第28話 招かれざるイレギュラー

 夜シルは、希ルエを連れて走り続けた。


 だが、どこに行っても地面のアスファルトに亀裂が走り、そこから細い大量の触手が生えて来る。


 夢魔本体はまだ、現れない。

 しかし、現れたとして、自分に何が出来るのだろうか。


 夜シルは走りながら、手の中にある武器を思った。

 ベレッタ。M9。拳銃。


 この銃を夢魔に向けて、引き金を引くことが自分に出来るのだろうか。


 いや、撃たなくてはならないと言う事は分っていた。

 何よりも、憎しみがある。

 玖ユリを殺した奴に、夜シルは一発くれてやることに躊躇いはない。


 だが、それでも、夜シルは希ルエのことを想ってしまう。

 玖ユリと同じように、乱暴されそうになったところを幼馴染に助けてもらった女性。

 そして、無事だった貞操と引き換えるようにして、その幼馴染を失った女性。


 ……夢魔は、卑怯だ。

 夜シルは本当に悔しくてたまらなかった。


 夜シルは、自分だって辛かったと思う。

 自分の悪夢。

 弁戸・部ノに再現されたと言う遊ヒトが目の前で撃ち殺された時の悲しみは、今思い出しても辛い。

 玖ユリが撃たれて怪我をしたことも、ものすごいショックだった。


 その苦しみを、希ルエに与えて良いはずがない。

 だが、先ほど『出来る限り樹ミを助ける』とは言ったものの、夜シルには何の対策も立てられていなのだ。

 対峙したのならば、撃たなければならない。

 希ルエを守るためならば、例え彼女の大切な人の姿をしていたとしても。


「夜シル君、待って、前!」

「こっちは、ダメか……! 魚住さん、そっちに曲がりましょう!」


 やはり、走っても走っても、地面に亀裂が走り、触手が生えて来る。

 足を止めればあっという間に数を増やし、密集して柱となり、壁となり、そして津波のごとく押し寄せて来る。


 ――どこに逃げればいい?


 夜シルは考えている暇などないと思ったが、それでも考えた。

 再現されているのは希ルエの住んでいた町……玖ユリといつか歩いた道だったが、夜シルに土地勘はない。


 ……いや、例え塵を把握していたとしても、逃げる目的地など見つかり様も無かった。

 どこにいれば安全かなど、夜シルには分からないのだ。


 それでも、留まっているのは酷く危険だ。

 もし、目に見える全ての触手が一斉に襲ってきたら、拳銃しかもっていない夜シルでは、何も出来ずに飲まれてしまうだろう。


 とにかく走るしかない。

 追いかけて来る敵の手。走る自分。


 夜シルは苦々しく思う。

 夢魔と関わってから、鬼ごっこばかりだ。

 弁戸・部ノに襲われた時も、夢魔に見せられた玖ユリの悪夢だって、鬼ごっこだった。


 ――あれは、最悪の鬼ごっこだ。


 玖ユリは、一方的な力にさらされて、追い込まれて、泣き叫んでいた。

 自分の名前を呼び、助けを叫んでいた。

 それを見せられて、助けに行きたいと思うのに、どうしても、助けられなかった。

 もう、全てが終わってしまっていたからだ。


 彼女のことを想うと、夜シルは自分の心が傷ついていくのを感じる。


 だが、それでも思わずにはいられない。

 忘れてなるものか。

 必ず、仇を取らなければならない。


 ――あいつに、玖ユリの命を弄んだ報いを。


 しかし、その時、夜シルは完全に自分たちが誘導されていたことに気づいた。

 前方、百メートルほど先に、希ルエの住んでいたマンションが見えるのだ。


「あそこしかないのか。逃げ場は」


 逃げ場。

『階段』と言うワードが頭に浮かんだが、はたして上ることは正解だろうか。

 地面から離れれば安全かとも思ったが、相手の実態がまるで分からない夜シルにとって、そう決めつけるのはあまりにも軽率だとも思う。


 しかし、どうする?

 やはり、道はマンションに続いている。

 それ以外の道は塞がれ、周囲の地面はすでにひびが入り、触手が次々と生えて、まるで収穫を待つ麦畑のように波打っていた。


 そして……


「くそっ! もう、道が……!」


 道は全て塞がれていた。

 触手はふるふると震え、ドロドロとした粘液の飛沫を地面に飛ばしてながら、夜シル達の周囲を取り囲んでいた。


 もう、開けている場所はどこにもない。

 もはや、逃げ場も無く、絶体絶命。


「やぁ、夜シル君。待っていたよ。希ルエも」


 背後。

 触手の海が割れて、原田・樹ミの形をした夢魔が現れた。


「樹ミ君……! 目を覚まして! 負けないで!」

「魚住さん、だめだ! 下がって!」


 希ルエを制し、夜シルは両手で拳銃を構え、夢魔に向けた。

 敵は、それを見ても、にっこりと笑って言葉を投げ込む。


「銃か。君はそれだけだなぁ。てっきり、この原田・樹ミの体から僕を追い出す手段でも考えてたと思ったのに。残念だよ。でも、さ。君に撃てるのかい? 夜シル君? 君には無理だろ?」

「……撃てる。誓ったんだ。お前から魚住さんを、絶対に守るって」

「へぇ、じゃあ、撃ってみろよ」


 一瞬、グッと息をのむ気配が背後に現れた。

 希ルエの、心の動揺の気配だった。

 それにあてられたのか、夜シルの指は動かない。


「ほら、撃てないじゃないか。やっぱり、ここで終わりさ」

「撃つ!」


 夜シルは一気に決意すると、力いっぱい引き金を引いた。

 恐らく、何をもってしても夜シルには撃てないと、夢魔はそう思っていたのだろう。

 あまりにも無防備にさらした肉体に向けて、炎の先から鉛の弾丸が飛び出した。


 排出された薬莢が宙を舞う。


「なっ……!」


 弾丸は夜シルの狙い通り、夢魔の胸に命中し、肉を貫いた。

 その背後に肉と血と、それから僅かな骨の欠片を吹かせた後、夢魔は信じられないと言った面持ちでその傷口を見つめる。


「なん、だと」


 しかし、それ以上、夜シルは撃てなかった。

 自分のすぐ後ろにいる希ルエことを想ってしまったからだった。

 いくら強い心を持っても、やはり、希ルエの前でこの樹ミの顔をした者を撃つことには躊躇いがあり、撃ったことに対して後悔もあった。


「僕に、こんな……夜シルくん、酷いじゃないか。本当に、撃つなんて。き、希ルエ、痛いよ。助けてよ。俺、もう、死にたくない」

「樹ミ君……! いや……!」


 夜シルは希ルエの悲鳴をかき消すようにして叫んだ。


「く、くそったれ! その声で、そんな風に喋るな!」

「希ルエ、助けて。助けて……殺さないで。もう、痛いのは、いやだよ。希ルエ……!」


 樹ミの声は、さらに迷わせる。

 希ルエを。

 自分の決意をも。


 それらの迷いで生まれた隙を突いて、周囲の触手が迫って来た。

 夜シルは怯んで思わず体をのけ反らせて、かわす。


 そして、気づいた時はもう、遅い。

 射線を防がれて夢魔の姿も見えず、もはや銃も撃てない状態となっていた。


「優しいねぇ、夜シル君は。でも、だから君の負けさ! 僕の勝ちだねぇ!」

「ち、ちくしょう!」

「さて、どう殺そうか?」


 ゲラゲラと笑う声を聴きながら、夜シルは思った。


 ――ここまでなのか。俺は、玖ユリの仇も取れないで、魚住さんも、助けられないで。


 胸が、悔しさでいっぱいになった。


「……っと、もう、あの男が近づいてきたか。足止めをしといたはずなんだけど、あっさり倒して近づいて来るか。じゃあ、とりあえず、夜シル君は死ねよ! 希ルエは、じっくり嬲りながら喰ってやる。あの男の前で」


 もうダメだと思った直後、夜シルを捕らえようとしていた触手の動きが止まった。


「……な、何だ?」


 夢魔も、驚いていた。

 触手は、まるで勢いを失ったがごとく夜シルの目の前から引いていく。


「おい! これは一体、どういうことだ? 邪魔すんじゃねーよ! って言うか、お前、誰だよ!」


 夢魔が移した視線の先。

 近くにある民家の屋根に、人影があった。


「……」


 それは何も語らずに手を掲げている。


 と、その指が動いた。

 触手は、それが指し示す方向へ動き、やがてひれ伏すようにして床に倒れる。


 その影は分厚い服を着ているようで体の輪郭が分からず、頭にフードを被っているのか、顔もよく見えない。

 いや、そもそも、その背後に再現された太陽の光源があり、まさしく影になっていた。

 その影に、原田・樹ミの姿をしている夢魔が、言う。


「お前は……おか? そんなところで何をしているんだ! どうやって、希ルエの中に入って来たんだ?」


 酷く、不快な感情を込めた声だった。

 ゆびを指して言う様は、まるで抗議だった。


「希ルエは、僕の得物だぞ! 僕の物だ! 他に行けよ!」

「……その女に興味はない」


 ゾッとするような冷たい声で影は答える。

 女なのか、男なのか、声質がグニャグニャと変化して響き、良く分からない。

 そして、続けて放たれた言葉に、夜シルはギョッとした。


「生きているか、夜シル」


 それは、確かに夜シルの名前だった。


 ――自分の名前を知っている?


 だが、夜シルには、その声の主が誰なのかがまるで分からない。


「だ、誰だよ、あんた。何で、俺の名前……!」


 夜シルは言ったが、その人物は答えなかった。

 ただ、まるで夜シルに興味を無くしたかのように首を振ると、原田・樹ミの形をした夢魔に、こう言っただけだった。


「憎らしき私の同種よ。お前を殺せるものがここにいるようだな」

「そんなの、知ってるよ。でも、やられないさ。こいつは大したことないし、もう一人いるんだけど、そいつはちょっと手強いね。でも、僕が本気になれば……なあ、君。希ルエに興味がないって言ってたけど、僕の加勢でもしてくれるのかい?」

「まさか。それどころか、私はお前に恨みを抱いている。むしろこの手で殺してやりたい程だ。だが、お前を滅ぼせる者がいると言うのならば、始末はそいつに任せることにしよう」

「う、恨み? 僕が、お前に何をしたって言うんだ!」


 夢魔の動揺は、夜シルの目で見ても分かりやすかった。

 同種……? 夢魔同士の争いだろうか。


「泥を塗られたのさ。心当たりが無いのなら死ぬ前に探しておけ。だが、見つけられはしないだろう。だがら、ひとつ、言っておいてやる」


 僅かに愉快そうな感情を声に浮かばせて、その影は言った。


「お前が死ぬのは私の悦びだよ。死ぬ時は、私の悪意を思い出し、のたうち回って、死ね」

「て、てめぇ!」


 憤った夢魔だったが、それ以上、何も出来ないようだった。

 触手も力を失って、くたりと地面に横たわっている。

 少しも動く気配がない。


「ぼ、僕よりも、力が上なのか? し、しかし、これで合点がいったぞ。さては、この原田・樹ミを登場させたのも、お前の仕業だな?」

「私が干渉しているのは、今、この場でだけだ。そんなことはしていない。それに、力が上と言ったが……お前のその貧相な能力を見て、思わず笑ってしまうよ。お前は大したことない」


 影は、クックと笑った。


「夜シル。お前でも殺せるぞ。そして殺せば、そいつが造ったこの夢は崩壊する。それに巻き込まれるのはごめんだ」

「な、なにを」

「後は任せると言っているんだ。私とお前はいずれ、また会うだろう。近いうちに」


 その影は、続けてこう言った。


「その時は、必ずお前を殺す。お前が新しく出会ったもの、奪われても、なおも残っていたもの。大切にしているものを、全てを消し去って、絶望の淵に落としてやる。誰の手でもない、私のこの手で。楽しみに待っていろ」


 人影は姿を消す。

 文字通り、どこにもいなくなっていた。

 ただ、樹ミの姿をしている夢魔が、顔を怒りに歪ませて何かと騒ぎ立てているだけだった。


 だが、どうやら夢魔は力を取り戻したらしい。

 触手がピクリと動き出し、それがサワサワと動きながら立ち上がるのと同時に、夢魔が夜シル達に向き直った。

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