第37話 深窓の令嬢 その1

 軽めの昼を済ませ、百合子とジーンは出かけようとしていた。玄関先では、二人を見送るパラディが、ついていきたそうに潤んだ瞳で訴えている。


「あなたはお留守番よ。夜にはならないと思うけど、良い子にしててね」


 百合子は笑顔をパラディに向けるも、そそくさと玄関の外に出てしまった。最後の望みをジーンに向けるも、すがすがしいほどに無駄だと知る。


「じゃあ、行ってくるね!」


 目の前でバタン。それは切なく、パラディはクウンと鳴いた。


 外ではバックの中をひっくり返す、騒がしい音。

 一瞬の静寂。


 ガチャガチャと鍵を回す音がしたかと思うと、二人は、ほどなくして、百合子の実家へと向かった。


 地下鉄を乗り継ぎ、途中で電車を間違えるという初歩的なミスもあったが、およそ二時間ほどで、目標の駅に降り立った。


 一つしかない駅の改札を抜けると、百合子は口を半開きにし、その様変わりに目を見張る。


 百合子が覚えている栄えた時代とは大違い。人口減少に追従するように、駅前は人気ひとけのない淋しげな面構えになっていた。


 街並みは変われども、人生のほとんどを他所で過ごしたとしても、生まれ育った町というものは、時間を超えて心に沁みてくるものがある。


「いざ進まん!」


 百合子は肩をびっくとさせ、不満そうに振り返った。往来する人が少ないとは言え、人目というものがある。


 ツンとした澄ました横顔で、ジーンを責めるようににらむ。


「大きな声、出さないでよ。びっくりするじゃない」


 ジーンはコートのポケットに腕をつっこみ、天気の良い午後の空を見上げて言う。


「家に帰るんだ。嬉しいのは当たり前だよ」


「私――嬉しいのかしら?」


 それとも悲しいのかしら、と口走りそうになったが、百合子は口を閉ざす。


 立ち尽くす百合子に、ジーンがコートから片手を出すと、こぼれる笑顔と一緒に手を差し出した。


「さあ、行こうか」


 百合子は小さく頷くとジーンの手を取り、記憶を辿りながら、かつての家路を歩き始めた。迷いながら進んだせいもあって、駅から三十分は歩いただろう。


 ある場所に到達した時点で、百合子の一歩に、迷いが完全に消える。


 そこは「懐かしい」の言葉しか思い浮かばないような、百合子にとって、掛け替えのない幼き日々を過ごしたサンクチュアリー。


 新緑が芽吹く木立の中、くねった小道を、二人は軽快に進んでいく。風で葉が揺れるたびに、ちらちらと分散する光のまばゆさに、百合子の目が三日月のように細くなる。


「この雑木林を通り抜ければ、近道になるはずだわ。多分だけど」


 初夏を思わせる新緑の匂いは瑞々しく、五感を優しく刺激する。


「いいんじゃない? 遠回りしてもいいくらいだ」


 そう言われて、百合子は無意識のうちに早足になっていたことに気づき、少し速度を落とした。そして、バッグから白いハンカチを取り出すと、額ににじむ汗をぬぐった。


 広がる緑と、どこからか聞こえる子供の笑い声に、遠い日の夏に触れた気がして、百合子はクスっと笑った。


「ここはね、妹や近所の子たちと、よく鬼ごっこをした場所なの。あの頃は、もっと雑然とした小さな林だったけど、それがまた楽しくってね」


 ジーンは目を輝かせて言う。


「今から、やってみる? 僕は鬼がいいな」


 ちょっと困った顔で、百合子が小道の先を指差しながら、ジーンのリクエストをやんわりと断った。


「残念ね、もうすぐ目的地よ。それに、鬼はじゃんけんで、公平に決めるの」


 百合子が言うとおり、緑の道の終点までくると公道が現れた。駅の近辺に建っていた集合住宅ではなく、大きな家屋が点在している。


「ああ、いいね」


 ジーンが何を指していいと言っているのかは不明だが、日本人にとってはなんでもない景色を、外国からの訪問者が賞賛するのに似ていた。


 古くからあると思われる家々を見渡していると、その中でも目を引く、とりわけモダンな建築物が見えてきた。隣近所はなく、大小の石が積まれた石垣の塀が、横に延々と続く大邸宅だ。


 森の中に存在するように、青銅色の瓦が白壁に眩しい洋館が浮かび上がっている。石垣の上にある垣根もあり、庭の木々に視界を阻まれていた。


 威容を誇る正門の門構えと、半円型の窓がクラシックな三階部分は、思わず意識を止めるには十分な意匠がある。


「和洋折衷、っていうのかな。洒落ているね。それに、どこからか花の香りが」


――本当だわ、甘い匂い……そんな花、うちにあったかしら。


「この建築は祖父母の趣味ね。古いだけよ。でも、関東大震災にも耐えたから、強度は悪くないみたい」


「君は深窓の令嬢だったんだね。僕はてっきり、チャキチャキの町娘だと思ってたよ。しかし、立派なお宅じゃないか」


 百合子は返答に困り、思わず苦笑いする。


「時代が令嬢であることを、許してくれなかったのよ」


 正門は現代的なセキュリティが施されていた。


 表札の下にある黒いモニターに気づく。


「これかしらね?」


 押せと言わんばかりに、モニター横にある小さなボタンから感じる威圧感。


 百合子が向けた指先とボタンの間にある、あと1cm先が遠い。ボタンを凝視したまま話を続ける。


「この家は早乙女家が美徳とする、質実剛健が作り上げた城ってところね。祖父母と両親の功績であって、私は何もしてないわ。一時的に守ったにすぎないもの」


 そんなことよりも「早く押せ」とジーンが思ったのかは置いておいて、ふいに横から手が出てきたと思ったら、ジーンの美しい人差し指だった。


「ここじゃない?」


 ひょいっとジーンは身を乗り出すと、そのままあっさりとボタンを押した。


 コンマ2秒の速さで、百合子は伏兵に嫌悪を向ける。感情を押し殺した低い声で、呟くように言った。


「どうして勝手に押しちゃったのかしら?」


 ケロッとした顔で、ジーンは百合子に答える。


「用事があるから来てるんだろ? 押さないでどうする」


「そりゃそうですけど……私にも心の準備というものが」


 ジーンは百合子の泣き言を最後まで待たない。


主人あるじがやって来る前に、僕は退散するとしよう。ま、最後なんだから、ゆっくりしておいでよ」


 最後、と言われると、百合子には返す言葉もない。


 にこやかに手を振り、去ってゆくジーンを見送りながら、留守番を言いつけられたパラディの気持ちが、少しだけ理解できる気がした。


 呆然とする間もなく、突然、モニターからの呼び出し音が止まった。周囲の静けさより、自分の動悸の方が耳に響いて、一層と鼓動が早くなる。


「どちら様で?」


 それは、落ち着いた中年の男の声だった。

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