第十章 黒と白 2

 私はグラウンドのフェンスをよじ登り、フェンスの基礎となっているコンクリート部に降り立つ。私のすぐ前には、黒い海が静かに広がっていた。波一つ立たないその水面は、ひどくつまらないものだ。

 この海の中に、黒曜がいる。私はそう信じていた。証拠はあまりないけれど。

 恐れることはない、何度も経験しているのだから。そう自分に言い聞かせるも、いざそれを目の前にすると、少し足が竦む。

 飛び込めば、二度とは帰って来られないだろう。不可逆の事象に対する恐怖が、私の中には確実に存在していた。

 そんな恐怖は、きっと取るに足らないものだ。私が本当に大事なものを、思い出す。

 少しウェーブがかかった、烏の濡れ羽色の髪。澄んだ漆黒の瞳。透き通るように白い肌と、そこに浮かぶ真紅の口唇。私と同性にしては、少し低めの綺麗な声。

 私に何度も見せてくれたその笑顔。あなたと過ごした日々の記憶。

 それらを思い出し、覚悟を決める。

 あなたをそこから救い出すことは、おそらくできない。救い出したとしても、この終焉からは逃れられない。

 そして、あなたを孤独にしたまま、残る日々を生きるということも、私にはできないのだ。

 私が生きたいと望んだのは、単なる生への渇望ではない。

 私が望んだものは、ただ一つ。

 黒曜、あなたと共に生きる日々だ。

 とんっ、という軽い足音が響く。瞬間、私の体は重力を振り切り上へ、そして前方へ。

 私の足下には、黒い海が広がっている。もう後戻りはできないのだな、とその黒を見て思う。もっとも、後戻りをする気もないが。

 黒い海に着水する。正式には海ではないので、着水という表現が正しいのかは甚だ怪しいが、まあ良い。

 黒に体が触れた瞬間、私という存在を構成しているものが、溶けていくような感覚を覚える。私とその他全てを分け隔てる境界線が、あやふやになっていく。

 そんな中、私は黒の中をひたすらに潜行していた。黒曜はどこにいるのだろうか、と考え続ける。

 この黒は、全てを溶かし尽くして消してしまう黒だ。黒曜は、いつここに落ちてしまったのだろうか。そして、黒曜は黒曜のまま、まだここにいるのだろうか。そんなことを思うと、焦燥が生まれる。

 早くしろ、と自身を叱咤する。無論、早くしようとして、できるようなものではない。

 深く、深く沈んでいく。その間、私を構成しているありとあらゆるものが、私から剥離していく。今の私は、どんな姿をしているのだろうか。

 いつの間にか触覚は消え失せていた。聴覚も視覚も、この黒の中では働くことができないので、いつの間にか消えていてもわからないだろう。

 でも、そんなことはどうでもいいのであった。

 黒曜。黒曜。黒曜。

 彼女の名前を心中で呼び続ける。私に残された、たった一つの目標。それが彼女だった。

 潜行していく。さらに、私が私でなくなっていく。

 黒曜との日々、その記憶が壊れていく。あの日見た夕日の色が、あやふやになっていく。一緒に飲んだお茶の味や、一緒に観た映画の記憶が崩れていく。

 そんな中、私は思う。私という存在に、君の顔や声、そして姿形の記憶だけは、なんとかして残しておければいいな、と。

 潜行する。

 どれだけ時間が経っただろうか。

 きっと、私はもう私と判別できるような姿をしていないだろう。

 そして、私は私自身のこともよくわからなくなっていた。私の記憶や、習得した知識。全てが分解して溶けていく。

 さらに、しずむ。

 こと葉さえも、わたしはうしないつつあった。じ分がこわれていくなかで、今はなまえをわすれてしまったかの女のことだけをおもう。

 たどりつけるだろうか、というふあんすらも、いまはきえていた。そんなことをかんがえるきのうすら、うしなっていたのだ。

 すべてがわたしのてからこぼれおちつつあるなかで、あのえ顔とこえだけは、いまだにのこっている。

 それをてがかりにして、わたしはもういちど、とねがう。

 もういちど、こくようにあうのだ。

 そうだ、もういちど、あうのだ。

 そのためには、すべてをわたしのかてにしてしまっていい。

 あのまちですら、わたしにしてしまおう。

「ぐ、ぎ、あ、ぅ」

 うめきがもれる。まだたりない。

「う、ぐぅっ、ぎっ、があああああああああああああああああああああああああ!」

 呻きではなく、叫びが響いた。

 私の遥か後方にある町が、崩れ落ちていく音がした。それらのデータを吸収し、私は私を再構成する。新品の口から、咆哮が突いて出る。

 目を見開き、黒を見据える。何も見えない。しかし、無明を見ることはできる。無明の中の、君を見ることはできる。

 耳を澄ます。無音がひたすらに鼓膜を包む。しかし、無音の中にいる君の鼓動は、聞き取ることができる。

 黒曜! 黒曜! 黒曜!

 渇望は叫びとなり、叫びは信念となって私を支える。

 ここに至って私に敗北はなかった。黒曜に逢えず消え去るという敗北。そんな運命は私にとって欠片も関係ない。私には、勝利がついている。もう一度、最期に黒曜と逢ってそして消える。それが私の勝利だった。

 勝利を、何の根拠もなく確信する。その確信が、私を前へと進ませる推進剤となる。

 黒を、無をかき分けて、進んでいく。再び分解が始まる。きっと、あの町は全て消え去ってしまっただろう。

 あの町も、そしてそこに生きているほんの少しの人達も、そしてあの校舎に刻んだ黒曜との思い出も、全てを取り込んで私は私の自己中心的な願いを叶えるのだ。

 そして、私は辿り着く。

 何一つ見えない、何一つ聞こえない。そんな黒。

 だが、そこに彼女がいるのだと感じた。

「……黒曜?」

 そう問いかけてみるも、返事はない。そりゃそうか、と思う。黒曜には体がないのだから。

 どうすればいいのか、としばし思考する。私の能力に、最後の仕事をしてもらうことにしようか。

 私は集中し、念じる。イメージするのは、黒の中に浮かぶ白い球体。私と彼女の聖域。

 そこに、私と彼女を投影する。言葉は音を介さなくていい。直接通じ合えばいい。

「……や、おはよう」

 私はそう言って笑ってみせる。黒曜は、しばらくの間混乱しているようだったが、やがて状況を察して信じられないといった風に目を剥いた。

「え、何してるの?」

 こいつ正気か、という目を黒曜は向けてくる。私はその視線を浴びつつ、黒曜がよくやっているように苦笑した。

「いや、ちょっと黒曜に逢いたかったから」

 少し恥ずかしい言葉が、口を突いて出た。私も黒曜も、複雑な表情を浮かべる。

「……もっと生きていたいって言ったの、白珠じゃないか」

 黒曜のその言葉は、ここは死後の世界にも等しいと、言外に伝えるかのようだった。

「まあ、それはそうなんだけどね」

「どうしてこんなところに来てしまったんだい? ここに来たらもう、何もないのに」

「それは確かにそうなんだけど、あっちにいたところで何もないでしょ」

 あそこには、もう私しかいない。私以外には顔のない人間がそれなりの数いるだろうが、肝心要の人間が欠けているのだ。

 目の前の人間は、それを自覚しているのだろうか。していないだろうなあ、とこの反応で察する。私が心中で抱く黒曜に対する気持ちを、ありのまま伝えてしまえば、黒曜はどんな表情を浮かべるだろうか。

「……何もないかもしれないけど、でも、どうしてこんな場所に」

 黒曜はそう言って、悄然とする。いつもの黒曜らしくない、弱気な言葉と表情だった。

 こんな場所、と黒曜は言う。そもそもここは場所なのだろうか。踏みしめる地面も肺腑を満たす空気もない、全てから隔絶されたところなのに。

 そんなところに、黒曜はその姿形を失って漂っていた。それを想像するだけで、私は我慢ができなくなる。私が一人生き延びていても、黒曜がそうなっていては全く意味がない。そんな生には全くの旨味がない。楽しみもない。

 私の世界は、もう黒曜がいなければ回らないのだ。

「簡単な話だよ。ここに黒曜がいるから、私はやってきた」

「……どうして、そんなことのために、こんな場所まで」

「それも簡単な話だよ? だって私の世界には、黒曜が必要不可欠なんだもの」

 そう言った瞬間、黒曜が目を見開く。刹那、黒曜の動きが止まった。

「……それは、どういう意味、かな?」

「さあ、あんまり深い意味はないかも。ただ、言葉の全てに偽りは無いわ」

 そう言って、手を黒曜に向けて差し出す。

「私の世界は、黒曜がいなければ意味ないの。黒曜は、どうかしら?」

「……君、そんなキャラだったっけ?」

 黒曜がそう疑問を呈して、嬉しそうに苦笑する。

「そんなキャラって?」

「いや、そんな演技がかった言葉を紡いで、颯爽と手を差し出すようなキャラだった?」

 そう尋ねられて、そういえばそうだったかと考える。おそらく、それは違うだろう。ならば、これは誰かの影響に違いない。

「きっと、黒曜の影響ね」

 そう言って笑ってみせる。黒曜は苦笑して私の手を取り、そして優しく両手で包む。

「そうか。……会ってすぐの頃の、色々と初々しい君も、私は可愛いと思ったんだけど」

「それはきっと、黒曜の記憶の中にしかもう存在しないわ。今の私は、ちょっと強くなったの」

 ほんの少し、地面を蹴って前に進む力が強くなったのだろう。かつての私は、黒い海に手を浸す程度しかできなかった。今の私は、黒い海の中で、大切なものを掴み取ることができる。

「……そっか。それは、よかったね」

 黒曜はそう言って私の手を引き寄せ、手の甲に口づけをしてみせる。今度は私の動きが刹那止まる。

「……何してるの?」

 驚きで固まった自分の体をなんとか動かして、質問を投げかける。

「ああ、親愛のキスさ。よく映画とかで、騎士とかがやっているじゃないか」

「……あなた、いつから騎士になったの?」

「なった記憶はないけどね。私がしたかったから、した」

「……何それ」

 私はそう言って、お返しと言わんばかりに黒曜の手を引き寄せて、今度はこちらからキスをした。今の黒曜の掌は、その質量を失い、同時にその体温も失っている。

 しかし、それは柔らかく、そして温かいような気がした。

「わはは、おかえしだ」

 私はいくらか虚勢を張って笑ってみせる。黒曜は「負けず嫌いだなあ」と言って笑った。

 終焉の中、私たちはひと時の逢瀬を楽しむ。黒曜と言葉を交わすごとに、あの世界で刻んだ日々が、鮮やかに蘇った。

 きっと、この時間は永遠ではない。それどころか、終焉はすぐそこにまで迫っている。限りなど、とっくに見えていた。

 私と黒曜は、目前に迫る終わりを感じつつ、互いに互いの存在を確かめ合う。心が通じ合えば、それでもうよかった。

 互いに互いの髪をかき上げ、互いに互いの頬を触る。互いの口唇が接し、そしてそれを離して、少し恥ずかしそうにはにかんでみせる。

 互いに抱きしめては離し、そのたびに愛の言葉を交わす。

 今この瞬間に終わりが来ても、何一つ後悔はなかった。

 そして、これが終わったあとに終わりが来ても、きっと私たちは後悔しない。

 ぱきりと、私たちの聖域がひび割れる音が聞こえる。

 本当の終わりが始まった。

「……これで、最後だね」

 黒曜がぽつりと言う。私は小さく頷き、口を開く。

「そうだね。本当に終わりが来ちゃった。……ねえ黒曜」

「何だい、白珠」

「私たちはきっと消えるわ。あと少しすれば、溶けて消えてしまう」

「……そうだね」

「だから、ここで約束させて」

 私がそう言うと、黒曜は「約束?」と不思議そうな声を出す。

「ええ、約束。いつか私たちが生まれ変わったら、そのときはまた一緒に生きましょう」

「……なるほど、ね。そういうことなら喜んで。……でも、生まれ変わりなんてあるのかい?」

「あるかどうかはわからないけど、今はあるって信じて欲しい」

 そう言って、私は小指を立てて差し出す。黒が、割れ目から球体の中に入り込んで、内部を満たしつつある。

「……そうか、じゃあ信じるよ。……これは水を差したいわけじゃないだけど、私たちは何に生まれ変わるんだろうね?」

 黒曜はそう言って小指を絡めてくる。黒曜の問いに対する答えは、一つしかない。

「何って、それは人間に決まってるじゃない」

「……私たちの星はもうとっくに滅んだのに?」

「全てが全て、決まっている通りに流れるわけじゃないと思うけど」

 少しはぐらかしたような言葉を黒曜に返すと、黒曜はその意味を察しかねたような顔をした。

「よくわからないから説明して」

「水は高いところから低いところに流れるけれど、そうとは限らないってこと。低いところから高いところに水が流れる場合だって、あるかもしれないじゃない」

 そう私は説明するも、黒曜はさらに首を傾げる。

「……さらにわからなくなった」

「未来に生まれ変わるって、決まってるわけじゃないでしょ?」

「……過去に、生まれ変わると?」

「そういうこと。どうせここより未来なんて、しょぼくれてるに決まってるんだから。それだったら、過去に生まれ変わった方がいいじゃない」

 黒曜と過ごした文化祭を思い出す。あの文化祭で観た映画や、スポーツの試合や、演劇や、音楽の演奏。それらが隆盛を極めていた時代は、さぞ楽しいものだろう。

 どうせ生まれ変わるなら、そんな時代が良かった。

「なるほどね、それは確かにそうだ。……もし、過去に生まれ変わったら、絶対に君を探し出すと誓うよ。なんせ、こっちは人を待つのも探すのも慣れているんだから」

「もし、じゃなくて絶対よ。……あと、この期に及んで皮肉っぽいことを言うのはやめなさい」

 私が笑って言うと、黒曜は「バレたか」と言って笑い返してきた。

 終焉が満ちる中、私たちは明るい表情を浮かべる。

 終焉の彼方にある、未来を信じて。

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