ。彼に聞いたら答えが出るかもしれないが、杖の存在を説明する術が見つからない。ただでさえ、あまり快く思われていないのに。

 しかし、そんな事で悩んでいたら、修司の隣に立って戦うことはできないだろう。

 気が急いて震えだす拳に、ミナがほんのりと温かい自分の掌を重ねてきた。

「焦らなくても大丈夫よ」

「ミナさん……わかりました!」

 くるりとミナに視線を返し、ありがとうと礼を言う。

「私、頑張って探してみます」

 ここに来て繰り返す、決死の決意表明。その思いだけで、答えが見つかるような、そんな気がした。


 翌日。夜の七時を過ぎてもまだ明るさの残る夜の空気は、少し冷たさを感じさせる。

 早めに夕食を済ませ、芙美は制服姿のまま一人寮を出た。空手部の練習は七時までだという情報に基づいて、駐車場に待機する。夏樹の車がどれかは分からなかったので、あまり人目につかない場所で、まだ明るい体育館と職員玄関の両方に目を凝らした。

 部活帰りの生徒たちがぞろぞろと体育館から出てくるが、薄暗い闇のおかげで気付かれることはなかった。そして、五分も経たないうちに彼は現れる。

「先生!」

 飛び出すように地面の砂利を弾ませてスーツ姿の夏樹に走り寄った。驚く様子はなかったが、夏樹はあからさまに厄介そうな顔をして「なんだ」と零す。

 辺りに誰もいなかったのが好都合だ。回りくどい言い方をして怪しまれるくらいなら、はっきりと言おうと、一晩考えて出した芙美の答え。

「単刀直入に聞きます。お姉さんが亡くなった時のことを教えて下さい!」

 まず、それが聞きたかった。怒鳴られる覚悟をして、力強く彼を見つめた。けれど夏樹はかすかに眉を寄せると、

「どうしてそれを聞きたいんだ。ただの興味本位なら黙っちゃいないが……」

「違う。知りたいんです、私の……理由は聞かないで」

 勢いのまま名乗ろうとして、理性がそれを留める。

「……変な奴だな。けど俺は十歳だったんだぞ。覚えてないんだ。ばあさんだって恐らく」

「だったら、直接おばあちゃんに聞きに行ってもいいですか?」

「それはダメだ。いいか、教師と生徒なんだぞ」

 きっぱりと断って踵を返そうとする彼の腕を芙美は両手で掴んで、「お願い」と懇願する。

「思い出したくないのは分かるけど、町子を助けると思って」

「この間もそうだけど、何で姉さんの名前を知ってるんだ? 新聞でも見たのか? お前こそあの日の真相を知ってるんじゃないのか?」

「私は何も知らないの。だから、知らなきゃいけなくて」

 夏樹はぐっと唇を噛んで、芙美を睨んだ。険しい表情が緩むことはなかったが、半ば根負けした様子で「じゃあ」と呟き、

「聞いてきてやるから、明日職員室に来い」

「本当? ありがとう!」

 強く沸いた衝動にぎゅっと目を閉じ、腕を掴む両手に力を込めた。

「やめろ、こんなところで。勘違いされるだろう?」

 芙美はハッとして手を放し辺りを見たが、特に人影はなくホッと安堵する。そして夏樹に対して深く頭を下げた。

「ありがとう。あと、もう一つだけ聞かせて」

 付け足すように本題を上げる。こっちの方が聞き辛い話だ。

「お姉さんの遺品に、木の棒があったか教えて欲しいの」

「棒? そんなのあったかな。まぁ、聞いといてやるよ」

 彼にはピンとこない話だったらしい。確かに町子は魔法使いであることを家族に隠していた。ただの木にしか見えないものを保管している望みは薄いのかもしれない。けれど僅かな望みでもいい。明日に期待して、早々に帰っていく夏樹を見送った。


 就寝後なかなか寝付けなかった芙美には、朝までの時間がやたら長く感じられた。浅い睡眠からの疲労感も感じさせないくらいに素早く身支度し、朝食も食べないまま一人颯爽と学校へ向かう。しかし職員室前で夏樹を待ち構えるが、彼が現れたのは始業ベルの五分前だった。慌ただしい空気の中、夏樹は芙美の顔を見るなり驚いた表情を見せる。

「まさか朝っぱらから待っていたのか?」

 待ち遠しさからの歓喜に「はい」と声を弾ませる。待っていた時間は長かったが、それも吹き飛んでしまうほどの瞬間だ。

「わかったよ、入れ」

 二人になることを警戒してか、夏樹は芙美を自分の机まで誘導する。両脇の机には別の教師がいたが、二人を気にする様子はなかった。夏樹は鞄を足元に置いて自分の椅子に座ると、特に表情もなく芙美を見上げ、淡々と彼女の待つ答えを述べた。

「ばあさんに聞いてきたぞ。俺よりは覚えてた」

 「はい」と頷く芙美。昔の面影を残した夏樹の顔が、僅かに強張る。

「けど、あのダムで何があったかはいまだに誰も分からないんだ。ただ、倒れた姉さんを偶然通りかかった人が見つけて、警察に連絡してくれた。お前が言ってた木の棒もなかったし、ばあさんにも知らないって言われたけど、姉さんを見つけた人の名前は覚えてたよ」

「ほんとですか?」と胸が逸る。「死ぬな」と言ってくれた声の主だ。朦朧とした意識で聞き取った言葉が急に現実味を帯びてきて、芙美は緊張を走らせる。少しでも良いから杖に繋がる情報が欲しい。

 しかし夏樹が次に語った名前に、芙美は思わず職員室中に響き渡る声を上げてしまった。

「変わった名前だから憶えてたんだろうな。どこに住んでるかとかは知らないけど。二人いて片方だけ名乗ったらしい。女の人で、名前は善利(ぜんり)」

「えええっ?」飛び出した驚愕の声に重なる始業のチャイム。

「おい、職員室で叫ぶなよ。だからこれが精一杯なんだからな。ウチには絶対に来るなよ!」

 人差し指を口元に立てながら早口に念を押して、夏樹は職員室を出るように反対の手をバタバタ振り、入口へと促した。半ば放心状態で教室へ戻る芙美。

「ちょ……ちょっと。善利って」

 珍しいとはいえ、芙美はその苗字の持ち主を知っている。


 夏樹からの情報のせいで、午前の授業は全く頭に入ってこなかった。誰か町子を知っている人へ全てを話し、この衝動を共有してほしいと思うのに、移動教室やら何やらで修司にすら声を掛けることができなかった。

 昼休みになって、まだ冷めやらぬ興奮に修司を連れ出そうと立ち上がったところで、真子と亜子が購買のパンを手に慌てた様子で廊下から駆け込んできた。

「芙美ちゃん、今変な噂聞いたんだけど! 修司君と付き合ってるのに、夏樹先生も狙ってるって本当? 先生狙いの先輩が怒ってるって聞いたよ?」

 唐突な真子の言葉に、心ここにあらずでボーッとしていた芙美が「へえっ?」と素っ頓狂な声を零して我に返る。

「え? 何? どういうこと、芙美ちゃん?」

 お弁当を広げていたメグがガタンと椅子を引いて立ち上がり、詰め寄るように顔を寄せるが、芙美はぶんぶんと首を振った。どっちも間違っている。

「誤解だよ。佐倉先生は……」

 しかし弁解しようと言い掛けて、答えに躊躇った。キラキラと目を輝かせる三人から目を反らし、急いで答えを考える。弟、ではない。親戚、と言えばこの場を凌ぐことはできるだろうが、夏樹の耳に入ってしまうとまた厄介だ。

 適当に返事すれば楽なのに、嘘をつくことを自分が拒んだ。

「ご、ごめん。会いに行ったのは、ちょっと先生に聞きたいことがあっただけだよ。ハッキリとは言えないんだけど、でも、好きとかそういうのじゃないから」

 ぺこぺこと頭を下げる芙美。真子と亜子は少々物足りない表情を浮かべたが、それ以上深くは聞いてこなかった。

「もぉ、期待しちゃったよ」

「ほんと。芙美ちゃんはやっぱり修司君なんだね」

 念を押す亜子。肝試し以降、皆の頭の中は芙美イコール修司になってしまっている。

「いや、そ、それも……」

 それもまた違うと否定しようとするが、途中でメグは席を離れ、教室の後ろで祐と昼食中の修司の所へ行くと、何か話した後、腕を掴んで彼を強引に引き連れてきた。

 突然の状況に戸惑う芙美に、こちらも状況を把握しきれていない修司の身体をハンマー投げのハンマーよろしく、ぶんと勢いをつけて解き放つ。

「おい! 何すんだよ!」

 衝突寸前で踏み止まって、修司がメグに声を上げるが、メグはにっこりと微笑んで半ばパニック状態の芙美にガッツポーズを送った。

「朝から何か変だと思ってたんだけど。特効薬だよ、芙美ちゃん! 落ち着いて」

 落ち着ける状況とは真逆な気がするが。きゃあっ、と真子亜子の黄色い悲鳴が沸く中、芙美は赤面して修司の手を掴み、教室から逃げ出した。


 南棟と北棟を繋ぐ通路から、避難用として使われる廊下側のベランダに出る。

 昼休みにプライベートで使っている生徒が多くいるが、まだ時間が早いこともあり、先客がいないことを確認して芙美は修司を引き連れて座り込んだ。

「空いてて良かったぁ」

 呼吸を整えながら背中を壁に預けると、横に並んだ修司が首だけを芙美に向けた。

「何かあっただろ、お前。森田じゃないけど、朝からボーッとして」

「うん……色々、あったんだけど」

「お前が弟と俺に二股掛けてるってのは、俺も聞いたぞ」

「そうなの? 何か色々間違ってて……ご、ごめんね」

「事情は分かってるつもりだから気にしないけど。その不機嫌なのは、弟が原因なのか? 何ならすぐ話してくれて良かったんだぞ。一時限くらい出なくたって」

「それは駄目だよ。二人で抜け出すのは良くないと思う。それに不機嫌なワケじゃないよ」

「変なとこ真面目だよな。まぁ、二人でってのは目立ちすぎるか」

 そうだなと呟く修司に、芙美はうんうんと首を振り、改まって話を始めた。

「町子の死の直前に、誰かが「死ぬな」って言ってくれたの。偶然あそこを通りかかったんたって。それで、救急車とか呼んでくれたらしくて、その人の名前を教えてもらったの」

 町子が最期に受け取った声。「死ぬな」の言葉だけで男か女かすら曖昧だった。けれど、夏樹に言われて、今その音が鮮明に蘇る。

 ――「死ぬな」

 芙美は顔を上げて、修司を真っすぐに見つめた。確信の事実。

「あれは、お母さんだったの。若かった頃の、芙美のお母さん」

「……お前の?」

「うん。善利っ女の人だって言ってた。今は有村だけど、旧姓は善利なの。珍しい苗字だから本人だと思うし、今思い出すとお母さんの声だった気がする。だから、あの場所にいたお母さんに聞けば、杖に辿り着けるかもしれない」

 都子がそうだったと思うと、芙美として生まれてきた総てが運命なのだと感じる。

 言い切って芙美は自分の胸をそっと撫で下ろした。修司はニヒルな切れ長の目を少しだけ大きくして、「すごいな」と呟く。

「そんなことってあるのか。俺の家は類とは全く関係ない家だ。でもそれが本当なら、杖の望みも出てきたかな」

「いよいよ、だよね」

「弟には自分が町子だって言ったのか?」

「ううん。大分怪しまれてるけど、結局言えなかった」

「言ってもいいんじゃないか? アイツなら時間がかかっても受け止めてくれると思う」

 芙美は「ううん」と首を横に振る。

「やっぱり、夏樹には言えないよ。私は町子だったけど、町子の代わりにはなれないもん」

「そうか。でも、実家には電話で聞いてみてもいいんじゃないのか?」

「お母さんにはちゃんと会って話してくる。ごめんね、わがままばっかりで」

「そういうのは、わがままじゃねぇよ。ちゃんと考えて出した答えなんだろ?」

 幼い頃、魔法使いだと暴れた芙美。都子はそれをどんな気持ちで受け止めていたのだろう。すぐにでも名古屋に行きたいと思うのに、まだ週の半ばだ。

 しかし、芙美の高ぶる気持ちを静めるように、ポケットのスマートフォンがブルブルと震え出す。確認すると咲だった。芙美は画面を修司に見せてから、着信ボタンを押す。

「はい、芙美です」

「大変だよ、芙美ちゃん! 大変なんだよ」

 言葉通り、だいぶ切羽詰まった状況のようだ。

「どうしたの? 咲ちゃん」

「ひ、ひろとが」

 突然飛び出した名前は少しだけ芙美の心を揺らしたが、そんな感情に浸る間もないほどに、咲が言葉を続ける。

「弘人がそっちに向かってるんだよ」

「えええっ? こっちって学校だよ?」

「ごめんね、芙美ちゃん。さっき電話で類のこと話したら、アイツ会いに行くって言いだしちゃって。私もすぐ追い掛けるから」

「どうした?」

 驚く芙美に、修司は怪訝な表情を浮かべる。芙美は通話口を手で塞ぎ、状況を説明した。

「弘人が今こっちに向かってるんだって」

 あからさまに不機嫌な顔で、「はぁ?」と凄む修司。

「咲ちゃん、修司が会いたくないって言ってるよぉ」

「ごめーん。もう諦めて。弘人は言い出したら聞かないから」

 それは修司も同じなのだが。

「とにかくまだ授業あるでしょ? 適当にあしらって追っ払ってよ。お願いっ!」

と、咲は一方的に通話を切ってしまった。どうしようと芙美は横目に修司の顔色を覗くが、案の定彼は眉を寄せてしかめっ面を見せている。

 そんな時、教室の方向からざわめきが起きた。修司が「まさか」と立ち上がり、その方向へ駆け出す。教室の窓側に集中して、外を見下ろすクラスメイトたちを掻き分けて、修司と芙美はその黒い車を確認した。騒ぐ声を突き抜けるような甲高いクラクションが挑発的で、芙美は他人のフリをしたかったが、知らない人だとしらを切る状況ではなかった。

「なんだ、アレが弘人なのか?」

 会わないと言っていた修司も、ベランダの柵から身を乗り出して、開いた扉から現れる人物を待った。南に向いた外階段の真下に停められた車の運転席から、最初に黒い足が見えて、次に予想通りの人物が顔を出す。

 春の日差しに輝くような、満面の笑顔だった。四階まであるギャラリーに並んだ生徒たちの中から、弘人は迷いもなく芙美に向かって手を振った。


 その後すぐに駆け付けた咲の一喝で弘人の勢いは沈み、放課後に合流することになった。二人には近くの喫茶店で待っていてもらったが、下校時刻になって再び会った時には、事態に駆け付けた薫も一緒だった。

 久々の対面に興奮する弘人に修司はもはや諦めモードで、不愛想な表情のままさっさと咲の車に乗り込む。

「じゃ、うちの店でね」

咲の車には修司と芙美が乗り、弘人と薫は各々の車で移動した。

「いやぁ、本当に類なのかい? 確かに不愛想な雰囲気は変わんないね」

 赤信号ごとに目を輝かせて後部座席を振り返る咲。ルームミラー越しにチラチラと向けられる視線に修司は最初黙っていたが、店に近付いてようやくぼそりと口を開いた。

「お前は髪が伸びたんだな」

 突然自分のことを言われて、咲が面食らった表情を見せる。

「そっ、そうだね。あとは年取ったくらいかな」

 恥ずかしそうに視線を正面に返し、その後店に着くまで会話が途切れた。

 先に着いた二人に「どうぞ」と店の扉を開け、咲はまずポットに火をかけ、サイフォンの準備をする。入口の看板にはCLOSEの看板が下がったままだ。

 弘人は修司と芙美を中へ招き入れ、戸を閉めると「揃ったね」と笑顔を絶やさない。

 むっつりとしたまま、弘人から目を反らしたままの修司を見かねて、芙美は、

「熊谷修司くん。私のクラスメイトになってた、類です」

 みんなに向かって説明して、何か言ってよと人差し指で修司の腕をちょんと突いた。

 修司はきまり悪そうに「久しぶり」とだけ呟いて、テーブルについた。

「あぁ、久しぶり」

 弘人の社交的な表情は、修司と見事に対照的だ。弘人は迷いなく修司の向かいの席に座ると、その横にそっと薫、芙美は残った修司の隣についた。程よくしてエプロン姿の咲が出来上がったコーヒーを皆の前に並べ、他の席から自分の椅子を引き寄せて座る。

「ありがとう、咲ちゃん」

 芙美の前に置かれたのは、甘いマシュマロ入りのカフェオレ。各々の趣向に合わせられていて、カップの中身が少しずつ違っていた。まだ熱いカフェオレが身体に馴染んでいく。

 落ち着いたタイミングを見計らって、弘人が「なぁ、類」と切り出した。

「いきなりだけど、お前は大魔女に会ったのか?」

 一瞬、店の空気が張り詰めた。普段穏やかな咲でさえ険しい表情を見せる。

「会ってないよ。会えなかったからな。どうしてそんなこと聞く?」

「俺は大魔女に会って、倒したいと思ってる。あの人を殺せばこの力を捨てられるんだろう? もうこんな歳だしな。昔とは違う。ハッピーエンドで終わらせたいんだよ」

「俺たち、って括らないでほしいね、そんな物騒な話」

 咲がテーブルに肩肘をついて弘人を睨むが、本人は気にもしない様子で続ける。

「二人が記憶を持ったまま生き返ったことで、死んでも魔法使いから解放されないってわかったから、やっぱり大魔女を見つけるのが一番だと思ってる」

 大魔女を倒せば力がなくなるということは、力をもらった時に大魔女自信が教えてくれたことだ。けれどそれを実行しようなんてことは思ったことがなくて、芙美はとうに忘れてしまっていた。それ以上に、大魔女の死は災いを引き起こすという話を聞いた時に覚えた、恐怖心の方がずっと残っている。

「弘人もみんなも。力を放棄したいって思ってるの?」

「もう、折角の再会だっていうのに変な話になっちゃったね。私は力のあるなしに執着しないけど、実行するにしても二十年近く会ってない大魔女を探し出せるとは思わないよ」

 芙美は力を求めていた。また昔のように仲間とみんなで戦えたらと思っていた。その為に名古屋に行こうとしている。それなのに、弘人は力を捨てたいという。

 それぞれの描くハッピーエンドの違いに芙美にはショックを受けた。

「きっと結局このままなのよね、私たち。でも記憶を持ったまま転生できるって知って、死への恐怖は減ったわ」

 困惑する芙美を一瞥して、薫がカップを片手に艶のある声で「ね?」と微笑んだ。

「まぁ、そうだよね。だから死んでいいってわけじゃないんだけどさ?」

「……わかったわよ」と苦笑する薫の横で、弘人が額に手を押し当てて深く息を吐き出し、顔を上げる。修司はうつむいたままだ。

「それに、大魔女が死んだら災いが起きるんだよ? 今のままが一番」

 咲と薫のポジティブさに救われる。「ホラ、元気出そうよ」と咲が奥からアップルパイを出してきて、目の前で切り分けてくれた。

 優しいアップルパイの味に緊張が緩み、芙美はみんなの顔色を確認してから都子の話を切り出した。とりあえず話してから名古屋へ行きたかった。


「――と、いうことなの」

 一通り芙美が話し終えると、顔を乗り出して聞き入っていた咲が、「運命だよ、それは」と歓声を上げた。修司を除いた大人三人が目を丸くして驚きの表情を広げる。

「今のお母さんと町子はその時まで面識がなかったんだろ? 大体芙美の家は名古屋じゃないか。お母さん、こっちの生まれなのかい?」

「ううん、両親とも東京生まれのはずだよ。本当にそうだったら嬉しいけど……」

「善利なんて苗字、そうそうないよ。良かったね、って言葉が正しいのかどうかは分からないけど、悪いことじゃないよね」

 期待いっぱいに名古屋へと勇んで、もし違かったらという不安はあった。

「心配なら、俺がついていこうか?」

 一瞬細められた薫の視線に気付くことなく弘人が提案するが、キッパリと咲が否定した。

「アンタが行ってどうすんのよ。御両親に会うんでしょ? オッサン連れてってどう説明するつもり?」

「俺が行く」

 静かだった修司が突然名乗り出るが、それも咲は即却下する。

「同じ歳の男なんて、お父さん発狂しちゃうでしょ!」

 確かに咲の意見が正しい気がする。寮生活で和弘が一番心配していたことなのだから。

「だから、私が行くよ」

 咲の心強い提案だった。彼女なら安心して連れて行くことができる。

「もし杖が手に入ったら、戦闘が起きるかもしれないしね」

「そう……だよね。ありがとう、咲ちゃん。本当にいいの?」

 力を手に入れて魔法使いになるということは、戦闘を受け入れるという事だ。

 名古屋行きの詳細を決めて、それからは他愛のない昔話をした。皆どこか魔法の話を避け、二人の死の真相にも触れることはなかった。良い思い出だけを上辺だけさらったような都合の良い会話を不自然に感じたが、芙美はそれを口にすることができなかった。

 夜になって店を後にし、咲に寮へと送ってもらう。夕食時間より遅くなったせいでミナが二人を玄関先で迎えたが、咎められることはなかった。

 階段での別れ際、芙美が修司に頭を下げる。

「修司、今日はごめんね。みんなに会いたくないって言ってたのに、巻き込んじゃったね」

「気にしなくていいよ。お前のせいじゃない」

 僅かに緩んだ表情に、芙美はホッと安堵する。

「それより、弘人に注意しとけよ」

「えっ――どういう意味?」

 突然の言葉。修司はその答えをはっきりと言わず、「わかったな」とだけ念を押して、そそくさと階段を上って行ってしまった。

 しかし、彼の不安が的中してか、寮の門限近くになって芙美のスマートフォンが鳴った。


 パジャマ姿でベッドの上に横になる。消灯時間まではまだ大分あるが、午後の騒動のせいで既にウトウトと目が閉じかかっていた。静まり返った部屋に突然響いた着信音に芙美は慌てて飛び起きて、相手を確認する間もなく通話ボタンを押した。

「俺だけど」

 返事する間もなく耳元で囁かれたその声に、胸が締め付けられる。名前を聞かなくても、それが弘人だとわかった。

「う、うん。さっきは、どうも」

 机で相変わらずの恋愛小説に没頭中のメグが、チラとこちらに向いたが、唇だけでにっこり笑んで、再び本に視線を戻した。

「今から外出れるか? 近くまで来てるんだけど。話がある」

「えっ……と。私、寮に住んで。門限が九時なの」

 壁の時計は既に八時半を過ぎている。今出たら施錠に間に合わないことは明確だ。

「……ごめん」

「出れない?」

 困惑する芙美だが、半ば強引に弘人が強く尋ねた。

 彼は仲間だ。きっと、魔法や杖の話だろう。ただそれだけのことなのに、二人きりかもしれないシチュエーションを浮かべて、一人で期待してしまう。

 彼は薫の恋人だ。第一、一人で来るとも限らない。

 自分と弘人はもう終わった関係なのだと納得した筈なのに、突然プライベートに入り込んできた彼の声に、やっぱりまだ諦めきれていないことを思い知らされる。

「電話じゃ、ダメ?」

「駄目だよ」

 悪戯っぽく否定する弘人。昼間、彼の真意に触れた。だからきっと、会いに行っても楽しくないことが起きるのは想像できる。

――「弘人に注意しとけよ」

 修司がそんなことを言っていた。彼は芙美の知らないことを知っているから、これから起きることを心配したのだろう。けど、それでも弘人に会いたいと思ってしまう。

「――わかった」

 裏口の鍵は手動で中から回せるからいつでも抜け出せるともっぱらの噂だ。ミナにさえ見つからなければ余裕だし、もし帰ってきた時に鍵がかかっていても、誰かを呼んで開けてもらえば中に入ることができる。

 外で落ち合う約束をして、電話を切った。

「大胆だね、芙美ちゃん。誰? 修司くんじゃないの?」

「――うん。でも、修司とだって付き合ってるわけじゃないんだよ」

「もう。名前で呼ぶなんて、恋多き女なんだから」

 すごい、と尊敬の眼差しを向け、メグがしおりを挟んでパチリと本を閉じた。

「もしもの時は、扉お願いしてもいいかな?」

「いいよいいよ。私の時もお願いするから。見回りまでは戻ってほしいけど、間に合わなくても何とかしておくよ」

 任せて、と親指を立てるメグ。十時の消灯とともに見回りが動き出す。その時間までには戻りたい。「ありがとう」と礼を言って、芙美は慌ててパジャマを脱いだ。クローゼットの手前にあった、お気に入りのワンピースを被り、まだ湿ったままの髪を手グシで直す。

「今日は遅くまで起きてる予定だよ。本がそろそろ終わりそうだからね」

 あんなに分厚いと思って見ていた彼女のお気に入りの恋愛小説も、しおりの先が残り一センチを切っている。

「そんなに面白いんだ」

「面白いよ」とメグは本を手に取って、胸の前に抱き締めた。

「女の子が主人公なんだけど、恋人がいるのに病気で死んじゃうの。でも、彼にもう一度会いたいっていう願いが奇跡を起こして、彼女は生まれ変わるんだよ」

 身に覚えのある内容に、芙美は思わず立ち尽くしてしまう。メグは「はやくはやく」と準備を促しつつ、夢見がちに内容を語った。

「でもね、生まれ変わった主人公が彼に会えたのは、彼女が十六歳になってからで、彼も三十五歳。結婚はしていなかったけど、彼には婚約者がいたんだよ」

「す、すごい話だね。結末はどうなるの?」

 自分を重ねて、そのヒロインに期待してしまう。

「まだラストまで読んだわけじゃないから、わからないよ。他にも恋人候補の同級生がいるしね。でも私は、歳の差を乗り越えて、本命の彼と結ばれると思う」

 自分もそんな主人公のようになれればと思うが、きっとそれは最善ではない。

「幸せになれるといいね」

 鏡に映る自分は、弘人に会いたいと思っている。ヒロインも自分も、昔の記憶を離れることができないのだ。「じゃあ」とこっそりドアを開け、芙美は皆の目を盗んで静かに寮を出た。ミナもそうだが、修司には見つかりたくなかった。


 校門の前に行くと、弘人の車がエンジンを消して停まっていた。芙美が近付くと運転席から彼が一人で下りてきて助手席を勧めてきたが、消灯までには帰りたい旨を伝えると、「わかった」と笑んで車にロックをかけて歩き出した。

 田舎の学校故周りには民家もなく、人通りどころか車の気配もない。寮の明かりと道路際に等間隔で光る街灯が静かに照らす中を、足音を鳴らしてゆっくりと歩いた。

 月は細く、空は晴れていた。森の位置が黒く強調されて、夜の空が青いことを教えてくれる。暗闇は苦手だが、前を歩く弘人の背が頼もしく見えた。少しだけ昔の記憶が蘇って芙美は彼の右手に触れたいと思ったが、駄目だよと自分に言い聞かせ、伸ばしかけた掌を引いた。

 彼が足を止めたのは、寮から少し離れた場所にある広場だった。遊具のない公園で、夕方になると体育系の部活動がよく使っている。

「ここならいいかな」

 くるりと振り返った弘人と目が合って、芙美は頷くままに視線を落とす。

「うん、大丈夫。えと、か、薫はいないんだね」

「あぁ。言ってないよ」

「こんなトコで二人で会ってたら、薫に悪いよ」

 今の自分と弘人は仲間で友人なのだ。人気のない夜の公園で二人きりになることは、薫に対して心が痛むのに、言葉とは裏腹にこの状況を嬉しいと思ってしまう。

「そうだね。でも、やましいことしてるワケじゃないし。ただ、町子と二人で話したかっただけだから。何? 期待してた?」

「そんなんじゃないよ」

 本心を突かれると、強く否定してしまう。からからと笑う弘人の顔をこっそり見上げ、再び地面に顔を落とす。

「変わんないな、お前は。見た目は違うのに、中身は町子と全然変わらない。いつも一生懸命で、俺のことが好きで、そして――戦うことが大好きなんだな」

 穏やかな彼の言葉は嘘ではなかった。ただ、肯定することができずに、芙美は短く息をのんで顔を起こした。細められた弘人の目に失望の色が見える。

 彼はこんな表情をする人だっただろうか。

「戦うことが大好きなわけじゃないよ。ただ、自分一人戦わないでいるのは辛いの。町子だった記憶はあるのに、見てるだけで守ってもらうのが嫌なんだよ」

「杖さえなければ力は戻らないんだろう? 魔翔が自分に対して沸くこともない。戦わなくていい選択ができるのに、どうしてお前は危険な方を選ぶんだよ」

 どんどん口調が荒ぶって、弘人は仁王立ちで両腕を組んだ。

「戦うってことは、死ぬかもしれないことなんだ。お前はそうやってまた自分の正義のために、残された奴の気持ちも考えずに死ぬのか。俺はお前にもう死んでほしくないんだよ」

 込み上げる衝動を払うように、弘人はきつく目を閉じた。暗くてはっきりは見えないが、彼はおそらく泣いている。

「それは、考えてないわけじゃないよ」

 使命感で正義を選択して、死んで、今に至る――彼の言葉は正論だ。

「でも、ごめんなさい――」

 謝っても謝り切れない。こんなに時間が経ってから芙美が戻ってきても、当時の弘人や夏樹の気持ちには何の解決にもならない。けれど、こんなに批判されてもまだ杖を取り戻したい気持ちに揺らぎはないのだ。頭を下げて謝ることで、弘人の気持ちが紛れればと思ってしまうのは、いけないことなのだろうか。

「うわぁぁあああ」

 突然の弘人の叫び声に、深く曲げた腰を慌てて起こす。異様な状況が広がる様は、すぐに感じ取ることができた。

 奴の気配のすぐ後にキンと鳴る耳鳴り。

 恐怖に戦く弘人の視線が芙美の背後に固定される。

「何で、出てくんだよ」と呟かれた弘人の声。

 魔翔が現れるかもしれないということを、芙美は予測していた。魔法使いの弘人と一緒にいるのだから、不思議なことではない。しかし、彼はその状況に慌てていた。

 けれど、それはいつも見る魔翔の登場シーンとは違っていた。

 弘人の視線を追って振り返る。魔翔は少し離れた場所にいた。咲の所で沸いたのと同じ、黒い狼だ。普段なら、魔法使い目掛けて襲ってくる筈なのに、「奴」はこちらを向いていないどころか、道路の方向へと歩み出した。戦闘になると予測して芙美は身構えたが、それが起きる様子はなく、弘人もまた杖に手を掛けることもなく魔翔を直視したまま体を震わせていた。拒絶さえ思わせるその態度と魔翔の動きが芙美には不自然に見えてたまらない。

「戦わないの――?」

「あ……あ」

 弘人は言葉にならない声を出して、自分の前髪をぐしゃりと掴んだ。うつろな瞳がぼんやりと魔翔を捕らえている。

「大丈夫? 弘人?」

 彼は魔翔から身を庇うように地面にうずくまり、その場にしゃがみ込んで取り乱しながら両手で頭を覆った。

 彼は、こんな人だっただろうか。

 魔翔に遭遇すれば、我先に飛び掛かって戦いを挑んでいた気がするのに。この疲弊した表情は別人ではないのだろうかとさえ疑ってしまう。

 そして。魔翔の姿を追って芙美が視線を投げた瞬間、黒い四肢が地面を蹴って芙美たちとは逆の方向へ飛び出し、同時に褐色の光が魔翔の胴を背後へと貫いた。

 遠い記憶にある光だ。一発の攻撃で魔翔を地面へ降伏させる力は、昔より大分威力を増しているが、その色は変わらない。闇からそっと現れた姿に、芙美は胸がチクリと痛んだ。

「薫」

 右手に握った杖をしまい、伊勢薫は呆れたような表情でため息を漏らした。


「戦わない方がいいよ、町子」

 弘人と二人で居たことを咎められる覚悟をしたが、薫の言葉は予想と少し違っていた。

「弘人を想って戻ってきた気持ちはわかるけど、彼はもう昔とは違うのよ」

 しゃがみ込んだままの弘人に「もう居ないわよ」と頭を撫でる姿は、小さい子供を宥める母親のようだ。弘人は荒い呼吸を繰り返し、顔を伏せたまま肩を震わせている。

「大丈夫なの?」

「発作みたいなものよ。少しすれば落ち着くわ。魔翔に会うとこんな感じ。ここは類が居るんだもの魔翔が居てもおかしくないでしょ……油断したわね」

「類、って。弘人がいても魔翔は沸くでしょ? 弘人はいつもこうなの? 戦えないの?」

「戦えないわけではないんだろうけど、立ち向かう気力を失ってしまったのよ」

 かつて戦いに喜々していた弘人がとても小さく見えた。

「そんな……説明してくれる?」

 彼のことを知りたいと思うのに、薫は怒りを抑えるように芙美をきつく睨んだ。堂々としていて強くて美人で、髪型すら昔のまま。ただ、昔町子のいた弘人の横のポジションに今は彼女が居る。全ての事情を把握して。彼女にとって自分の存在は邪魔なのだろうか――その逆は? と芙美は自分に問い掛けて、答えを出す前に首を横に振った。

薫はやがて細い息を吐き出すと、

「貴女のせいよ」

 きっと、それが彼女のすべての気持ちを集約した言葉だったのだろう。

「人間はね、自分に近い人が死ぬと死への恐怖が増すのよ。町子が死んでから、彼がどれだけ苦しんだか分かる?」

 ――「町子と類が死んで、私たちにも色々あったんだよ」

 咲の言葉が蘇る。その『色々』に触れてはいけないのだろうか。薫は怒りを通り越して、哀しい目をしていた。

「死んでしまったことを責めたりはしない。けど、生まれ変わってまで戦おうなんて思わないで。そっとしておいてよ。貴女が敵にやられる姿を弘人に見せないで」

 弘人にも同じことを言われたのに黙って引こうと思わないのは、きっと修司の存在があるからだ。彼も生まれ変わって、戦っている。自分の目標がそこである気がした。

「私には記憶があるの。芙美だけで生きるなんてできないよ」

「町子……そんなに頑固にならないで。記憶があったって、力を戻さなければ魔翔に怯えることもなく人並みの生活ができてたんでしょう? それでいいじゃないの。貴女が戦いを選んでしまったら、きっと……」

「きっと……? 何?」

 言葉をためらう薫の背後から、小さくメロディが鳴りだした。建物の中で鳴っているはずなのに、あまりにも静かな夜のせいで、遠くまで響いていた。懐かしい声が奏でる甘いラブソングは、消灯十分前――見回りの時間がやってくる。もう、帰らねばならなかった。メグは大丈夫だと言ってくれたが、迷惑をかけるのは目に見えている。

「戻りなさい」と薫が寮へと促すが、芙美は「でも」と躊躇して、「最後まで聞きたいの」と懇願した。

 「全く、町子と変わらないんだから」と薫は諦めたように口を開く。事情を把握したうえで気遣ってくれているのか、幾分早口だ。

「貴女が戦うことを選んだら、きっと――町子が類と戦ったように、私は貴女と戦わなきゃいけないかもしれないってことよ」

「えっ?」

「もう、時間よ、行きなさい」

 言葉の意味が分からなかった。けれど返事をもらう余裕はなかった。ただその言葉を脳裏に焼き付けて、寮へと足を向ける。蹲ったままの弘人の横で「またね」と言った薫の笑顔に、芙美は何も返すことができないまま背を向けた。


 消灯を告げるラブソングが最後のサビに入る直前に芙美は寮の裏口にまで来ることができた。一階は既に照明が消されていて、真っ黒い闇の中に緑色の非常灯が光っている。

 硝子扉の鍵を開けたまま出てきたはずなのに、ノブに手を掛けると固く施錠されていた。

 仕方ないとポケットに入れてきたスマートフォンを取り出す。ここを突破する方法と言えば、ミナに見つかる前に中から誰かに開けてもらうしかない。こんな時間にここにくる生徒などいないので、メグに頼るしかなかった。

 ミナが一部屋一部屋を回る消灯前の点呼だが、幸運にも芙美の部屋は開始から五分後くらいの順番だ。すぐにメグに来てもらうことができれば、まだまだ余裕――と焦ることもなくスマートフォンを起動させたとき、硝子の奥に人気を感じた。

「ひゃあっ」

 触れ合った視線に思わず出た声が大きくなって、芙美は慌てて口を塞ぎ、その相手に肩をすくめた。これは待ち構えられていたシチュエーションなのだと断念して項垂れるが、Tシャツに膝丈のルームウエア姿の修司は「バーカ」と唇を動かしただけで、すんなりと扉を開けてくれた。

 彼の忠告を聞かずに弘人の所へ行ったことも、全部ばれている。後ろめたさから芙美はすぐに入ることができなかったが、

「早くしないとミナが来るぞ」

 ほらと急かされて、反射的に中に飛び込んだ。

「あ、ありがと」

「とりあえず、一緒にお前の部屋行くからな」

 突拍子もない言葉。女子の部屋がある三階は男子タブーだ。細かい規則の中で先輩たちが試行錯誤を繰り返している噂は聞くが、自分がそれをしようなんて思ってもいなかった。

 そんな胸中を気にとめることもなくスタスタと階段を上る修司の背中に、芙美は精一杯音を殺して叫ぶ。

「駄目だよ。消灯だよ? 部屋にはメグもいるし」

 ちょうど消灯のメロディが止んで、修司が足を止める。肩越しに振り返り、

「森田さん、俺の部屋にいるから」

 あぁそうなのかと察した後に、メグと祐が一緒にいるシーンがじわじわと頭の中にあるスクリーンに沸いてきて、事の事態に頬を赤らめる。しかし、ふと妄想を遮るように現れた、恐怖に満ちた弘人の表情に頭が冷静になっていく。

 修司に話すことと、聞きたいことが次から次へと沸いてくる。足音を忍ばせながら後を追い、ミナに見つかることなく部屋の中に滑り込むことができた。照明は点いたままだったが、彼の言った通り中にメグの姿はなく、読みかけの恋愛小説はわずかの未読ページを残して机の上に行儀よく残されている。

 バタリと扉が閉まる音に緊張が走る。今まで何度か二人きりになったことはあるのに、自分の部屋だというだけで息が詰まりそうになった。

「ね、ねぇ……修司?」

 話をせねばと切り出すと、修司はメグの掛布団をバサリとはいで枕を二人分中へ仕込み、小柄なメグが中に潜っているように見えなくもない状況を作り上げた。そして何の躊躇いもなくクローゼットを開き、中へと入って扉を閉めてしまう。

「とりあえず、森田さんは寝てるってことにしといて」

 彼の提案は功を奏した。古典的な嘘なのに、ミナは深く問いただすこともなく「あなたもゆっくり休んでね」とだけ告げて次の部屋へと移動してしまったのだ。

「こんなに簡単なの?」

 拍子抜けしてしまって、芙美はぺたりとベッドの上に腰を下ろした。早々にクローゼットから出てくる修司。

「そりゃ責任あるから、門限は厳しくなるよ。でも中のことは、あからさまなのは注意するけど、それ以外は大目に見てくれるんじゃないのか」

 修司は机の椅子を芙美の前まで引いてきて座ると、のけ反るように腕を組んだ。

「それで、お前は弘人と門限ギリギリまで外で何やってんだよ」

 やはり気付かれていた。弘人に気を付けろと言った修司。色々話したい事はあるのに、先に「ごめんなさい」という言葉が口から洩れる。しかし修司は眉をひそめ、

「ごめんじゃないだろ。忠告してやったのに。そうやって一人でほいほいついて行って、町子は死んだんじゃないのか?」

「ホイホイって、ゴキブリみたいに言わないで。それに気を付けろだけじゃわかんないよ」

「もう少し警戒心をもった方がいいってことだよ」

「仲間なのに? 弘人は仲間なんだよ? それなのに疑って見ろっていうの?」

「アイツは――いや。アイツにどこまで聞いた?」

 覗き込むように首を曲げて、修司は腕を組みかえる。

 芙美は唇をきゅっと結んだ。思い出そうとするだけで、息が詰まりそうになる。

「何も聞いてないよ。ただ、薫が来たの。薫には私が杖を手にして魔法を使えるようになったら、敵になるかもしれない、って言われた」

「薫も承知済み――か。やっぱりな」

「一人で納得しないで。みんなそうやって曖昧にしか答えてくれない。全然わかんないよ」

 ぴょんとベッドを飛び降りて、芙美は修司に詰め寄った。椅子に座った彼の視線を逆に見下ろして訴える。

 修司は腕を解いて「説明してやるよ」と頷いた。

「あとね、魔翔が出たのにヤツは弘人を狙わないの。なんで? 弘人も戦おうとしないどころか、怯えてた。薫が一人で倒したんだよ」

 興奮する芙美の言葉を遮るように、弘人は「わかった」と立ち上がった。少しだけ間を置いて、神妙な面持ちで肩の力を抜く。

「アイツは類と同じことをした――魔翔と取引したんだ」

「取引? 取引って、類もしたの? 昔――」

 そんな話聞いたこともないが、首を傾げる芙美に修司は「そうだ」と答える。

「声が聞こえるんだよ、人間の言葉で。魔法使いは意識が弱まると、魔翔の声が聞こえる」

「声? 言葉? キィキィってのじゃなくて?」

「あぁ。俺たちと同じ言葉だ。お前が聞こえてないなら一安心かな。でも、聞こえたら教えて欲しい。あいつ等は、言葉巧みに取り込もうとしてくる」

「魔翔が話す人間の言葉なんて聞いたことないよ。あのダムの時だって……」

「それは町子が最後まで戦う意思を持ってたからだ。あいつ等は類が力を放棄したいと言ったように、心の弱さに付け込んでくる。そして魔翔は魔法使いの力を食うけど、あいつ等の本当の目的は、俺たちじゃない――大魔女の力なんだよ」

「大魔女?」

 ――「ダムに行ったあの日、お前は大魔女を見たのか?」

 確かに弘人は生まれ変わって最初に会った時から、大魔女を気にしていた。けれど、町子が死んだあの日から今に至って、誰も彼女に会えていないのも事実だ。

「大魔女を探し出すことを条件に、魔翔は取引した魔法使いを攻撃しない。類もそうだったろ?」

 言われて背筋がゾッとした。そうだ――あの日も同じだった。雪の中で類と戦ったあの日、沸いた魔翔も町子だけを狙ってきた。芙美は両手で自分の肩を抱いて、こくりと頷く。

「魔翔は取引した相手が弱みを見せると、意識すら支配して乗っ取ろうとしてくる。類はそうして、魔翔に……」

「修司!」と芙美は彼の言葉を遮った。聞きたくない言葉が続くことを予感した。

「魔翔と取引って。今もそんなことしてるの?」

「俺は戦ってるだろ? もう迷わないって決めたから。弱みを見せない、強くなるって決めたから。だから、魔翔の声も聞こえない」

 肝試しの時、彼は強かった。

「……だよね。じゃあ、弘人は? 薫も知ってるって。でも、薫は戦ってたよ。私が魔法使いに戻ったら、二人と戦わなきゃいけないの?」

「おそらく取引してるのは弘人だけだろ。薫は類と戦った時の町子を懸念してそう言ってるんだと思う。大魔女は遅かれ早かれきっと現れる。あいつ等が大魔女を殺すっていうなら、お前はそれを阻止するだろ?」

「世界に、災いが起きるから」

「あぁ。俺だって同じだ。大魔女が死んでも、ハッピーエンドになんてならない。彼女に力を与えられた時からそれを刷り込まれているはずなのに、魔翔と取引すると奴等に意識を持っていかれる。それで――大魔女を探そうとして、俺はお前を」

「もう謝らないで。私だって類と戦った時、本気だったんだよ? お互い前を向こうよ」

 組んだ両手を額に当て、項垂れる修司の肩にそっと触れた。あの日の戦いが本心でないなら、なおさら彼を責める言葉などない。

「弘人はずっとあのままなの? 取引をやめることはできないの?」

「やめる意思があればやめることはできるかもしれないけど、魔翔と薫に守られて十年以上も戦ってないやつが、戦えるはずない。どっちみち殺される」

「このまま大魔女が現れなかったら? 私が魔法使いに戻っても、彼女が出てこなかったら戦わずにいられるんじゃないの?」

「どうかな。俺たちが強くなって、魔翔も強くなった。戦闘も昔みたいな魔法使いごっこじゃない。あの人は今の事態を放っておくような人じゃなかった気がするんだ」

 魔法使いになった頃、戦闘は本当に楽しかった。フワフワ浮く小さな敵が相手だった。それが少しずつ大きくなり、今では自分と変わらない体躯の魔翔が現れることさえある。

 初めて魔翔が出たとき、大魔女が戦闘を手解きしてくれた。丁寧な説明で一気に術を身に着けた自分たちは、まるでヒーローになったかのように喜んだことを覚えている。

「お前は本当に弘人と戦えるか? 今ならまだ引き返せるかもしれないんだぞ?」

 芙美は修司の肩から手を引いて、自分の胸の前で小さく結んだ。

 杖を得ることで弘人と戦うことになる。けれど、自分が決めた覚悟はそんなことの為ではなく、魔法使いとして魔翔を退治するという弘人や薫が懸念した通りの正義感からだ。

(私は――今も弘人が好きだと思う。けど――)

「私に何かを守る力があるなら、全力でそれを受け入れたいよ」

 真剣に答えたのに、何故か修司はクスリと音を立てて笑った。

「本当、一回死んだくらいじゃ、町子と全然変わらないんだな」

 気が緩んで、芙美もつられて目を細める。修司は「わかった」と芙美の頭に手を乗せた。

「お前が二人と戦うことになっても、俺はお前の横にいる。町子の分も守るから」

 彼の手が温かい。いつも冷たいその表情すら温かく感じる。

「だから、安心して名古屋行って来い」

「修司……うん――ありがとう」

 そう答えて、芙美は大きく頷いたが、下に向けた顔を起こすことができなかった。笑顔で返事した筈なのに、何故か大粒の涙が流れたからだ。

 魔翔に怯える弘人の姿がしきりに芙美へ主張してくる。彼をあんな風にさせたのはお前だと。それなのに戦うのか? と聞いてくる。

 けれど、魔法使いを選ばずに、もう関係ないのだと背を向けたら後悔する自信がある。

「私、絶対魔法使いに戻るから」

 両手いっぱいで涙を拭う。修司は「待ってる」と言ってくれる。彼がいるから、前を向くことができる。その感謝を込めて、芙美は修司にもう一度「ありがとう」と伝えた。


 週末、一泊分だけの着替えを詰めた小さなバッグを手に、芙美は雨の中寮を発った。

 出掛けに見送ってくれたメグが、読み終わったらしい恋愛小説の結末を教えてくれた。

 死によって引き裂かれた、恋人同士の行く末。

「やっぱりダメだったの。二人はそれぞれ別の道を選んだんだ。でも、他にちゃんと恋人ができたから、ハッピーエンドなのかな」

 あぁ、やっぱりそうなのかな、と芙美は思った。

 自分に少しだけ当てはめて未来を予想した時、隣に弘人がいなかったからだ。


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