第4話「青いランドセル」後編

 不老ふろう翔太郎しょうたろうの話を要約すると、以下のようなものだった。

 不老は、萱場かやば先生がいつも通勤に使っている二五〇cc中型バイクで学校を出たのを確認した。

 学校の先生ならば、授業が終わっても、ノートをチェックしたり小テストの採点をしたり教育委員会に提出するための書類を書いたり、何かしらの仕事があり、遅くまで残っているものだ。

 が、今日の萱場先生は、すぐさま職員室からバイクで学校外に出た。

 そのとき、萱場先生を待ち構えているかのように、一台の1000ccクラスの大型バイクが、萱場先生を追い始めたのだ。

 萱場先生を尾行し始めたのは、赤いライダー・スーツの上下を着込んだ人物だった。バイクも赤、もちろんフルフェイス・ヘルメットも赤い。顔までは見ることはできなかったが、明らかに身長百八十センチを超えた、肩幅の広い体格の男だった。

 不老は、ちょうど見事なタイミングで学校の前の道を通りかかったタクシーを拾うことができた。

 そしてあろうことか、この不老というやつは「あのバイクを追って下さい」と言った。

 不老の言葉を聞いたタクシーの運転手さんもまた、よほどのお人好しだったようだ。よくぞランドセルを背負った子どもの言うことを聞いたものだ。もっとも、長身の不老翔太郎は、ランドセルがあってもなくても小学生には見えないけれど。

 不老の追跡も長くは続かなかった。

 十分も進まないうちに、萱場先生のバイクは路肩に停車した。真っ赤な大型バイクに尾行されていることに気づいたのだ。

 赤いバイク大型バイクもまた、停まった。

 不老は2ブロック先までタクシーを走らせ、そこで料金を支払って跳び出した。そのときには、すでに萱場先生はバイクを降り、真っ赤なライダーにつかつかと歩み寄っていた。

 萱場先生は、深紅のライダーの正体を知っていた。フルフェイス・ヘルメットをかぶった深紅のライダーに向かって、萱場先生ははっきりと言った。

「無駄な追いかけっこはもうやめにしない、平針ひらばり君?」

 長身の男は、ゆっくりと真っ赤なフルフェイス・ヘルメットを脱いだ。

 年の頃は三十代半ばから後半か。ほぼ萱場先生と変わらないだろう。

 肩までかかろうかという長い髪は、ややウェイヴがかかっている。よく日焼けして健康そうな肌。目鼻立ちははっきりして、鼻筋がよく通っている。

 以下、不老翔太郎から聴いた話をもとにその場を再現してみよう。


 平針と呼ばれた男はバイクのスタンドを立てると、ゆっくりと大股で萱場先生に近づいた。

「無駄な追いかけっこ? 君が逃げ回っているだけじゃないか、千種ちぐさ

 男は萱場先生を下の名前で呼んだ。

「ずいぶんと馴れ馴れしいのね」

「君と俺との仲じゃないか。さあ千種、逃げるのはやめて、ちゃんと答えてくれ」

 そこで萱場先生は、大きくため息をついた。

「この前言ったとおり、何も答えることなんて、ありません」

「俺は納得のいく説明が必要だ、と言ったはずだぜ」

 言いながら、男はさらに一歩、萱場先生に歩み寄った。

「あなたの勝手な思い込みでしょう? それに――」

「それに、何だい?」

 さらに平針という男は萱場先生に近づいた。萱場先生は、じっと男を見返して、はっきりとした口調で言った。

「変わったわね、平針君」

「君付けなんて、他人行儀だな。君は、何かを恐れているんじゃないのか?」

 一瞬、萱場先生が言葉を飲み込んだ。

「何を?」

 平針という男はそのまま萱場先生の両肩を摑み――


「で、で、で、どうなったの?」

 ぼくが身を乗り出すと、不老はぼくのベッドに深々と腰掛け、もったいぶった口調で答えた。

「大人の男女のこのようなシチュエーションだ。わかるだろう?」

 いや、全然わからない――と言おうとしたとき、さきに不老翔太郎が軽い、あまりにも軽い口調で答えた。

接吻せっぷんしたのさ」

「せ、せ、せっぷん? つまり……つまり、えーと……」

「口づけ、キス、チュー……何とでもご自由に」

 想像できない。ぼくの虹色の脳細胞をどれだけ働かせても、その映像が浮かんでこない。

「で、で、で、二人はどうなったの?」

「はじめて見たね、『ガラスの顎』というものを」

「ガラスの顎?」

 萱場先生は、唇を奪われるや否や、次の瞬間に平針を突き放した。

 そして、一瞬後には平針の顔面を一撃した――拳で。

「見事な正拳せいけんきだったなぁ」

 不老は、心底感嘆した様子で言った。

「動きに無駄がない。人が右手でパンチを繰り出すとき、必ずその寸前に体幹の左側が一瞬、前に出る。上体を捻るんだ。しかし、萱場先生にはその無駄な動きがない。空手というより、何か古武道に近い技だったねえ」

「い、いや、そんなことじゃなくて……殴ったの? 男の人を? 素手で? 萱場先生が?」

「実に興味深いね。なぜ、御器所君は倒置法を好むのか。これは一考の余地があるかもしれない」

「トーチホーって何? 火災報知器の会社? っていうか萱場先生はどうしたの?」

 不老は、日本人には決して真似のできない――真似をしたら恥ずかしい――両肩をすくめる、という動作をやってのけた。

「男が倒れているあいだに、萱場先生はバイクに乗って行ってしまったよ」

 そして不老の見ている前で、平針と呼ばれた男はゆっくりと起き上がった。ふらつきながらバイクに戻りかけると、そこで歩を止めた。そして、言ったのだ。

「なあ、君。ほら、タバコの自販機の陰にいる君のことだよ」

 不老は凍り付いた。

「尾行も覗き見も盗み聞きも、もっと上手にやらないといけないな」

 平針は、顎をさすりさすり言った。

 不老翔太郎は、タバコの自動販売機の陰で固まっていたという――ぜひともその姿を見たかった、とぼくは思う。

「君は探偵気取りのようだが、まだまだ学ぶべきことは多い。おそらく千種……いや、萱場先生からは学べないだろうがね」

 男は肝腎かんじんの不老が隠れている自動販売機に眼もくれず、地面に一枚の紙片を置いた。

「俺の名は平針ひらばり左京さきょう

「僕は不老。不老翔太郎です」

「不老君か。覚えておこう」

 そして深紅のヘルメットをかぶり、大型のバイクにまたがると、爆音を立てて走り去った。


「ほんとうに心底参った……」

 さして参った様子を見せずに不老は言った。

「僕の尾行はすべてお見通しだったんだよ、この平針左京という人物に。端倪たんげいすべからざる人物だ。無論、その男を一撃でK・Oした萱場先生もタダ者ではないがね」

 不老は、ズボンのポケットから一枚の名刺を取り出した。

 ――探偵・興信 平針左京調査事務所

 名刺にはそう明記されていた。

「た、探偵? 本物の?」

「日本には『探偵免許』という国家資格は存在しない。自らが『探偵』と名乗れば、誰だって『探偵』さ」

「でも……どうして萱場先生を探偵が追ってたの?」

「それはわからない。しかし、二人が相手を呼ぶ呼び方から、以前からの知り合い――それもかなり親しい仲だったことがわかるだろう」

 確かに不老の言うとおりだ。

「平針左京っていう男は……萱場先生のストーカーなのかな?」

「そう決めつけるには早計だ。何らかの『調査対象』として萱場先生を追っていたのかもしれない」

「やっぱり、萱場先生が青いランドセルの中に――」

 突然、不老翔太郎は爆笑した。心底から楽しそうに、

「まだそんなことを言っているのかい? 言ったはずだよ、君の『推理』とやらは『妄想』に過ぎない、と。確かに『青いランドセル事件』と、萱場先生が平針左京とやらに追われていることには、相関関係がある」

「だったら――」

 ぼくの言葉はことごとく遮られた。

御器所ごきそ君、僕は『相関関係』があると言っている。一言も『因果関係』があるなんて言っていない。その両者を混同してはいけないよ」

 不老はゆっくりとぼくのベッドに戻り、腰掛けてその長い脚を組んだ。

 悔しいかな、ぼくの虹色の脳細胞は「インガカンケー」だの「ソーカンカンケー」だのを、すぐに漢字変換してくれなかった。

「じゃあ、『青いランドセル事件』は――」

 言いかけたとき、ぼくの携帯電話が鳴り出した。

 ――発信者 キム銀河ウナ

「あ、もしもし、どうしたの?」

 勢い込んで訊ねると、冷ややかな声が帰ってきた。

「ねえ、何かわかった?」

「何かって? 何?」

 電話の向こうで大きなため息が聴こえた。

「まさか御器所君、今までぼけーっとしてたの?」

「い、いや、してないよ。ちゃんと……えーと、推理したよ」

 もっとも、その「推理」は不老翔太郎によって、ほぼ全否定されたのだけど。

「それで、萱場先生はどうだったの?」

「え? 萱場先生? やっぱり、萱場先生が関わってるの?」

 まさか、金銀河もまた、ぼくと同じ結論に達したのだろうか?

「御器所君、あり得ないとは思うけど、萱場先生がランドセルを探った犯人だなんて考えてないでしょうね」

「も、もちろん、そんなこと、ま、まさか……思ってないよ」

 大いに焦る。ぼくの顔に血が集まってくるのがわかる。電話越しの会話でよかった、と心底思った。室内は暑くもないのに、汗をダラダラと流している。

「そこに不老君いるんでしょ」

 これがもしも漫画だったら「ガクッ」とぼくの両肩が落ちる音が描写されるはずだ。

「あ、やっぱり……はい、わかりました……」

 泣きそうな思いで、携帯電話を不老に向かって突き出した。小声で不老にささやいた。

「どうして不老が調査してることを知ってるんだよ?」

 不老は表情ひとつ変えなかった。

「銀河さんに頼みごとをしたからだよ」

「どうやって? 学校を出てすぐに分かれて……それっきりだったじゃないか」

 不老は無言で手を差し出した。

「御器所君はご存じないかもしれないけれどね、この日本には『公衆電話』というたいへんに便利な設備が存在するんだよ。ずいぶんと数は少なくなったけどね」

「でもどうやって電話したの?」

 不老は、わざとらしいため息をついた。

「僕の記憶力がそんなに低く思われていたのなら、たいへんに心外だね。君と銀河さんの携帯電話の番号くらいは覚えているよ」

 返答できない。ぼくは、自分の携帯電話の番号すら忘れてしまう。

 不老はぼくから携帯電話を受け取った。

「もしもし……なるほど、やっぱりそうか。ありがとう、大いに助かったよ」

 不老は、唐突に携帯電話をぼくに放り投げてきた。慌ててキャッチし損なった。それは床にゴツンと激しく落下した。慌てて拾い上げる。

「御器所君、今のは何?」

 電話の向こうから、金銀河の腹立たしげな声。

「いや、あの、ぼくは何もしてないよ……無罪です。不老が携帯を落としたの」

「まったく人の気持ちがわからない馬鹿野郎ね」

 同感だが、金銀河の口から「馬鹿野郎」という単語が出てきたことも驚きだ。

「御器所君、美宇みうちゃんの金庫の話、不老君に伝えた?」

「いや、言ってないけど……」

 ぼくが答えると、金銀河の声は一気に勢いを失い、たどたどしくなった。

「もしも御器所君が訊いてみたいっていうなら……べ、べつに、不老君の意見を訊いてみても、いいんじゃない? いや、わたしはね、べつに不老君の推理なんか、全っ然要らないけど」

「じゃあ、不老には言わないでおくね」

「そう・じゃ・なく・て!」

 金銀河がさらに声を荒げた。

「わたしは自分で考えるけど……もしもの話! もしも万一だよ! 御器所君が不老君の推理を知りたいんだったら、わたしはべつに反対しないって言ってるの!」

「うーん……なんだかよくわからない」

「もういいっ、勝手にしなさい!」

 捨て台詞の残響を残して、電話は切れた。

 ぼくは携帯電話を手にしたまま、床にへたりこんだ。

「意味がわからない……」

 今度こそ、ほんとうに修復不可能なほどに、ぼくと金銀河の関係はバラバラに破壊されてしまった。それもすべて、眼の前の不老翔太郎のせいだ。

 その不老はというと、笑顔で言い放った。

「さて、必要な事実はほぼ得ることができた。帰るとするよ」

「ちょっと待った! 何もわかってないじゃないか。『必要な事実』って何?」

野並のなみさんさ」

「はいぃ?」

 たっぷり二十五秒ほどかかって、ようやく思い出した。野並のなみ響子きょうこは、青いランドセルを持っている女子の一人だ。

「野並さんが……どうなってるの?」

 不老は、わざとらしく肩をすくめた。

銀河うなさんに、僕の代わりに野並さんの通う〈みどり児童合唱団〉に、調査に行ってもらったんだよ」

「調査だったら、ぼくが行ったのに」

御器所ごきそ君には女心というものがわからないからねえ」

 男のおまえに言われたくない、と思いながら、ぼくは訊いた。

「で、野並さんがどうだって?」

「ランドセルを物色された様子はないそうだよ」

 不老は退屈そうに答えた。

 ぼくは、堪忍袋の緒が切れそうだった。ぐっと感情を抑えた。

「結局、何もわかってないじゃないか。『青いランドセル事件』の真相も、萱場先生と平針ナントカって探偵の関係も!」

「確かに後者は、謎のままだ。が、『青いランドセル事件』とやらは、すでに解決している。それじゃ……」

「解決した? ねえ不老、まさか『失敬』って言って、帰る気じゃないだろうね?」

「おっと、珍しく御器所君に先を越されたなあ。ところで銀河さんは、僕に訊きたいことがあるようだね」

 不意を付かれ、ぼくは気勢をそがれてしまった。

「まあ、ぼくも訊きたいっていうか、べつに訊かなくてもいいっていうか……」

「ほほう、新たな事件かい?」

 不老がベッドから身を乗り出した。


 ぼくは、高辻たかつじ美宇みうの金庫の話を不老に伝えた。できる限り省略せず、できる限りぼくの意見を加えず、覚えていることすべてを、不老に告げた。

「なるほど、金庫破りね。実に面白そうじゃないか。僕抜きで楽しみを独占しようなんて、君たちは実に水くさいねえ」

 不老は不意に立ち上がると、両手をこすり合わせながら、動物園のクマのように、部屋をぐるぐると歩き回り始めた。

「4913って、17を三回掛け合わせた立方数だったんだけど、それは――」

「しーっ、黙っててくれたまえ」

 不老はぼくのほうを振り返ろうともせず、落ち着きなく室内をうろつき続けた。が、不意に立ち止まると、ぼくに人差し指をぐいと突き出した。

「御器所君、ひとつ教えてくれたまえ。僕の記憶では、高辻さんの青いランドセルには、二つのキーホルダーというか飾りというか、チャームが付いていたはずだね」

「は? 全然関係ないじゃん」

「イエスかノーかの質問をしているんだが?」

「イエスですよ。付いてたよ、確か」

「まさか君の記憶力では、そのデザインまでは覚えていないだろうね」

「そりゃどうもすみませんね。覚えてないけど、それが何?」

 不老はつかつかとぼくの勉強机に歩み寄ると、そこに置いてあったルーズリーフから勝手に一枚引きちぎり、さらにシャープペンシルを摑み、奇妙な模様をさらさらと描いた。

「こんなマークじゃなかったかい?」

 不老が描いたのは、ただの殴り書きのような二つの記号だった。一つは、ギリシャ文字のΩオメガのような形、もう一つは算数の授業で出てくるml(ミリリットル)に似ているマークだった。

「覚えてないなぁ。金庫の番号とどんな関係があるの? それとも青いランドセルの事件のこと?」

 ぼくはいらいらしながら訊ねたが、不老は片方の眉を上げただけだった。

「それではあらためて、失敬させてもらうよ」

「え……?」

 不老は、手のひらをひらひらさせ、無言で「見送りは無用」とばかりに――しかし、我が家〈御器所組〉の「若い衆」は全員で整列して見送るだろうけど――部屋を出て行った。


 翌朝、教室に入ると、すでに登校していた金銀河が、つかつかとぼくに歩み寄って来た。本来ならば喜ぶべき状況なのだろうけど、昨日が昨日なので、ぼくは身の縮む思いだった。

「ねえ御器所君、いったい不老君は何を企んでいるの?」

「企むって……べつに何も」

 両手を腰に、見下ろされると、ぼくはもう顔を上げることができない。

「不老君、萱場先生の後を追いかけて行ったでしょ。何があったの? 何を見つけたの? さあ白状しなさい」

 ぼくは、一度わざとらしく咳払いをすると、金銀河を見上げた。

「おかしいね。不老は、ぼくには話してくれたよ。学校から出た萱場先生を、バイクで追いかける男がいたんだよ」

 金銀河に対して、珍しく優越感を抱きながら、もったいぶって言った。

「あれ? 聴いてないの、不老から? ふーん、ぼくは聴いたけど」

「わたし、聴いてない……」

 心なしか、金銀河の声が沈んだように聞こえた。ぼくは慌てた。同時に、どういうわけか、罪悪感を覚えた。

「あ、あのね……えーと、不老のやつ、勝手にぼくから五千円盗んだんだよ。まあ、あとでお釣りを返してもらったけど――」

 ぼくは、不老から聴いた「平針左京」と名乗る男についての一部始終を、金銀河に話した。

「……怪しい」

 金銀河がつぶやいた。

「不老のやつ、平針左京に痛いとこ突かれて、ヘコんでるみたいだよ」

「ひどい、御器所君。友だちがヘコんでいるのを喜んでいるみたいじゃない」

 金銀河が、液体窒素並みに冷たい視線をぼくに突き刺した。

「いや、そんな……喜んでるなんて……」

 不意に、背後から声が聞こえた。

「銀河さん、御器所君をいじめちゃいけないな。もっとも、銀河さんの気を引こうと、僕がヘコんでいる、なんてデマを流した御器所君の自業自得でもあるんだけどね」

 ひょうひょうとした様子で教室に入ってきたのは、不老翔太郎だった。ヘコんでいるどころか、逆に自信で膨れ上がっているようだ。

 ――まったくなんてこった。

 机に突っ伏した。

「不老君、その平針とかいう男の人……」

 金銀河が言いかけたときだった。教室の前のドアが開き、萱場先生が入ってきた。

「はい、みんな席に着きなさーい」

 いつもと変わらぬ様子に見えた。とても、男を一発の正拳突きでノックアウトできるような先生には見えない。

 結局、ぼくと金銀河は、不老から何も聞き出すことができなかった。

 そのときだった。チャイムが鳴った。

 またしても萱場先生は、始業時間よりも早く教室に現れたのだ。


 午前中の授業は、いつも通りにつつがなく、問題なく過ぎた。いや、確かに萱場先生は、二時間目の「社会」の時間のチャイムが鳴って五分以上も教室に現れなかったり、三時間目の「算数」では単純なかけ算を間違えたり、四時間目の「国語」では漢字の書き間違いを三度やらかした――まあ、それは、いつも通りの萱場先生といえばいつも通りである。

 やっぱり、平針左京という探偵のせいで、萱場先生は心穏やかではないのだろうか? また今日も、平針左京は萱場先生をバイクで追いかけるのか?

 そんなことを考えているうちに「国語」の時間が終わり、学校でもっとも幸福なとき、つまり給食の時間になった。


「昨日、考えてみたんだよ」

 給食を食べ終わった昼休み、キム銀河ウナがそう言いながら、高辻たかつじ美宇みうに歩み寄るのが見えた。手には、一枚の紙を持っている。

「おやおや、銀河さんの推理かい? 僕にも聴かせてくれたまえ」

 すかさず不老翔太郎が立ち上がる。ぼくも、慌ててそのあとを追いかけた。

 金銀河が高辻美宇に差し出した紙には、数式がびっしりと書かれていた。

「4913は17の3乗だったけれど、この四つの数字のほかの並びについても、調べてみたんだ。もっとも小さい数が1349で、もっとも大きい数が9431」

 金銀河の手にした紙を覗き込み、不老が感心した様子で声を漏らした。

「なるほど、すべて素因数分解してみたというわけだね。1349は19と71の積、9431はいっぽうで素数だ」

「そう。全部で二十四個できた数のうち、素数が九個。平方数はないし、四つ以上の素数の積になっている数字もなかった」

「じゃ、4913がやっぱり特別な数だった、っていうことなのかな」

 高辻美宇は、まだ納得がいかない様子だった。

 すると、不老が冷静に口を挟んだ。

「1439は、もっとも小さな素数、9431なら、もっとも大きな素数だ。どちらも『特別な数』と言えるんじゃないかい?」

「じゃあ不老君には、もう正しい番号がわかったっていうの?」

 金銀河が突っかかったが、不老は右の眉をぴくりと上げ、高辻美宇に顔を向けた。

 不老翔太郎は、またいつものように大げさに肩をすくめてみせた。

「いくつか知っておくべきことがある。まず第一に、美宇さんのランドセルを見せてくれるかな」

 高辻美宇が、眼を丸くした。

「ちょっと不老君、ランドセルの事件は関係ないでしょ」

 金銀河の声が、さらに尖った。

 おそるおそる、といった様子で高辻美宇は「い、いいけど」と言い、青いランドセルを持ち上げた。一瞥した不老は大きくうなずいた。そして、顔の前に人差し指を立てた。

「そして次に質問だが、美宇さんは、藍子あいこ叔母さんから金庫の番号を書かれた紙をもらったり、メールで送ってもらったわけではないんだね? 電話で番号を聞いて、そして美宇さん自身がメモを取った。そうだね?」

「そ、そうだけど……じゃあ、あたしが書き間違えたの?」

「それは半分正しく、半分正しくないね」

 持って回った不老の言いぐさに言葉に辛抱できず、ぼくは口を挟んだ。

「不老、もう正しい番号がわかってるんだろう? いったい何番だったの?」

 不老はぼくたちを見回すと、静かに言った。

「さきほどまでは、あくまで僕の推測に過ぎなかった。しかし、美宇さんのランドセルを見て確信できたよ――金庫の番号は、0923」

「全然……違うじゃん」

 ぼくはつぶやいた。

「どうして、0923なの?」

 高辻美宇が、少し身を乗り出すようにして訊ねた。

「美宇さんと藍子叔母さんは、KPOPアイドルのファンだね。そして藍子叔母さんは美宇さんに『美宇ちゃんだったら、絶対に金庫を開けられる』と告げた。美宇さんは誤解してしまったんだよ。叔母さんが『ヨン、キュー、イチ、サン』と言った、と」

「え……? 違ったの?」

「藍子叔母さんは、美宇さんにこう告げたはずなんだ。『ヨン、クー、イー、サム』」

「何が言いたいんだ?」

 ぼくはすっかり混乱した。

「美宇さんの部屋には、KPOPアイドルのコンサートで応援するグッズなどがあるそうだね。それらには、ハングルが書かれているんじゃないかな? つまり、藍子叔母さんも美宇さんも、ある程度の韓国語の読み書きができる」

 不老の言葉に、高辻美宇がはっと眼を見開いた。

「そっか! 韓国語なら0は『ヨン』だし、2は『イー』だった! どうして気づかなかったんだろう!」

「でもちょっと待って。かりに藍子叔母さんが『0923』と言ったとして、その四つの数を使った違う配列の数かもしれないじゃない? たとえば、9032とか」

 金銀河の口を挟んだ。そのとおり、確かに四つの数字を並べれば、二十四種類の数が作れるはずなのだ。

 が、不老はかぶりを振った。

「それはありえない。美宇さんのランドセルに、二つのチャームが付いているからね。それらは、ゾディアック――黄道十二宮、つまり星占いの星座を表したシンボルだ。一つが乙女座で、もう一つが天秤座。乙女座と天秤座の境にあたる日は、九月二十三日――0923。美宇さん、君の誕生日だね」

 不老の問いに、高辻美宇は何度もうなずいた。

「そう! 九月二十三日って、天秤座って言われてるけど、乙女座になるときもあるの。本とかネットとかだと『乙女座と天秤座の両方の性質を持つ』って書いてあって、だから乙女座と天秤座の両方、ランドセルに付けてるんだ」

「藍子叔母さんは、美宇さんの誕生日を金庫の番号に設定したんだ。だからこそ『美宇ちゃんだったら、絶対に開けられる』と言ったのさ」

 不老が言うと、高辻美宇の顔に笑顔が弾けた。

「そうだったんだ! ありがとう、不老君! 今からママに連絡してみるね」

 高辻美宇は飛び跳ねるように、携帯電話を手にすると廊下に向かって駆け出して行った。

 不老翔太郎は、ぴくりと右の眉を上げただけだった。

 女子からこれだけ喜んでもらえたのに、どうして冷静でいられる? この男の心には、何か大きな欠落があるに違いない。

 ぼくと金銀河はというと、言葉をなくしていた。ほんとうに心底悔しいけれど、まさにこれが「ぐうの音も出ない」というやつだった。

 不意に金銀河が、寂しそうな面持ちになった。

「なんか……ちょっと複雑な気分」

「どうしたの?」

 ぼくが問うと、金銀河は笑みを作った。

「わたしのひいお祖母ちゃんって、わたしぐらいの歳の頃に韓国から日本に来たんだよね。でもさ、わたし、韓国語がほとんどわからない。それに……美宇ちゃんの金庫の番号の謎って、わたしこそがいちばん先に解明しなきゃいけなかったんじゃなかったのかな……」

 ぼくは、慰めの言葉を必死に探したけれど、見つからなかった。不老翔太郎はというと、体育の準備運動をしているかのように、首を前後左右にクキクキと動かしている。

「あーっ、わたしってバカだなぁ!」

 唐突に金銀河が、教室の天井を見上げて言った。

「え? なんで?」

「知らないんだったら、勉強すればいいんだよ。うん、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに、もっといろんな話を聞いて、教えてもらえばいいんだよね」

 金銀河の面持ちが、一気に晴れやかになった。

 昼休みの終わりがけ、高辻美宇の携帯電話に「金庫が開いた」と、お母さんから連絡があったという。


 授業後の掃除、その後の「帰りの会」には、チャイムから萱場先生は十二分遅れて教室に現れた。そのあいだの教室内の騒乱は、ここには書きたくない。

 ぼくは萱場先生の顔色をうかがったけれど、やっぱり、いつもどおりの萱場先生に見えた。

 特に連絡事項もないまま「帰りの会」はチャイムより七分遅れで終わった。やっぱり萱場先生はチャイムに気づかないほど、何か気がかりがあるんだろうか?

 ぼくはランドセルを背負って、機械的に教室を出て昇降口に向かった。

 靴を履き替えているときだった。

「痛っ!」

 思わず声を上げた。左の二の腕を全力で張り手で叩かれたのだ。ぱちぃーんという見事な音が響き渡ると同時に、ぼくの二の腕の贅肉が揺れた。

 振り返れば、やっぱりそこには金銀河が立っていた。いつもぼくは、金銀河に見下ろされる立場のような気がする。

 しかし、今度の金銀河の表情は、笑みに満ちていた。

「御器所君、三組のこと気にならない?」

「へ? 三組? どうして?」

 いつも以上に、ぼくは寝ぼけた声しか出せない。

「ああ、もうサイアク。話にならない」

 金銀河があきれ顔で離れていくので、ぼくはすぐに立ち上がった。

「もしかして、『青いランドセル事件』?」

「もしかしなくても、それしかないでしょ」

「どうして三組?」

 ぼくは首を伸ばして、隣の三組の下駄箱のほうを見やった。

「もう行っちゃったね」

「誰が?」

 ぼくの問いに、金銀河は大きな大きなため息を返し、すぐさま靴を履き、昇降口に向かった。

 慌てて追いかける。

 いつもは正門から登下校しているけれど、我が小学校にはもう一つ「北門」がある。そちらからだと遠回りになるので、ぼくは今まで一度も使ったことがなかった。が、金銀河は北門に向かっていた。いつも、ぼくと同じように西にある正門を使うはずなのに。

 職員室や校長室などの入った「北校舎」別名「管理棟」と体育館とのあいだにあるのが北門だ。こちらの門を利用する生徒は少ない。

 体育館へと続く渡り廊下の柱に、金銀河は身を隠していた。

 声をかけようとしたときだった。

 まさに北門から出て行こうとする二つの後ろ姿が眼に入った。

 一人は、髪の短い、ピンク色のランドセルを背負った女子だった。顔まではわからない。そしてもう一人は、青いランドセルを背負った男子――後ろ姿でも、それが熱田あつた博和ひろかずだということはわかった。

「思ったとおりね」

「へ? 何が?」

 金銀河はぼくの存在など気づいていないかのように、柱の陰から出て、北門から出て左に曲がった二人の後を追い始めた。

 門の脇でもう一度止まると、金銀河はうなずいた。

「『のりみか』かぁ、やっぱり」

「誰?」

 ぼくは訊いた。

「三組の則武のりたけ美花みかちゃん。のりみかって熱田君と同じ絵画部だから、もしかしたら、と思ってたんだけど、やっぱりね」

「やっぱり、って何が?」

 そのとき、背後から聞こえた声に、思わず飛び上がりそうになった。

「ずいぶんと仲がよろしいようだね、御器所君と銀河さんは。しかも野暮という点で共通している。そういう意味で君たちは、いいコンビかもしれない」

 不老翔太郎だった。

「な、仲がいいなんて……どうしてわたしが御器所君と……」

 狼狽している金銀河は間違いなく綺麗だっただが、ぼくは金銀河以上に慌てふためいていた。

「な、な、な、なんで……」

「不老君こそ、陰でこそこそと……」

 言いかけた金銀河は北門の外を見やり、短く「あっ」と声を上げた。

 ぼくも金銀河の声に引っ張られるように、北門から熱田博和と則武美花の後ろ姿を覗き見た。そう、それはまさに覗き見だった。

 二人は、どちらからともなく手を伸ばし、その手をつないだのだ。

「お幸せに」

 すっかり立ち直った様子の金銀河が微笑んだ。

「ほんとうに野暮だねえ。くれぐれも人の恋路の邪魔をしないように願いたいな」

 不老は、熱田たち二人を見ようとはせず、北門にもたれかかり、腕組みをしていた。

「あのぉ……さっきから、まったくわかってないのは、もしかしてぼくだけ?」

 おそるおそる言うと、

「もしかしなくても、そのとおりね」

 金銀河のミもフタもない返答。

「いったい、いつわかったの?」

川名かわな君が『青いランドセルに物色された形跡がある』と言い出した十分後には、標的のランドセルが熱田君のものだとわかったよ」

「ど、ど、ど、どうして?」

 不老は肩をすくめた。何度見ても、不愉快な仕草だ。

「青いランドセルを持っている生徒だけ『狙われた』んだ。自分が同じ青いランドセルを持っていたら、怖く感じるか、腹を立てるか、何らかの感情を覚えるに違いない。ところが、熱田君だけはまったく冷静で我関せず、といった様子だった。つまりその時点で、熱田君は受け取るべきものを受け取っていたのさ。それにもう一つ、熱田君の座席だ」

「はあ?」

「まだわからないかな。僕は言ったはずだよ。今回の事件の発端には、萱場先生が関わっている、と」

 そうだ、もともと犯人が萱場先生が犯人だと言い出したのはぼくだった。ぼくの虹色の脳細胞の推理は、不老に全否定されたけれど。

「まだわからないかなぁ。今回の『事件』とやらは、そもそも萱場先生の気まぐれな席替えがきっかけだったんだよ」

「席替え?」

「いいかい? 席替え前と後で、まったく偶然にも同じ席だった人がいる――それが、熱田君だ」

 言葉を失う。虹色だったはずの脳細胞を必死に使って思い起こせば、確かに熱田博和の教室内での位置は変わっていないような気がする。

 ぼくの疑問を口にしたのは、金銀河だった。

「つまり、熱田君はちゃんと受け取っていたはずなのに、それを隠していたってこと? ちゃんと『受け取った』と言えば、のりみかが青いランドセルを探す必要はなかったはずじゃない。どうして、熱田君は黙ってたの?」

「銀河さん、やっぱり男心がわかっていないねえ。その点において『だけ』は、御器所君のほうが理解しているようだ」

 やはり、ぼくには、まったく話が見えていない。

「えーと、全然理解してないんだけど……。要するに『青いランドセル事件』の犯人は……三組の則武のりたけさんだった……んだよね?」

 不老翔太郎と金銀河が、ほぼ同時に、似た調子で大きな大きなため息をついた。

「さっきのあの二人で一目瞭然でしょ!」

 金銀河の呆れた様子の声をぶつけられ、ぼくは、虹色であったはずの脳細胞を懸命に回転させた。

「つまり、則武さんが熱田君のランドセルに……体育の着替えの時間に、こっそりと愛の告白を書いたラヴレターを入れた。けれどその直前に、四組では唐突に、萱場先生のおかしな気まぐれで、席替えが行なわれてしまった。そのことを知った則武さんは、熱田君のランドセルに入れるつもりだったラヴレターを、ほかの人のランドセルに入れちゃったんじゃないか、って心配になった。でも、誰からも何のリアクションがないから、まだラヴレターは、見つけられていないんじゃないか? そして体育の着替えの時間を利用して、教室にある青いランドセルを探って、ラヴレターを探した……ということで、よろしいでしょうか?」

 返答はなかった。ただ、不老翔太郎と金銀河の顔が「今ごろ気づいたのか」と雄弁に語っていた。

 ぼくは、自分の虹色の脳細胞の整理整頓のために、あえて続けた。

「でも、実は則武さんの想いのとおりに、ラヴレターは熱田君のランドセルに入れられていた。席替えがあっても、偶然にも熱田君は同じ席になったから。熱田君もそれを見つけていた……熱田君は、やっぱりこういうことは恥ずかしいから、みんなには言わなかった。でも、実はやっぱり二人は、つまりその両想いだった……っていうのが『青いランドセル事件』の真相だったんだ……よね?」

 しばし、沈黙があった。その後、破裂するような笑い声を不老は上げた。

「いやあ、御器所君! さすがだよ。君もずいぶん成長したね」

 褒められているのかけなされているのか、どうもよくわからない。まったくうれしくもなんともなかった。

 不意に、不老翔太郎は真顔に戻った。

「さてと、喜んでばかりはいられない」

 言うなり、唐突に北門の外へと足を踏み出した。早足で歩き出す不老を、ぼくは追いかけた。

 呼びかけようとしたその瞬間、不老翔太郎は、熱田博和と則武美花が手をつないで去った方向とはまったく逆へ顔を向けた。

「また、会いましたね」

 ぼくと金銀河は、同時に振り向いた。

 北門の向かいに建っている古びた五階建てのマンションのエントランス・ホールから、深紅のつなぎの皮ジャケットを着た長身の男がゆっくりとした足取りで、路上に姿を現した。

「不老君、だったね。君に見破られるとは、プロの探偵の俺も形無しだな」

 まさに不老の説明どおりの、平針ひらばり左京さきょうの姿があった。

 不老翔太郎は、平針左京に一歩近づいた。

「簡単な推理ですよ、平針さん。この北門の近くに、職員用駐車場があります。萱場先生のバイクも、そこに停められている。平針さんが今日もまた萱場先生の尾行をすることは十二分に想定できます。だから、この付近に隠れているはずだ。しかし平針さんのバイクは――その服と同様――とても目立つ。では、その派手な真っ赤なバイクをどこに隠すか?」

 不意に、金銀河が声を上げた。

「そうか、『木の葉を隠すなら、森のなか』っていうことね、不老君!」

 ん? どういうこと? ぼくには理解できなかったけれど、いつものようにぼくの存在は完全に無視された。不老はにやりと笑い、言葉を続けた。

「そのとおりだよ、銀河さん。バイクを隠すなら、駐輪場。北門を見張ることのできる駐輪場といえば、このマンションにしかない。古いマンションでオートロックではないから、誰でもエントランス・ホールに入れる。そして、裏手のバイク用駐輪場へも簡単にアクセスできる……」

 平針左京は、両の手のひらを上に向け、肩をすくめた。なんてこった、何度も間近で見たポーズだ。

「Oops! これはこれは少年探偵の名推理だ」

 すると金銀河も一歩前へ進み、不老に並んだ。そして、平針左京に向かって言った。

「いったい、あなたは萱場先生の何を知っているんですか? あなたのせいで、萱場先生はとても苦しんでいるんです」

 そうか、鈍いぼくでもやっとわかった。

 このところ萱場先生が気まぐれな席替えをしたり、チャイムよりも前に教室に現れたり、逆に遅れて現れたり、授業中にミスを連発したのは、やはり「何か」を抱えて、さらに平針左京に追われているからだったのだ。

 平針左京は、変わらず薄い笑みを浮かべていた。

「君たちの知っていることも、知らないことも、知らなくていいことも、たくさんある。これでも俺は、かつては教壇に立っていたんだぜ。生徒に何を言っていいのか、よくないのか、教壇を降りた今でも、そのくらい自覚しているよ。さて、今日は退散することにしよう」

 平針左京は、くるり、とぼくたちに背を向けて、マンションへ向かって足早に歩き出した。そのときだった

「わたしの生徒に二度と近づかないで、平針君」

 平針左京は固まった。逆にぼくたちは一斉に振り返った――萱場先生だった。

 腕を組み、今まで授業中に見せたことのない毅然とした表情で、平針左京をにらみつけていた。まるで別人だ。

「わたしには、生徒を守る責任があります。不審者として通報してもいいんですよ」

 唐突に、平針左京は笑い出した。

「やっぱり変わってないところもあるんだな、千種……いや、萱場先生。それに、いい教え子に恵まれてるな。けれど、俺は諦めないよ」

 平針左京は、またしても、ぼくらに背を向けた。そして、その姿はマンションのエントランスに消えた。

「みんな、怖い思いをさせちゃったわね。もう大丈夫だから、気をつけて帰りなさい」

 何ごともなかったかのように、萱場先生は言った。

「でも、先生は……」

 金銀河が言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。そして顔を上げて萱場先生を見つめると、はっきりとした口調で言った。

「わたし……わたしたちは、先生のことを信じてます」

 そのとき、エンジンの重低音が響き渡った。

 平針左京の乗った大型バイクがマンションの脇から現れた。ほんの数秒の間に、ぼくたちの眼の前を走り去り、その姿は消えてしまった。

 少しの間があってから、萱場先生は微笑んだ。

「ありがとう、銀河さん。今までみんなに迷惑かけていたのよね。わたしは『先生』なのに、ちゃんと時間を守ることができなかったりしていました。ほんとうに、ごめんなさい」

 萱場先生は、ぼくたちに頭を深々と下げた。

「わたしはこれからも、みんなの期待を裏切るようなことは絶対にしないし、もっといい先生になって、あなたたちの卒業までしっかりと見守る。約束します」

 そう言うと、萱場先生は職員室の入っている「管理棟」へと歩き出した。その背中に向かって、金銀河が声を発した。

「先生は、素晴らしい先生です! だから今までも、これからも先生のこと、信じてます!」

 萱場先生は歩を止めると、振り返った。太陽が弾けるかのような、満面の笑みだった。

「明日からは、時間厳守で行きます。もうチャイムに遅れたりしないから、みんなも遅刻したらダメだぞ!」

「はいっ」

 思わず、ぼくたちは声を合わせて答えていた。萱場先生は、何度もうなずきながら管理棟へと去って行った。

「ねえ、不老、萱場先生って――」

 ぼくが口を開くと、すぐさま金銀河に遮られた。

「先生は、わたしたちを信じてくれてるんだよ。わたしたちが先生を信じないでどうするの?」

 ぼくは、何も言葉を返せなかった。

「さて、帰ろうか」

 不老は言った。

 ぼくは北門から左右を見回した。熱田博和と則武美花の姿も、平針左京の姿も、もはや見えなかった。

 しばらくぼくは立ち尽くしたまま、無人の道路を見つめていた。


不老翔太郎の暴走「青いランドセル」了

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