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 紡は祖父の事が大好きだった。

 同じく祖父である、神船創一郎しぶね・そういちろうも孫の紡を愛していた。

 長い休みに入れば、紡はいつも両親にねだって祖父母の住む実家へと遊びに行っていたほどだ。

 祖父母は遊びに来た紡をいつでも歓迎してくれた。

「紡、よく来たね」

 そう言って、創一郎は紡の頭を撫でてくれた。節くれだった手だったが、とても暖かかったのを覚えている。

 創一郎も、祖母の弥生やよいも殆ど一日中家にいたので、滞在中、紡は必ず二人のうちのどちらかと一緒にいた。それは、創一郎が物書きを職業としていたことが理由の大半だった。

 物書き、と表現するのは、創一郎が小説やエッセイ、評論などジャンルを問わず文章であればなんでも仕事として書いていたからだ。創一郎から直接聞いた話によれば、友人のラブレターを代筆したことがあるとまで言っていたほどだ。

 そのことについて、父は「売れないから、色んなことを見境なくやっているんだよ」と言っていた。それはネットや文芸書なんかの人物評と照らし合わせても概ね事実だったし、創一郎の文章を実際に読んだ紡自身も、そう思っていた。

 ただ、紡は創一郎の書く文章が好きだった。

 そして、創一郎が仕事をしている姿を見るのが、もっと好きだった。

 創一郎の書斎で祖父の本を読み、インクの匂い嗅ぎながら、祖父の仕事を眺める。それが、何よりの楽しみだった。

 その祖父が亡くなったのは、つい一週間ほど前、高校生になって初めてのゴールデンウィークも終わりに差し掛かった頃だった。

「おじいちゃんが亡くなった」

 その連絡は、遊びに出ていた紡の元に突然やってきた。紡は一緒にいた奏を放り出し、慌てて自宅へ帰った。詠は泣いていて、父はリビングで黙って座っていた。母が説明するには、前触れもなく倒れて、そのまま息を引き取ったとのことだった。後から詳しく調べた結果、心臓を悪くしていたことが分かった。祖母も、両親も、親戚の誰もそのことを知らなかった。

 ゴールデンウィークの残りも、通夜や葬式で慌ただしく過ぎていった。遺産相続に関しては、紡は詳しい話を知らされていなかったが、父以外に兄弟がいなかったことと、祖母がまだ健在であること、極端に価値のあるものがあるわけでないことから、特には急いで行うこともなく、簡単に遺品を欲しい人に渡すといった程度だった。

 紡はそこで、本を貰った。その多くが、創一郎の書いた本だった。実際、既に殆ど読んだ事はあったのだが、祖父と一緒にそのまま眠らせてしまうのはどこか悲しくて、引き取ることを考えたのだった。

 事態が動いたのは――後から考えれば、であるが――創一郎の死から数日経った、五月九日のことであった。

 その日は日曜日で、ゴールデンウィークを明けたばかりだと云うのに、学校は休みだった。周りが「いっそ連休にしてくれればいいのに」とボヤいていたが、紡としては、祖父の死でほぼ休みなく動いていたようなものだったので、ようやくぶりに訪れた休日だった。

 だから、その日はどこにも出かけず、紡は家で身体を休めることにしていた。それに、創一郎の遺品として貰った本も、気持ちの整理と共に読んでおきたい気分だった。

 そんな時、紡にメール便が届けられた。

 差出人は『神船創一郎』。

 その名前を目にした時、紡は一瞬理解ができなかった。だが、その名前を噛み砕き、時間を掛けて咀嚼し終えると、それからは早かった。包装を乱暴に開け、中身を取り出す。中に入っていたのは、一通の手紙と一冊の古びた本だった。

 一も二もなく、紡は手紙を読んだ。そこに記されていたのは、紛れもなく創一郎の字であり、自分へと当てられたものだった。


『紡へ。

 これをお前が読んでいる頃、きっと私はもうこの世にいないのだろう。私は病を抱えていた。だが、誰にも言っていない。もう、治らないと分かっていたからだ。

 私は自らの死期を知っていた。別れの前に言葉を交わすことができないのは残念だが、私はもう、充分に生きた。長く語るのは、やめておこう。

 だから、最後の言葉としてこの本を贈ろうと思う。


 ただし、紡よ。

 この本を読めば、お前の人生は大きく変わるだろう。

 その覚悟が無いのなら読まなくても構わない。

 そうするのであれば、この本は破棄して欲しい。

 そして、決して他人には読ませてはならない。

 これは、きみの為の物語なのだから。


 それでは、愛する紡。

 きみの未来の可能性を、願っています。

「世界の大きさを知りなさい。己の小ささを知りなさい。そして、己が世界を広げることを学びなさい」』


 紡は手紙を読んで、泣いた。

 別れらしい別れもできていなかったのだ。ようやく、紡はここで創一郎の死を実感させられた。何より、最後の一文――祖父がよく口にしていた、その言葉が、紡の胸を打った。

 そして、紡は躊躇なく本を読んだ。

 手紙の言葉を無視したわけではなかった。手紙の内容は、比喩のようなものだと思っていたし、何より、創一郎の残したものを、受け取りたいと考えただけだった。

 本は、手書きの小説だった。

 ページをめくる度に懐かしい、創一郎の書斎で薫った、インクの匂いがした。

 平凡な少年が、悪戦苦闘の末に少女を助ける。そんな、シンプルで、平凡な――紡の大好きな話だった。

 創一郎の優しさと、この本の暖かさを感じて、紡はまた泣いた。


 ――そして、夜が明け。

 五月十日が始まった。


          ◇


「――お兄ぃ? 寝てるの?」

 ノックをしながら入ってきた詠が、伺うように言った。

「って、うわ! どうしたの? お兄ぃ、なんか変だよ」

 眩い朝の光をカーテンで閉ざし、ベッドの上でシーツを握りしめ、紡は固まっていた。

「だ、大丈夫? 目覚ましも鳴りっぱだしさ。……ねぇ、お兄ぃ、本当に様子が変だよ?」

 覗き込みながら、詠が目覚まし時計を止める。部屋に沈黙が訪れた。

「かなちゃん、外で待ってたけど……具合悪いなら、言っておこうか?」

「……ああ」

「……う、うん。じゃあ、私行ってくるね」

 そう言い残して、詠は部屋を出て行った。

 寂静感が部屋と、紡の心を埋めていく。窓の外から漏れ聞こえてくる話し声は、余計にそれを加速させる。

 誰かに縋りたい気分だった。

 この、意味の解らない状況から、助けて欲しかった。

 そう考え続け、ベッドの上から動けないまま、しばらく時間だけが過ぎていった。

 カーテンから差し込んでいた細長い朝陽も、次第にその角度を変えてしまっている。窓の外から聞こえる音も、既に人の話し声はほとんどない。長い間隔をあけて車の音が聞こえる程度になっていた。

 動けない。何もかもが、硬直している。

 呼吸の方法すら分からなくなりそうだった。もう、自分は既に死んでいるのではないのか。いっそその方が楽なのではないか。ふと、そんな事を考えてしまったりもした。

 そしてその思考の迷路は終わらない。

 迷い、途方に暮れて、どこに立っているのか、どこへ向かえばいいのか、そもそも真っ直ぐ立っているのかも分からなくなる。

 りりりり、りりりり。

 そんな思考に冷水をかけたのは、携帯電話から流れる着信音だった。

 ――誰だ。

 疑問がまず脳裏に浮かぶ。候補は幾つかある。だが、そうじゃない可能性もある。

 恐る恐る、携帯電話に手を伸ばす。

 ――詠や奏からであってくれ。

 願望を込めて、ディスプレイを見た。息が止まる。そこに表示されていたのは、知らない番号。

「う、うあ」

 意識とは裏腹に息が漏れる。咄嗟に投げていた携帯電話は、壁にぶつかると鈍い音を立てて転がっていく。

 この電話に出てはいけない。ここにいると知られてはならない。でなければ――

「……でな、ければ……?」

 携帯電話は鳴り続けている。しかし、紡の意識は、カーテンの向こうに向いていた。

 ――違う。

 心が警鐘を鳴らす。

 ――もうこのカーテンの向こうには。

「あ、あ……」

 そして、紡は理解した。


 ――神船君、どうして学校を休んだのかしら」

「そう。いいわ。少し、貴方に聞きたい話があったの」

「貴方、最近誰かから何かを譲り受けたりしたかしら」

「例えば、貴方のお祖父様から、本を貰った、とか」

「沈黙、ね。それは肯定とみていいのかしら」

「まあいいわ。やはり、そのマギアは貴方にいっていたのね」

「もう知っているのでしょうけど、私はそれが必要なの」

「だから――


 聞いていないはずの鎮の言葉を、紡は思い出せる。

 思い出せてしまう。

 ――

 ――

 刹那、大きな音を立てて、窓ガラスが砕け散った。外から吹き込んだ風に、カーテンが大きく翻る。暗い部屋が、陽光に照らされる。

 だから、見えてしまう。

 そこに在ったのは、住宅街の宙に浮く二つの影。

 有栖川鎮と、そこに在るべきではない――引き抜かれた道路標識。

 ばさり、と紡は本を取り落す。

 そして、鎮によって放たれた道路標識が、紡の首を落とした。

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