ビタ銭、一枚

DA☆

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 精霊せいれい、という存在が、その世界にはうようよいる。


 その存在理由、あるいは行動原則について……いかにして、何のために精霊が生まれてきたかについては、都でも田舎でも魔法学者どもが頭をぶっつけあっていることだが、それがはたして学ぶに値するものかはさだかでない。


 精霊は、通常は自然物、たとえば木や泉から、うろうろい出てにじみ出て、人間の前に姿を現す。見かけは半透明のおさな子の姿で、それぞれに固有の色彩で、濃く淡く光を放っている場合が多い。意志や思考はあり、魔法が使える程度の知性も持っている。だが知性があるからといって、人間にとって益や害をもたらす存在ではない。


 ほとんどの精霊は、ただ無邪気に人間に視線を向けるだけで、何をするでもないのだ。せいぜい、魔法で人間をからかって笑う者がまれにみられるくらいで、命を救われたとかいう美談はさっぱり聞かない。


 だから、庶民の間では、「精霊は役に立たない」という意見が大勢を占めている。精霊に出会っても無視を決め込む、あるいはしっしっと追い払うのが普通だ。とても崇拝の対象になるどころではない。


 それが超自然的であり、反物理的であり、理論上は決して存在しえないものであったとしても、どこにでもいるうえ、なんら腹の足しにならない彼らに、人々はほとんど注意を払わなかった。……どこに行っても、精霊はそんな、蹴っ飛ばされる石ころのような存在だった。


 だが、その町だけは違った。


 職人が集まって栄えるその町でだけは、不思議なことに、精霊は人工物に宿るのだ。たとえば仕立て屋のはさみに。陶芸家の窯に。八百屋のどんぶり前掛けに。持ち主が思い入れを込め、あるいは縁起を担ぎ、長く長く使い続け、使い古されたものにだけ、精霊は宿る。しかも、一年に一度、冬の盛りの、決まった一夜にしか姿を現さない。


 むろん精霊だから、何をするわけではない。現れてもにこにこと笑っているのがせいぜいだ。しかし、大切にしてもらっていることがわかるのだろう、怒ったり悲しんでいることはまずない。必ず笑ってくれる。


 存在は役に立たなくても、そんな笑顔を人々はあがめた。


 しかして年に一度の精霊が現れる夜、その町はお祭り騒ぎとなる。


 前日から、精霊が出てきそうな品を洗い、磨き、繕って、きらびやかに飾りつけ、ごちそうで囲む。「精霊をお迎えする」と表現されるそういった一連の行事が、多くの商家や工房で、親類縁者を集めて行われるのだ。つまりは人間の方が、精霊のごきげんな表情をさかなに、おおいに飲んで騒ぐという祭り。それが証拠に精霊は、ものに触ったり持ち上げたりすることはできるが、食事はしない。ごちそうをそなえたところで、収まる場所は人間の腹の中というわけだ。


 精霊は、夜が明けると、彼らが宿る「もの」の中に帰ってゆく。そうして精霊迎えの祭りは終わるが、人間は酔いつぶれていたり後始末したりと、翌日は何の仕事も手につかないのがふつうだ。年に一度の祭りはそうして、一夜のうちに、まるで夢野で遊ぶように終わってしまうのだ。




 ……だが、そんなことはどうだっていいのである。


 魔法学者が悩もうが向かいの鍛冶屋がどんな準備をしていようが、彼にとってはどうでもいいのである。


 祭りの夜、町の片隅の三文長屋。とある男が、毛布を一枚ひっかぶり、火の気のないかまどの前で、おきにあたっているつもりでがたがた震えながら、うーんとうなっていた。

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