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 ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。


 煩わしい目覚まし時計の音に、神船紡しぶね・つむぎは目を覚ました。

「……夢?」

 寝ぼけ眼を擦り、枕元の目覚まし時計を止め、見やる。


 『20xx/5/10(Mon) 07:15』


 そこには何の面白味も無い、現実を直視させる数字が並んでいる。いつもの起床時間だ。

 カーテンの隙間からは縦に伸びた朝陽が差し込んできていた。その向こうからは、鳥のさえずりや、朝のあいさつを交わす主婦たちの声が聞こえてくる。

「……はぁ。やっぱり夢、か」

 意識を自主的に覚醒させるよう、そうぼやきながら紡は起き上がる。

 ばさり、と胸元に乗っていた何かが転げて、フローリングの床に落ちた。

「ああ、そうか。そのまま寝ちゃったのか」

 落ちていたのは、古びたハードカバーの本だった。拾い上げて、パラパラとめくる。少しだけ、懐かしいインクの香りがするような気がした。

 最後のシーンをさらりと読んで、ぱたり、と本を閉じる。記憶にあるラストシーンと一致している。どうにか最後まで読み終えることはできていたようだった。本を机の上に置き、紡はそのまま部屋を出た。

 階段を下りていくと、嗅ぎ慣れた朝の匂いがした。ベーコンの少し焦げた香りが、寝起きで空っぽの胃をくすぐる。

 空腹を少しだけ我慢して、紡は洗面所で顔を洗った。冷たい水で三度、顔を流す。まだどこかまどろみから抜け出せていないようだった気持ちが、すうと晴れるような気がした。

「おは、よ……うっ」

 リビングへの扉を開けると同時に、朝にはそぐわない爆発音が鼓膜を叩いた。思わず紡は顔をしかめてしまう。

 とは言え、実際に爆発が起きているわけではない。テレビから流れてきているものだ。

「おい、朝から何見てるんだよ」

 紡はテレビに見入っている妹のよみの背中に声を掛けた。

 テレビには古臭い、時代を感じさせるアニメが映っている。今は戦闘中のシーンのようだ。ぼろぼろになった主人公が、悪役と対峙している。懐かしい、と思ってしまう。

「んー」

 数拍の間を置いて、返ってきたのは生返事。どうにも集中しきっているようで、紡を気に留める様子もない。

 見れば、詠の格好は見るからに中途半端だった。制服は見事に半分だけ袖を通している。スカートはまだ履いておらず、脱ぎ捨てられたパジャマの横に畳まれたまま置いてあった。情けないことにパンツが丸出しだ。横から覗き込むと、口にはトーストの切れ端を加え、カーペットにパンくずを溢している。これで今年中学二年なのだから困ったものだ。

「てい」

 詠の横に置いてあったリモコンを掴み、黙ってチャンネルを変える。

「あーーっ!」

 吼えた。咄嗟に耳を塞ぐが遅かった。先程の爆発音に負けじと劣っていないそれは、鼓膜を越えて脳を直接揺さぶってくる。

「何だよ。叫ぶな。ご近所迷惑だ」

「何で変えるのぉ!? 見てたのぉ! 今いいところだったのにっ!」

「別にいいだろ。どうせ再放送なんだし」

 先程までテレビに齧りついていた詠が、今度は言葉通り紡に齧りつきかねない勢いで迫ってくる。リモコンを咄嗟に背中に隠す。それを目で追い、すぐにでも飛び掛かりかねない姿は、まるで猫じゃらしに操られる猫のようだ。

「そーゆー問題じゃなくって! 何度だって見たくなるの! お兄ぃも昔は好きだったくせに」

「昔は昔だろ。ほら、早く着替えろ。学校に遅れるぞ。あと、こぼしたパンくずはちゃんと掃除しろよ」

「むー。迷子になったらどうするの」

「どこで迷子になるつもりだよ……」

 分かり易く頬を膨らませて不満を表す詠を横目に、紡は食卓に着く。トーストにバターを塗りながら、テレビを見る。画面に映し出されていたのは朝のニュース番組だった。


『――速報が入りました。七時四〇分ごろ、調川つきのかわ市において、スクールバスと乗用車が衝突する事故が発生した模様です。詳しい原因は調査中ですが、余所見をしていた乗用車の運転手が、ハンドル操作を誤り、バスへ衝突してしまったのではないかと思われます。この事故で、スクールバスに乗っていた高校生三名がかすり傷を負うなどの負傷、事故を起こした乗用車の運転手は骨折するなどの怪我を負った様子です』


「わ、これ近所じゃない? 駅前だよね? 怖いなぁ」

 着替えながら詠が言った。実際は、口にパンを加えたままだったので、ほとんどふがふが言っていただけだったのだが、妹と云う付き合いのせいなのか、何となく紡は聞き取ることができていた。

「……嫌だね。こういうの」

 流れてくる映像に、側面がひしゃげたバスとボンネットが浮き上がった乗用車が映し出されている。事故を起こしたスクールバスは紡の通う調川つきのかわ高校ではないようだった。知り合いが巻き込まれているわけでもなく、自分に関わりがあるわけでもなかったが、それでもこうした報道はあまりいい気分ではない。

 事故の報道がそれ以上されることはなく、あっさりと次のニュースに移ると、そのままコーナーを終えた。

「あ、MiRaミラちゃんだ。わー、やっぱり可愛いなぁ」

 次のコーナーに現れたアイドルに、ようやくスカートをちゃんと履いた詠が歓声を上げる。テレビの中では、MiRaというアイドルが、公開したばかりの映画の宣伝を行っていた。

 紡はそのアイドルにあまり見覚えがなかったが、番組の解説で、最近売り出し中なのだと言っており納得する。画面の向こうで映画の魅力を主観的に、溢れんばかりの愛嬌を交えて語るその少女は、確かに可愛らしく、人気が出るのも理解できた。

 紡は再びテレビに齧りつきかけている詠を放置して、一旦リビングを後にした。そして歯を磨き、自分の部屋で制服に着替えると、再びリビングへ戻った。詠は先程と変わらない体勢で番組に夢中になっていた。

「――――?」

 ふと、何かが頭に引っかかった。

「なんだ……?」

 何か忘れていることでもあるのだろうか、そんな事を考えるが、思い当たることはない。

「うーん、まぁいいか」

 どうしようもない。忘れていることなら、きっと後になって思い出すこともあるだろう、と結論を出す。

 しかし、そう自分を納得させようとしたにもかかわらず、紡はどこか拭いきれない違和感を抱えたまま時間を過ごすことになっていた。

「――って、あああっ! やばい、もうこんな時間だよぅ!」

 そんな時、テレビの上部に表示されていた時間を見て、詠が慌てた声を上げる。デジタルの表示はそろそろ八時に差し掛かろうとしていた。紡の通う調川高校は詠の中学より比較的近くにある為、焦る必要はない。

「あうあう、早く出ないとっ!」

 ばたばた、とこれまでのんびりしていたのが嘘のように、詠は急ピッチで身支度を整えると、慌ただしくリビングを飛び出して行った。

「いってきまーすっ!」

 いってらっしゃい、と返す間も無く、玄関の閉まった音が響いてきた。と思いきや、ガチャッと、扉の開く音がそれに続いた。

「お兄ぃ! かなちゃん待ってるよー!」

「ああ、りょーかーい。すぐ行くって言っておいてくれー」

「はーい。それじゃあ、またいってきまーっす!」

 忙しいやつだ、と内心呆れながら、紡は気持ち足早に自分の部屋へ戻った。まだ時間自体には僅かな余裕があるが、人を待たせるとなると別だ。

 既に準備してあった学生鞄を引っ掴む。そこで、机の上に置いたままの本が目に入った。

「……一応、持って行くか」

 誰にともなく紡はそう呟き、鞄に本を詰め込んだ。


          ◇


 玄関を出ると、眩しい太陽の光が紡を出迎えた。

 瞼が鈍く痛み、目を細める。狭められた感覚は、そよぐ風に乗って匂う、微かな花の香りを掴む。少しだけ甘い、懐かしい香り。ツツジだろうか、と何となく紡は思う。

「つむくん、おはよっ」

「おはよう、かなで

 紡は家の前に立っていた少女――深空奏みそら・かなでへと手を軽く掲げて挨拶をする。

 奏は嬉しそうに表情をにへら、と緩めるとぱたぱたと駆け寄ってきた。朝の挨拶だけでどうしてこう犬みたいに喜べるのかと思ったが、屈託のない笑顔を見ていると釣られて嬉しくなってくるので、悪い気持ではなかった。

「いい天気だねっ」

「そうだな。暑いぐらいだよ」

 そんな気兼ねの無い会話を交わしながら、二人は学校に向かって歩き始めた。

 深空奏は紡の幼馴染の少女だ。家も隣。学校も幼稚園からずっと同じで同じクラス。まるで漫画や小説に登場するような、これ以上ない純粋な幼馴染だ。

 そんな関係であるからなのか、紡と奏は毎朝一緒に登校するのが習慣になっていた。基本的には、今日のように奏が紡の家の前で待っている、という風にである。

「ねね、つむくん」

「ん、どうした?」

 ぱたぱた、と小走りで紡の前に出ると、後ろ歩きをしながら奏は両手を広げる。大袈裟なジェスチャーは、奏が何かを伝えたい時にするものだと、紡は分かっていた。尻尾を振っているような仕草だと解釈をしている。

「今日の朝、見た?」

 ただ、ジェスチャーが大きい分、言葉が足りないのが難点である。

「……事故のニュースのことかな? 駅前だったらしいな」

 とりあえず奏がテレビの事を言っているのだろう、と推測して答えてみる。

「違うよー。『スリーミニッツ』のこと! かぁっこよかったよねーっ!」

 今にも回り出しそうな勢いで奏は言う。

 『スリーミニッツ』とは、昔やっていたアニメの事だ。

 普段は普通の少年だが、偶然作り上げてしまった薬を使うことで、三分間だけ超人的な力を手に入れることができる、と云うよくありがちなヒーローもののストーリー。

「そっちかよ。見てないよ、僕は」

 厳密に言えば、妹は見ていた、のだが。

「ええー! 何で!?」

 その妹と同じような反応が返ってきて、紡は笑ってしまう。

「つむくん、好きだったでしょ?」

「そこも詠と同じだ」

「え? 詠ちゃんがどうかしたの?」

 いやなんでもない、と言って紡は奏の横に並んだ。そしてそのまま少しだけ視線を上に、遠い空を見やる。

 五月の空は、気持ちよく、どこまでも続いていそうな澄んだ青空が広がっている。流れる雲は緩やかで、春の落ち着きをまだ残しているようだ。

「それで、いっくんがね、ぼろぼろになるけど、諦めないの。何度でも、立ち向かっていくの。それがものすっごいカッコイイの!」

 『いっくん』は『スリーミニッツ』の主人公である、いつきのことだ。奏は身振り手振りを激しく、今日再放送されていた話がどれほど面白いものかと感想を言っている。

耳に飛び込んでくるその熱い主張は、その一つ一つが紡にも理解できる。それは、嫌と云う程に。

 幼い頃、紡は確かに『スリーミニッツ』が好きだった。

 放送があると知れば今朝の詠のようにテレビに齧りつき、放送が終わればこの奏のように感想を熱く語っていた。ただ、厳密に言えば『スリーミニッツ』だけが好きだったわけではない。『スリーミニッツ』のように、ヒーローが活躍する物語が好きだったのだ。

 ただ、それは物語に登場するヒーローに憧れていた、子供の頃の話だ。

(いつからかな、なれるわけないって思えるようになったのは)

 紡は決して運動神経が優れているわけでも、特別頭が良いわけでも、そして何かしら芸術的なセンスを持っているわけでもなかった。

 成長するにつれて、紡はそんな当たり前の事実を突きつけられ、理解させられていった。

 努力しても届かないものがあるのだと。

 誰にでもできることとできないことがあるのだと。

 物語の中の登場人物と比べるまでもなく、紡は自分が平々凡々な、ヒーローなんかになれない一般人なのだと。

 だからと云って、悲観はしなかった。そんなことは、特別珍しくはない。自分と同じように、特別ヒーローになれない一般人は周りにたくさんいると、同時に分かっていたからだ。

(子供の頃は、あんなに憧れてたのにな)

 隣で興奮する奏を見て、そんな風に心の中で呟く。

「むぅ。つむくん、ちゃんと聞いてる?」

「ああ。聞いてるよ」

 笑って、簡単に答える。

 から、から、と煉瓦畳を叩くローファーの音が妙に大きい。その音は、まるで自分の心の内を叩いているように聞こえた。

 紡の中に子供の頃に抱いていた熱はもうない。だからなのだろう。奏の話は、聞こえてはいても、からっぽの心を通り過ぎていくだけでしかない。

 紡はしばらくの間、ただ、適当な相槌を打つことしかできなかった。



 ――――ッ」

 刹那。ぴり、と電流が紡の体を走った。

 それは、今朝覚えたものと同じ――いや、それ以上に明確な違和感。

(……なんだ、これ)

 思考を全速で働かせる。それでも、謎の違和感はその尻尾すら掴ませてくれない。

(何なんだ……? 何かが引っかかる。奏との会話か? 『スリーミニッツ』のこと……いや、違う、気がする。もっと、分かりやすい、もののような……。ダメだ。分からない……。僕は、何かを忘れている……?)

 そう考えているうちに、紡たちは学校に到着していた。



          ◇


 紡たちの通う、私立調川高校は小高い丘の上にある。

 その歴史は古く、時代を遡れば江戸時代まで辿り着くらしい。それを如実に表すのが校舎である。

 その外見を一言で形容するなら、魔女の館、とするのが適切であった。

 カトリックの流れを汲む為か、まるで西洋のお伽話に出てきそうな瀟洒な洋館めいた造りに、丘の壁面から伸びた蔦が絡んでいる様子は、現代の街にあってどこか異世界じみた空気を作り出している。

 とはいえ、学校の中に入ってしまえば、それも別だ。都会から離れた街で、私立高校としては偏差値もそう高くないこともあり、学生たちの姿は他の一般高校生と対して変わりはない。

 紡自身も、調川高校を選んだのに、そう理由があるわけではなかった。単に、私立高校ではあったが自宅から比較的通いやすいという程度のものだった。

 教室はいつも通りの賑やかさで満ちていた。

 奏と別れて、自分の席に着く。そこでふと、紡の視界に有栖川鎮が入った。鎮は窓側の席で、黙って本を読んでいた。

 有栖川鎮はいつも、誰よりも早くに来て一人本を読んでいる。そうして本を読んでいる鎮の周囲には、全くと言っていいほど人が寄り付いていない。それには、いくつか理由があった。

 まず、鎮の家――有栖川家は紡の住む町の内外を区別せず、有名であった。

 その一つが、有栖川家はこの私立調川高校の理事の一人に名を連ねていることだ。また、その中でも強い発言力を持ち、実質的な運営を行っている。調川高校と言えば、有栖川家である、と言って差し支えない程に。

 次に、有栖川家は長い歴史を持っている。それを体現するのが、こうして、本を読む鎮の彼方、山向かいに見える有栖川家の屋敷だ。高校と同じような、江戸時代や明治初期に伝わった西洋建築でこそあるが、一見して窺えるその趣の深さと壮大さはこの校舎の比ではない。

 そして最後が、その有栖川家の敷地が広大であることだ。簡単に言ってしまえば、この紡のいる教室から見える、向かいの山は全て有栖川の所有する土地なのだ。屋敷の敷地以外にも山に所狭しと立ち並ぶあの民家も、有栖川の土地を借りて住んでいるに過ぎないのである。

 それらに加え、単純な理由として、有栖川鎮と云う少女は美しかった。

 長い黒髪は墨を流したかのように淀みなくまとまっていて、その西洋人形を思わせるくっきりした目鼻立ちにこれ以上なく噛み合っている。見慣れて一様化してしまった制服も、鎮が着ていれば、まるで彼女のために誂えられたものを皆が着ているのではないかと思ってしまうほど似合っている。

 そのように、典型的とも言えるお嬢様である彼女がこうして一人ぽつりと読書に耽っているいる光景は、切り取ってしまえば、一つの絵画になってしまいそうで、決して邪魔などできるはずがなかった。

(あれ、そういえば、今朝の夢で、同じようなことを思ったような――)

 ぴたり、と紡の思考に何かが嵌る。小さいが、それは確かな手応えのように思える。

 紡は糸を手繰り寄せるように、夢のことを思い出す。

 あの夢の中――そう、夕暮れを間近にした屋上で、紡は鎮と向かい合っていた。


『神船君――』


 鎮の澄んだ声が、耳に満ちる水のように、頭の中で反響する。

(でも、どうして)

 今更ながらではあったが、紡はあんな夢を見たこと自体に疑問を抱いた。

 そもそも、神船紡と有栖川鎮の間に特別な接点などはない。

 敢えて挙げるとしても、それはクラスメイトである、と云う一点程度だ。ましてや、先の説明のように有栖川鎮という少女は、近寄り難い雰囲気を持つ相手である。同じクラスメイトであっても、会話すらまともにした覚えがないのが正直なところだった。

(まさか、僕の願望? それにしても、声や仕草が妙にリアルだったような――――え?)

 一瞬、時が止まったかのような錯覚。止まったのは自分の思考だと、紡はそれに気が付くのに数拍の間を必要とした。

(有栖川が、こっちを見ていた……?)

 見間違いか?

 いや、そうじゃない。たったほんの僅かな時間ではあったが、鎮の瞳は、本のページから外され、紡へと向けられていた。

(でも、なんで有栖川が僕を……?)

 脳裏を夢の光景が駆け廻っていく。


『私の初めてを――』


 そんなわけはない。あれは、あくまでも夢だったのだから。

(うん。何もない。ただ、気まぐれにこっちを見ただけだ。朝から感じていることも、きっと気のせいに違いない。色々あったし、疲れてるんだろう)

 紡は鎮から視線を外し、そのまま机に突っ伏した。

 特別なことなんてない。そんなことは分かっているのだと、自分に言い聞かせながら。


          ◇


「――ちょっと、いいかしら」

 紡の思いを打ち破るかのように、鎮が声をかけてきたのは、昼休みも半ばに差し掛かった頃だった。

「……え」

「神船君、少し話があるのだけど」

 周囲のクラスメイトは、雑談やゲーム、昼食など思い思いの休息に興じている。それらの陰になるようにか、鎮は紡にぴたりとくっつくように顔を寄せて、そう囁いた。

「な、なに……?」

 すぅ、と鎮が息を吸う音が耳元で聞こえた。

 心臓の鼓動が早くなる。杭を打たれたように、紡は指一本、目線一つ動かすこともできない。

 鎮は垂れ下がった髪を、右手で柔らかく肩の後ろへ払うと、

「放課後、良いかしら」

 と、短く口にした。

「あ――」

「用事でも?」

「い、いや」

「そう」

 短いやり取りが、教室の喧騒の中で交わされる。

 有栖川鎮の顔や、髪や、唇がすぐ目の前にあるという事実。微かに薫る、石鹸の匂い。澄んだ、張りのある声。現実の直中に在るというのに、却って現実感はない。

(これは、夢――じゃない、よな)

 思考を過ぎるのは、今朝の夢だ。

 ――だから、なのだろうか。

 次に鎮が口にする言葉を、紡は予想することができた。

「なら、放課後に屋上で」

「……」

「無理かしら」

「……大丈夫、だよ」

 戸惑いつつ、返事をする。

「そう」

 鎮は短い、それなのにはっきりと通る声で切って、自分の席へと戻った。

 ほんの一分にも満たない時間である。辺りには喧騒が変わらず満ちており、誰も、こちらに気を向けている様子すらない。

「……なんだろう、一体」

 有栖川鎮は何の話があるのだろうか。

 そして、今朝の夢は何だったのだろうか。

 違和感――いや、既視感になりつつあるその正体は未だ掴めない。

「行けば分かるのかな」

 ぽつりと零した言葉は、妙にまとわりついてくるような気がした。


          ◇


 ぱた、ぱた、と上履きが足音を鳴らす。

 意味もなく、紡は階段の段を数える。

「――八、九、十。十一。十二」

 もう一歩踏み出そうとして、足は空を切った。

「魔の十三階段、ってわけじゃないよな」

 一人何となしに呟いた声は、屋上扉前の踊り場で反響した。

 紡は、そう言えば、と扉を見やる。屋上へは鍵がかかっていて入れなかったはずだ。実際、ドアノブにはしっかりと鍵穴が開けられている。

 しかし、試しにと回してみたドアノブはくるりと引っかかることなく回った。

「有栖川が鍵を借りたのか?」

 扉を押し、開く。古びたステンレスの扉は、きぃ、と軋みをあげて開かれる。すぅ、と風が抜ける感覚がした。鼻孔を暖かな空気の匂いがくすぐる。

 空は少し夕暮れを目前に、昼の蒼さから、ほんの少しだけ朱に染まりつつあった。

「――有栖川」

 向かって正面、屋上の広間のほぼ中央に立っていた鎮が、その声に振り向く。

「神船君、来ないかと思っていたわ」

 肩にかかった髪を、さりげなく流しながら鎮は言う。

「……どうして?」

「いえ、何となくそう思っただけよ」

 風がさらりと流れて、鎮のスカートが棚引いた。

「有栖川、話って」

「そうね」

 ざり、と。砂の散っているモルタルを踏み締め、鎮は一歩、二歩と紡へ近寄ってくる。やけにくっきりとした長い影が、それに追従して大袈裟に動く。

「ねぇ。神船君、最近雰囲気が変わった気がするわ」

 どきり、と心臓が跳ねた。その言葉は、聞き覚えがある。

「…………え」

 驚きを押し殺し、喉から声を絞り出す。だけど、口にしてから気づく。そのリアクションもまた、同じ線の上にある。

「そのままの意味だけれど」

 何でもないように、さらりと有栖川鎮は言うと、誤魔化すようにくすりと笑った。その様子に、思わず紡は見惚れ――ることはできなかった。

 ぞくり、と背中を得体の知れない悪寒が走る。

(どうして。どうして、夢と全く同じことが起きているんだ)

 目の前では、夕暮れの色を受けた、鎮がいる。その姿は、あの夢と違わず美しい。

 だからこそ、紡は恐ろしかった。

 これはきっと偶然ではないからだ。

 紡は世界から途端に音を失っていった。ブラスバンドの練習も、野球部の掛け声も、何もかもが遠い。

「最近、何か変わったことでもあったかしら」

 何かをなぞるように、鎮が台詞を口にする。その音だけが不思議と頭の中に響いてくるようだった。

 紡は言葉を探す。夢では、ここで言葉に詰まってしまった。だが、何を言えばいい? そもそも、同じように、夢をなぞるべきなのだろうか。しかし、進んだ先に何があるのか、それは分からない。

「……え、ええと」

 結局、考えはまとまらず、時間だけが過ぎていく。しばらくして、鎮が口を開いた。

「そう。別に、特にないのならいいの。何もなければ」

 強調するように、鎮が言った。その言葉は記憶にないものだ。レールから外れた、と緊張が僅かに解れるのを感じた。

(きっと、気のせいだ。偶然だって考えよう)

 自身を落ち着かせるように、そう結論を出す。

(……でも、何か、引っかかる)

 しかし、頭の中にはまだ違和感めいた何かが残されているようだった。それは、今日一日を通して何度か経験したもの――いや、それより遙かに明確な形に近い。

(――既視感?)

 紡は思考に残り続けるそれを振り払うように、口を開く。

「……あ、そ、そうだ。この前、じいちゃんが死んだんだ」

 変わったこと、と鎮は尋ねてきた。いつまでも黙っているわけにはいかない。まずはそれに答えなければならない。そう考えれば、それが一番当て嵌まる。

「でも、そのくらい、で――」

 紡は一瞬、呼吸が止まりそうになった。

 鎮の双眸が、はっきりと紡を捉えていたのだ。ただ、じっと。観察するように、無感情で。

「あ、有栖川?」

「そう。ごめんなさい、身内の不幸を聞き出して」

「いや、いいん、だけど……」

 そこまで言って、改めてはっとなる。同時に、血の気がさっと引いた。

 この会話も夢の中で交わしていた。

 完全に忘れてしまっていただけだ。

 そうだ。そして、会話はまだ続く。鎮は、もう一つ聞きたいと、言ってくる。

「差し支えがなければ、もう一つ聞きたいのだけど」

 同じ言葉を鎮が言う。

「な、何を……」

「神船君、貴方はお祖父様から何かもらったりしたかしら。例えば、本とか」

「どうして、それを」

「私、神船君に興味があるの」

「……」

 ごくり、と唾を呑む音がやけに大きく感じた。

 これは全てレールの上で行われていることだ。その確信が、紡にはあった。

「神船君、私はどうしても叶えたいことがあるの」

「え?」

「それを貴方に手伝って欲しいの」

 なら、この結末は何処に向かっているのだろうか。

 泣きそうな、少しだけ潤んだ瞳が紡を捕える。

「私の初めてを、貰ってくれないかしら」

 この言葉の先には、何があるのだろうか。

 刹那。とん。と、胸に軽い衝撃を感じた。

「――え」

 ひゅう、と。押されて喉から息が漏れた。

 無意識に胸へと手を伸ばす。ぬるりとした感触の先に、冷たい何かが、指に触れた。

「え」

 口から何かが零れ、滴って地面に落ちた。そこでようやく、紡は視線を下に向けた。

 赤。夕焼けのそれより、鮮やかな紅が視界を埋める。

 ――血だ。

 胸から生えたように突き立ったナイフから、血が滴っている。

「あ、え……」

 ざり、と後退る。だが、それもままならず、がくり、と膝が笑って尻餅をついた。

 認識が遅れて痛みを生む。傷口を中心に、焼けるような痛みが走る。それは瞬く間に体中へと広がる波だ。そして、それが極を迎えると、あらゆる感覚が急速に世界から何もかもが失われていった。

「げほっ、が、あ、あ、あ」

 嘔吐感が込み上げ、血が吐き出された。コンクリートが鮮やかな赤に染まった。その彩とは真逆に、身体は寒さを訴えている。四肢はもう、動かせない。視界が小さくなる。

 ――ああ、僕は死ぬのか。

 そんなことが、頭を過ぎった。だが、それもすぐに消えてしまう。深い、決して戻ってくることのできない深い深淵へ引きずり込まれるように落ちていく。

「――どう――して」

 暗い。世界が暗闇に堕ちていく。

「ごめんなさい」

 鎮のそんな言葉を最後に、紡の意識はぶつりと途切れた。

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