第11話 パラディの夢 その1

 人気ひとけも音もない夜の世界。

 たたずんでいるのは、百合子一人だけ。


 夜空を見上げれば、ゆるく張った黒い艶やかなサテンの天幕が広がっている。クリスタルのごとく目映まばい星たちは、どこか嘘くさい。


 穏やかに終焉していくピアノ曲の余韻のように、美しくて物悲しい空だった。


 つま先に感じる冷たさに、ふと足元を見下ろす。夜露に濡れた柔らかな草むらの上に、白い膝丈のワンピースを着て裸足で立っていた。


 リアリティを感じない、まるで舞台装置の中にいるような気分。


 背後で草を踏む靴音が聞こえて、ゆっくりと振り返る。


 あの日の夜と同じ白い死神装束を纏ったジーンが、声を失ったように微笑んで立っていた。何も言わずに百合子の手を取り、涼しい顔で歩き始める。


 百合子は横顔を見上げて尋ねる。


「これは夢? それとも……ここはあなたの世界?」


 ジーンは微笑むばかりで、何も答えない。

 魂の抜けた美しい人形のようだ。


――なのに。


 そよぐ風に弄ばれ、揺れるジーンの髪から目が離せない。前髪の間に見え隠れする、榛色の瞳から放たれる眼差しの矢は、百合子の心臓を貫きトクンと音を立てた。


 美しい死神にうつつを抜かしている間に、景色が変わった。いつの間に草原を抜けたのだろうか。

 

 今は顔に吹き付ける風に目を細めながら、氷の上を滑るように森の中を駆け抜けている。


――偽物かもしれない。


 百合子は別人のようなジーンに目を奪われたまま、そんなことを考えていた。


 いつも笑顔で、自信家で、せいに溢れたジーンを感じられないせいだろう。とは言え、自分の手を取り隣にいる男の顔と姿は、紛れもなく彼のもの。


 連想ゲームのように、百合子の心の中に浮かんできた一つの疑問。


――ジーンの笑顔も言葉も優しさも、全て嘘だったとしたら? 


 そもそも彼は、百合子が人生を全うした後、あの世まで同行するために迎えにきた死神であり、それ以上でもそれ以下でもない。


――いつも優しいのはなぜ? 私は、私は……。


 硬く締めた蛇口から水が漏れるみたいに、ひとしずく胸のくぼみに落ちた。


 うつむいていた顔を上げた次の瞬間。

 両目に映った景色は、果てしなく広がる砂漠に変わっていた。


 月光の力を借りて、砂の海が点滅するように淡い金色に輝いている。煌めく砂上には、星一つないミッドナイトブルーの夜空と巨大な三日月。


 あまりの幻想的な景観に、百合子は目を見開き「まあ」と感嘆の声をあげた。現実の世界には存在し得ない情景だった。


 繋いでいたはずの自分の手を見る。


「ジーン……?」


 後ろを振り返って見渡してみるが、ジーンの姿はなく、通ってきたはずの森も消えている。もう一度正面を向くと、今度は見知らぬ子供が、百合子を待っていた。


 愛想のない三白眼の白いパンクな子供。


 年の頃は、十二、三歳といったところ。銀にも見えるグレーの髪に、薄いブルーの瞳がよく映える。


 物静かな雰囲気と攻撃的な鋭い視線が同居した、矛盾を絵に描いたような子供だった。


 小柄で線の細い体つきに、少年とも少女とも言える中性的な顔立ち。目の上できれいに一直線に揃った前髪と、短めのボブという髪型が、より男女の判別を難しくしていた。


 大きなフードがついた白いマントは、裾が横から見ると後ろが長く斜めにカットされている。前面が短くなっているので、動くと白い腹がちらちらと見えるのは愛嬌だ。


 マントの中は、細い足にぴったりとした白いパンツ。びょうがついたシルバーの編み上げ厚底ブーツを合わせているので、実際の身長よりも少し大きく見える。


「……こんばんは。あなた、ジーンのこと知ってる?」


 子供は首に巻いた黒いリボンを触りながら、無表情にコクリと頷く。ブルーの三白眼でじっと百合子の瞳を覗いた後、姿勢を正し、優雅な会釈を百合子に披露して見せた。


「私はパラディと申します。故あって、あなたの夢の中に、お邪魔させていただきました」


 抑揚はないが凛とした声は、見た目よりも年上に感じる。

 そして、事務的に言葉を繋げた。


「黙って私についてきてください。これはお願い、ではありません」


 百合子は、強引な言い分に呆気にとられている。

 返事も待たずに、パラディは光る砂漠を歩き出そうとした。


 先を急ごうとするパラディの背中に、百合子が呼び止める。


「ちょっと待ってちょうだい」


 パラディは面倒くさそうに立ち止まり、仕方なそうに振り返る。


「なんです?」


「これは夢なのね。ということは、ジーンも?」


「あれは、私が作り出したリア、いえジーン様の幻影です。いきなり私が現れても、あなたは付いて来てくださらないと思いまして」


 百合子は慈愛のこもった笑顔をみせる。


「そう、お気遣いどうもありがとう」


 パラディは居心地悪そうに「いえ……」と言って、再び歩き始めた。


 何の目印もない金色の砂漠を進みながら、パラディはすぐさま胸元から鎖を手繰り寄せ、美しい細工が施された懐中時計を引き出した。


 蓋を開け「ホーラ」と呟く。

 すると、前方に黒い鉄門が唐突に現れた。


 正確には門が現れたのではなく、百合子たちが瞬間的に移動したのだと分かった。


 鼻腔に潮の香りがしたからだ。

 百合子は目を閉じ、鼻から思いっきり吸い込んでみる。


「海が近いのかしら。ねえ、あの門はなあに?」


「フルゴル。あれは特別な列車を招くための門です。鍵を持たない者には近づくことも、その中へ入ることも叶いません」


「ふうん、不思議ねぇ。レールはどこにもないのに。あの門に入れば列車が来る、ってことかしら?」


 興味深そうにポツンと存在する門を見ながら、百合子はパラディの後に続いた。


 先に門の前に着いたパラディが、パンツの前ポケットから取り出したのはオパールのような乳白色の石。追いついた百合子が横から覗くようにして「それは?」と聞いた。


「切符のようなものです」


「それで、私をどこに連れていくつもり? 何か目的があるのでしょう?」


 パラディは百合子には答えず、苦い顔をしたまま唱えた。


「オスクルム」


 蔓草が絡んだような造形のアイアンフェンスの真ん中で、手のひら程の大きさの黒鳥のオブジェがパラディの呪文によって、そのくちばしを開いた。


 パラディは乳白色の石を餌でもやるように、くちばしの中に放り投げた。


 すると、オブジェは本物の鳥に姿を変え、小さく羽ばたいたかと思うと、二人の目の前にある門の上をやどり木に留まった。


 黒鳥が深い碧色の目を二度ほどまばたきして、優雅な貴婦人を思わせる声でしゃべったのには百合子も息を飲んだ。


「どうぞ、お入りください」


 務めを果たした鳥は夜空に吸い込まれるように飛んでいき、門が大きく開いた。同時に、二人の顔が砂上遥か遠くに、目を向けることになる。


 列車が点となって現れたのだ。

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