第18話

 「サテンドール」から音が漏れていなかった。今日はライブの予定が無いようだ。こんな日はほかに客が居なければオーナーは俺の好きな曲をかけてくれる。


 気がつくと地下への階段を下りていた。防音の分厚いドアを開けるとRolling StonesのWild Horsesが聞こえてきた。暗い灯りの中でオーナーの俊介がカウンターに座り琥珀色の液体を飲んでいた。客の姿はなかった。今日初めての幸運だ。


「暇そうだな」

「分かってて来たんでしょ?ライブのある日にも顔出してくださいよ、上に住んでいるんだから」


 俊介は不貞腐れたふてくされたような顔で言い、頭上を顎で指した。


「好きな音楽以外、聞く気にはなれなくてな」

「もう少し幅を広げたほうがいいですよ」


 カウンターの中に入った俊介が俺の名前の書かれたボトルを出しながら笑う。


「酒はやめておこう。ストーンズも悪くないがスライダーズをかけてもらってもいいか?」

 俊介が不思議そうな顔をしてボトルを戻しジンジャーエールを出して聞いた。


「何をかけます?」

「チャンドラー」

「JAG OUT。頭から?」

「頼む」


 カウンターの後ろのCDデッキにCDがセットされ、店内に吊り下げられたスピーカーからHurryのだみ声が叫ぶ。


「TOKYO JUNK 追いかけろ、狂った夢を――。」


 蘭丸のギターが絡みつく。何度も見に行った彼らのステージが脳裏に鮮烈によみがえる。


「いつ聞いてもエロい音ですね、蘭丸のギターは」


 音量を上げながら俊介が言う。


「エロいな、Hurryとはまた違う。だが俺はやっぱりHurryの歪んだひずんだギターが好きだな」

「この談義は終わらなくなりますよ」


 俊介が幸せそうな顔をして笑う。俺と同じくらいこのバンドが好きなことが伝わってくる。


「いいんですね?」


 自分のグラスに継ぎ足しながら俺に聞く。


「あぁ。ちょっとこれからやることがあってな」


 酒を飲みたい気分だったが大野のパソコンを開くことが今夜の俺の優先事項だった。ただその作業に入る前に気の知れた奴と好きな音楽を聴いて少しばかり会話がしたかった。自分の存在を肯定したかったのかもしれない。


「いつもの出来るか?」

「いつも同じ物しか食べないじゃないですか」

「他の物は食えたもんじゃないからな」


 俊介は口を尖らせて冷蔵庫からピザ生地を取り出し伸ばし始めた。以前ピザ屋で働いていたという俊介の作るピザは本格的なものだった。俊介の手慣れた手つきを見ながら俺は音に身を委ね全ての負の思考を締め出した。


 蘭丸が「All You Need is Cash」と歌う頃、オーブンからピザの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。


「真山さん、ちょっと雰囲気変わりましたね?」


 突然言われて俺は戸惑った。


「そうか?」

「なんか目に生気が宿ったというか」

「人を死人見たいに言うなよ」


 俺が苦笑いして言い返すと、


「近いですね、いつもは死を待ち焦がれてる目をしてますよ」


 俊介は時々鋭いことを言う。自分でも楽器をやるこの男の感性だろうか。


「今は違うか?」

「そうですね。リタイアして生きがいを見つけた爺さんみたいな」


 俺は笑いながら殴る真似をした。


「お待たせしました」


 まだチーズが泡立っている焼きたてのピザが出された。一切れ口に入れると薄いピザ生地は程よく香ばしくトマトの酸味とバジルが舌を刺激する。


「旨いな」


 俊介が驚いた顔をしている。


「どうした?」

「やっぱり真山さん変わりましたね、俺のピザを初めて褒めてくれましたよ」


 Zuzuのドラムが鳴り響き二本のギターがうねりだした。


「まるで俺たち金縛り、いったいどこへ逃げるんだ?」


 Hurryの声に押されるように俺は店を出た。どこへも逃げやしない、逃げ場所など、どこにもないんだから。

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